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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第89話



 朝の空気に、湿り気が混じっていた。


 ロイドは店の扉を開ける前に、それに気づいた。


 まだ雨は降っていない。


 通りの石畳も乾いている。


 けれど、風の奥に水の匂いがある。


 水路から上がってくる冷たい匂いとは少し違う。


 もっと広く、街全体へ薄く膜をかけるような湿気。


 雨季が近い。


 その気配だった。


 ロイドは空を見上げた。


 薄い雲が、王都の屋根の上をゆっくり流れている。


 日差しはある。


 しかし、乾いた明るさではない。


 灯り石の表面にも、ほんの少し湿気が乗っているように見えた。


「……湿ってるな」


 呟くと、横からミラが答えた。


「うん」


「嫌な感じ?」


「少し」


「水路?」


「雨季前」


 ミラは短く言った。


 その声に、ロイドは昨日の壁の紙を思い出した。


 薄板式目録。


 水平保持。


 湿気厳禁。


 寝かせ箱。


 赤線二本。


 検分時期、雨季前と秋前。


 雨季前。


 薄い金属板。


 湿気を嫌う反応板。


 黒羽がそれを運ぶなら、今のこの季節は重要な意味を持つ。


 湿気が増える前に、旧資材倉庫へ入れる。


 あるいは、湿気が増える前に、何かを調整する。


 ロイドは少し顔をしかめた。


「雨季前だから、急いでるのか」


 ミラがこちらを見る。


「黒羽?」


「分からない。でも、薄板が湿気に弱いなら、雨季前に運ぶ理由になる」


「うん」


「逆に、雨季前に調整しないといけない何かがあるのかもしれない」


「封鎖弁?」


 ロイドは頷く。


「可能性、だな」


 最近、セドの口癖が移ってきた気がする。


 断定しない。


 可能性。


 見えたことだけ。


 それは少しもどかしい。


 けれど、必要だった。


 ミラは店の中へ戻り、保管箱を見る。


 風灯りと水灯りが眠っている。


 湿気は、こちらの道具にも影響する。


 風灯りには油紙の羽根がある。


 水灯りはそもそも水を見るための道具だが、反射片や基準環は湿気で鈍るかもしれない。


 黒羽の薄板だけの問題ではない。


 雨季前の空気そのものが、次の段階の試練になる。


 セドが作業台に紙を並べた。


「本日の確認を行います」


 ロイドは頷いた。


「頼む」


「一、薄板式目録に使われる可能性のある防湿材、乾燥石、吸湿布の流通を確認する。二、商業組合の購入記録を王城側に確認する。三、配達人ニールさんに箱の匂いや梱包状態を追加確認する。四、雨季前に薄板を運ぶ理由を整理する。五、薄板が封鎖弁の再調整に使われる可能性を検討する。ただし断定しない。六、南側補助扉へ接近しない。七、全員帰還」


 ガルドは腕を組み、湿った外の空気を嫌そうに見た。


「防湿材か」


「はい」


 セドが答える。


「薄板式目録が魔導反応を記録する金属板なら、保管や運搬に防湿材が必要な可能性が高いです」


 ガルドは頷く。


「工房でも使う。乾燥石、吸湿布、防錆紙。ものによって匂いが違う」


 ロイドは少し驚く。


「匂いで分かるんですか」


「慣れればな」


「ガルドさん、匂いも見るんですね」


「見るんじゃねぇ。嗅ぐんだ」


 ミラが短く言う。


「匂いの灯り」


「何でも灯りにするな」


 ガルドは顔をしかめた。


 しかし、否定しきれない空気が店内に流れた。


 匂いも、情報だ。


 水路の匂い。


 湿気の匂い。


 防湿材の匂い。


 それもまた、帰り道を描く材料になる。


 エルマが静かに言った。


「カイゼルも、匂いをよく気にしてたよ」


「水の?」


 ロイドが聞く。


「ああ。水そのものの匂いもあるけど、湿った金属、腐った木、止まった空気。それぞれ違う。危ない場所は、音だけじゃなく匂いも変わる」


 ミラが小さく頷く。


「覚える」


「無理に全部じゃなくていい」


 エルマは優しく言った。


「でも、気にするだけで違う」


 ロイドは今日の方針紙に一行足した。


 匂いも情報。


 それを見て、ミラが頷く。


「いい」


 


 午前中、ニールがベルトと一緒に来た。


 昨日よりも少し慣れた顔になっている。


 とはいえ、店へ入る時にはまだ緊張していた。


 無理もない。


 自分が運んだ荷が、黒羽の動きに関わっているかもしれない。


 責めないと言われても、心は重いだろう。


 ロイドは最初に言った。


「今日も、責めるためじゃありません」


 ニールは小さく頷く。


「はい。分かってます」


「思い出せる範囲で大丈夫です」


 セドが続ける。


「分からないことは分からないで構いません」


「はい」


 ガルドが布を何種類か作業台に置いた。


 吸湿布。


 防錆紙。


 乾燥石を包む紙袋。


 それぞれに独特の匂いがある。


 ロイドには、どれも少し乾いた薬草と石粉の匂いに感じられた。


 だが、ガルドは違いが分かるらしい。


「ニール。箱を運んだ時、こんな匂いはしたか」


 ニールは少し戸惑いながら、順番に匂いを確かめた。


 吸湿布。


 首を傾げる。


 防錆紙。


 少し眉を寄せる。


 乾燥石の紙袋。


 そこで、表情が変わった。


「……これ、近いかもしれません」


 店内が静まる。


 セドが筆を取る。


「近い、ですね。断定ではなく」


「はい。はっきり同じとは言えないです。でも、箱を持った時、乾いた粉っぽい匂いが少ししました」


 ガルドが頷く。


「乾燥石だな」


「可能性です」


 セドがすぐ言う。


 ガルドは少し面倒そうに手を振った。


「分かってる」


 ニールは続けた。


「あと、箱の底が冷たかったです」


「冷たい?」


 ミラが反応する。


「はい。木箱なのに、底の方だけひんやりしていて」


 ガルドとミラが顔を見合わせる。


 ロイドは二人を見る。


「何かある?」


 ガルドが低く言った。


「金属板が底に近いか、内側に金属枠がある」


 ミラが頷く。


「薄板を固定」


「乾燥石と金属枠。かなりそれっぽいな」


 セドが記録する。


 追加証言。


 乾燥石に近い匂い。


 箱底部に冷感。


 金属枠または薄板固定の可能性。


 断定不可。


 ロイドはニールへ聞いた。


「箱を受け取った時、依頼した人は何か確認しましたか」


「はい。赤線が上に来ているか見ていました。あと、箱を軽く叩いて……音じゃなくて、揺れを確認するみたいに」


「揺れ」


 ミラの目が細くなる。


「中の板がズレてないか」


 ガルドが頷く。


「だろうな」


 セドがさらに書く。


 依頼人、赤線確認。


 軽く叩いて揺れ確認。


 内部固定状態を確認した可能性。


 ロイドは深く息を吐いた。


 箱の中身が少しずつ見えてくる。


 開けていないのに。


 追っていないのに。


 ニールが覚えていた小さな感覚が、道を照らしている。


「ニールさん」


 ロイドは言った。


「すごく助かりました」


 ニールは少し困ったように笑った。


「俺、運んだだけなのに」


「運んだ人だから分かることがあります」


 ミラが短く言う。


「手の記録」


「手の記録?」


 ニールが聞き返す。


「持った手が覚えてる」


 ニールは自分の両手を見た。


 少しの沈黙。


 そして、小さく頷いた。


「……そうかもしれません」


 ロイドは、その沈黙を急がせなかった。


 ニールが自分の手を責めるのではなく、記録として受け止められるようになること。


 それも、帰り道の一つだと思った。


 


 昼前、王城からルイスの覚書が届いた。


 今日は早い。


 セドが開くと、そこには乾燥石に関する記録があった。


「王城側より。王都商業組合の購入記録を確認。雨季前の過去五年、乾燥石および防錆紙の購入量が増加。用途欄は、旧資材倉庫残置品保護」


 ロイドは眉を寄せる。


「旧資材倉庫の残置品保護」


「はい」


 セドは続ける。


「ただし、旧資材倉庫は封鎖状態であり、通常の残置品保護に必要な量を超過している可能性。特に今年は例年の約二倍」


 ガルドが低く言う。


「二倍?」


「はい」


「何か増えたな」


 セドは読み続ける。


「購入先は商業組合傘下の資材商。納品先は市場南門倉庫。そこから先の搬送記録は簡略化され、個別配送先は記載なし」


 ロイドは壁の地図を見る。


 市場南門倉庫。


 市場通り。


 旧資材倉庫南側。


 繋がる。


「市場南門倉庫から、寝かせ箱が出てる可能性」


 ロイドが言う。


「はい」


「今年は乾燥石が二倍」


「はい」


「薄板も二倍?」


「可能性があります」


 ミラが短く言う。


「何か、多く動かす」


 ガルドが腕を組む。


「雨季前に再調整する気かもしれねぇな」


 セドがその言葉を記録する。


 封鎖弁再調整の可能性。


 根拠、雨季前、乾燥石増加、薄板式目録、南側補助扉への搬入。


 断定不可。


 ロイドは少し声を低くする。


「再調整って、何を?」


 ガルドは地図を見る。


「雨季になると水量が増える。水量が増えれば、水路の圧が変わる。封鎖弁を使うなら、その前に反応を合わせ直す必要があるかもしれん」


 ミラが頷く。


「水が増える前」


「そうだ」


 エルマが目を伏せる。


「十年前の事故も、雨季前だった」


 店内が静まった。


 ロイドはエルマを見る。


「そうなんですか」


「ああ。雨が増える前、冷却路の調整が増える時期だった」


 エルマの声は、少し遠くを見ていた。


「水が増える前に、通風と排水の調子を見る。そういう時期だった」


 セドが静かに記録する。


 十年前事故時期、雨季前調整期。


 冷却路・通風路の確認増加。


 ロイドの胸が重くなる。


 雨季前。


 調整。


 薄板式目録。


 封鎖弁。


 黒羽が今、同じ季節に何かをしようとしている。


 偶然とは思えない。


 でも、断定しない。


 だからこそ、急がずに線を重ねる。


 


 午後、風灯りと水灯りの湿気確認が行われた。


 本来、今日は黒羽の荷を追う日だった。


 だが、雨季前の湿気が絡むなら、こちらの道具も確認しておく必要がある。


 店内試験だけ。


 外へは出ない。


 ガルドが濡れ布を吊るし、湯気を少しだけ立てる。


 湿った空気が作業台に流れる。


 風灯りの葉脈型通風口から湿気が入り、内部の羽根が少し鈍る。


 ミラは目を細めた。


「遅い」


「湿気で油紙が重くなるか」


 ガルドが言う。


「油紙でも?」


「完全じゃねぇ」


 ロイドが見て、正直に言う。


「昨日より分かりづらい」


 ミラはすぐに頷く。


「記録」


 セドが書く。


 風灯り、湿気環境で反応鈍化。


 油紙羽根、追加防湿処理必要。


 次に水灯り。


 水灯りは水に近い道具だが、湿気で反射片が曇ると視認性が落ちる。


 基準環も、わずかに動きが渋い。


 ミラは指先で触れ、眉を寄せた。


「曇る」


「現場で使うなら拭き取り布が必要だな」


 ガルドが言う。


「防湿布?」


「防湿布は黒羽の荷にも関係する。こちらも使うが、管理する必要がある」


 ロイドは頷く。


「同じ材料を使うってことか」


「そうだ」


 エルマが静かに言う。


「同じ材料でも、目的が違う」


 ミラが水灯りを見つめる。


「帰るため」


「うん」


 ロイドは頷いた。


「こっちは帰るため」


 湿気は、黒羽だけに関係するわけではない。


 こちらの灯りにも影響する。


 雨季前の戦いは、道具にも、記録にも、人にも負担をかける。


「明日から、店内に乾燥箱を作るか」


 ロイドが言う。


 ガルドが頷く。


「必要だな。風灯りと水灯りの保管用。それと、防湿材の出入りも記録しろ」


「自分たちの防湿材も?」


「当然だ。黒羽の乾燥石と混ざると面倒だ」


 セドが記録する。


 店内乾燥箱作成。


 防湿材管理番号。


 使用目的明記。


 黒羽関連資材との混同防止。


 ロイドは少し苦笑した。


「どんどん店の管理が細かくなるな」


「必要」


 ミラが言う。


「うん。必要だな」


 


 夕方、ニールから追加の小さな報告が届いた。


 本人ではなく、ベルトが持ってきた。


 ニールが仕事中に、ふと思い出したらしい。


 箱を受け取った時、依頼人の小柄な男がこう言った。


 「雨が来る前に入れないと狂う」


 ロイドはその言葉を読んだ瞬間、背筋が冷えた。


「狂う」


 セドも表情を硬くする。


 ガルドが低く言う。


「反応が狂う、か」


 ミラが言う。


「調整板」


「可能性があります」


 セドはすぐに書く。


 小柄な男の発言。


 雨が来る前に入れないと狂う。


 薄板式目録、反応板、封鎖弁再調整との関連可能性。


 ロイドは紙を見つめる。


 雨が来る前に入れないと狂う。


 それは、残置品保護の言葉ではない。


 目録を守るだけなら、狂うとは言わないかもしれない。


 反応が狂う。


 調整が狂う。


 封鎖弁の動きが狂う。


 そういう言葉に聞こえる。


「……これ、かなり大きいな」


 ロイドが言う。


「はい」


 セドが答える。


「ただし、発言の正確性は確認が必要です」


「ニールさんの記憶だもんな」


「はい」


「でも、戻してくれた」


「はい」


 ミラが短く言う。


「手の記録と、耳の記録」


「そうだな」


 ロイドは頷いた。


 運んだ手。


 聞いた耳。


 その記憶が、黒羽の荷を少しずつ見せている。


 


 夜、店の壁にはまた紙が増えた。


 乾燥石、今年二倍。


 市場南門倉庫。


 寝かせ箱。


 薄板式目録。


 魔導反応を記録する薄い金属板の可能性。


 湿気厳禁。


 雨季前。


 十年前事故も雨季前調整期。


 小柄な男の発言。


 雨が来る前に入れないと狂う。


 封鎖弁再調整の可能性。


 断定不可。


 ロイドはその最後の言葉を見て、少しだけ笑った。


「断定不可、が増えたな」


「必要です」


 セドが答える。


「分かってる」


「ですが、可能性はかなり強まりました」


「うん」


 ロイドは壁を見る。


 黒羽が、雨季前に薄板を運んだ。


 乾燥石の購入量が増えた。


 薄板式目録は魔導反応を記録する金属板の可能性がある。


 小柄な男は、雨が来る前に入れないと狂うと言った。


 それらを重ねれば、封鎖弁の再調整という線が浮かぶ。


「次は、封鎖弁が再調整されると何が起きるか、だな」


 ガルドが言う。


 セドが頷く。


「はい。水量増加時にどの弁が影響を受けるか確認が必要です」


 ミラが言う。


「E三副、W二、W三」


「はい」


 ロイドは深く息を吐いた。


「いよいよ、また水路に近づく話になるな」


「ですが、まだ準備段階です」


 セドが言う。


「分かってる。帰り道が足りるまで、入らない」


 ミラが頷く。


「うん」


 エルマは、壁の紙を見つめながら静かに言った。


「雨が来る前に、向こうも動く。なら、こちらも雨が来る前に帰り道を太くしなきゃね」


 ロイドは頷いた。


「はい」


 店の外では、湿った風が吹いていた。


 空はまだ泣いていない。


 けれど、雨の気配は確かに近づいている。


 黒羽は、その雨の前に何かを整えようとしている。


 封鎖弁か。


 南側補助扉か。


 旧測量坑道か。


 まだすべては見えない。


 だが、箱の中身は少しずつ名前を持ち始めた。


 薄板式目録。


 反応板。


 封鎖弁再調整の可能性。


 ロイドは壁の下に、新しい一文を書いた。


 雨が来る前に、帰り道を太くする。


 ミラがそれを見て、静かに頷いた。


「いい」


 セドも頷く。


「明日の方針にします」


 ガルドが低く言う。


「忙しくなるな」


「はい」


 ロイドは答えた。


「でも、急がない」


 エルマが微笑む。


「急がず、太く」


 夜の店に、灯りが揺れる。


 湿った風の中で、その光は少しだけ滲んで見えた。


 雨季が近づいている。


 黒羽も動いている。


 けれど、ロイドの店もまた、戻るための灯りを少しずつ増やしていた。


 雨に消されないように。


 記録に埋もれないように。


 誰かが閉じ込められる前に。


 帰り道を、太く、確かに描くために。

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