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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第85話



 検分日の朝は、静かだった。


 不自然なくらいに。


 ロイドは、店の扉を開ける前からその静けさを感じていた。


 市場通りは、いつも通り動き始めているはずだ。


 水売りの荷車が軋み、配達人が木箱を抱え、露店の布が朝風に揺れているはずだ。


 工房街では、炉の火が入り、金槌の音が響き始めているはずだ。


 水路沿いでは、母親たちが子供の手を引き、マイラが貼り紙を確認しているはずだ。


 王城では、ルイスがすでに記録室へ向かっているかもしれない。


 動いている。


 王都は、いつも通り動いている。


 それなのに、ロイドの店の中だけ、音が少し遠く聞こえた。


 まるで、厚い布で包まれた箱の中にいるようだった。


 作業台の上には、報告札の予備。


 地図。


 記録紙。


 砂時計。


 風灯りと水灯りの保管箱。


 壁には、昨日の夜に貼った紙。


 明日の朝、読むこと。


 いや、もう今日だ。


 ロイドはその紙の前に立ち、声に出した。


「一、今日決めたこと以外はしない」


 声が少し掠れた。


 それでも、続ける。


「二、見えたことだけ戻す。三、分からないことは分からないと戻す。四、追わない。五、妨害しない。六、怖くなったら戻る。七、店は戻る場所。八、全員帰還」


 読み終えたあと、店内に短い沈黙が落ちた。


 ミラは作業台の横で、保管箱の鍵を見ている。


 今日は鍵を持たない。


 ロイドが持つ。


 予備はセド。


 ミラはそれを受け入れている。


 けれど、気にならないわけではない。


 自分が作った風灯りと水灯り。


 それが必要になるかもしれない日。


 その日に、自分は鍵を持たない。


 それはきっと、悔しい。


 でも、彼女は何も言わなかった。


 ロイドは声をかけた。


「ミラ」


「うん」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


「うん」


「でも、大丈夫」


 ロイドは少しだけ笑った。


「分かるような、分からないような」


「怖い。でも、戻る場所にいる」


「うん」


「だから、大丈夫」


 その言葉に、ロイドは頷いた。


 自分も同じだ。


 市場へ行きたい。


 見たい。


 確認したい。


 検分員AとB。


 灰色外套。


 旧資材倉庫へ向かう人間。


 それを自分の目で見たい。


 だが、今日は店にいる。


 戻る場所として。


 それが自分の役目だ。


 ガルドは壁際で腕を組んでいた。


 いつもより口数が少ない。


 腕に力が入りすぎているのが分かる。


 壁の「殴る前に、戻れ」の紙を見ていないようで、何度も見ている。


 セドは地図と報告表を確認していた。


 普段と変わらないように見える。


 しかし、筆を持つ指に少しだけ力が入っている。


 エルマは椅子に座り、茶器を手にしている。


 茶はほとんど減っていない。


 皆、怖い。


 その怖さが店の中にいる。


 だが、誰もそれを追い払わない。


 怖さに名前をつけた。


 だから、ここに置いておける。


 セドが顔を上げた。


「最終確認です」


 ロイドは頷いた。


「頼む」


「本日、王都商業組合の検分員二名と現地案内一名が、市場通り南門から旧資材倉庫外縁へ向かう予定です。外側は、通過確認のみ。倉庫へは接近しません。検分を妨害しません。追跡しません」


 ガルドが低く言う。


「追跡しない」


 ミラも。


「追わない」


 ロイドも繰り返した。


「追わない」


 セドは続ける。


「市場側、リザさん、サラさん、ダムロさん、配達人代表。工房側、ハインツさん、オルドさん、親方二名、テオさん。水路側、マイラさん、バーツさん、ヨゼフさん。王城側、ルイス様、フィリアさん。店、私たち」


「全員帰還」


 ミラが先に言った。


 セドは頷く。


「はい。全員帰還」


 その言葉で、今日が始まった。


 


 市場通りは、いつも通りの朝だった。


 リザは露店に干し果物を並べながら、周囲を見ていた。


 見る、といっても睨んでいるわけではない。


 商売をしながら。


 客の相手をしながら。


 いつもの市場の顔で。


 その横に、サラがいた。


 小袋には報告札。


 黒丸。


 灰線。


 手袋。


 矢印。


 家。


 昨日、何度も練習した。


 今朝も、リザに言われて三回繰り返した。


 見えたことだけ。


 分からなければ分からない。


 追わない。


 戻す。


 サラは、手が汗ばんでいるのを感じていた。


 小袋の紐を握りすぎて、指が少し痛い。


 リザが低く言う。


「力を抜きな」


「はい」


「客が見たら、怪しむよ」


「はい」


「干し杏を並べな」


 サラは慌てて果物を並べる。


 普通の仕事。


 でも、目は市場南門を意識している。


 水売りのダムロは、荷車を押しながら市場井戸近くにいた。


 今日は少し遅めに動くことにしている。


 不自然にならない程度に。


 配達人たちは、集荷場で荷を積みながら、南門へ向かう人の流れを見ている。


 誰も黒羽を探している顔をしない。


 市場の生活のまま。


 それが今日の強さだ。


 やがて、南門の方で人の流れが少し割れた。


 サラは息を止めそうになり、慌てて干し杏を掴む。


 リザの声が落ちる。


「来たね」


 商業組合の腕章。


 二人。


 一人は背が高い。


 もう一人は小柄。


 二人とも手袋をしている。


 服は地味だが、汚れていない。


 市場で買い物をする気配はない。


 その少し斜め後ろに、灰色外套。


 顔は深く見えない。


 歩き方は落ち着いている。


 だが、リザは目を細めた。


「……昨日の灰色とは違うね」


 サラが小さく聞く。


「違う?」


「歩幅が違う」


 声は低い。


 客には聞こえない。


 サラは、札を取り出したい衝動を抑える。


 まだ早い。


 見えることを見てから。


 背の高い検分員は、左手で書類筒を持っていた。


 小柄な検分員は、腰に小さな工具箱のようなものを下げている。


 灰色外套は、二人の前ではなく、斜め後ろ。


 案内役というより、監視役に近い。


 リザは客に干し果物を渡しながら、自然に言った。


「サラ」


「はい」


「黒丸二つ。手袋。灰線。斜め後ろ。矢印はまだ」


「はい」


 サラは小袋の中で札を確認する。


 手が震える。


 けれど、昨日より少し落ち着いている。


 検分員二人と灰色外套は、市場井戸の近くで一度止まった。


 水売りの荷車を避けるためだ。


 ダムロが自然に声をかける。


「水かい?」


 背の高い男は、返事をしなかった。


 小柄な男が短く言う。


「不要だ」


 声は低く、少し掠れている。


 灰色外套は何も言わない。


 ただ、周囲を見た。


 その視線が、貼り紙に一瞬止まる。


 灯りが揺れたら、進まず戻る。


 一人で確かめない。


 灰色外套の口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑ったのか。


 歪めたのか。


 サラには分からない。


 分からないことは、書かない。


 それを思い出す。


 三人は、市場通りの中央を抜け、旧資材倉庫側の路地へ向かって歩き始めた。


 リザが言った。


「矢印」


 サラは小袋の中で札をまとめる。


 黒丸二つ。


 手袋。


 灰線。


 矢印。


 そして、最後に家。


 追わない。


 戻す。


 サラは露店の裏へ回り、あらかじめ決めていた配達人へ小袋を渡した。


 配達人は何も言わず、荷物を持つふりをして、ロイドの店へ向かう。


 市場は、何事もなかったように動き続けていた。


 


 工房街では、ハインツが炉材置き場の前に立っていた。


 オルドは記録紙を持ち、少し離れている。


 テオは見習いたちと一緒に、工房側の道へ近づかないよう声をかけていた。


「今日は旧倉庫側行くなよ」


「分かってるって」


「本当に分かってるか?」


「ひとりなし、進むなし、持ち出しなし、だろ」


 見習いの一人が軽く言う。


 テオは少し驚いた。


「覚えてるじゃん」


「昨日から何回も聞いたからな」


 別の見習いが言う。


「でも、本当に来るのか? 商業組合の奴ら」


「来るかもしれない。だから行くな」


「見たいじゃん」


 その言葉に、テオの顔が強張る。


 見たい。


 自分もそう思う。


 旧い入口。


 検分員。


 灰色外套。


 見たい。


 でも。


「見えたら戻す」


 テオは言った。


「見に行くんじゃなくて、戻す」


 見習いたちは少し黙る。


 テオ自身が、自分に言い聞かせているのが分かったからかもしれない。


 ハインツはそのやり取りを聞きながら、旧資材倉庫側の封鎖柵を見る。


 遠い。


 直接近づかない。


 だが、見える位置だ。


 しばらくして、三人の影が路地から現れた。


 市場側から来た検分員たちだ。


 背の高い男。


 小柄な男。


 灰色外套。


 ハインツは目を細める。


 灰色外套は、二人の前には出ない。


 旧資材倉庫側へ向かう道を知っているなら前を歩くはずだ。


 だが、斜め後ろにいる。


 そして、封鎖柵の手前に来た時。


 止まったのは、灰色外套ではなかった。


 小柄な検分員だった。


 彼が腰の工具箱に手をやる。


 ハインツは息を止める。


 鍵か。


 いや、遠くて見えない。


 見えないことは、見えないと戻す。


 オルドが隣で震える声を押し殺す。


「小柄な方が、何かを」


「見えたことだけ書け」


 ハインツが低く言う。


「はい」


 オルドは書く。


 小柄な検分員、腰の箱へ手。


 鍵か不明。


 封鎖柵前で停止。


 灰色外套は斜め後ろ。


 背の高い検分員は書類筒。


 テオも少し離れた場所から見ていた。


 見たい。


 近づきたい。


 足が一歩動きそうになる。


 その瞬間、ガルドの声を思い出した。


 笑われても続けろ。


 一人で抱えるな。


 そして、ミラの声。


 えらい。


 テオは唇を噛み、足を止めた。


「進むなし」


 小さく呟く。


 見習いたちが彼を見る。


 テオはもう一度言った。


「進むなし」


 その声は、自分自身を止めるためのものだった。


 封鎖柵が、ほんの少し動いた。


 金属の擦れる音が、遠くから届く。


 ハインツの顔が険しくなる。


 やはり、開けられる。


 誰かが鍵か、開閉具を持っている。


 だが、近づかない。


 見えたことだけ戻す。


 オルドが記録する手を震わせながら言った。


「戻します」


「ああ」


 ハインツは頷いた。


「ここで止める」


 オルドは報告紙を折り、工房の使いへ渡す。


 使いは走らない。


 早歩きで、ロイドの店へ向かう。


 追わない。


 騒がない。


 戻す。


 


 水路側では、マイラが高台から水路を見ていた。


 バーツは排水溝の近くにいるが、危険線の手前で止まっている。


 ヨゼフは椅子に座り、杖を両手で握っていた。


 検分員たちが直接ここへ来る可能性は低い。


 だが、黒羽が倉庫側で何かをするなら、風や水に変化が出るかもしれない。


 マイラは怖かった。


 ただ待つことが、こんなに怖いとは思わなかった。


 何も見えない。


 市場の様子も分からない。


 工房街で何が起きているかも分からない。


 水路は静かだ。


 風も、いつも通りに見える。


 けれど、静かだからこそ、怖い。


 マイラは手元の紙を見た。


 風が変。


 水が変。


 噂あり。


 怖い。


 戻ります。


 その中で、今書けるのは一つだけだ。


 怖い。


 マイラは迷った。


 こんな報告でいいのか。


 何も起きていないのに。


 ただ怖いだけで。


 その時、ヨゼフが低く言った。


「書きなさい」


 マイラは顔を上げる。


「でも」


「怖い場所には理由があるかもしれん。理由がなくても、怖いと書けば戻れる」


 バーツも短く言う。


「書く」


 マイラは小さく頷き、紙に書いた。


 怖い。


 水路、今は変化なし。


 戻ります。


 書いた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。


 怖さを紙へ移せた。


 それだけで、体が軽くなる。


 使いの少年が来る。


 マイラは紙を渡した。


「走らないで。転ばないように」


「はい」


 少年は頷き、店へ向かった。


 水路はまだ静かだった。


 しかし、その静けさもまた、報告になった。


 


 王城では、ルイスが閲覧室の近くにいた。


 もちろん、堂々と見張っているわけではない。


 フィリアが別件の資料を持ち、閲覧室の記録係と話している。


 ルイスは、少し離れた窓際で台帳を読んでいるふりをしていた。


 ヴォルフ・レイダン。


 倉庫管理局所属。


 外部委託記録に何度も管理印を残している男。


 今日、午前中に旧東関連記録を閲覧する予定。


 午後には、商業組合代表代理との面会予定。


 ルイスは、落ち着いているように見せていた。


 しかし、指先が冷たかった。


 王城内で、誰かを疑う。


 それは外の路地で灰色外套を追うのとは違う怖さがある。


 相手は正式な役職を持つ。


 記録に印を押せる。


 人の動きも、紙の行方も、静かに消せる。


 ルイスは息を整える。


 問い詰めない。


 まず見る。


 外側と同じだ。


 やがて、廊下の向こうから一人の男が来た。


 年は四十代半ばほど。


 整えられた髪。


 落ち着いた歩き方。


 灰色ではなく、王城管理局の濃紺の外套。


 ヴォルフ・レイダン。


 ルイスは、視線を紙へ落としたまま、気配だけを拾う。


 ヴォルフは閲覧室の係に短く何かを告げた。


 声は低い。


 感情が少ない。


 係が記録簿を出す。


 ヴォルフは署名した。


 その手袋。


 ルイスの目が、わずかに動く。


 王城内で手袋をしている者は珍しくない。


 しかし、書類へ署名する時にも外さないのは少し不自然だった。


 外側の検分員A・Bも手袋。


 偶然か。


 まだ分からない。


 見えたことだけ。


 ルイスは心の中で繰り返した。


 ヴォルフは閲覧室へ入る。


 しばらく出てこない。


 フィリアが記録係と話し終え、ルイスの近くへ戻る。


 小声で言った。


「旧資材倉庫封鎖図、検分許可簿、残置資材一覧。三つとも出したって」


「うん」


「閲覧は単独」


「うん」


「手袋、してた」


「見た」


 二人はそれ以上言わない。


 王城の廊下では、壁に耳があると思った方がいい。


 しばらくして、ヴォルフが閲覧室から出てきた。


 手には紙束はない。


 だが、彼は一枚だけ小さな紙片を袖の中へ滑り込ませたように見えた。


 ルイスの心臓が跳ねる。


 見えたか。


 見間違いか。


 断定しない。


 だが記録する。


 ルイスは紙の端に小さく書いた。


 閲覧後、袖内へ紙片状のものを入れた可能性。


 断定不可。


 ヴォルフは何事もなかったように廊下を歩いていく。


 追わない。


 問い詰めない。


 ルイスは、指を強く握りしめた。


 紙の上の風が、確かに動いた。


 


 ロイドの店には、最初に市場からの札が届いた。


 配達人が、荷物を届けるような顔で入ってくる。


「リザさんから」


 短く言い、小袋を置く。


 ロイドは受け取り、すぐに作業台へ持っていく。


 セドが札を並べる。


 黒丸。


 黒丸。


 手袋。


 灰線。


 矢印。


 家。


 店内の空気が変わる。


 ロイドは声に出す。


「二人。手袋。灰色外套。倉庫側へ移動。追わずに戻した」


「はい」


 セドが記録する。


 市場第一報。


 検分員二名通過。


 手袋あり。


 灰色外套あり。


 旧資材倉庫側へ移動。


 市場側、追跡せず帰還。


 ミラが小さく言う。


「戻った」


「うん」


 ロイドは頷いた。


「まず、戻った」


 次に、工房街からの報告が来た。


 オルドの紙。


 セドが開く。


 小柄な検分員、腰の箱へ手。


 鍵か不明。


 封鎖柵前で停止。


 灰色外套は斜め後ろ。


 背の高い検分員は書類筒。


 封鎖柵が少し動いた。


 工房側、接近せず。


 ロイドは拳を握る。


 鍵かもしれない。


 開閉具かもしれない。


 封鎖柵が動いた。


 旧資材倉庫は、やはり開けられる。


 ガルドが低く唸った。


「小柄な奴か」


「断定はできません」


 セドが言う。


「分かってる」


 ガルドは壁を見る。


 殴る前に、戻れ。


 拳を開く。


 ミラがそれを見て、何も言わず頷いた。


 次に水路側。


 マイラの紙だった。


 怖い。


 水路、今は変化なし。


 戻ります。


 ロイドはそれを読んで、胸が少し熱くなった。


「マイラさん、書けた」


「はい」


 セドが丁寧に記録する。


 水路側、異常なし。ただし不安感あり。報告者帰還。


 エルマが静かに言う。


「いい報告だね」


「はい」


 ロイドは頷いた。


「すごくいい」


 怖いと書けた。


 何もないことも戻せた。


 それは、大きな前進だった。


 そして、王城からの第一報が届いた。


 ルイスの覚書。


 セドが開く。


 ヴォルフ、午前中に旧東関連記録を単独閲覧。


 対象は旧資材倉庫封鎖図、検分許可簿、残置資材一覧。


 手袋着用。


 閲覧後、袖内へ紙片状のものを入れた可能性。


 断定不可。


 午後、商業組合代表代理との面会予定は継続。


 ロイドは息を呑む。


「手袋……」


「外側の検分員と共通します」


 セドの声も硬い。


「紙片は?」


「断定できません」


「でも、見えた」


「はい」


 ガルドが低く言う。


「外で倉庫が動いて、王城で記録が動いてる」


「はい」


 セドは地図の横に、王城の紙を置いた。


 時刻を書き込む。


 市場通過。


 工房側封鎖柵変化。


 王城閲覧。


 それぞれの時刻が近い。


 完全に同時ではない。


 だが、流れとして繋がっている。


 黒羽の外と中。


 街と王城。


 検分員とヴォルフ。


 線が、濃くなる。


 


 午後。


 店には次々と戻りの報告が入った。


 市場からは、灰色外套についての追加。


 昨日見た旅人風の男とは別人物らしい。


 背丈が違う。


 だが、歩き方を似せている。


 工房街からは、封鎖柵が開いたかどうかは見えないが、三人が柵の内側へ入った可能性あり。


 見えた範囲までで、追跡せず。


 水路側からは、昼過ぎに風が一度弱まったが、すぐ戻った。


 危険線へは近づかず。


 王城からは、ヴォルフが午後の面会準備へ入ったとの報告。


 ロイドの店では、紙が増え続けた。


 セドが時刻順に並べる。


 ミラが札を整理する。


 ガルドが壁際で腕を組み、動きたい足を必死で止めている。


 エルマは地図を見ながら、時々静かに補足する。


 ロイドは、情報を受け取るたびに深呼吸した。


 多すぎる。


 重すぎる。


 一つひとつが、走り出したくなる情報だ。


 だが、店は戻る場所。


 ここで走り出してはいけない。


「ロイドさん」


 セドが声をかける。


「はい」


「息が浅いです」


「……分かる?」


「はい」


 ロイドは苦笑しようとして、できなかった。


「行きたくなる」


「はい」


「見たい」


「はい」


「でも、行かない」


「はい」


 ミラが短く言う。


「店」


 ロイドは頷いた。


「店は、戻る場所」


 その言葉を口にすると、少しだけ足元が戻った。


 


 夕方近く。


 最後に届いた王城からの報告が、店内の空気を変えた。


 ルイスの筆跡は、いつもより少しだけ強かった。


 セドが読み上げる。


「ヴォルフ・レイダン、午後、商業組合代表代理と面会。代表代理は記録上名なし。ただし、面会室へ入った人物は小柄、手袋着用、腰に小型箱。外側の小柄な検分員と特徴が一致する可能性」


 沈黙。


 ロイドは作業台に手を置いた。


 小柄な検分員。


 腰の箱。


 手袋。


 午前、旧資材倉庫側で封鎖柵前に立った人物。


 午後、王城でヴォルフと面会した商業組合代表代理。


 同一人物かもしれない。


 セドは続ける。


「面会後、ヴォルフは旧資材倉庫封鎖図の閲覧記録を通常保管棚ではなく、一時保留箱へ移動するよう指示。理由は記載不備確認」


 ガルドが低く言う。


「消す気か」


「可能性があります」


 セドの声も低い。


「ルイス様は、保留箱への移動を記録し、写しの確保を試みるとのこと。ただし、無理はしない、とあります」


 ロイドは目を閉じた。


 線が繋がった。


 外で旧資材倉庫へ入った可能性のある小柄な検分員。


 午後、王城でヴォルフと会う。


 その後、記録が一時保留へ移される。


 外で動き、中で記録を処理する。


 黒羽の仕組みが、目の前で一瞬だけ形を見せた。


 ミラが小さく言った。


「外で見て、中で消す」


 昨日の言葉だ。


 ロイドは頷く。


「うん」


「でも、今日は消えなかった」


 ミラは続けた。


「見たから」


 セドが静かに言う。


「はい」


 ロイドは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 市場が見た。


 工房が見た。


 水路が戻した。


 王城が見た。


 店が重ねた。


 その結果、消される前に線が残った。


「……戻った情報が、消えるのを止めたんだな」


 ロイドが言った。


 エルマがゆっくり頷く。


「そうだね」


「追わなかった。でも、繋がった」


「はい」


 セドが答える。


「追わずに近づけました」


 ガルドは拳を握っていた。


 だが、今度は怒りだけではない。


 何かを堪えている。


「……殴らずに、ここまで来たか」


 低く言う。


 ミラが頷く。


「えらい」


 ガルドは目を閉じた。


「今日だけは、受け取っとく」


 店内に、小さく、深い息が流れた。


 


 夜。


 すべての報告が壁に貼られた。


 市場。


 検分員二名。


 手袋。


 灰色外套。


 旧資材倉庫側へ移動。


 市場側、追跡せず帰還。


 工房。


 小柄な検分員、腰の箱。


 封鎖柵前で停止。


 封鎖柵変化。


 接近せず。


 水路。


 怖い。


 変化なし。


 昼過ぎ、風弱まりすぐ戻る。


 危険線へ近づかず。


 王城。


 ヴォルフ、単独閲覧。


 手袋。


 紙片移動の可能性。


 午後、商業組合代表代理と面会。


 代表代理、小柄、手袋、腰の小型箱。


 外側の小柄な検分員と一致可能性。


 面会後、封鎖図を一時保留箱へ移動指示。


 ロイドは壁を見上げた。


 紙の量が多い。


 でも、混乱ではない。


 線がある。


 時間がある。


 場所がある。


 人の動きがある。


 黒羽の影が、昼の顔をして歩いた一日。


 その足跡が、紙の上に残っている。


「今日は、勝ったのか?」


 ロイドが小さく呟いた。


 セドは少し考えた。


「勝った、という言い方は慎重にした方がいいと思います」


「セドらしいな」


「ですが」


 セドは壁の紙を見た。


「黒羽の流れを一つ、消される前に記録できました」


 ミラが短く言う。


「負けてない」


 ロイドは笑った。


「そうだな」


 ガルドも低く言う。


「全員戻った」


 エルマが頷く。


「それが一番だよ」


 ロイドは深く息を吐いた。


 長い一日だった。


 誰も旧資材倉庫へ踏み込まなかった。


 誰も検分員を追わなかった。


 誰も灰色外套へ手を出さなかった。


 それでも、線は繋がった。


 外で動いた小柄な検分員。


 王城でヴォルフと会った商業組合代表代理。


 記録を保留へ移す動き。


 黒羽の外と中が、同じ一日の中で重なった。


 ロイドは壁の一番下に、新しい一文を書いた。


 追わずに、繋がった。


 ミラがそれを見て、頷いた。


「いい」


「ありがとう」


「でも、次がある」


「うん」


 ロイドは頷いた。


「次は、消される前に写しを守る。倉庫へ入る前に、鍵と人の流れをもっと掴む」


 セドが言う。


「そして、ルイス様からの次報を待ちます」


 ガルドが壁を見たまま低く言った。


「小柄な奴が鍵か」


「可能性です」


 セドが答える。


「分かってる。断定しねぇ」


 ミラが短く言う。


「えらい」


 ガルドは、今度は小さく頷いただけだった。


 夜の店に、灯りがともっている。


 外では、貼り紙が風に揺れている。


 市場も、工房街も、水路沿いも、今頃それぞれの場所へ戻っているはずだ。


 王城では、ルイスがまだ写しを守る方法を探しているかもしれない。


 検分日は終わった。


 だが、第二章の山場はまだ続いている。


 黒羽の線は、消される前に見えた。


 なら次は、その線を切るのではなく、帰り道へ変える方法を探す。


 ロイドは店の扉を閉める前、壁の言葉をもう一度見た。


 店は、戻る場所。


 追わずに、繋がった。


 その二つが、今日の灯りだった。


 怖い一日だった。


 けれど、誰も戻れなくならなかった。


 それだけで、今日の灯りは確かに闇に勝っていた。

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