第94話
雨は、三日目に入っても細く続いていた。
強くはない。
けれど、止まらない。
王都の屋根を激しく叩くわけでもなく、通りを川のように変えるわけでもない。
ただ、じわじわと石畳を湿らせ、木箱の角に水を吸わせ、紙の端を柔らかくしていく雨だった。
ロイドは朝、店の床を見て、最初に布を取りに行った。
入口近くに、誰かの靴から落ちた水が小さく溜まっている。
昨日までは、濡れているな、で済んだかもしれない。
けれど今は違う。
濡れた床は、転ぶ理由になる。
転べば、荷を落とす。
荷を落とせば、記録が濡れる。
記録が濡れれば、戻る道が消える。
そこまで考えるようになった自分に、ロイドは少しだけ苦笑した。
「細かいな、俺も」
呟きながら床を拭いていると、ミラが棚の方から振り返った。
「いいこと」
「そう?」
「濡れた床で転ぶ」
「うん」
「転ぶと戻れない」
「……そうだな」
笑い事ではなかった。
店は戻る場所。
なら、店の入口で転ぶわけにはいかない。
ロイドは布で水を拭き取り、入口に粗い麻布を敷いた。
雨の日用の足拭き。
それもまた、帰り道の一部だった。
作業台の上には、昨日の記録が並んでいる。
雨は隠す。でも、雨で浮くものもある。
不自然に濡れていない小箱。
背の高い手袋の男。
防湿指定荷。
出庫名目、残置品保護材・調整片入替用。
W二周辺補助弁に調整材使用の旧記録。
工房街側井戸の汲み上げ手応えが軽い。
見慣れない水売り。
空に近い荷車。
樽上部だけ濡れていない。
そして、次方針。
W二へ接近しない。
H一で予兆を確認する準備。
雨天時は延期または店内待機。
ロイドはその最後の一文を見た。
延期または店内待機。
今日も、まだ外へ出ない。
雨は細いが続いている。
足場は滑る。
風は読みづらい。
水路の音は雨音に混ざる。
H一へ行きたい気持ちはある。
W二の影響がH一に出るか、見たい。
だが、今の状態で行くのは危険だ。
ロイドは深く息を吸い、壁の言葉を見る。
危ない場所ではなく、戻る合図を見る。
H一は、進む場所じゃない。
雨の日も、荷は動く。
雨は隠す。でも、雨で浮くものもある。
言葉が増えた。
紙が増えた。
それでも、まだ足りない。
雨の中で戻るには、もっと太い帰り道が必要だった。
セドが作業台の前へ来た。
手にしている紙には、いつものように項目が並んでいる。
ただ、今日の紙は油紙の小さな覆いに入っていた。
昨日、記録紙が湿気を吸い始めたため、セドが自分で改良したらしい。
ロイドはそれを見て、少しだけ笑った。
「セドまで雨仕様ですね」
「必要です」
当然の返事。
ミラが短く言う。
「えらい」
セドは一瞬だけ瞬きをした。
「ありがとうございます」
ガルドが壁際から低く言う。
「お前は素直に受け取るんだな」
「褒め言葉は記録する必要がありませんので」
「そういう問題か?」
少しだけ店内に笑いが落ちる。
雨の朝の重さが、ほんの少し和らいだ。
セドは紙を開いた。
「本日の確認を行います」
ロイドは頷く。
「お願いします」
「一、H一現地確認の可否判断基準を作る。二、雨が続く場合の代替確認方法を整理する。三、W二関連の影響を、井戸の手応え、水売りの報告、H一の予兆から外側で見る手順を作る。四、雨天の店内戻り動線を整える。五、見慣れない水売り、背の高い手袋の男、防湿小箱の情報を継続して集める。六、W二へ接近しない。七、全員帰還」
ロイドは、まず一番目に目を止めた。
「H一現地確認の可否判断基準」
「はい」
セドは頷いた。
「行くか行かないかを、その場の気分で決めないためです」
「……大事ですね」
「はい。雨が弱いから行ける、という判断は危険です。足場、風、視界、戻り道、同行者、道具の状態をすべて満たした時のみ、確認可能とします」
ミラが言う。
「一つでも駄目なら、行かない」
「はい」
ガルドが低く言う。
「面倒だが、正しい」
エルマは椅子に座り、窓の外の雨を見ていた。
「昔もね、雨の日の確認は条件を決めていたよ」
「ミラベルさんたちが?」
ロイドが聞く。
「ああ。雨が弱いかどうかじゃない。足元が乾いているか、風が戻るか、声が届くか、帰り道の灯りが見えるか。そういうものを見た」
ロイドは頷く。
雨が弱いかどうかだけではない。
戻れるかどうか。
それが基準だ。
セドは紙に書いていく。
H一現地確認条件。
一、雨が止んでいる、または霧雨以下。
二、足場確認者が安全と判断。
三、風灯りの通風口が正常。
四、水灯りの反射片が曇っていない。
五、同行者三名以上。
六、店への戻り役を別に置く。
七、観測時間二十秒。
八、反応不明なら撤退。
九、異常時は道具回収を優先しない。
十、全員帰還。
ロイドは項目を見て、息を吐いた。
「十個もある」
「必要です」
セドは静かに答えた。
ミラが指で一つずつ追っていく。
「三名以上」
「はい」
「誰?」
セドは少し考えた。
「現時点の候補は、ロイドさん、ミラ、バーツさん。ただし、ミラが道具を持つかどうかは別です」
ロイドはすぐに言った。
「ミラが行くのは危なくないですか」
ミラは顔を上げる。
ロイドは言葉を続ける。
「作成者として目を付けられる可能性があるって、前に言ってた」
「はい」
セドは頷く。
「その懸念はあります。ただし、H一は現場中心ではなく予兆確認点です。水灯りと風灯りの反応を最も理解しているミラの判断が必要になる可能性もあります」
ロイドは黙った。
行かせたくない。
だが、必要かもしれない。
その葛藤が胸の中でぶつかる。
ミラは静かに言った。
「行きたい」
店内が少しだけ静まった。
ミラは続ける。
「見たいからじゃない」
一拍。
「戻る合図を、ちゃんと見たい」
ロイドはミラを見る。
その目は、いつものように大きく感情を見せるわけではない。
だが、逃げていなかった。
怖い。
行きたい。
でも、進みたいのではない。
戻るために見たい。
ロイドは、すぐには返事できなかった。
ガルドが低く言う。
「行かせるなら、守る手順を増やせ」
「はい」
セドが答える。
「ミラを単独で前に出さない。道具を持つ役と読む役を分ける。顔を隠すほどではないが、作成者として目立つ行動は避ける」
ミラが頷く。
「持たないで、読む?」
「可能性があります」
ロイドは深く息を吐いた。
「じゃあ、候補のまま。今日決めきらない」
「はい」
セドが記録する。
H一確認参加者、未確定。
ミラ参加の必要性と危険性を併記。
持つ役と読む役を分ける案。
ロイドは壁を見る。
見せすぎず、隠しすぎず。
人にも同じだ。
守りたいから隠すだけでは、進めない。
必要だから前へ出すだけでも、危ない。
その間を探す。
午前の中頃、ダムロが来た。
雨避けの布を肩にかけ、水滴を払ってから店内に入る。
今日は荷車を店の脇に置いていない。
水売り仲間に任せてきたらしい。
「井戸の件だ」
彼は開口一番に言った。
「昨日の手応え、仲間にも聞いた。やっぱり、工房街側の古い井戸だけ少し軽い」
セドがすぐに筆を取る。
「他の井戸は?」
「いつも通り。雨で変わる範囲だ」
「工房街側だけ?」
「ああ。少なくとも三人がそう言ってる」
ロイドは地図を見る。
W二。
工房街側井戸系統。
そこに、また線が重なる。
「水量は?」
「見た目は変わらん。水の濁りもない。ただ、汲む時に軽い」
ガルドが眉をひそめる。
「圧が抜けてるのか?」
「分からん」
ダムロは首を振る。
「俺たちは水売りだ。弁のことは知らん。ただ、手応えは違う」
ミラが短く言う。
「手の記録」
「そうだな」
ダムロは自分の手を見た。
「手の記録だ」
ロイドは頷いた。
「ありがとうございます」
ダムロはさらに続けた。
「それと、見慣れない水売りだが、今日は出てない。ただ、昨日の奴の荷車の車輪跡が少し変だった」
「車輪跡?」
「空に近い荷車なら、車輪は浅くなる。だが、昨日見た跡は片側だけ深かった」
セドが筆を止める。
「片側だけ?」
「ああ。樽は空に近いのに、片側だけ重い何かを載せていたかもしれん」
ガルドが低く言う。
「荷車の樽上部が濡れていない。片側だけ重い。空樽に見せかけて、何か積んでた可能性か」
「可能性です」
セドが言う。
ガルドは頷く。
「分かってる」
ロイドはダムロへ聞いた。
「水売り仲間に、車輪跡を見るよう頼めますか」
「もう頼んだ」
ダムロは即答した。
「ただし、追わない。跡を辿らない。見た場所で戻す。それでいいんだろ」
ロイドは少しだけ目を見開き、それから笑った。
「はい。完璧です」
ミラが言う。
「えらい」
ダムロは素直に頷く。
「受け取る」
ガルドがぼそりと言う。
「本当に素直だな」
ダムロは笑った。
「褒められるのに慣れとけ、ガルド」
「うるせぇ」
雨音の中に、小さな笑いが混ざった。
昼前、今度はテオとオルドが来た。
工房街側の見習いたちの様子を伝えるためだ。
テオの髪は少し濡れていたが、顔は真剣だった。
「ロイドさん、見習いたちの間で、また噂が出てます」
店内の空気が締まる。
「どんな?」
「雨の日は旧い入口が開きやすいって」
ロイドは思わず目を閉じた。
またか。
黒羽の噂は、雨に合わせて形を変えてきた。
風が止まったから安全。
奥に価値あるものがある。
ロイドの店の灯りで迷わず進める。
そして今度は、雨の日は旧い入口が開きやすい。
セドが低く言う。
「雨天を利用した誘導です」
「はい」
テオは拳を握る。
「でも、今回はすぐ止めました」
「どうやって?」
「雨の日は開きやすいんじゃなくて、戻りにくいって言いました」
ロイドは顔を上げた。
テオは少し照れたように続ける。
「滑るし、声が聞こえないし、紙も濡れる。だから近づくなって」
ミラが短く言う。
「いい」
セドも頷く。
「非常に良い返しです」
テオはほっとした顔をする。
「あと、“雨の日こそ、ひとりなし”って言いました」
ガルドが少しだけ口元を緩めた。
「悪くねぇ」
テオの顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
オルドが補足する。
「見習いの中にはまだ面白がる者もいます。ただ、テオの言葉で足が止まっています」
ロイドは頷いた。
「すごいです」
テオは少し赤くなる。
「でも、まだ怖いです。また誰かが見に行くんじゃないかって」
「怖いと分かっているのは大事です」
ロイドは言った。
「その怖さも戻してください」
テオは頷いた。
「はい」
セドはすぐに雨天用の見習い注意文を作った。
雨の日こそ、ひとりなし。
入口は開きやすいのではなく、戻りにくい。
滑る、聞こえない、見えない日は戻る。
テオはその紙を受け取り、強く頷いた。
「工房に貼ります」
「一人で?」
ロイドが聞く。
テオはすぐに首を振った。
「オルドさんと。あとハインツさんにも見せてから」
「よし」
ミラが言う。
「えらい」
テオは素直に頭を下げた。
「ありがとうございます」
午後、王城から覚書が届いた。
紙はいつもより厚い防水袋に入っていた。
届けた者は、何も言わずに去っていく。
セドが袋を開き、紙を広げる。
ロイドは自然に背筋を伸ばした。
「ルイス様より。W二関連補助弁について追加確認。旧記録では、W二は工房街側井戸系統の水圧抜きと、旧東工房区画側の冷却路を切り替える補助点として記載」
ロイドは眉を寄せる。
「水圧抜きと冷却路の切り替え」
「はい」
セドは続ける。
「雨季前調整時、W二の調整が不十分な場合、井戸の汲み上げ手応えが変化することがある。特に圧が逃げる場合、汲み上げが軽く感じられる可能性あり」
ダムロの証言と一致する。
店内に重い沈黙が落ちた。
ガルドが低く言った。
「当たりか」
「可能性が強まりました」
セドは答える。
ルイスの覚書は続く。
「ただし、W二自体を触るのは極めて危険。現在雨天で足場も悪く、黒羽の見張りがいる可能性あり。外側は井戸手応え、荷の動き、H一予兆の三点のみを確認対象としてください」
ロイドは頷いた。
「三点」
「はい」
セドが紙に書く。
W二関連外側確認。
一、井戸の手応え。
二、荷の動き。
三、H一の予兆。
W二へ接近しない。
ミラが短く言う。
「W二は触らない」
「はい」
さらに覚書は続いた。
「背の高い男について。商業組合検分員Aと同一の可能性。過去の記録では“長身補佐”と呼ばれる人物が、調整材入替時に立ち会う記述あり。実名なし」
ロイドは悔しさを感じた。
「また実名なし……」
「はい」
「長身補佐」
「名前が戻る前の呼び名ですね」
セドは言った。
ミラが壁に書く。
長身補佐。
背の高い手袋の男。
調整材入替に立ち会う。
実名なし。
「名前じゃない」
ミラが呟く。
ロイドは頷く。
「うん。でも、空白よりは近い」
「うん」
ルイスの最後の一文は短かった。
――雨の日の噂に注意して。黒羽は水だけでなく、人の足も滑らせようとしている。
ロイドは、その一文を読んで、しばらく黙った。
人の足を滑らせる。
物理的にも。
心も。
雨の日は旧い入口が開きやすいという噂。
見に行きたくなる気持ち。
滑る足場。
聞こえにくい声。
黒羽は、その全部を使う。
「ルイス様、外のことも見えてるな」
ロイドが言う。
セドは静かに頷いた。
「はい」
夕方、店の壁に新しい紙が貼られた。
雨の日こそ、ひとりなし。
入口は開きやすいのではなく、戻りにくい。
W二関連外側確認。
井戸の手応え。
荷の動き。
H一の予兆。
W二へ接近しない。
長身補佐。
背の高い手袋の男。
調整材入替に立ち会う可能性。
実名なし。
ロイドは壁を見上げていた。
また名前ではない名前が戻った。
長身補佐。
小柄な検分員。
灰色外套。
ヴォルフ・レイダンだけは実名がある。
他はまだ役割名だ。
だが、それでも空白よりはいい。
役割が見えれば、流れが見える。
流れが見えれば、帰り道を描ける。
「次は、H一か」
ガルドが言った。
セドは頷く。
「はい。ただし、条件を満たした場合のみ」
「雨が止まなきゃ無理だな」
「はい」
ロイドは外を見る。
雨はまだ降っている。
細い雨。
長い雨。
街の輪郭を曖昧にする雨。
でも、その雨の中で、いくつもの情報が戻ってきた。
井戸の手応え。
車輪跡。
噂。
王城の記録。
黒羽の雨中の動き。
ロイドは壁の下に、新しい一文を書いた。
雨の日は、足元と心を滑らせない。
ミラがそれを見て、静かに頷いた。
「いい」
セドも頷く。
「ルイス様の言葉とも繋がります」
ガルドが低く言う。
「足元も心も、か」
「はい」
ロイドは答えた。
店の入口の麻布は、朝よりも重く湿っていた。
それでも、誰かが店に戻る時、転ばないようにそこにある。
貼り紙は油紙の下で滲まずに残っている。
報告札は紐色で分かるようになった。
言葉は雨仕様になった。
そして、人の心も、雨で滑らないように何度も言葉で止めている。
夜になっても、雨は止まなかった。
H一は、まだ見に行けない。
W二には、近づかない。
だが、帰り道は今日も太くなった。
雨の中で。
黒羽の噂が足元を滑らせようとする中で。
ロイドの店は、灯りを落とさずに待っていた。
次に雨が弱まる時。
H一で、戻る合図を見るために。
そして、誰もW二の闇へ足を滑らせないために。




