第87話
南側補助扉。
その言葉は、朝になってもロイドの頭から離れなかった。
旧資材倉庫外縁。
現行の封鎖台帳には記載なし。
ルイスが守った封鎖図の一部にだけ残っていた、小さな扉。
正面の封鎖柵ではない。
人目につきやすい入口でもない。
資材を入れるための、古い搬入口かもしれない。
小柄な検分員が腰の箱へ手を伸ばしたのも、その補助扉の開閉具だった可能性がある。
昨日の夜、ロイドたちはその情報を壁に貼った。
だが、太く囲まなかった。
赤く塗らなかった。
目立たせすぎなかった。
それは、今いちばん触れたくなる情報だったからだ。
触れたくなるものほど、あえて静かに置く。
それも、この店が覚えた慎重さだった。
ロイドは朝の作業台に立ち、南側補助扉と書かれた紙を見つめていた。
「……探したくなるな」
小さく呟く。
横でミラが答える。
「うん」
「ミラも?」
「見たい」
「だよな」
「でも、見ない」
「うん」
ミラは短く言って、戻る札の箱を整えた。
その手つきは落ち着いている。
だが、目は少し硬い。
作る者として。
測る者に近い感覚を持つ者として。
見えない扉があると知れば、見たくなるのは当然だ。
しかし、今は見ない。
まだ、帰り道が足りない。
セドが地図を広げた。
「本日の確認を行います」
ロイドは頷く。
「頼む」
セドは紙を読み上げる。
「一、南側補助扉そのものを探さない。二、補助扉へ至る生活動線を外側から確認する。三、過去にその付近を通った水売り、配達人、資材運びの記憶を集める。四、現行封鎖台帳にない理由を王城側へ確認する。五、黒羽による記録消し、記憶消しの兆候を警戒する。六、旧資材倉庫へ接近しない。七、全員帰還」
ガルドが腕を組む。
「記憶消し、か」
ロイドもその言葉を見る。
「記録だけじゃなく?」
「はい」
セドは静かに答えた。
「黒羽は噂を使いました。つまり、人の認識も操作しようとしています。南側補助扉が記録から消されているなら、街の人々の記憶からも“気にしないもの”として扱われている可能性があります」
エルマが椅子で目を細めた。
「あるね」
「エルマさん?」
「昔の搬入口や補助扉ってのは、生活の中では案外忘れられる。使わなくなれば、ただの壁になる。そこに誰かが荷を置けば、もう扉だと思わなくなる」
ロイドは地図を見る。
「扉なのに、扉に見えなくなる」
「そういうことだよ」
ミラが短く言う。
「黒羽向き」
「はい」
セドが頷いた。
「生活の中に隠すには最適です」
ガルドが低く唸った。
「南側外縁なら、古い資材置き場の裏手だ。今は壊れた荷車や空樽が置かれてる場所がある」
ロイドは顔を上げた。
「それ、扉を隠すには」
「ちょうどいい」
ガルドは苦々しく言った。
「だが、見に行かねぇぞ」
ミラが言う。
「えらい」
「先に言うな」
店内に小さな笑いが生まれた。
しかし、すぐに空気は戻る。
南側補助扉。
その存在は、黒羽の動線を大きく変える。
正面柵を開けずに、資材を出し入れできる。
検分員が通る表向きの道とは別に、荷物や人を動かせる。
噂流しの旅人風の男が旧資材倉庫側へ戻った理由も、そこにあるかもしれない。
「今日は、扉じゃなくて道を見る」
ロイドは言った。
「誰がそこへ行けるか。何が置かれているか。誰が気にしていないか」
セドが頷く。
「はい。生活動線の確認です」
ミラが地図の端へ書き込んだ。
扉ではなく、扉へ向かう日常。
ロイドはそれを見て、頷いた。
「いいな」
「うん」
今日も、追わずに近づく。
午前、最初に来たのはダムロだった。
水売りの荷車を店の横に停め、汗を拭いながら中へ入ってくる。
彼は昨日の検分日にも市場で三人を見ていた。
今日は、南側外縁の記憶を聞くために呼んだのだ。
「南側の古い資材置き場?」
ダムロは眉を寄せた。
「あそこは、今はほとんど通らんぞ」
「昔は?」
「昔は通った。水桶を運ぶのに近道だったからな。だが十年前の事故後、瓦礫が置かれて通りにくくなった」
セドが記録する。
「瓦礫は誰が置いたか分かりますか」
「知らん。気づいたらあった」
「いつ頃?」
「事故の後、しばらくしてからだな。最初は封鎖用かと思ったが、やけに長く置きっぱなしだった」
ロイドはセドを見る。
セドも視線だけで頷く。
気づいたらあった瓦礫。
通れなくなった近道。
扉に見えなくなった可能性。
「最近、そこへ行く人は?」
ロイドが聞く。
ダムロは少し考えた。
「配達人の一部と、古物を扱う連中だな。あと、たまに組合の者が通る」
「商業組合?」
「腕章までは見てない。でも、手袋をした小柄な男を何度か見た気がする」
店内の空気が少し硬くなる。
「いつ頃ですか」
セドが聞く。
「検分の前後だ。詳しい日までは覚えてない」
ダムロは顔をしかめた。
「悪いな。今まで気にしてなかった」
ロイドは首を横に振る。
「気にしていなかったことを、今思い出してくれただけで十分です」
ダムロは少し黙り、頷いた。
「なら、仲間にも聞いてみる。ただし、探しには行かん」
「お願いします」
ミラが短く言う。
「戻すだけ」
「分かってるよ」
ダムロは少し笑った。
「この店に来ると、戻れ戻れと言われるからな」
ロイドも笑った。
「すみません」
「いや、悪くない」
ダムロは店を出る前に、貼り紙を見た。
「命より価値あるものはない、か」
彼は小さく呟き、それから荷車を押して市場へ戻っていった。
次に来たのは、配達人の代表だった。
名をベルトと言う。
昨日まで名前を知らなかった相手だ。
ロイドは、最近になって名前を聞くことの意味を強く感じていた。
黒羽は名前を消す。
なら、こちらは名前を呼ぶ。
「ベルトさん、南側外縁の荷置き場について教えてください」
ベルトは腕を組んだ。
「あそこは荷を置きたくない場所だ」
「なぜですか」
「妙に湿ってる。木箱が傷む。それに、風が変だ」
ミラが顔を上げる。
「風?」
「抜けるんじゃなくて、吸う感じがある」
ロイドの背筋が冷えた。
風が吸う。
E三副や旧測量坑道周辺で見た、下方吸引に近い表現。
セドがすぐに記録する。
南側外縁、湿気、吸う風。
荷置き場として不評。
「それでも荷を置く人は?」
ベルトは顔をしかめた。
「いる。短時間だけな。特に灰色外套の案内がいる時は、そこへ荷を置けと言われることがある」
「誰に?」
「組合関係の者だと思う。名前は知らん」
「どんな荷ですか」
「軽い箱。中身は知らない。重そうには見えないのに、二人で運べと言われる」
ガルドが低く言う。
「中身が壊れ物か、隠し物か」
「断定しません」
セドがすぐに言った。
ガルドは渋い顔で頷く。
「分かってる」
ロイドはベルトに聞いた。
「最近もありましたか」
「検分日の前々日だったか。小さな木箱を二つ、南側の荷置き場へ運べと言われた奴がいる」
「誰が運んだか分かりますか」
「聞けば分かる。ただ、そいつを責めるなよ。仕事で運んだだけだ」
ロイドはすぐに頷いた。
「責めません」
ベルトはロイドをじっと見た。
そして、少しだけ表情を緩める。
「なら、聞いてくる。追わずに、戻すだけでいいんだな」
「はい」
「分かった」
彼は去っていった。
ロイドはその背を見送り、作業台に手を置いた。
「南側、かなり濃いな」
「はい」
セドが答える。
「湿気、吸う風、軽い箱、灰色外套の案内。補助扉の存在と整合します」
ミラが短く言う。
「でも、まだ見ない」
「うん」
ロイドは頷いた。
「まだ見ない」
昼過ぎ、王城からルイスの覚書が届いた。
セドが紙を開く。
ロイドは、無意識に息を止めていた。
「ルイス様より。旧資材倉庫外縁南側補助扉について、追加確認。十年前以前の資材搬入記録に、南側搬入口の記載あり。事故後の封鎖台帳では削除または統合処理」
ガルドが顔をしかめる。
「削除または統合?」
「はい」
セドは続ける。
「統合先は正面封鎖柵。つまり、記録上は南側補助扉が正面封鎖柵に含まれた扱いとなっている可能性」
ロイドは眉を寄せる。
「実際には別の扉なのに、紙の上では正面柵の一部になってる?」
「はい」
「それなら、点検しても見落とす」
「はい」
エルマが低く言う。
「よくある誤魔化しだよ。小さな入口を大きな入口に“含む”ことにして、個別の鍵や管理を消す」
ミラが言う。
「名前を消す」
「そう」
エルマは頷いた。
「扉の名前を消したんだ」
ロイドはその言葉に、ぞっとした。
人だけではない。
場所にも名前がある。
南側補助扉。
それを正面封鎖柵に統合すれば、個別の扉ではなくなる。
記録上、存在しなくなる。
存在しない扉なら、鍵管理も消せる。
誰が使っても、紙の上では見えない。
「黒羽らしい」
ガルドが吐き捨てるように言った。
セドはさらに読む。
「封鎖図の写しは一部のみだが、南側補助扉には旧式の滑り鍵が使われていた可能性。通常鍵ではなく、箱型の開閉具で操作する形式」
店内が沈黙した。
小柄な検分員の腰の箱。
それが、まさに。
ロイドは声を低くする。
「繋がった」
「はい」
セドが答える。
「ただし、まだ断定はしません」
「分かってる。でも、かなり近い」
「はい」
ミラが短く言う。
「箱型の開閉具」
ガルドが腕を組む。
「小柄な奴が持ってた箱だな」
「可能性です」
「分かってる」
セドは最後を読んだ。
「ルイス様より。南側補助扉の存在が黒羽にとって重要なら、近く記録と現場の痕跡をさらに消す可能性あり。外側は扉を探さず、南側へ荷が動くかのみ確認を。王城側は統合処理を行った記録責任者を追う」
ロイドは深く息を吐いた。
「記録責任者」
「はい」
セドが紙を畳む。
「ヴォルフ以前に、この統合処理を行った者がいるはずです」
「黒羽の根が深いな」
「はい」
エルマが静かに言った。
「十年前の事故後から、少しずつ作ってきたんだろうね」
その言葉に、店内が重くなる。
黒羽は、昨日今日できたものではない。
十年前の混乱。
事故。
封鎖。
外部委託。
記録統合。
名前の削除。
その積み重ねの中に巣を作った。
だから、焦って一つの扉を見つけても終わらない。
根を見なければならない。
午後遅く、ベルトが戻ってきた。
今度は一人ではない。
若い配達人を連れている。
その青年は少し怯えた顔をしていた。
ロイドはすぐに椅子を出した。
「責めるために呼んだわけじゃありません」
青年は小さく頷いた。
「はい」
「名前を聞いても?」
「ニールです」
「ニールさん。南側の荷置き場へ木箱を運んだと聞きました」
「はい」
ニールは手を膝の上で握る。
「前々日です。商業組合の人に頼まれて」
「どんな人でしたか」
「小柄な人です。手袋をしてました。腰に箱を下げていて」
ロイドはセドを見る。
セドは黙って記録する。
「荷は?」
「小さな木箱を二つ。軽かったです。でも、傾けるなと言われました」
「音は?」
「しませんでした。水でも金属でもなさそうで」
「南側のどこへ?」
ニールは言いかけて、ロイドが手を上げた。
「地図上で、近づかずに言える範囲で」
ニールはほっとしたように頷き、地図のかなり手前を指した。
「この辺りから先は、向こうの人が持っていきました。俺はここまで」
「向こうの人?」
「灰色外套です。でも……」
ニールが言い淀む。
ロイドは急かさない。
沈黙を置く。
ニールは少し震えながら言った。
「昨日市場で見た灰色外套とは、違う気がしました。背は同じくらいなんです。でも、荷を持つ時の手が違った」
「手?」
「前々日の人は、左手で受け取った。昨日の人は、右手で書類筒を受け取ってたって聞いて」
セドが素早く書く。
灰色外套、複数人物の可能性さらに上昇。
前々日、左手優先。
検分日、右手優先。
ロイドは静かに聞いた。
「ニールさん、その荷のことを誰かに話しましたか」
「いいえ。仕事だったので」
「今日ここに来たことは?」
「ベルトさんに、責められないから話せと言われて」
ベルトが腕を組む。
「こいつは悪くない」
「はい」
ロイドは頷いた。
「悪くありません。話してくれて助かりました」
ニールの肩から少し力が抜けた。
ミラが短く言う。
「戻してくれて、えらい」
ニールは目を丸くした。
「え?」
ロイドは少し笑った。
「この店では、戻してくれた人はだいたい褒められます」
ニールは戸惑いながらも、小さく笑った。
「……変な店ですね」
「よく言われます」
その言葉に、店内の空気が少しだけ和らいだ。
夜、壁の地図に新しい線が増えた。
検分日前々日。
小柄な手袋の男。
腰の箱。
軽い木箱二つ。
南側荷置き場手前まで配達。
灰色外套が受け取り。
左手優先。
検分日。
小柄な検分員。
腰の箱。
封鎖柵前で動き。
灰色外套、斜め後ろ。
午後、王城で小柄な代表代理。
手袋。
腰の箱。
ヴォルフと面会。
南側補助扉。
滑り鍵。
箱型開閉具。
正面封鎖柵へ統合処理。
ロイドは壁を見つめ、長く黙っていた。
かなり見えた。
しかし、見えたことで、危険も大きくなった。
南側補助扉は、黒羽の中継口である可能性が高い。
だが、まだ近づけない。
そこへ荷が入った。
何かが動いている。
黒羽が痕跡を消す前に、さらに外側から固めなければならない。
「次は」
ロイドが言った。
「南側へ動く荷を、見ずに追う方法だな」
セドが頷く。
「はい。荷そのものを追跡せず、受け渡し前後の記録を集めます」
「配達人、水売り、露店、工房」
「はい」
ミラが短く言う。
「荷の帰り道」
「そうだな」
ロイドは頷いた。
「荷にも帰り道を描く」
ガルドが腕を組む。
「荷が何か分かれば、次へ進めるか」
「はい。ただし、まだ開けません」
セドが言う。
「分かってる」
ミラがガルドを見る。
「えらい?」
「今日はもういい」
「うん」
エルマが壁の南側補助扉の文字を見つめた。
「扉の名前が戻ったね」
ロイドはその言葉に顔を上げる。
「扉の名前」
「ああ。消されていた扉に、もう一度名前が戻った」
ミラが小さく言う。
「南側補助扉」
「そう」
エルマは頷いた。
「名前が戻れば、地図に戻る。地図に戻れば、帰り道も描ける」
ロイドは胸の奥に静かな熱を感じた。
人の名前。
場所の名前。
扉の名前。
黒羽が消してきたものを、一つずつ戻している。
それは地味だ。
遅い。
でも、確かな戦いだ。
ロイドは壁の下に、新しい一文を書いた。
消された扉にも、名前を戻す。
ミラが見て、頷いた。
「いい」
セドも頷く。
「今日の記録に入れます」
ガルドが低く言う。
「南側補助扉、か」
その声は怒りだけではなかった。
職人として、失われた構造の名前を確かめるような響きがあった。
夜の店には、紙の匂いと灯り石の柔らかい光が満ちていた。
外では、街がいつものように夜へ沈んでいる。
そのどこかで、黒羽は痕跡を消そうとしているかもしれない。
しかし、もう完全には消せない。
市場が覚えている。
配達人が戻した。
王城が写しを守った。
店の壁に、名前が戻った。
南側補助扉。
その小さな文字が、闇に隠された帰り道の一部を、確かに照らし始めていた。




