第88話
軽い木箱二つ。
その言葉は、南側補助扉と同じくらい、ロイドの頭に残っていた。
検分日前々日。
小柄な手袋の男。
腰の箱。
軽い木箱二つ。
南側荷置き場手前まで配達。
灰色外套が受け取り。
その先へ消えた。
箱は軽かった。
音はしなかった。
傾けるなと言われた。
水でも金属でもなさそうだと、配達人のニールは言った。
だが、ロイドはその言葉をそのまま受け取れずにいた。
水でも金属でもない。
本当にそうか。
配達人が持った感覚としては、そうだったのだろう。
しかし、箱の中身は開けていない。
軽くて、音がしないもの。
傾けるなと言われるもの。
旧資材倉庫の南側補助扉へ運ばれたもの。
黒羽が、検分日前々日に入れたもの。
その正体を知りたい。
とても知りたい。
だが、箱を追うわけにはいかない。
補助扉を探すわけにもいかない。
なら、外側から絞るしかない。
ロイドは朝の作業台で、木箱二つと書かれた紙を見つめていた。
横には、昨日書き足した一文。
消された扉にも、名前を戻す。
その下に、ミラが小さく書いた言葉がある。
荷にも帰り道を描く。
ロイドはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「……今日は、荷か」
ミラが答える。
「うん」
「箱を開けずに、中身を考える日」
「うん」
「難しいな」
「難しい」
ミラは短く答えた。
だが、その目は少しだけ動いている。
彼女はもう考え始めているのだろう。
重さ。
音。
傾けるなという指示。
木箱の大きさ。
運んだ人数。
誰が受け取ったか。
どこへ入ったか。
作る者は、ものの扱われ方から中身を想像する。
それは、ロイドにはまだ難しい。
けれど、ミラやガルドには分かることがあるはずだ。
セドが作業台に紙を並べた。
「本日の確認を行います」
ロイドは頷いた。
「頼む」
「一、軽い木箱二つの正体を、外側情報から絞る。二、箱を追跡しない。三、南側補助扉へ接近しない。四、配達人、露店、工房、王城帳簿の情報を重ねる。五、箱の中身について断定しない。六、黒羽が記録や記憶を消す前に、運搬経路と依頼元を残す。七、全員帰還」
ガルドが腕を組む。
「箱を追わずに箱を見る、か」
「はい」
セドが答える。
「面倒だな」
「はい」
「だが、やるしかねぇ」
ミラが短く言う。
「えらい」
「今日は早いな」
「朝だから」
「意味が分からねぇ」
ロイドは少し笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
今日は、箱の正体を絞る日だ。
南側補助扉の存在が見えたことで、黒羽の中継口はかなり現実味を帯びた。
そこへ何が入ったか。
それが分かれば、黒羽が何を準備しているのか見えてくるかもしれない。
風灯りと水灯り。
帰り道を守る道具。
旧測量坑道。
封鎖弁。
消えた七人。
それらの線が、南側の小さな木箱へ向かっているように感じられた。
最初に来たのは、ニールだった。
昨日よりも顔色はましだった。
ただし、一人ではない。
ベルトが一緒にいる。
それだけで、ロイドは少し安心した。
「来てくれてありがとうございます」
ロイドが言うと、ニールは小さく頭を下げた。
「いえ。昨日、帰ってから思い出したことがあって」
店内の空気が少し引き締まる。
セドが筆を取る。
「ゆっくりで大丈夫です」
ニールは頷いた。
「箱、軽かったんですけど……変に硬かったんです」
「硬い?」
「持った時、木箱の中で何かが動く感じはなかったです。布とか紙なら、少し柔らかい感触があると思うんですけど。中身が箱の中でぴったり固定されてるような感じで」
ミラが顔を上げる。
「ぴったり」
「はい」
「箱の大きさは?」
ニールは手で示す。
両腕で抱えられるくらい。
深さは浅い。
普通の工具箱より広く、でも資材箱より軽い。
「薄い?」
ミラが聞く。
「はい。平たい感じでした」
セドが記録する。
木箱二つ。
平たい。
軽い。
中身固定感。
傾けるな。
音なし。
「傾けるなと言われた時、どういう言い方でしたか」
セドが聞く。
ニールは少し考える。
「絶対に斜めにするな、ではなく……水平に持て、でした」
ミラの目が少し細くなる。
「水平」
ガルドも反応した。
「水平指定か」
ロイドが二人を見る。
「何か分かる?」
ガルドは腕を組んだ。
「液体なら傾けるなと言う。壊れ物でも言う。だが、軽くて平たくて水平指定なら、板物の可能性がある」
「板?」
「薄い板だ。魔導板、記録板、反応板、そういう類い」
ミラが頷く。
「紙じゃない」
「紙なら軽いが、水平指定までは珍しい。束なら揺れる。固定感があるなら、薄い板を枠にはめていたかもしれん」
ロイドは胸が少し高鳴る。
「金属板?」
ニールが慌てて言う。
「でも、金属みたいな重さじゃなかったです」
ガルドは頷く。
「厚い金属板ならな。薄い魔導金属板なら軽い。あるいは、木と金属を貼り合わせた板かもしれん」
セドが記録する。
可能性。
薄い板状物。
魔導板、記録板、反応板。
軽量金属または複合材。
断定不可。
ミラは静かに言う。
「水平じゃないと、歪む?」
「そうだ」
ガルドが答える。
「歪むと使えない板もある。特に反応を見る板ならな」
ロイドは風灯りと水灯りを思い出した。
反射板。
基準環。
振動板。
薄い板は、反応に関わる。
黒羽が南側補助扉へ入れた箱が、そういう板だとしたら。
それは、何かを観測するためか。
操作するためか。
記録するためか。
「……封鎖弁の操作具に関係する?」
ロイドが呟く。
セドがすぐに答える。
「可能性はありますが、断定できません」
「うん」
「ただし、封鎖弁補助操作具にも、反応板や伝達板に相当する部品が存在する可能性はあります」
ミラが短く言う。
「黒羽の道具の板」
ガルドが低く唸る。
「もしそうなら、旧資材倉庫で道具の組み直しをしている可能性がある」
店内が静まる。
道具の組み直し。
黒羽が次に何かを動かす準備。
ロイドは拳を握り、開いた。
「まだ、外側から」
「はい」
セドが頷いた。
「ニールさん、他に覚えていることは?」
ニールは少し考えた。
「箱に、赤い小さな印がありました」
「印?」
「角に。赤い線が二本。たぶん運ぶ向きの印だと思います」
ミラが紙に線を描く。
「こんな?」
「はい。そんな感じです」
セドが記録する。
赤線二本。
向き指定の可能性。
ロイドはニールへ頭を下げた。
「本当に助かりました」
ニールは少しだけ笑った。
「昨日、話してよかったです。思い出したら、怖くなったけど」
「怖いも情報です」
マイラの時と同じ言葉を、ロイドは自然に言った。
ニールは少し驚き、それから頷いた。
「はい」
ミラが言う。
「戻してくれて、えらい」
ニールは今度は照れたように笑った。
「ありがとうございます」
次に、ロイドたちは店から出ずに市場へ確認を戻した。
サラが来る必要はない。
こちらから使いを出すのではなく、リザへ短い確認札を送る。
赤線二本の印を見たことがあるか。
平たい木箱を運ぶ商業組合関係者を見たことがあるか。
ただし、南側へは行かない。
見に行かない。
思い出すだけ。
サラが昼前に返事を持ってきた。
息を切らさない。
走っていない。
それだけで、ロイドは少し安心した。
「リザさんからです」
紙には、リザらしい短い文字で書かれていた。
赤線二本の平箱、見たことあり。
干し果物の箱ではない。
商業組合の荷に時々ある。
買わずに通る者が持つ。
箱は横にしない。
市場では「寝かせ箱」と呼ばれている。
ロイドは読み上げ、首を傾げた。
「寝かせ箱?」
サラが補足する。
「市場の人たちが勝手にそう呼んでるそうです。立てるな、寝かせて運べって言われる箱だから」
ミラが反応する。
「寝かせて運ぶ」
ガルドが言う。
「やはり板物だな」
セドは記録する。
市場通称、寝かせ箱。
赤線二本。
商業組合荷。
横にしない、寝かせて運搬。
「リザさん、他に何か言ってました?」
ロイドが聞く。
サラは頷く。
「昔はあまり見なかったけど、ここ数年増えたって。特に雨季前と秋前」
セドの筆が止まる。
「検分時期と一致します」
ロイドは顔を引き締める。
「年二回の検分に合わせて、寝かせ箱が増える」
「はい」
ガルドが低く言う。
「検分の名目で、何かを入れてるな」
「可能性です」
セドが訂正する。
「分かってる」
ミラが紙を見る。
「箱は、検分の荷」
「検分員が見るためのものか、検分員が持ち込むものか」
ロイドが言う。
「そこが大事だな」
セドは頷いた。
「王城側の帳簿確認が必要です」
午後、王城からの覚書が届いた。
まるで、こちらの疑問を予期していたかのような内容だった。
セドが開く。
「ルイス様より。王都商業組合の検分関連帳簿に、薄板式目録という記載を発見」
ロイドは顔を上げる。
「薄板式目録?」
「はい」
セドは続ける。
「通常の紙目録とは別に、旧資材倉庫残置品の状態確認に用いる補助記録媒体と記載。材質詳細なし。運搬注意、水平保持、湿気厳禁」
店内が静まった。
水平保持。
湿気厳禁。
軽い平箱。
赤線二本。
寝かせ箱。
「繋がったな」
ロイドが言う。
「かなり近づきました」
セドが答える。
「ただし、薄板式目録が実際に運ばれた木箱の中身と同一かは未確定です」
「うん」
ガルドが腕を組む。
「目録ってことは、記録か?」
「表向きは」
セドは紙を見る。
「ただし、ルイス様の追記があります」
ロイドは息を止める。
セドが読み上げる。
「薄板式目録は、本来、魔導反応を記録する薄い金属板であった可能性。旧東工房区画では、冷却路や通風路の反応を一時記録するために使用されていた。事故後、紙目録へ移行したはずだが、商業組合帳簿には近年も使用記録あり」
ミラが小さく言う。
「薄い金属板」
ニールは金属の重さではないと言った。
だが、薄い金属板なら軽い。
水平保持。
湿気厳禁。
反応記録。
通風路。
冷却路。
それは、水灯りや風灯りにも近い考え方だった。
ロイドは胸が熱くなるのを感じた。
「黒羽は、それを何に使う?」
誰に聞くでもなく言った。
セドは慎重に答える。
「可能性は複数あります。一つ、旧資材倉庫や坑道内の反応記録。二つ、封鎖弁操作の確認。三つ、古い記録板の再利用。四つ、黒羽の操作具に組み込む部品」
ガルドが低く言う。
「部品に使うなら、目録の名目で運べる」
「はい」
「表向きは記録媒体。実際は操作具の反応板」
「可能性です」
「分かってる」
ミラは風灯りと水灯りの保管箱を見る。
「似てる」
「何が?」
ロイドが聞く。
「見るための板。戻るためにも使える。でも、黒羽は閉じるために使う」
店内が静かになる。
同じような技術。
使い方が違う。
風灯りと水灯りは帰るため。
黒羽の薄板は、閉じるためかもしれない。
その対比が、重く落ちた。
エルマが静かに言った。
「技術に罪はない、なんて簡単には言えないね」
ロイドはエルマを見る。
「どういう意味ですか」
「同じ技術でも、誰が何のために使うかで、人を帰す灯りにも、人を閉じ込める鍵にもなる」
エルマは目を伏せる。
「カイゼルも、よく悩んでいたよ」
ミラが静かに聞く。
「カイゼルも?」
「ああ。水を読む道具は、水を守るためにも使える。でも、水を止めるためにも使える。だから、使う人を選ばなきゃならないって」
ロイドは保管箱を見た。
風灯りと水灯り。
まだ未完成の道具。
それを作る責任。
使わせる責任。
持たせない責任。
ミラが最近向き合っているものが、どれほど重いか改めて分かった。
ミラは小さく言った。
「使う人も、作る」
「うん」
ロイドは頷いた。
「道具だけじゃなくて、使い方と使う人も作る」
セドが記録に書き加える。
技術の用途分岐。
帰還支援と封鎖操作。
使用者管理の重要性。
夕方、ガルドは薄板式目録について、工房職人としての意見を出した。
「薄い金属板なら、痕跡が残る」
「痕跡?」
ロイドが聞く。
「湿気厳禁ってことは、湿気で反応が鈍るか、腐食する。運んだ箱に防湿材を入れているはずだ」
ミラが頷く。
「乾燥石」
「そうだ」
ガルドは続ける。
「乾燥石や吸湿布を一緒に入れるなら、箱を開けなくても匂いが残ることがある」
「匂い?」
「乾いた薬草みたいな匂いだ。工房で使う防湿布には独特の匂いがある」
ロイドはすぐにニールの話を思い出す。
「ニールさん、匂いのことは言ってなかった」
「聞いてないからな」
セドが頷く。
「追加確認します。ただし、本人に負担をかけすぎないように」
「はい」
ロイドは紙に書く。
追加確認。
箱に匂いはあったか。
乾燥石、吸湿布の匂い。
赤線二本。
水平保持。
セドはさらに言った。
「王城側にも、防湿材の購入記録を確認してもらいましょう。薄板式目録を運ぶなら、付随して防湿材の出入りがあるはずです」
ロイドは頷いた。
「荷そのものじゃなく、荷の周りを見る」
「はい」
ミラが言う。
「荷の影」
「そうだな」
荷を追わない。
箱を開けない。
でも、箱の周囲を見る。
防湿材。
運搬指示。
赤線。
帳簿。
人の記憶。
少しずつ、箱の中身を外から描く。
それが今日の戦いだった。
夜、店の壁には新しい紙が増えた。
軽い木箱二つ。
平たい。
水平保持。
赤線二本。
市場通称、寝かせ箱。
雨季前・秋前に増加。
商業組合荷。
王城帳簿、薄板式目録。
魔導反応を記録する薄い金属板の可能性。
通風路・冷却路の反応記録。
事故後は紙目録へ移行したはずだが、近年も使用記録あり。
用途不明。
封鎖弁操作具の部品、または反応記録板の可能性。
断定不可。
追加確認。
防湿材。
匂い。
購入記録。
ロイドはその紙を見て、長く息を吐いた。
「今日は、箱を開けずにかなり見えたな」
「はい」
セドが答える。
「でも、また次が増えた」
「はい」
「防湿材、購入記録、薄板式目録の用途」
「はい」
ミラが短く言う。
「でも、追ってない」
「うん」
「開けてない」
「うん」
「戻ってきた」
「そうだな」
ロイドは頷いた。
全員、戻っている。
ニールも。
サラも。
ベルトも。
王城のルイスも、覚書を戻した。
箱の中身はまだ分からない。
だが、闇の輪郭はまた少し変わった。
黒羽は、ただ人や噂を動かしているだけではない。
古い技術。
薄い金属板。
反応記録。
封鎖弁操作。
そういうものを、商業組合の検分名目で動かしている可能性がある。
ロイドは保管箱を見る。
風灯り。
水灯り。
帰るための道具。
そして、黒羽が運ぶ薄板。
閉じるためかもしれない道具。
技術の向きが、真正面からぶつかり始めている。
エルマが静かに言った。
「いよいよ、道具同士の話になってきたね」
ロイドは頷いた。
「はい」
「でも忘れちゃいけないよ」
エルマは続ける。
「道具の前に、人がいる」
ミラが小さく頷く。
「使う人」
「そう」
エルマは優しく言った。
「作る人。運ぶ人。使う人。閉じ込められる人。帰る人」
ロイドは、その言葉を胸に刻んだ。
黒羽の薄板も、誰かが作った。
誰かが運んだ。
誰かが使う。
そして、その結果、誰かが閉じ込められるかもしれない。
なら、そこにも帰り道を描かなければならない。
運んだニールを責めないように。
配達人を黒羽扱いしないように。
技術そのものを憎まないように。
使い方を見極める。
人を戻す。
ロイドは壁の下に、新しい一文を書いた。
箱を開けずに、道を読む。
ミラがそれを見て、頷いた。
「いい」
セドも頷く。
「今日の内容に合っています」
ガルドが低く言う。
「次は、防湿材だな」
「はい」
ロイドは頷いた。
「荷の影を見る」
夜の店に灯りが残る。
外では、風が少し湿っていた。
雨季が近いのかもしれない。
湿気を嫌う薄い金属板。
湿った風を読む風灯り。
水の揺れを見る水灯り。
それらが、遠く旧測量坑道の闇へ向かって少しずつ線を伸ばしている。
まだ入らない。
まだ開けない。
まだ断定しない。
それでも、今日も一つ、黒羽の荷に名前が戻った。
寝かせ箱。
薄板式目録。
その名が壁に残ったことで、闇はまた少しだけ、ただの闇ではなくなった。




