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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第92話



 雨は、細い糸のように降っていた。


 激しい雨ではない。


 屋根を叩くほどでもない。


 ただ、王都の石畳に薄く水を乗せ、壁の隙間を黒く染め、貼り紙の端をゆっくり湿らせていく雨だった。


 ロイドは朝、店の扉を開けてすぐ、外の空気に息を止めた。


 昨日の夜に落ちた最初の一滴。


 それから雨は、一度弱まり、夜明け前からまた降り始めたらしい。


 通りは静かだった。


 いつもなら、早朝から水売りの荷車や配達人の足音が聞こえる。


 けれど今朝は、車輪の音も、靴音も、布をかぶせたように鈍い。


 雨が音を吸っている。


 ロイドは扉の横の貼り紙を見た。


 油紙で覆ったおかげで、文字はまだ読める。


 だが、紙の端は少し波打っていた。


 紐の結び目には小さな水滴が溜まり、灯り石の光がそこに反射している。


 雨の前、水路と排水路には近づかない。


 水が少なくても安全とは限りません。


 風が止まったら、大人を呼ぶ。


 水が戻ったら、すぐ戻る。


 怖いと思ったら、戻る。


 ロイドは、その文字をゆっくり読んだ。


 昨日までは、雨が来る前の準備だった。


 今日からは、雨の中の準備になる。


 同じ準備でも、重さが違う。


 足場は滑る。


 紙は濡れる。


 声は雨音に消える。


 風灯りの通風口は湿った埃で詰まりやすくなる。


 水灯りの反射片は曇る。


 そして何より、人は雨の日に急ぐ。


 濡れたくないから。


 早く帰りたいから。


 顔を伏せて歩くから。


 その隙に、黒羽が動くかもしれない。


「……雨、来たな」


 ロイドが呟く。


 横でミラが答えた。


「うん」


「嫌な雨?」


「まだ、細い」


「細い?」


「でも、長いかも」


 ロイドは空を見上げた。


 雲は低い。


 明るさはあるが、晴れそうな空ではない。


 雨は強くない。


 しかし、止む気配も薄い。


 細く長い雨。


 それは、紙にも、木にも、人の気持ちにも染み込む。


「今日は外へ出ない」


 ロイドは言った。


 自分に言い聞かせるように。


「H一も行かない」


「うん」


「水路も見に行かない」


「うん」


「まず、雨の中で戻れるようにする」


「うん」


 ミラは短く頷いた。


 その手には、小さな布袋がある。


 中には、風灯り用の清掃針、防湿布、水灯りの曇り取り布。


 昨日までに準備した、道具の道具だ。


 今日はそれをさらに整える。


 雨の中で使えるか。


 濡れた手で扱えるか。


 落とした時に拾えるか。


 それを、店内で確かめる。


 セドが作業台の前で紙を広げた。


「本日の確認を行います」


 ロイドは扉を閉め、頷いた。


「頼む」


「一、H一の現地確認は延期。二、雨天時の貼り紙保護、報告札保護、記録紙保護を行う。三、風灯り・水灯りの雨天運用を店内で確認する。四、雨の日の生活動線を確認する。五、雨天中に黒羽側の荷が動く可能性に備える。六、不審な荷を見ても追わない。七、全員帰還」


 ガルドが腕を組み、外の雨を見た。


「雨の日は荷が見えにくい」


「はい」


 セドが答える。


「布をかぶせますし、顔も隠れます」


「足音も消える」


「はい」


「匂いも変わる」


「はい」


 ミラが短く言う。


「だから、戻す言葉を増やす」


「その通りです」


 セドは頷いた。


 エルマは椅子に座り、窓の外を見ていた。


「雨の日は、人が急ぐ。急ぐと、見る力が落ちる」


「市場もですか」


 ロイドが聞く。


「市場は逆に、雨の日の違和感に強い人もいるよ。いつも来る客が来ない。いつも濡れない荷が濡れている。いつも濡れる荷が濡れていない。そういう違いを見る」


 ロイドは感心した。


「雨の日の普通、があるんですね」


「ああ。晴れの日の普通とは違う」


 セドが記録する。


 雨天時の普通。


 市場、荷の濡れ方。


 配達、布のかけ方。


 水売り、車輪跡。


 水路、音と匂い。


 工房、炉の煙。


 ロイドは地図を見下ろした。


 雨の日の王都。


 そこに、また別の地図が重なる。


 晴れの日には見えない違和感。


 雨だからこそ見えるもの。


 黒羽が雨に紛れるなら、こちらは雨の中の普通を知る必要がある。


 


 午前中、最初に来たのはマイラだった。


 バーツと一緒だった。


 二人とも外套を濡らしている。


 マイラは店へ入ると、まず貼り紙を確認した。


「読めますね」


「今のところは」


 ロイドが答える。


「水路沿いの紙は?」


「半分くらいは大丈夫です。でも、油紙が足りないところがあります」


 セドがすぐに紙を取る。


「補充します」


 マイラは首を横に振った。


「全部を守るのは無理です。だから、短い紙だけを優先します」


「短い紙?」


「怖いと思ったら戻る。水が戻ったら戻る。これだけなら、濡れても読めます」


 ロイドは頷いた。


「いい判断だと思います」


 マイラは少しだけほっとした顔をした。


「長い紙は、家の中で読めるようにします。外には短い言葉だけ」


 セドが記録する。


 雨天貼り紙方針。


 屋外は短文優先。


 屋内に詳細文。


 油紙は重点箇所へ。


 ミラが短く言う。


「雨の言葉」


「はい」


 マイラは微笑む。


「雨の中でも読める言葉です」


 バーツは水灯りを見た。


「今日は使わない?」


 ロイドは頷いた。


「使いません。店内確認だけです」


 バーツは短く頷く。


「よい」


 その短さに、ロイドは少し安心した。


 バーツが「よい」と言うなら、現場の判断として間違っていない気がする。


 マイラは、雨天用の短文をもう一枚書いた。


 雨の日は、水が少なく見えても近づかない。


 水路の音が聞こえにくい日は、戻る。


 風が分からない日は、戻る。


 ロイドはそれを見て、胸が少し締めつけられた。


 風が分からない日は、戻る。


 見えないから近づくのではない。


 分からないから戻る。


 それは、今のロイドたちに必要な言葉だった。


 


 次に、サラが来た。


 リザの使いだ。


 雨避けの布をかぶり、小袋を胸に抱えている。


 中には報告札。


 だが、布袋は少し濡れていた。


 サラは申し訳なさそうに言った。


「札、少し湿っちゃいました」


 ミラがすぐに袋を受け取り、中身を確認する。


 木札自体は無事だ。


 ただ、黒丸の墨が少し滲んでいる。


「読める」


 ミラは言った。


「でも、もっと守る」


 ガルドが防水油を薄く塗る案を出す。


 セドが止める。


「塗りすぎると札同士が貼りつきます」


「じゃあ紐で分ける」


 ミラが札に小さな穴を開け、種類ごとに紐の色を変える案を出した。


 黒丸は黒紐。


 灰線は白紐。


 手袋は茶紐。


 矢印は赤紐。


 戻る印は青紐。


 ロイドは少し驚く。


「色で分けるのか」


「雨で墨が滲んでも分かる」


「なるほど」


 サラも頷いた。


「市場だと、急いでる時に絵を見るより紐の色の方が分かるかもしれません」


 セドが記録する。


 雨天報告札改良。


 印+紐色。


 墨滲み対策。


 袋を二重化。


 戻る印は青紐。


 ミラは手早く札を直していく。


 サラはその様子をじっと見ていた。


「ミラさん、すごいですね」


 ミラは少しだけ首を傾げる。


「すごい?」


「すぐ直すから」


 ミラは少し黙った。


 そして言った。


「使う人が、困らないように」


 サラは小さく頷く。


「ありがとうございます」


 ロイドはそのやり取りを見て、胸が温かくなった。


 ミラの作る手は、道具だけでなく人に向いている。


 使う人が困らないように。


 そのための改良。


 それは、この店の灯りそのものだった。


 サラは帰り際、雨の市場の情報を伝えた。


「リザさんが言ってました。雨の日に濡れてない荷は目立つって」


「濡れてない荷?」


 ロイドが聞く。


「はい。普通は布をかけても少し濡れるのに、全然濡れてない箱があったら、それは大事に守ってる荷だって」


 セドがすぐに記録する。


 雨天市場観測点。


 不自然に濡れていない荷。


 過剰防水。


 乾燥石使用可能性。


 ロイドは頷いた。


「リザさん、すごいな」


「市場の人は、雨の日の荷を見てるそうです」


 サラは少し誇らしげに言った。


「だから、追わずに見ますって」


 ロイドは頭を下げた。


「お願いします」


 


 昼頃、ガルドとミラは風灯りと水灯りの雨天運用確認を始めた。


 店内に濡れ布を増やし、床の一部に水を薄く撒く。


 実際の雨の足場に近づけるためだ。


 ロイドは少し不安そうに床を見た。


「滑らない?」


「滑る」


 ガルドが答える。


「だからやる」


「ですよね」


 まず風灯り。


 濡れた手で持つ。


 腰に下げる。


 通風口に水滴がついた時の反応を見る。


 ミラは清掃針を取り出し、葉脈型通風口の水滴を払う。


 だが、手袋をしたままだと針が扱いづらい。


「難しい」


「手袋を外すか?」


 ロイドが聞く。


 ガルドが首を横に振る。


「雨の現場で手袋を外すと危ない。冷えるし滑る」


 ミラは少し考え、清掃針の持ち手を太くする案を出した。


 小さな木片をつける。


 濡れた手袋でも握れるように。


 セドが記録する。


 清掃針、雨天用太持ち手追加。


 手袋使用前提。


 次に、水灯り。


 持ち手の溝は、昨日より少し粗くなっている。


 バーツが濡れた布で手を湿らせ、握る。


「前よりよい」


 ミラの表情が少し緩む。


「滑る?」


「少し」


「もっと?」


「これ以上だと痛い」


「うん」


 使用者の手に合わせる。


 昨日の言葉がまた戻る。


 水灯りを仮台に置く試験も行った。


 折り畳み台は簡易だが、低い位置に安定して置ける。


 ただし、設置に時間がかかる。


 セドが砂時計を見た。


「設置に十二秒」


 ロイドが顔をしかめる。


「長い?」


「状況によります」


 ガルドが言う。


「雨の中なら長い」


 ミラは台を見る。


「使わない?」


「使う場面を限定する」


 ロイドが言った。


「足場が安定していて、撤退路が見えていて、二人以上いる時だけ」


 セドが頷く。


「記録します」


 水灯り折り畳み台。


 使用条件、足場安定、撤退路確認、二人以上。


 危険時は台ごと放棄可。


 ミラは少しだけ目を伏せる。


 また、放棄可。


 でも、彼女は頷いた。


「人が戻る」


「うん」


 ロイドは静かに答えた。


「人が戻る」


 


 午後、王城からルイスの覚書が届いた。


 雨天による商業組合の動きについてだった。


 セドが読み上げる。


「王城側より。雨天時、王都商業組合の資材搬送は通常減少。ただし、防湿指定荷は雨天でも搬送される場合あり。理由、湿気を避けるため逆に短時間で倉庫間移動を済ませるため」


 ロイドは眉を寄せる。


「雨だから動かない、とは限らない」


「はい」


 セドは続ける。


「市場南門倉庫に、防湿指定荷の出庫申請あり。内容、旧資材倉庫残置品保護材。数量、小箱一つ。出庫予定、本日夕方」


 店内が静まった。


 雨の日に。


 本日夕方。


 小箱一つ。


 ロイドは拳を握り、開く。


「来たな」


 ガルドが低く言う。


「ああ」


 ミラは壁の紙を見る。


 不自然に濡れていない荷。


 過剰防水。


 防湿指定荷。


 セドは読み続ける。


「ルイス様より。外側は追跡しないでください。市場側に、不自然に濡れていない荷の有無のみ確認を依頼。荷の行先を直接追わず、出庫時刻と関係者の特徴のみ戻すこと」


 ロイドは少しだけ笑った。


「また釘を刺された」


「重要です」


 セドは真顔で言った。


「分かってる」


 ガルドも低く言う。


「追わねぇ」


 ミラが短く言う。


「えらい」


「まだ何もしてねぇ」


「これから」


 ロイドはサラの札を見た。


 雨天用に直したばかりの報告札。


 それが、もう必要になるかもしれない。


「リザさんへ知らせよう」


「はい」


 セドが頷く。


「ただし、荷を見に行かせるのではなく、市場にいる範囲で確認してもらうように」


「分かってる」


 ロイドは短い紙を書いた。


 夕方、防湿指定の小箱が市場南門倉庫から出る可能性。


 追わない。


 行先を追わない。


 不自然に濡れていない荷、過剰防水、持つ人物の特徴のみ。


 見えなければ見えないで戻す。


 リザへ。


 紙は防水袋に入れ、配達人経由で市場へ戻した。


 店は、また待つ場所になった。


 


 夕方、雨は少しだけ強くなった。


 屋根を叩くほどではないが、通りの音がさらに鈍る。


 店の灯りが、湿った空気で滲む。


 ロイドは何度も扉の方を見た。


 セドが言う。


「ロイドさん」


「はい」


「息」


「あ、うん」


 深呼吸する。


 待つのは、やはり苦手だ。


 市場で何が見えているか分からない。


 リザは追っていないか。


 サラは濡れていないか。


 荷はもう出たのか。


 黒羽は気づいているのか。


 考えれば考えるほど、足が動きそうになる。


 ミラが短く言う。


「店」


 ロイドは頷いた。


「店は、戻る場所」


 その時、扉が開いた。


 サラではない。


 配達人のベルトだった。


 雨避けの布を脱ぎ、息を整える。


「リザさんから」


 小袋を差し出す。


 セドが受け取り、札を並べる。


 黒丸一つ。


 手袋。


 小箱。


 青紐の戻る印。


 そして、灰線はない。


 矢印もない。


 ロイドは読む。


「一人。手袋。小箱。戻り」


 ベルトが補足する。


「リザさんの口頭です。箱は布で二重に包まれていて、雨に濡れていませんでした。持っていたのは小柄な男ではなく、背の高い男。灰色外套はいません。行先は追ってません」


 セドが素早く記録する。


 雨天出庫。


 防湿指定小箱の可能性。


 持ち手、背の高い男。


 手袋。


 過剰防水。


 灰色外套なし。


 行先追跡せず。


 ロイドは息を吐いた。


「戻った」


「はい」


 ミラが頷く。


「追ってない」


 ガルドが低く言う。


「だが、動いたな」


「はい」


 セドが答える。


「雨の中でも、荷は動きました」


 ロイドは壁を見る。


 黒羽側は、雨でも動く。


 しかも、今度は小柄な男ではなく背の高い男。


 検分員A・Bのうち、背の高い方かもしれない。


 小柄な男が開閉具。


 背の高い男が書類筒や小箱。


 役割が分かれている可能性が出てきた。


「ルイス様へ送ろう」


 ロイドが言った。


「はい」


 セドが頷く。


「雨天でも防湿指定荷が動いたこと。背の高い男が持っていたこと。灰色外套が見えなかったこと」


「行先は追ってないことも」


「はい」


 ロイドは深く息を吐いた。


 雨の中で、また一つ線が動いた。


 でも、こちらも追わずに戻せた。


 


 夜。


 雨は細く降り続いていた。


 店の外の貼り紙は、油紙の下でまだ読める。


 雨粒が灯り石の光を受け、小さく光る。


 壁には今日の記録が追加された。


 雨天貼り紙、短文優先。


 報告札、紐色追加。


 風灯り、清掃針太持ち手。


 水灯り、滑り止め調整、折り畳み台使用条件。


 雨天市場観測点、不自然に濡れていない荷。


 王城情報、防湿指定荷、本日夕方出庫。


 市場報告、背の高い手袋の男、小箱、過剰防水、灰色外套なし、追跡せず。


 ロイドはその最後を見つめた。


「雨でも動く」


 セドが頷く。


「はい」


「背の高い男も、荷を持つ」


「はい」


「灰色外套がいない時もある」


「はい」


 ミラが言う。


「役割、分かれる」


「そうだな」


 ガルドが腕を組む。


「小柄が開ける。背高が運ぶ。灰色外套が見張る。そんなところかもしれねぇな」


「可能性です」


 セドが言う。


「分かってる」


 ロイドは壁の下に、新しい一文を書いた。


 雨の日も、荷は動く。


 ミラが見て、頷いた。


「いい」


 エルマが静かに言った。


「なら、雨の日の帰り道も必要だね」


 ロイドは頷く。


「はい」


 外では雨が降り続いている。


 黒羽は雨を止まり時にはしなかった。


 なら、こちらも雨を理由に目を閉じるわけにはいかない。


 ただし、追わない。


 濡れた道を走らない。


 見えたことだけ戻す。


 雨の日の帰り道を、さらに太くする。


 店の灯りは、雨に滲みながらも消えずに揺れていた。


 その光の中で、風灯りと水灯りは静かに眠っている。


 次に外へ出る時、そこはもう乾いた安全区域ではないかもしれない。


 雨の音。


 滑る足場。


 曇る反射片。


 詰まる通風口。


 そして、雨の中でも動く黒羽の荷。


 ロイドはそのすべてを思いながら、扉の鍵をかけた。


 今日も、誰も追わなかった。


 今日も、情報は戻った。


 雨の中でも、帰り道は消えなかった。

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