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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第93話



 雨は、夜の間も止まらなかった。


 強くはない。


 けれど、ずっと降っていた。


 細く、長く、王都の石畳に染み込むように。


 朝になっても、通りの端には小さな水たまりができていた。


 屋根から落ちる雫が、一定の間隔で桶を叩く。


 ぽつり。


 ぽつり。


 その音が、ロイドの店の中にまで響いていた。


 ロイドは店の扉を開ける前に、まず貼り紙を見た。


 油紙の下で、文字はまだ読める。


 ただ、昨日よりも紙の端が波打っていた。


 紐は緩んでいない。


 ニコとリナが結んでくれたところも無事だった。


 しかし、雨は少しずつ紙に触れている。


 文字を滲ませようとしている。


 言葉の灯りを消そうとするように。


 ロイドは指で油紙の端を押さえ、溜まった水滴を落とした。


 ぽたり、と石畳に落ちる。


 その水音に、妙に胸がざわついた。


 雨の日も、荷は動く。


 昨日、壁に書いた言葉。


 市場南門倉庫から出た、防湿指定の小箱。


 不自然に濡れていない荷。


 手袋の背の高い男。


 灰色外套はなし。


 行先は追わず、戻した。


 雨の中でも、黒羽側は動く。


 なら、今日も止まらない可能性がある。


 ロイドは扉を開け、湿った空気を店内へ入れた。


 ミラがすぐに顔を上げる。


「雨」


「うん。続いてる」


「細いけど、長い」


「昨日の通りだな」


「うん」


 ミラは作業台に置かれた風灯りの清掃針を確認していた。


 太い持ち手になった小さな針。


 雨天用の報告札。


 防湿布。


 水灯りの曇り取り布。


 折り畳み台。


 それらが、以前よりもずっと実用的な顔をして並んでいる。


 しかし、今日はまだ外へ出ない。


 H一の現地確認は延期されたままだ。


 雨の中での足場。


 視界。


 報告網。


 そして黒羽の荷の動き。


 その全部をもう少し見なければならない。


 セドが作業台の前に立った。


 紙を持っている。


 いつもの確認。


 だが、今日は紙の端に防水の油が少し塗られていた。


 記録紙も、雨仕様になりつつある。


「本日の確認を行います」


 ロイドは頷いた。


「頼む」


「一、昨日雨天中に動いた防湿指定小箱について、市場と王城記録を照合する。二、背の高い手袋の男の役割を整理する。三、H一確認は引き続き延期。四、雨天の生活動線と荷の濡れ方を確認する。五、雨中の荷がH一ではなくW二側に関係する可能性を検討する。六、不審な荷を見ても追わない。七、全員帰還」


 ロイドは眉を上げた。


「W二?」


 セドは頷く。


「はい。昨日の小箱は、H一へ直接関係する荷とは限りません」


「どうして?」


「H一は予兆確認点です。そこへ部品を入れる必要は薄い。もし黒羽が雨天中に追加で動かしたなら、反応を見る場所ではなく、実際に操作する側――たとえばW二周辺への関連部品である可能性があります」


 ガルドが腕を組み、低く言った。


「小柄な奴が開ける。背の高い奴が運ぶ。灰色外套が見張る。昨日は背の高い奴だけで小箱を動かした」


「はい」


 セドが頷く。


「小柄な男の箱型開閉具とは別のものかもしれません」


 ミラが短く言う。


「小箱は、開ける道具じゃない」


「その可能性があります」


「じゃあ、何?」


 ロイドが聞く。


 セドは紙を見た。


「王城側の確認が必要ですが、W二関連の封鎖弁補助部品、あるいは湿気を避ける必要のある調整片の可能性があります」


 調整片。


 また新しい言葉が増える。


 ロイドは壁を見る。


 薄板式目録。


 反応板。


 封鎖弁再調整。


 防湿指定小箱。


 そして、W二。


 黒羽の道具は、少しずつ細かな部品へ分かれて見えてきている。


 全体像はまだ見えない。


 でも、役割が分かれてきた。


 小柄な男。


 背の高い男。


 灰色外套。


 ヴォルフ。


 それぞれの動き。


 それぞれの荷。


「今日は、背の高い男を見る日か」


 ロイドが言う。


「はい」


 セドが答える。


「ただし、見るのは記録上です」


 ガルドが短く言う。


「追わねぇ」


 ミラが頷く。


「えらい」


「朝からだな」


「必要」


 ガルドはもう言い返さなかった。


 


 午前中、リザからの伝言が届いた。


 サラが来た。


 雨避けの布をかぶり、昨日改良した紐付き報告札の袋を持っている。


 袋は二重になっていて、中の札は濡れていなかった。


 ミラがそれを確認して、少しだけ頷く。


「守れてる」


 サラもほっとする。


「よかったです。昨日の夜、リザさんが市場でも試してました」


「試す?」


「雨の中で、わざと袋を濡らして。中が大丈夫か」


 ロイドは目を丸くした。


「リザさん、徹底してますね」


 サラは誇らしげに頷いた。


「市場で使うなら、濡れるのが普通だって」


 セドが記録する。


 報告札防水袋、市場側試験済み。


 サラはリザの紙を出した。


 短い文だった。


 昨日の小箱、濡れ方が不自然。


 布が二重、外布は濡れていたが内側に水が染みていない。


 背の高い男、右手で箱を支え、左手で外布を押さえる。


 歩幅は大きいが、箱を揺らさない歩き方。


 買い物なし。


 市場南門倉庫から出て、南側通りへ。


 追跡せず。


 ロイドは読みながら、何度も頷いた。


「すごいな……」


 セドが紙を受け取り、丁寧に記録する。


「箱を揺らさない歩き方」


 ミラが言う。


「中身、揺らしたくない」


 ガルドが頷く。


「平箱と同じだな。だが昨日は小箱だった」


「小さいけど、揺らしたくない」


「中に精密部品がある可能性」


 セドが書く。


 防湿小箱。


 過剰防水。


 揺れ厳禁。


 精密部品、調整片の可能性。


 サラは少し緊張した顔で続けた。


「リザさんが、もう一つ言ってました」


「何ですか」


「背の高い男、昨日の検分員と同じかは分からない。でも、歩く時に周りを見ないって」


「周りを見ない?」


「普通、雨の日は足元を見るんです。滑るから。でもその男は、足元じゃなくて箱ばかり見ていたって」


 店内が静まる。


 ロイドはその光景を想像した。


 雨の市場。


 濡れた石畳。


 滑る足場。


 普通なら足元を見る。


 だが、男は箱を見ている。


 それほど、中身が重要だった。


 あるいは、揺れや傾きに注意していた。


 ガルドが低く言う。


「荷慣れしてねぇな」


「え?」


 ロイドが聞く。


「本職の配達人なら、足元も荷も見る。箱ばかり見るのは、運搬に慣れてないか、中身を異常に気にしてるかだ」


 ミラが言う。


「検分員だから?」


「そうだ。荷運びじゃなく、検分員か技術役かもしれん」


 セドが記録する。


 背の高い男、荷運び専門ではない可能性。


 足元より箱を注視。


 中身重視。


 ロイドはサラへ言った。


「リザさんに、ありがとうございますと伝えてください」


 サラは頷く。


「はい」


「それと、無理はしないでください」


「リザさんに言ったら、“分かってるよ”って言われると思います」


 ロイドは少し笑った。


「それでも伝えてください」


「はい」


 サラは店を出る。


 雨の中へ戻っていく。


 追わずに、見て、戻す。


 市場の目は、雨の中でも灯っていた。


 


 昼前、王城からルイスの覚書が届いた。


 セドが開く。


 紙には、商業組合の出庫記録と、W二周辺の旧記録について書かれていた。


「王城側より。昨日夕方の防湿指定小箱について確認。出庫名目は“残置品保護材・調整片入替用”。納品先は旧資材倉庫外縁保管扱い。個別地点記載なし」


 ロイドは眉を寄せる。


「調整片入替用」


 ガルドが低く唸る。


「来たな」


 セドは続ける。


「調整片という記載は、通常の残置品保護材には不自然。旧東工房区画の水圧調整弁、特にW二周辺の補助弁に、薄板状または小片状の調整材を用いた記録あり」


 ミラが顔を上げる。


「W二」


「はい」


 セドの声が少し硬くなる。


「W二は、工房街側井戸系統に近い補助弁記録と一致する可能性。現在、詳細確認中」


 ロイドは地図を見る。


 W二。


 工房街側の井戸に関連する疑いがあった場所。


 黒羽の水売り、井戸、封鎖弁操作。


 そこへ、雨中の防湿小箱が繋がるかもしれない。


「昨日の小箱は、H一じゃなくW二側」


「可能性が高まりました」


 セドが答える。


 ルイスの覚書は続く。


「背の高い男について。検分員Aの可能性あり。商業組合の登録では、検分員Aは実名なし。ただし過去の面会記録に、背の高い代理補佐が同席した記録あり。名は記載なし」


 ロイドは苦い顔をする。


「また名前なし」


「はい」


「背の高い方も消されてる」


「はい」


 ミラが短く言う。


「名前を戻す」


 セドは頷く。


「ルイス様も追っています」


 最後に、ルイスの注意があった。


「外側は、W二周辺へ接近しないでください。雨天で井戸周辺は滑りやすく、黒羽が動きを見張っている可能性あり。市場・工房の記憶と荷の流れのみ戻してください」


 ロイドは深く息を吐いた。


「また釘」


「重要です」


 セドは即答した。


「分かってる」


 ガルドが壁のW二を睨む。


「W二か……」


「行きませんよ」


 ロイドが言う。


「分かってる」


 ガルドは低く答えた。


「だが、井戸に近いなら、水売りの連中にも注意させろ」


「はい」


 セドが頷く。


 ロイドはすぐにダムロへ伝える紙を書いた。


 W二周辺へは近づかない。


 雨天時、井戸周辺で不自然に濡れていない小箱や手袋の男を見たら、追わずに戻す。


 水売りを装う者に注意。


 誰が呼んだ水売りか確認。


 短く。


 分かりやすく。


 責めない。


 不安を煽りすぎない。


 ロイドは筆を止めて、セドへ見せた。


「どうだ」


「良いです」


 ミラも頷く。


「戻す言葉」


「うん」


 紙はすぐに防水袋へ入れられた。


 


 午後、ダムロ本人が来た。


 雨で水売りの荷車はいつもより泥を跳ねていた。


 彼は店に入ると、帽子を脱ぎ、濡れた肩を払った。


「W二ってのは、工房街側の古い井戸の系統か?」


 ロイドは少し驚いた。


「知ってるんですか」


「名前は知らん。ただ、あの辺りの井戸は水の重さが変わることがある」


「水の重さ?」


「汲み上げる時の手応えだ。雨の前後に、妙に軽くなったり重くなったりする」


 セドがすぐに記録する。


 工房街側井戸系統。


 雨前後、水の汲み上げ手応え変化。


 水売り経験による情報。


「最近は?」


 ロイドが聞く。


 ダムロは顔をしかめた。


「昨日の夕方、少し軽かった」


 店内の空気が硬くなる。


「昨日の夕方」


「小箱が出た時間帯と近いです」


 セドが言う。


 ダムロは続ける。


「ただ、雨の日は井戸の手応えが変わること自体はある。断定はするな」


 ロイドは驚いた。


「ダムロさんが、それを言うんですね」


 ダムロは鼻を鳴らす。


「この店に出入りしてれば、嫌でも覚える」


 ミラが短く言う。


「えらい」


「おう、受け取っとく」


 ガルドが少しだけ顔をしかめた。


「何でお前は素直なんだ」


 ダムロは笑った。


「褒められて怒る理由がねぇ」


 店内に小さな笑いが生まれた。


 雨の重さが少しだけ軽くなる。


 しかし、情報は重要だった。


 昨日夕方。


 防湿小箱の出庫。


 背の高い手袋の男。


 同じ時間帯、工房街側井戸の汲み上げが少し軽かった。


 W二の補助弁に関係する可能性。


 まだ断定はできない。


 だが、線が重なる。


「ダムロさん、井戸には近づきすぎないでください」


 ロイドが言う。


「分かってる。水売り仲間にも言っておく。手応えが変なら、無理に汲まない。戻す」


「お願いします」


「あと」


 ダムロは少し低い声になった。


「昨日の夕方、見慣れない水売りが一人いた」


 店内が静まる。


「どこで?」


「工房街側。荷車は空に近かった。だが、濡れ方が変だった」


「変?」


「雨の中を歩いてるのに、樽の上だけ濡れてなかった」


 ロイドは壁を見る。


 不自然に濡れていない荷。


 ここにも。


 セドが記録する。


 見慣れない水売り。


 工房街側。


 空に近い荷車。


 樽上部のみ濡れていない。


 時刻、昨日夕方。


 追跡なし。


「追ってませんよね」


 セドが確認する。


 ダムロは頷く。


「追ってない。顔だけ覚えた。次に見たら戻す」


 ロイドは深く頷いた。


「ありがとうございます」


 黒羽は、雨の日に動いた。


 小箱だけではないかもしれない。


 水売りの姿も。


 W二周辺も。


 井戸の手応えも。


 少しずつ、雨の中の線が見えてくる。


 


 夕方近く、店の中では情報の整理が行われた。


 セドが時刻を並べる。


 昨日夕方。


 王城記録、防湿指定小箱出庫。


 市場報告、背の高い手袋の男、小箱、過剰防水、灰色外套なし。


 王城記録、出庫名目「残置品保護材・調整片入替用」。


 旧記録、W二周辺補助弁に調整材使用の記録。


 ダムロ証言、昨日夕方、工房街側井戸の汲み上げが少し軽い。


 見慣れない水売り、空に近い荷車、樽上部のみ濡れていない。


 ロイドはそれを見て、息を吐いた。


「これは、W二だな……って言いたくなる」


「言いたくなりますが、断定はしません」


 セドが答える。


「分かってる」


 ミラが短く言う。


「W二側の可能性、強い」


「そうだな」


 ガルドが低く言う。


「水売りの姿で、調整片を運んだか、作業後の何かを運んだか」


「可能性です」


 セドが言う。


「分かってる」


 ロイドは地図を見る。


 H一は予兆確認点。


 だが、昨日の小箱はH一ではなく、W二側へ関係する可能性が出た。


 つまり、黒羽は予兆を見る場所ではなく、実際に水の動きを変える場所へ手を入れているかもしれない。


「H一を見れば、W二の影響が見える?」


 ロイドが聞く。


 セドは少し考える。


「可能性はあります。W二側の補助弁が調整された場合、水や圧の変化が高台側へ出るとは限りませんが、雨季前の全体圧変化と重なるならH一にも兆候が出る可能性があります」


 ミラが言う。


「だから、H一は見る。でも、W二には近づかない」


「はい」


 セドが頷く。


「次の現地確認は、H一の予兆確認です。W二ではありません」


 ガルドが少し不満そうに地図を見る。


「W二を見たいがな」


「見ません」


 セドが即答する。


「分かってる」


 ミラが言う。


「えらい」


「今日はもう慣れた」


 ガルドは低く答えた。


 


 夜、雨はまだ降っていた。


 店の壁には、新しい紙が貼られた。


 雨天防湿小箱。


 背の高い手袋の男。


 過剰防水。


 出庫名目、残置品保護材・調整片入替用。


 W二周辺補助弁に調整材使用記録。


 同時刻、工房街側井戸の汲み上げ手応え軽下。


 見慣れない水売り。


 空に近い荷車。


 樽上部のみ不自然に濡れていない。


 W二側関連の可能性強化。


 断定不可。


 次方針。


 W二へ接近しない。


 H一で予兆を確認する準備。


 雨天時は延期または店内待機。


 ロイドは壁を見上げた。


 雨の日の情報は、晴れの日よりも掴みにくい。


 だが、掴めないわけではない。


 濡れ方。


 歩き方。


 荷の守り方。


 井戸の手応え。


 雨の中の普通を知っている人たちが、それを戻してくれる。


 市場のリザ。


 サラ。


 水売りのダムロ。


 配達人たち。


 工房の親方。


 王城のルイス。


 それぞれの目が、雨の中で灯っている。


「雨の日も、見えるんだな」


 ロイドが言った。


 ミラが頷く。


「違うものが見える」


「うん」


 セドも静かに言う。


「雨天時の観測網が機能しています」


 ガルドが腕を組む。


「W二に近づかずに、ここまで見えた」


「はい」


 エルマが窓の外を見ながら言った。


「雨は隠す。でも、雨で浮くものもある」


 ロイドはその言葉を、壁の下に書いた。


 雨は隠す。でも、雨で浮くものもある。


 ミラが見て、頷く。


「いい」


 セドも頷く。


「今日の記録に入れます」


 外の雨は、細く続いている。


 黒羽は雨を使って荷を動かした。


 だが、その雨は同時に、不自然に濡れない荷を浮かび上がらせた。


 水売りの樽の違和感も。


 井戸の手応えも。


 雨の中だからこそ、見えた。


 ロイドは店の灯りを少し落とした。


 風灯りと水灯りは、まだ外へ出ていない。


 H一もまだ見ていない。


 それでも、帰り道は太くなっている。


 次に見るべき場所が、少しだけはっきりした。


 W二へ行くのではない。


 H一で、戻る合図を見る。


 雨が許せば。


 帰り道が足りれば。


 その時まで、店は雨の中で灯りを絶やさずに待つ。


 追わずに。


 焦らずに。


 けれど、確かに近づきながら。

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