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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第90話



 雨が来る前に、帰り道を太くする。


 その一文は、朝の店の壁で、まだ新しい墨の匂いを残していた。


 ロイドは扉を開ける前に、その文字を見上げた。


 昨日の夜、自分で書いた言葉だ。


 黒羽が雨季前に薄板式目録――あるいは反応板のようなものを旧資材倉庫へ入れた可能性が出た。


 乾燥石の購入量は今年、例年の約二倍。


 寝かせ箱。


 赤線二本。


 水平保持。


 湿気厳禁。


 薄い金属板。


 そして、ニールが思い出してくれた小柄な男の言葉。


 雨が来る前に入れないと狂う。


 それは、ただの残置品保護の言葉には聞こえなかった。


 反応が狂う。


 調整が狂う。


 封鎖弁の動きが狂う。


 雨季前に水量が増える前提で、黒羽が何かを再調整しようとしている。


 そう考えると、ここ数日の線が一気に重くなる。


 だが、まだ断定はできない。


 だからこそ、今やるべきことは一つだった。


 帰り道を太くする。


 つまり、もし封鎖弁が再調整されたら、どこに影響が出るかを先に考える。


 どこが危ないか。


 どこで風が止まるか。


 どこで水が戻るか。


 どこへ人を近づけてはいけないか。


 どの貼り紙を増やすか。


 誰に先に知らせるか。


 それらを、雨が来る前に決める。


 ロイドは壁の文字から視線を落とした。


 作業台には、地図が広げられている。


 E三副。


 W二。


 W三。


 旧資材倉庫南側補助扉。


 市場南門倉庫。


 水路東側安全線。


 高台側排水路。


 そして、まだ大きくは印をつけられていない、いくつかの小さな排水点。


 セドが早朝から書き込んでいたものだ。


 ロイドはその細かさに、少しだけ息を呑む。


「……増えてるな」


 横でミラが答える。


「うん」


「昨日まで、E三副とW二ばっかり見てた」


「うん」


「でも、水はそこだけじゃない」


「うん」


 ミラは短く答えながら、水灯りの基準環を確認していた。


 今日は外へ出さない。


 だが、雨季仕様への調整を始める。


 湿気で反射片が曇る。


 基準環の動きが渋る。


 持ち手が濡れると滑る。


 昨日の店内試験で、いくつも問題が出た。


 風灯りも同じだ。


 湿気で油紙羽根が重くなり、反応が鈍る。


 葉脈型通風口は美しいが、湿った埃が詰まれば意味がない。


 黒羽の薄板が湿気を嫌うなら、こちらの灯りも湿気と戦わなければならない。


 ガルドは工具袋を作業台へ置き、低く言った。


「今日は紙と道具、両方だ」


 ロイドは頷く。


「封鎖弁の影響範囲と、雨季仕様」


「そうだ」


「忙しいな」


「雨は待たねぇ」


 その言葉に、店内が少し静まった。


 雨は待たない。


 黒羽も、待たない。


 だからこちらも、焦らず急ぐ必要がある。


 矛盾しているようだが、今のロイドにはその感覚が少し分かる。


 慌てない。


 でも、手は止めない。


 セドが作業台の前に立った。


「本日の確認を行います」


 ロイドは息を整えた。


「頼む」


「一、封鎖弁再調整が行われた場合の影響範囲を整理する。二、E三副、W二、W三に限定せず、水路側の小排水点や高台側排水路も確認対象へ入れる。三、風灯り・水灯りの雨季仕様を店内で検討する。四、防湿材の管理を開始する。五、住民向け注意文を雨季前仕様へ更新する。六、現場へは出ない。七、全員帰還」


 ロイドは最後の一文に頷いた。


「店内でも全員帰還」


「はい」


 セドは当然のように答える。


 ミラが言う。


「戻る練習」


「そうだな」


 エルマは椅子で茶を飲みながら、静かに地図を見ていた。


「雨季前は、地図が変わるんだよ」


「地図が?」


 ロイドが聞く。


「水の流れが変わる。風の抜け方も変わる。乾いている時は安全な場所が、雨の前には危なくなる」


 エルマは地図の端を指差した。


「特に高台側の排水路。普段は細い流れでも、雨季前の調整で圧が変われば、そこに先に兆候が出ることがある」


 セドの筆が止まる。


「高台側」


「そう。低い場所ばかり見ていると、見落とす」


 ロイドは少し眉を寄せた。


「でも、今まで危なそうなのはE三副とか、旧測量坑道側でしたよね」


「本命はね」


 エルマは頷く。


「でも、再調整の影響は本命の場所だけに出るとは限らない。弁を締めたり緩めたりすれば、余った圧や風が逃げ道を探す」


 ミラが短く言う。


「逃げる水」


「そう」


 ガルドも地図を覗き込む。


「高台側排水路は、安全試験で使った場所の延長だな」


「はい」


 セドが答える。


「第77話……ではなく、以前の現場周辺手前試験で水灯りを使用した場所です」


 ロイドは思わずセドを見た。


「今、何か変な言い方しなかった?」


「いえ」


 セドは真顔だった。


 ミラが小さく首を傾げたが、すぐに地図へ視線を戻した。


 セドは続ける。


「あの地点は安全区域に近いですが、弱い戻りの癖がありました。再調整時に影響が出る可能性があります」


 ロイドは地図を見つめる。


 高台側排水路。


 以前、水灯りで通常水流と弱戻り模擬を見た場所。


 あの時は安全だった。


 だが、今は雨季前。


 黒羽が封鎖弁を再調整するなら、そこにも影響が出るかもしれない。


 危険は、いつも同じ顔ではない。


「じゃあ今日は、そこも含めて考える」


「はい」


 セドが頷いた。


 


 午前中は、影響範囲の整理から始まった。


 まず、封鎖弁が再調整されると仮定する。


 ただし、何がどう動くかは分からない。


 E三副。


 W二。


 W三。


 南側補助扉。


 旧資材倉庫。


 それらは黒羽の中心に近い。


 だが、水と風は中心だけに留まらない。


 エルマが昔の地図を広げる。


 カイゼルが残したという水路の癖の覚書も、簡略な形で並べられた。


 ロイドには難しい。


 線が多い。


 水路。


 排水溝。


 通風孔。


 古い冷却路。


 封鎖されたはずの枝道。


 統合された記録。


 消された扉。


 見れば見るほど、王都の下にもう一つの王都があるようだった。


「……これ、全部覚えてたんですか」


 ロイドが聞くと、エルマは首を横に振った。


「全部じゃないよ。覚えているのは、怖かった場所だけ」


「怖かった場所?」


「ああ。ミラベルとカイゼルが、何度も確認した場所。風が戻りにくい場所。水が鳴く場所。足元が冷える場所」


 ミラが小さく言う。


「怖さの地図」


「そうだね」


 セドが記録する。


 怖さの地図。


 水路の癖、風の戻り、足元冷却。


 ロイドは地図を見て、静かに頷いた。


 怖さは、情報だ。


 マイラが昨日まで何度も教えてくれたこと。


 水路沿いで「怖い」と書いたこと。


 それが今、十年前の地図とも繋がる。


「E三副を締め直した場合」


 ガルドが言った。


「水はどこへ逃げる」


 エルマは地図を指でなぞる。


「本来なら、東水路側へ逃げる。でもそこが詰まれば、高台側の細い排水へ圧が上がる可能性がある」


「細い排水」


 セドが印をつける。


「高台側排水路延長地点、H一」


「H一?」


 ロイドが聞く。


「仮称です」


 セドが答える。


「高台側の第一確認点として記録します」


 ミラが地図に小さく書く。


 H一。


 名前がつく。


 また一つ、見えなかった場所が地図へ戻る。


「H一は、安全区域では?」


 ロイドが聞く。


「普段は安全です」


 セドは答える。


「ですが、再調整時の影響点として注意します」


 エルマが頷く。


「危ない場所ではなく、危なくなり始める場所だね」


 ロイドはその言葉を繰り返した。


「危なくなり始める場所」


 ミラが短く言う。


「戻る合図」


「そうだな」


 H一。


 高台側排水路延長地点。


 危険の中心ではない。


 だが、危険が近づいた時、最初に揺れるかもしれない場所。


 そこを見られれば、早く戻れる。


 セドは方針紙に書き加える。


 H一、雨季前観測候補。


 ただし現場確認は後日。


 今日は地図整理のみ。


 


 昼前、マイラとバーツが店へ来た。


 水路側の住民向け注意文を更新するためだ。


 これまでは、旧い入口へ近づかないことが中心だった。


 しかし雨季前の今、注意すべきことが増える。


 風が止まる。


 水が戻る。


 貼り紙が濡れて読めなくなる。


 子供たちが雨前の水路を面白がる。


 ロイドはマイラに、H一の話をした。


「高台側にも?」


 マイラは少し驚いた顔をした。


「はい。普段は安全でも、雨季前の水の動きで変わる可能性があります」


「じゃあ、水路沿いだけじゃなく、高台の子供たちにも言わないと」


 ロイドは頷く。


「お願いします」


 マイラは少し考え、紙を手に取った。


 自分で書こうとしている。


 ロイドは黙って見守った。


 マイラはゆっくり書いた。


 雨の前、水路と排水路には近づかない。


 水が少なくても安全とは限りません。


 風が止まったら、大人を呼ぶ。


 水が戻ったら、すぐ戻る。


 怖いと思ったら、戻る。


 書き終え、彼女は少し不安そうに顔を上げた。


「どうでしょう」


 ミラが先に言った。


「いい」


 ロイドも頷く。


「すごくいいです」


 セドが補足する。


「短く、行動が明確です」


 マイラはほっとしたように息を吐いた。


「怖いと思ったら戻る、は入れたかったんです」


「大事です」


 ロイドは言った。


 バーツが短く頷く。


「貼る」


 マイラは笑った。


「はい。貼ります」


 新しい雨季前注意文。


 これもまた、帰り道を太くする一本の線だった。


 


 午後は、風灯りと水灯りの雨季仕様だった。


 ミラは、風灯りの羽根を外して作業台に並べた。


 油紙羽根。


 細い横風用。


 丸い下方風用。


 昨日の湿気試験で、どちらも少し反応が鈍った。


 ガルドは小さな防湿処理液を出す。


「使いすぎるなよ」


「うん」


「塗りすぎると重くなる」


「うん」


「乾かす時間もいる」


「うん」


 ミラは丁寧に頷く。


 急がない。


 しかし、手は止めない。


 細い筆で、羽根の端だけに薄く処理液を乗せる。


 ロイドはそれを見ながら、思わず息を止めていた。


 小さな作業。


 だが、そこに集中が詰まっている。


 風灯りは、ただの試作品ではなくなりつつある。


 雨季前の風を読むための灯り。


 戻る合図を早く拾うための灯り。


 ミラは羽根を乾燥箱に置いた。


 乾燥箱は、今日ガルドが即席で作ったものだ。


 店の端材と小さな乾燥石を使っている。


 黒羽の乾燥石と混同しないよう、店内管理番号がついていた。


 ロイドは番号札を見て、苦笑する。


「本当に細かくなったな」


 セドが答える。


「必要です」


「はい」


 水灯りの方は、反射片の曇り止めが中心だった。


 ミラは反射片を磨き、防湿布の小片を収納部に入れる。


 持ち手には、濡れた手でも滑らないよう、細い溝を追加する案が出た。


 ガルドが実際に削る。


 ミラが握る。


「まだ滑る」


「もう少し深くするか」


「深すぎると痛い」


「そうだな」


 ロイドも握ってみた。


「俺の手だと、これくらいがいい」


 バーツも握る。


「濡れると滑る」


「やっぱり?」


「もっと粗く」


 ミラは頷く。


「使う人で違う」


「そうだな」


 ロイドは言った。


「水灯りはバーツさんや処理場の人が使う可能性が高い。なら、その手に合わせた方がいい」


 ミラは素直に頷いた。


「うん」


 使う人も、作る。


 昨日の言葉が、ここでも生きている。


 道具だけではない。


 使う人の手。


 怖さ。


 濡れた状況。


 戻る判断。


 それら全部を含めて、道具になる。


 


 夕方、ルイスから短い覚書が届いた。


 セドが開く。


「王城側より。雨季前の水路調整記録を確認。E三副の再調整が行われた場合、東水路側だけでなく、高台側排水路の圧変化を確認する旧記録あり」


 ロイドは顔を上げる。


「H一……」


「はい」


 セドも少し驚いた声になる。


「さらに、旧記録では高台側第一排水点を“H一”と略記していた形跡あり」


 店内が静まった。


 ミラが地図を見る。


 自分たちが仮称でつけたH一。


 それが、旧記録にもあった。


 偶然ではない。


 十年前以前から、そこは確認点だった。


 名前が、戻った。


 ロイドは小さく息を吐いた。


「また、戻ったな」


「はい」


 セドは続ける。


「H一は、危険地点ではなく予兆確認点。異常時は進入せず撤退すること、と旧記録にあり」


 ミラが短く言う。


「見えたら戻る場所」


「はい」


 ロイドは壁の紙を見る。


 灯りが揺れたら、進まず戻る。


 一人で確かめない。


 店は、戻る場所。


 H一もまた、戻るための場所だった。


 エルマが静かに笑った。


「カイゼルらしいね」


「カイゼルさん?」


「危ない場所に入る前に、予兆を見る場所を決めていた。見えたら戻る。それをちゃんと記録していたんだ」


 ロイドは胸が熱くなった。


 十年前の記録。


 消えかけていた名前。


 それが今、戻ってきた。


 高台側排水路延長地点。


 H一。


 予兆確認点。


 異常時は進入せず撤退。


 まるで、今のロイドたちのために残された言葉のようだった。


「ルイス様に返そう」


 ロイドが言った。


「H一、こちらでも仮称として出ていたって」


「はい」


 セドが頷く。


「旧記録と外側地図が一致したことを報告します」


 ミラが言う。


「H一、戻った」


「うん」


 ロイドは頷いた。


「戻った」


 


 夜。


 店の壁には、今日の成果が貼られた。


 封鎖弁再調整時の影響範囲。


 E三副。


 W二。


 W三。


 南側補助扉。


 そして、H一。


 高台側第一排水点。


 予兆確認点。


 異常時は進入せず撤退。


 雨季前注意文。


 風灯り雨季仕様、防湿処理中。


 水灯り雨季仕様、反射片曇り止め、滑り止め調整。


 防湿材管理開始。


 ロイドは壁を見上げた。


 また紙が増えた。


 だが、今日は不思議と重すぎなかった。


 むしろ、少し道が太くなったように見えた。


 危険な場所が増えたのではない。


 戻るために見ておく場所が増えたのだ。


「H一、よかったな」


 ロイドが言う。


 ミラが頷く。


「うん」


「旧記録にもあった」


「うん」


「カイゼルさんが見てた場所なんだな」


「うん」


 ミラは地図のH一を指で軽く触れた。


「見えたら戻る場所」


「そうだな」


 ガルドが低く言う。


「次は、H一の確認か」


「はい」


 セドが答える。


「ただし、雨季仕様の道具調整後、安全手順を決めてからです」


「分かってる」


 ガルドは壁を見る。


「帰り道が足りるまで、入らない」


 ミラが言う。


「えらい」


「今日は素直に受け取る」


 ロイドは少し笑った。


 エルマも柔らかく笑う。


 湿った風が窓を揺らした。


 外では、まだ雨は降っていない。


 だが、雲は厚くなっている。


 雨季は近い。


 黒羽も動いている。


 封鎖弁の再調整が本当に行われるなら、時間は多くない。


 それでも、今日、帰り道は少し太くなった。


 H一という予兆確認点が戻った。


 雨季前の注意文が増えた。


 風灯りと水灯りは湿気に備え始めた。


 ロイドは壁の下に、新しい一文を書いた。


 危ない場所ではなく、戻る合図を見る。


 ミラがそれを見て、頷いた。


「いい」


 セドも頷く。


「明日の方針にします」


 ロイドは灯りを少し落とした。


 店の中が柔らかく暗くなる。


 保管箱の中で、風灯りと水灯りが静かに眠っている。


 乾燥箱の中では、羽根がゆっくり乾いている。


 外では、雨を含んだ風が王都を撫でている。


 黒羽は雨の前に、何かを整えようとしている。


 ロイドたちは雨の前に、帰り道を太くしている。


 同じ雨季前。


 同じ水と風。


 けれど、向かう先は違う。


 閉じるための調整か。


 帰るための準備か。


 その違いを見失わないように、ロイドの店は今夜も灯りを残していた。

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