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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第91話



 雨は、まだ降っていなかった。


 けれど、降る前の匂いはもう、店の中にまで入り込んでいた。


 湿った石畳の匂い。


 古い木箱が水を吸う前の匂い。


 水路から上がる冷気が、空の湿り気と混ざって少し重くなる匂い。


 ロイドは朝、店の扉を開ける前に、無意識に鼻から息を吸った。


 昨日までは、湿っているな、と思うだけだった。


 だが今日は違った。


 匂いも情報。


 壁に貼ったその言葉が、頭の中で自然に浮かぶ。


 雨季前の匂い。


 それは、黒羽の薄板式目録にも、風灯りにも、水灯りにも、H一にも関わっている。


 高台側第一排水点、H一。


 昨日、ルイスからの覚書で、旧記録にもその名があったことが分かった。


 危険地点ではない。


 予兆確認点。


 異常時は進入せず撤退。


 見えたら戻る場所。


 ロイドたちは、その名前が戻ったことに少しだけ安堵した。


 だが、名前が戻れば次が来る。


 実際に、どう扱うか。


 誰に伝えるか。


 いつ確認するか。


 何を見たら戻るか。


 今日の仕事は、そこからだった。


 ロイドは扉を開ける前、壁の一文を見た。


 危ない場所ではなく、戻る合図を見る。


 昨日の夜、最後に書いた言葉。


 その隣に、ミラが小さく書き足していた。


 H一は、進む場所じゃない。


 ロイドはそれを見て、小さく笑った。


「分かりやすいな」


 横でミラが答える。


「うん」


「大事だな」


「うん」


「H一って名前が戻ったら、見に行きたくなるもんな」


「うん」


「でも、進む場所じゃない」


「戻る合図」


「そうだな」


 ミラは作業台の方を見る。


 乾燥箱の中に、昨日防湿処理をした風灯りの羽根が入っている。


 水灯りの反射片も、曇り止め処理をして乾かしている途中だ。


 今日は、それらを仕上げる。


 そして、H一確認へ出るための手順を決める。


 ただし、今日はまだ出ない。


 雨季仕様の道具と、街への共有が先だ。


 ロイドはそれを自分に言い聞かせた。


 行きたくなる。


 名前が戻った場所を、確認したくなる。


 でも、今日ではない。


 まず、帰り道を太くする。


 セドが作業台の前に立つ。


 いつものように、紙を持っていた。


「本日の確認を行います」


 ロイドは頷いた。


「頼む」


「一、風灯り・水灯りの雨季仕様を完成に近づける。二、H一の扱いを街側へ共有する。三、H一は危険地点ではなく予兆確認点であり、反応があれば進まず戻る場所であると明文化する。四、観測手順を作るが、本日は現地確認しない。五、雨が降り始めた場合の貼り紙保護を行う。六、防湿材の管理を継続する。七、全員帰還」


 ガルドが腕を組む。


「今日も出ねぇのか」


 ロイドはガルドを見る。


「出たいですか」


「出たい」


 即答だった。


 ミラも短く言う。


「見たい」


 ロイドも正直に言った。


「俺も見たい」


 セドは静かに頷いた。


「だから、今日は出ません」


 店内に沈黙が落ちる。


 その理屈が、痛いほど分かるからだ。


 見たい時ほど、準備する。


 出たい時ほど、戻る場所を先に整える。


 ガルドは壁の紙を見る。


 帰り道が足りるまで、入らない。


 殴る前に、戻れ。


 彼は小さく息を吐いた。


「分かった」


 ミラが言う。


「えらい」


「今日は……受け取る」


 ガルドが低く言った。


 ロイドは少し笑った。


 緊張が、ほんの少しだけ解ける。


 だが、すぐに作業が始まった。


 


 最初は、風灯りだった。


 乾燥箱から取り出した羽根は、昨日より少しだけ張りが出ていた。


 油紙に防湿処理を施したことで、湿った空気を吸いにくくなっている。


 ただし、少し硬くなった。


 反応が鈍る可能性がある。


 ミラは細いピンで羽根を支え、風灯りの内部に戻した。


 ロイドは息を詰めて見守る。


 ガルドが横から言う。


「力を入れすぎるな」


「うん」


「でも、緩すぎると外れる」


「うん」


「湿気で膨らむ分も考えろ」


「うん」


 ミラは短く返事をしながら、指先を止めない。


 その手つきは、以前よりずっと落ち着いていた。


 作ることに焦りがない。


 いや、焦りがあっても、それを手へ乗せないようにしている。


 ロイドにはそう見えた。


 羽根が収まる。


 葉脈型通風口の外枠を戻す。


 小さな反射板の角度を調整する。


 セドが記録する。


 風灯り雨季仕様。


 防湿処理羽根。


 葉脈型通風口、清掃用針を追加。


 反射板角度、湿気時眩しさ軽減。


 持ち運び時、防湿布同梱。


 ロイドは気になった。


「清掃用針?」


 ミラが細い針を見せる。


「通風口が詰まった時」


「なるほど」


 ガルドが頷く。


「雨季前は湿った埃が入りやすい。穴が詰まると風が読めねぇ」


 ロイドは風灯りを見る。


 通風口。


 葉脈の飾り穴。


 そこを掃除する針。


 細かい。


 でも、現場ではその細かさが命を分けるかもしれない。


「道具って、増えるな」


 ロイドが呟く。


 ミラが頷く。


「道具の道具」


「そうだな」


 風灯りを守るための道具。


 灯りを帰すための道具。


 その小さな針も、帰り道の一部なのだ。


 試験として、店内に湿った風を作る。


 ガルドが濡れ布を揺らし、低い位置から風を送る。


 風灯りの光が、まず細く揺れる。


 横風。


 次に、下からの風で丸く膨らむ。


 昨日よりは少し反応が戻っている。


 だが、乾いた日ほどではない。


 ロイドは正直に言った。


「見える。でも、少し遅い」


 ミラは頷く。


「記録」


 セドが書く。


 湿気環境、反応可。


 乾燥時より遅延あり。


 使用時は長めに観測。


「長めに観測って、危なくない?」


 ロイドが聞く。


 セドは頷く。


「そのため、観測時間の上限を決めます」


「何秒?」


 ガルドが言う。


「長くても三十秒だな」


 ミラが首を横に振る。


「二十秒」


「短すぎねぇか」


「見えなかったら戻る」


 ガルドは黙った。


 ロイドはミラを見る。


 見えなかったら、もっと見るのではない。


 見えなかったら戻る。


 それは、今のミラらしい答えだった。


 セドが記録する。


 風灯り観測、二十秒。


 反応不明なら延長せず撤退。


 ロイドは頷いた。


「いいと思う」


 ガルドは少し苦い顔をしたが、頷いた。


「分かった」


 ミラが短く言う。


「えらい」


「今日は何回言う気だ」


「必要なだけ」


 ロイドは笑いそうになった。


 


 次は水灯りだった。


 水灯りは、雨季仕様にすると少し重くなる。


 防湿布。


 曇り止め処理。


 滑り止めを追加した持ち手。


 基準環の動きを渋らせないための小さな保護油。


 それらを入れると、職人用の点検灯としては自然だが、長時間持つには疲れる。


 バーツが呼ばれていた。


 彼は水灯りを手に取り、黙って握る。


「重い」


 短く言った。


 ミラが少し顔を曇らせる。


「駄目?」


「使える。でも長く持たない」


「何分?」


「片手なら一分。両手なら三分」


 ロイドは驚く。


「そんなに短い?」


 バーツは頷く。


「濡れた足場では、片手を空ける必要がある」


 セドがすぐに記録する。


 水灯り雨季仕様、重量増。


 濡れた足場では片手保持一分程度。


 両手保持三分。


 長時間観測不可。


 ミラは少し考えた。


「置く台」


「設置?」


 ロイドが聞く。


「手で持たない」


 ガルドが頷く。


「小型の折り畳み台か。だが、設置すると回収が遅れる」


「置いたら、戻りにくい?」


 ミラが聞く。


 セドが答える。


「状況によります。危険時に道具を置いたままにする判断も必要になります」


 ミラの表情が少し固まる。


 作った道具を置いて戻る。


 それは、彼女にとってつらいことだろう。


 だが、必要な判断だ。


 ロイドは静かに言った。


「ミラ」


「うん」


「道具より、人が戻る」


「うん」


「水灯りを置いて戻ることも、手順に入れよう」


 少しの沈黙。


 ミラは水灯りを見た。


 自分の作った道具。


 戻るための灯り。


 その灯りを、戻るために置いていく可能性。


 矛盾しているようで、矛盾していない。


 ミラはゆっくり頷いた。


「置いても、戻る」


「うん」


 セドが記録する。


 水灯り使用手順。


 危険時は回収優先しない。


 人員帰還最優先。


 水灯り放棄可能。


 ガルドが低く言う。


「嫌な手順だな」


「はい」


 セドが答える。


「ですが、必要です」


 ミラが短く言う。


「必要」


 ロイドは、水灯りを見る。


 道具を大事にすることと、道具に縛られないこと。


 その両方が必要になる。


 雨季前の準備は、道具だけでなく心も削っていく。


 それでも、誰も手を止めなかった。


 


 昼前、マイラが来た。


 昨日作った雨季前注意文を、水路沿いだけでなく高台側にも貼りたいという。


 ロイドはすぐに頷いた。


「お願いします」


「ただ、H一という名前を出していいですか」


 マイラは紙を出した。


 そこには、こう書かれていた。


 H一は、危ない場所へ行く入口ではありません。


 水や風の変化に気づいたら、戻るための確認点です。


 一人で見に行かないでください。


 ロイドは、少し驚いた。


「分かりやすいです」


「昨日のミラさんの言葉を借りました。進む場所じゃない、って」


 ミラが顔を上げる。


「いい」


 マイラは少し笑った。


「よかった」


 セドが慎重に言う。


「H一の位置までは書かない方がよいです」


「はい。高台側の人には、場所を詳しく書かず、排水路に近づかないよう伝えます」


「それが良いです」


 ロイドはマイラへ言った。


「H一の名前は出しても、場所は広めすぎない」


「はい」


「戻る合図を見る場所、という意味だけ共有する」


「分かりました」


 マイラは頷いた。


「子供たちには、“H一探し”にならないように言います」


 ロイドは胸が少し冷える。


 確かに、名前を出せば子供は探したくなる。


 大人だってそうだ。


 名前が戻ることは力になるが、危険もある。


 見せすぎず、隠しすぎず。


 ここでもまた、その加減だった。


 ミラが短く言う。


「名前だけ、道にしない」


 ロイドは頷く。


「うん。名前が、危険への案内にならないように」


 セドが記録する。


 H一共有方針。


 名称と意味のみ共有。


 詳細位置は限定。


 子供の探索化防止。


 反応時は戻る。


 マイラは紙を受け取り、バーツと一緒に店を出る。


 一人で持たない。


 もう、言わなくても自然にそうなっている。


 


 午後、ルイスから覚書が届いた。


 H一に関する追加記録だった。


 セドが読み上げる。


「旧記録より。H一は高台側第一排水点。旧測量坑道と直接接続していないが、E三副の圧変化時に予兆が出る可能性あり。確認時は必ず二名以上。異常時は三十歩以上離脱。長時間観測禁止」


 ロイドはミラを見る。


「二十秒、当たってたな」


 ミラは少しだけ首を傾げる。


「旧記録は?」


 セドが続ける。


「観測時間は、旧記録では“短時”とのみ記載。具体秒数なし」


「じゃあ、二十秒はうちの基準だ」


「はい」


 ミラは小さく頷いた。


「うん」


 ルイスの覚書は続く。


「H一周辺で過去に使用された道具として、携帯水流灯の記載あり。詳細不明。水灯りとの類似可能性あり」


 店内が静かになる。


 携帯水流灯。


 水灯りに近い名前。


 カイゼルが使っていたのかもしれない道具。


 ミラは水灯りを見た。


「似てる」


「はい」


 セドが答える。


「ただし、詳細はまだ不明です」


 エルマが小さく息を吐く。


「カイゼルだね」


「そう思いますか」


 ロイドが聞く。


「水の流れを見る灯りなんて、あの人が考えそうだ」


 エルマの声は少し懐かしそうだった。


「道具の名前も、分かりやすい。携帯水流灯」


 ミラが小さく言う。


「水灯り」


「うん」


 ロイドは頷いた。


「繋がってるな」


 十年前の携帯水流灯。


 今の水灯り。


 H一。


 予兆確認点。


 見えたら戻る場所。


 自分たちは新しいものを作っているようで、実は消された帰り道を拾い直しているのかもしれない。


 セドは最後を読む。


「ルイス様より。H一確認を行う場合、現地ではなくまず周辺住民の記憶と旧記録の照合を。雨が降り始めた場合は延期を推奨」


 ロイドは少し苦笑した。


「釘が多い」


「重要です」


 セドが真面目に言う。


「分かってる」


 ガルドが低く言う。


「雨が降ったら延期か」


「はい」


「雨の前に確認したいが、雨が降ったら危険になる」


「その通りです」


 ロイドは外を見る。


 空はさらに重くなっている。


 雨はまだ落ちていない。


 しかし、近い。


 時間は少ない。


 だが、無理はできない。


 


 夕方、店の前の貼り紙に防水処理をした。


 完全ではない。


 油紙で覆い、端を紐で止める。


 雨が降っても、しばらく読めるようにするためだ。


 ニコとリナも手伝いに来ていた。


 もちろん、危険な場所へは行かない。


 店先の紙を押さえるだけだ。


 ニコは真剣な顔で紐を結んでいる。


「これ、雨でも読める?」


 ロイドは頷いた。


「前よりは」


「じゃあ、子供も読む?」


「読める」


「なら、ちゃんと結ぶ」


 リナが横で言う。


「ニコ、強く引っ張りすぎ。紙破ける」


「分かってるって」


「分かってない」


 二人のやり取りに、ロイドは少し笑った。


 しかし、その笑いの奥で胸が温かくなる。


 子供たちも、帰り道を太くする手伝いをしている。


 危険へ近づくのではなく。


 店の前で、読む灯りを守っている。


 ミラはその様子を見て、小さく言った。


「いい」


「うん」


 ロイドも頷く。


「すごくいい」


 店の外に、雨季前注意文が貼られる。


 雨の前、水路と排水路には近づかない。


 水が少なくても安全とは限りません。


 風が止まったら、大人を呼ぶ。


 水が戻ったら、すぐ戻る。


 怖いと思ったら、戻る。


 その隣に、H一の説明。


 H一は、危ない場所へ行く入口ではありません。


 水や風の変化に気づいたら、戻るための確認点です。


 一人で見に行かないでください。


 ロイドはそれを見て、何度も頷いた。


 名前が戻った。


 だが、危険への案内にはしない。


 戻るための言葉として置く。


 


 夜が近づく頃、風が止まった。


 一瞬だった。


 本当に一瞬。


 店の前の貼り紙が揺れるのをやめ、通りの布が静かになり、遠くの水路の音が少しだけ沈んだ。


 ロイドは反射的に顔を上げた。


 ミラも。


 ガルドも。


 セドはすぐに砂時計を見る。


 沈黙。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 風が戻る。


 湿った風が、少し強く吹いた。


 貼り紙がぱたりと鳴る。


 そして、その直後。


 ぽつり。


 店の前の石畳に、小さな黒い点ができた。


 雨。


 最初の一滴だった。


 ロイドは、息を止めてそれを見た。


 雨が来た。


 まだ本降りではない。


 だが、来た。


 雨季前の準備をしていた時間が、終わりへ向かい始めた。


 ミラが小さく言う。


「降った」


「うん」


 セドが低く言う。


「本日の現地確認は、完全に中止です」


「分かってる」


 ロイドは頷いた。


 ガルドも、壁の方を見て言った。


「延期だ」


 その声には悔しさがあった。


 だが、怒りではない。


 止まる判断だった。


 エルマは静かに言った。


「いい判断だよ」


 雨粒が、もう一つ落ちる。


 油紙に当たり、小さな音を立てる。


 読める灯りを守るための紙が、雨を受けている。


 ロイドは店の扉を少しだけ閉めた。


 外の貼り紙は、まだ読める。


 雨の中で、文字が灯っている。


 雨の前、水路と排水路には近づかない。


 怖いと思ったら、戻る。


 H一は、進む場所ではない。


 戻る合図を見る場所。


 ロイドは静かに言った。


「明日は、雨の中の準備だな」


 ミラが頷く。


「うん」


 セドも。


「はい。雨天時の観測手順へ切り替えます」


 ガルドが低く言う。


「道具も、さらに見る」


「はい」


 エルマが茶器を置き、窓の外を見た。


「雨が来たね」


 ロイドは頷いた。


「はい」


「なら、ここからは雨の帰り道だ」


 雨粒が少しずつ増えていく。


 夜の王都が、湿った匂いに包まれていく。


 黒羽が雨の前に整えようとしていたもの。


 ロイドたちが雨の前に太くしようとしていた帰り道。


 その二つが、雨の音の中で近づき始めていた。


 店の灯りは、いつもより少し滲んで見えた。


 けれど、消えてはいなかった。


 雨の中でも読めるように、紙は守られている。


 雨の中でも戻れるように、言葉は残っている。


 そして、雨の中でも風と水を見るために、風灯りと水灯りは静かに準備を終えようとしていた。

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