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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第77話



 朝のロイドの店には、静かな緊張があった。


 昨日までの緊張とは、少し違う。


 水路が暴れた日のような、今にも何かが壊れそうな緊張ではない。


 黒羽の噂が街に流れた日のような、言葉が人を押し流してしまいそうな緊張でもない。


 もっと細く。


 もっと静かで。


 けれど、指先に刺さるような緊張だった。


 今日は、風灯りと水灯りを、現場周辺の手前まで持っていく。


 旧測量坑道の入口には近づかない。


 W二にも触れない。


 E三副にも近づかない。


 第三点検口など、当然まだ先の話だ。


 それでも、安全区域よりは一歩だけ近い。


 危険の匂いがする場所の、手前。


 風の性質が変わり始める場所。


 水の音が、普通とは違って聞こえ始める場所。


 そこまで行く。


 そして、戻る。


 それだけだ。


 それだけなのに、ロイドの胸は朝から落ち着かなかった。


 作業台の上には、布に包まれた風灯りと水灯りが置かれている。


 昨日の改良で、少し姿が変わった。


 風灯りには二枚羽根が入った。


 横風を拾う細い羽根。


 下方風を拾う小さな丸板。


 湿気対策の油紙羽根も試され、反射板も調整されている。


 水灯りには、可動式の基準環と小さな反射片がついた。


 通常の揺れと異常な揺れを見分けるための目盛り。


 振動を手元へ伝える持ち手。


 不格好だ。


 まだ完成品には見えない。


 でも、昨日より明らかに“道具”だった。


 ミラは、その二つをじっと見つめていた。


 黙っている。


 けれど、目が動いている。


 羽根。


 枠。


 反射板。


 基準環。


 持ち手。


 昨日の記録。


 今日の試験場所。


 全部を、頭の中で何度も重ねているのだろう。


 ロイドはしばらく黙っていたが、やがて声をかけた。


「ミラ」


「うん」


「怖い?」


「怖い」


 即答だった。


 ロイドは頷く。


「俺も怖い」


「うん」


「でも、今日は入口じゃない」


「うん」


「危ない場所に踏み込むんじゃなくて、危ない場所の手前で止まれるかを試す日だ」


「うん」


「成功しても、進まない」


 ミラが顔を上げた。


「成功しても、戻る」


「そう」


「分かってる」


「しつこい?」


「しつこい」


「でも言う」


「うん」


 ミラは少しだけ目を伏せた。


「言われた方が、止まれる」


 ロイドは一瞬、言葉を失った。


 ミラは続ける。


「作ったものが反応したら、見たくなる。もっと近くで。もっと強い場所で」


 一拍。


「だから、止めて」


 ロイドは深く頷いた。


「ああ。止める」


 セドが作業台の向こう側で静かに言った。


「本日の確認を行います」


 ロイドは小さく息を吐いた。


「来たな、確認」


「必要です」


「分かってる」


 セドは紙を読み上げる。


「本日の目的。一、風灯りを水路東側安全線の手前で使用し、通常風と低冷気の反応を確認する。二、水灯りを高台側排水路の延長地点で使用し、通常水流と弱い戻り流の兆候を確認する。三、旧測量坑道入口候補には接近しない。四、E三副、W二、W三には接近しない。五、不審者、誘導物、噂の続きが確認された場合は即時撤退。六、成功しても次段階へ進まない。七、全員帰還」


 ロイドは最後の行を見て、胸の奥でその言葉を繰り返した。


 全員帰還。


 何度書いても、軽くならない。


 むしろ、回を重ねるごとに重くなる。


 帰る。


 そのために、今すべてをしている。


 エルマは椅子に座り、地図を見ていた。


「今日は、ミラベルの線で言うなら“入口の影を見る日”だね」


「入口の影?」


 ロイドが聞く。


「ああ。入口そのものを見るんじゃない。入口の影響がどこまで出ているかを見る」


 エルマは地図上の古い石積み付近から少し離れた場所を指す。


「危険な場所は、境目が急に来るわけじゃない。風の質、水の音、人の動き。手前から少しずつ変わる」


 セドが頷く。


「その変化を拾います」


「拾いに行くんじゃないよ」


 エルマは鋭く言った。


「見えたら戻る」


「はい」


 ミラも短く答える。


「戻る」


 ガルドが工具袋を持ちながら言う。


「俺は工房側には行かねぇ。今日は店側の支援だ」


 ロイドが少し驚く。


「ガルドさん、現場行かないんですか?」


「工房側はハインツとオルドに任せる。今日は試作品の不具合が出た時、すぐ戻って見られるように店に残る」


「なるほど」


「現場で直させねぇためにもな」


 ミラがガルドを見る。


「見張り?」


「職人のな」


「うん」


「嫌か」


「必要」


 ミラは素直に答えた。


 ガルドは鼻を鳴らす。


「ならいい」


 ロイドはそのやり取りを見て、少しだけ安心した。


 作る者を一人にしない。


 その言葉は、今も守られている。


 


 店の外には、今日も貼り紙が揺れていた。


 風が止まっても、安全ではありません。


 噂を一人で確かめに行かないでください。


 価値より命。


 疑いにも帰り道を作る。


 昨日の説明のあと、街の空気は少し変わっていた。


 完全に安全になったわけではない。


 噂が消えたわけでもない。


 だが、人々は噂を持ち込むようになった。


 水路沿いの住民は、子供が入口の話をしていると止めるようになった。


 工房街では、見習いだけで旧資材倉庫裏へ近づかないよう親方たちが見ている。


 処理場では、水売りや修理工を名乗る者が来た場合、誰が呼んだのか確認するようになった。


 黒羽が生活に紛れるなら。


 街も生活の中で見張る。


 ただし、追わない。


 捕まえに行かない。


 不審を見つけたら戻す。


 それが、昨日決まった言葉の灯りだった。


 ロイドたちは、水路東側の安全線へ向かった。


 同行するのは、ロイド、セド、ミラ、マイラ、バーツ。


 エルマは店で地図を見る。


 ガルドも店で待機。


 水路側の道を知るマイラと、排水溝を見るバーツ。


 この組み合わせは、もう自然になっていた。


 マイラは以前よりも少し落ち着いて歩いている。


 だが、古い石積みの方角が近づくと、表情が硬くなった。


 ロイドはそれに気づいた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫……ではないです」


 マイラは正直に答えた。


「でも、ここで止まるために来ました」


 その言葉に、ロイドは頷く。


「はい」


「前は、怖いから見ないようにしてました」


 マイラは通りの先を見る。


「でも、見ないと子供たちを止められない。どこまでなら危ないのか、何を見たら戻るのか、知らないと」


 セドが静かに記録していた。


 住民代表、自身の恐怖を認識しつつ参加。


 目的、子供・住民への危険伝達。


 ロイドはマイラを見る。


「無理はしないでください」


「はい」


「怖くなったら、戻っていいです」


「それも、帰り道ですね」


 マイラが少しだけ笑った。


 ロイドも笑う。


「そうです」


 ミラは、風灯りの入った小箱を両手で持っていた。


 いつもより慎重に。


 まるで壊れ物ではなく、生き物を運ぶように。


 ロイドは小声で聞いた。


「重い?」


「軽い」


「気持ちは?」


「重い」


「だよな」


 ミラは小さく頷いた。


「でも、一人じゃない」


「うん」


「だから持てる」


 その言葉に、ロイドは胸の奥が温かくなった。


 ミラが自分で言えた。


 一人ではない、と。


 それだけでも、大きな変化だった。


 


 水路東側の安全線は、古い石積みが見えるかなり手前に設定されていた。


 昨日までの観測地点よりもさらに一歩引いた場所。


 ここなら、入口候補には近づかない。


 しかし、風の質が少し変わる。


 水路の湿気と、旧測量坑道側から漏れるかもしれない冷気が混ざる場所。


 セドが周囲を確認する。


「不審者なし」


 ロイドが言う。


「今のところ」


「はい。今のところ」


 バーツが排水溝の位置を確認し、マイラが周辺の住民へ短く声をかける。


「点検です。子供は近づけないでください」


 近くの母親が頷く。


「分かってるよ。昨日の話、聞いたからね」


 言葉の灯りは届いている。


 ロイドはそれを確認して、少しだけ息を整えた。


 ミラが風灯りを取り出す。


 二枚羽根の改良版。


 小さな反射板。


 湿気対策の油紙羽根。


 まだ頼りない。


 だが、今朝の光の中で静かに光っている。


「置く?」


 ロイドが聞く。


 ミラは首を横に振った。


「持つ」


「手で?」


「短時間」


 セドが確認する。


「設置はしない方針です。黒羽に道具の位置を把握されないため」


「分かった」


 ミラは風灯りを胸の高さで持った。


 セドが時刻を記録する。


 風が通る。


 最初は、普通の通り風。


 風灯りの細い羽根が揺れ、光が細くちらついた。


「横風」


 ミラが言う。


 ロイドにも分かった。


 細い揺れ。


 昨日見た通り。


 次に、ほんの少しだけ下から冷たい空気が上がった。


 風灯りの丸板が反応する。


 光が、小さく膨らむように揺れた。


 ロイドは息を呑んだ。


「……下からだ」


 ミラが頷く。


「うん」


 セドが記録する。


 安全線手前。


 横風通常。


 下方冷気微弱。


 風灯り、方向判別可能。


 ロイドは古い石積みの方角を見ないようにした。


 見たくなる。


 近づけば、もっとはっきり反応するだろう。


 でも、今日はそこまで行かない。


 ここで見えたなら、十分だ。


「ミラ」


「うん」


「見えたな」


「うん」


「戻るぞ」


 ミラは一瞬だけ風灯りを見た。


 まだ持っていたい。


 もっと見たい。


 その気持ちが、ほんの少しだけ表情に出た。


 だが、ミラは頷いた。


「戻る」


 セドも言う。


「予定通り、第一試験終了です」


 マイラが少し驚いたように言う。


「もう戻るんですか?」


「はい」


 ロイドが答えた。


「見えたので」


「見えたから戻る?」


「はい。見えなかったら、もう少し見る必要がありました。でも、見えたなら、今日はそれ以上近づく理由がありません」


 マイラはその言葉を噛みしめるように黙った。


 そして、ゆっくり頷く。


「それ、子供にも言えますね」


「何をですか?」


「見えたから、もっと見に行くんじゃなくて。見えたから戻る」


 ロイドは少しだけ目を開いた。


 そして、頷いた。


「はい」


 それは、今日の大切な言葉だった。


 見えたから進むのではない。


 見えたから戻る。


 帰り道を守るために。


 


 次は、水灯りの試験だった。


 場所は、高台側排水路の延長地点。


 東水路とは直接繋がっていないが、昨日の安全区域より少しだけ水路の湿気が近い。


 普通の水流の中に、わずかな戻りの癖がある場所だとバーツが言っていた。


 もちろん、危険域ではない。


 だが、水灯りが通常と微弱な戻りを区別できるかを見るにはちょうどいい。


 バーツは排水路を覗き、短く言った。


「水、澄んでる」


 セドが確認する。


「青い反応は?」


「なし」


「異臭は?」


「なし」


「足場は?」


「ここまで」


 バーツは石畳に印をつける。


 ロイドはそれを見ると、自然にその手前で止まった。


 以前なら、少し覗こうとしていたかもしれない。


 でも今は、線があるなら止まる。


 それも学んだことだった。


 ミラは水灯りを取り出した。


 昨日より少し改良された水灯り。


 基準環。


 反射片。


 持ち手。


 見た目はまだ不格好だ。


 だが、ミラの手の中では、ちゃんと役目を持っているように見えた。


「通常を取る」


 ミラが言う。


 セドが頷く。


「まず通常水流を三十秒」


 ロイドは息を整える。


 水を見る。


 怖い。


 でも、今日は安全な水だ。


 距離も取っている。


 ミラは持ち手で水灯りを安定させ、振動板を水面近くへ当てる。


 光がゆらゆら揺れた。


 自然な水流。


 小さな石に当たり、細かく揺れる光。


 ミラは基準環を合わせる。


「ここが普通」


 セドが記録する。


 高台側排水路延長地点。


 通常水流、基準環設定。


 ロイドも見た。


 昨日より分かりやすい。


 光が基準環の中で揺れている。


 次に、バーツが上流側の浅い部分で小さな板を少しだけ入れ、水の流れを変えた。


 安全な範囲の模擬だ。


 水灯りの光が、基準環の端へ寄る。


 少しだけ外へ出る。


 反射片がきらりと光った。


「分かる」


 ロイドが言った。


 ミラが顔を上げる。


「本当?」


「うん。昨日よりかなり分かる」


「戻り?」


「今のは戻りっぽく見えた」


 バーツが低く言う。


「弱い戻り」


 セドが記録する。


 弱戻り模擬、基準環外へ光移動。反射片により視認可。


 ミラの指が持ち手に触れている。


「震えも変わる」


「光より先?」


 ロイドが聞く。


「少し先」


 セドが書く。


 持ち手振動、視認よりわずかに早く変化。


 ロイドは水灯りを見て、深く息を吐いた。


「すごいな」


 ミラは首を横に振る。


「まだ」


「でも、今のはすごい」


「まだ、現場じゃない」


「それでも」


 ロイドははっきり言った。


「ここまで来た」


 ミラは黙った。


 水灯りを見つめる。


 その目に、少しだけ光が揺れているように見えた。


 嬉しいのか。


 怖いのか。


 その両方だろう。


 セドが静かに言う。


「第二試験、成功です。予定通り戻ります」


 ミラは頷く。


「戻る」


 ロイドも頷いた。


「戻ろう」


 その時だった。


 通りの向こうで、誰かがこちらを見ていた。


 小柄な男。


 荷物を背負っている。


 配達人のようにも見える。


 だが、その視線が一瞬だけ、水灯りの方へ向いた。


 ロイドの体に緊張が走る。


 セドも気づいた。


 バーツが無言で一歩、視線の間に立つ。


 男はすぐに目を逸らし、歩き出した。


 追える距離ではある。


 だが、誰も追わない。


 ミラは水灯りを布で包む。


 ロイドは低く言った。


「戻る」


 セドも頷く。


「はい」


 マイラが不安そうに聞く。


「見られましたか」


「可能性があります」


「黒羽?」


「断定できません」


 ロイドは男が消えた角を見ないようにした。


「だから、戻ります」


 その判断は早かった。


 試験は成功した。


 成功したから、戻る。


 見られた可能性があるなら、さらに戻る。


 予定通り。


 いや、予定以上に慎重に。


 


 店へ戻ると、ガルドがすぐに扉を閉めた。


「どうだった」


 ロイドは息を整えながら答える。


「風灯り、下方冷気を拾った。水灯り、弱い戻りを見た」


 ガルドの目が動く。


「成功か」


「成功。でも、見られたかもしれない」


 店内の空気が変わる。


 ミラは水灯りを布ごと作業台へ置いた。


 セドはすぐに記録を広げる。


「試験結果を整理します」


 ロイドが言う。


「その前に、ミラ」


「うん」


「大丈夫か?」


「……うん」


「手、震えてる」


 ミラは自分の手を見る。


 確かに、少し震えていた。


 水灯りを持っていた手。


 帰り道を守る道具を外へ出した手。


 成功を見た手。


 そして、黒羽に見られたかもしれないと気づいた手。


「怖かった」


 ミラが言う。


「うん」


「反応した時、嬉しかった」


「うん」


「もっと見たくなった」


「うん」


「でも、見られたかもって思ったら、怖くなった」


 ロイドは頷いた。


「それでいいと思う」


「いい?」


「嬉しいも怖いも、両方あっていい。そこで戻れたなら、大丈夫だ」


 ミラは少しだけ黙った。


 そして、小さく頷いた。


「戻れた」


「ああ」


「全員?」


 セドが静かに答える。


「全員帰還です」


 その言葉に、ミラの肩が少しだけ落ちた。


 安心したように。


 ガルドが風灯りを確認しながら言う。


「道具は?」


「壊れてない」


 ミラが答える。


「後で見る」


「今は?」


「休む」


 ロイドは思わず笑った。


「完璧だ」


 ミラは少しだけ目を伏せた。


「言われたから」


「それでもいい」


 エルマが奥からゆっくり出てきた。


 地図を持っている。


「結果を聞かせておくれ」


 セドが記録を読み上げる。


 水路東側安全線手前。


 風灯り、横風・下方微冷気を判別。


 古い石積み方面へは接近せず。


 高台側排水路延長地点。


 水灯り、通常水流設定後、弱戻り模擬を判別。


 持ち手振動が視認よりわずかに早い。


 試験終了直後、配達人風の男に視認された可能性。


 追跡せず。


 全員帰還。


 エルマは黙って聞いていた。


 やがて、深く頷く。


「よく戻ったね」


 最初に出た言葉は、成功への称賛ではなかった。


 戻ったことへの言葉だった。


 ミラは静かに頷く。


「戻った」


「それが一番だ」


 エルマは風灯りと水灯りを見る。


「道具は、反応した。なら、今日の目的は果たした」


「でも、見られたかもしれません」


 セドが言う。


「ああ。だから、次は隠し方を考える」


「隠し方?」


 ロイドが聞く。


「そう。道具として見せない工夫だよ」


 ガルドが腕を組む。


「黒羽の真似をするのか?」


 エルマは首を横に振った。


「違う。黒羽は生活に紛れて人を閉じ込める。こっちは、生活に紛れて帰り道を守る」


 ミラが短く言う。


「目的が違う」


「そう」


 エルマは頷いた。


「風灯りも水灯りも、今のままじゃ試作品に見える。目立つ。次は、普通の灯り石や点検道具に見えるようにする必要がある」


 ロイドは作業台の二つを見る。


 不格好で、いかにも試作品だ。


 確かに、見られれば怪しまれる。


「見た目か」


「はい」


 セドが記録する。


 次課題。


 携行時の偽装。


 灯り石店の商品・点検道具として自然な外見。


 黒羽に用途を悟られない構造。


 ロイドは少し複雑な気持ちになった。


 偽装。


 隠す。


 黒羽のやり方に近い言葉だ。


 だが、エルマが言ったように、目的が違う。


 守るために隠す。


 奪うためではない。


「普通の灯り石に見せるなら」


 ロイドが言う。


「店主として、俺も考えられるかもしれない」


 ミラが顔を上げる。


「うん」


「商品っぽい形とか、持ち運びやすい形とか」


「いる」


「よし。俺も役に立つな」


 セドが真面目に頷く。


「非常に重要です」


「最近、俺の“素人目”が重要になってきたな」


「はい」


 ミラが短く言う。


「店主目」


 ロイドは少し笑った。


「それなら嬉しい」


 


 昼過ぎ。


 ルイスからの覚書が届いた。


 まるでこちらの試験を見ていたかのようなタイミングだった。


 セドが紙を開き、読み上げる。


「旧東工房区画の携帯風圧灯、水流聴石は、事故前に測量具ではなく“簡易灯り”として持ち出された記録あり」


 ロイドが目を開く。


「簡易灯り?」


「はい」


 セドは続ける。


「測量班が目立たず携行するため、外見は一般の小型灯り石に偽装されていた可能性。水流聴石も、携帯用作業灯の外枠を流用」


 店内が静まる。


 エルマが小さく笑った。


「ミラベルらしい」


「やっぱり?」


 ロイドが聞く。


「あの子、怖がりだからね。危ない場所で“私は測量しています”なんて道具をぶら下げたがらない」


「それは確かに」


「灯りに見せる。自然だ」


 ミラは風灯りを見た。


「灯りにする」


「はい」


 セドが頷く。


「ルイス様の記録とも一致します」


 ロイドは少し興奮した。


「じゃあ、風灯りと水灯りも、普通の灯り石っぽくできる」


「はい」


「店の商品として持ってても不自然じゃない」


「はい」


 ガルドが言う。


「ただし、灯りとしても使えないと怪しまれる」


「そっか」


「見た目だけじゃ駄目だ。実際に照らせる必要がある」


 ミラが頷く。


「灯りにする」


「できそうか?」


 ロイドが聞く。


 ミラは少し考えた。


「風灯りは、できる」


「水灯りは?」


「難しい」


「どうして?」


「水の反応と、灯りの安定が喧嘩する」


 ガルドが補足する。


「水灯りは揺れを拾う必要がある。普通の灯り石みたいに安定させすぎると反応が消える。逆に反応を拾うと、灯りとしては揺れすぎる」


「なるほど」


 ロイドは腕を組む。


「じゃあ、作業灯じゃなくて、点検灯としてなら?」


 ミラが目を動かす。


「点検灯」


「水回りを見るための小さな灯り。揺れても変じゃない。むしろ、水の流れを見る灯りって言える」


 ガルドが低く笑う。


「店主目、また来たな」


 ロイドは少し照れた。


「使えそう?」


 ミラは頷く。


「使える」


 セドが記録する。


 偽装案。


 風灯り、小型携帯灯り石。


 水灯り、水回り点検灯。


 実用性を持たせ、用途を隠す。


 ロイドはその文字を見て、胸の中で何かが繋がるのを感じた。


 黒羽が生活を利用するなら。


 こちらは本当に生活に役立つものとして作る。


 偽装でありながら、嘘ではない。


 灯りとしても使える。


 点検にも使える。


 そして、帰り道も守る。


 それがロイドの店らしいやり方だった。


 


 夕方、店の前にはまた人が集まっていた。


 今度は噂ではなく、貼り紙の写しを取りに来た人たちだ。


 水路沿いの母親。


 工房街の見習い。


 処理場の若い職員。


 皆、それぞれの場所へ貼るために紙を受け取る。


 ロイドは一人ひとりに声をかけた。


「子供だけで入口へ行かせないでください」


「変な噂を聞いたら、持ってきてください」


「水売りや修理工を名乗る人が来たら、誰が呼んだか確認してください」


 同じ言葉を繰り返す。


 何度も。


 面倒ではない。


 これは灯りを配るのと同じだ。


 マイラが店の前で言った。


「今日、うちの近くでも子供たちに話しました。風が止まったら安全じゃなくて、むしろ大人を呼ぶ合図だって」


 ロイドは頷いた。


「ありがとうございます」


 テオも工房街から来ていた。


「見習いたちも、今日は旧倉庫裏に行ってません」


「助かる」


「でも、まだ気にしてる奴はいます。奥に価値あるものがあるって話」


 ロイドは少し表情を引き締めた。


「価値より命」


「はい。それ、言いました」


「どうだった?」


「笑う奴もいたけど……昨日よりは聞いてます」


 ロイドはテオの肩を軽く叩いた。


「十分だ」


 テオは少しだけ目を丸くし、それから照れたように頷いた。


「はい」


 その様子を見て、ミラが小さく言った。


「言葉の灯り、増えてる」


 ロイドは頷く。


「ああ」


 店の中の風灯りと水灯り。


 店の外の貼り紙。


 街の人の声。


 全部が、少しずつ帰り道を描いている。


 


 夜。


 今日の記録がまとめられた。


 現場周辺手前試験。


 風灯り、水路東側安全線手前で横風・下方微冷気を判別。


 水灯り、高台側排水路延長地点で通常水流・弱戻り模擬を判別。


 試験後、配達人風の不審者に視認された可能性。


 追跡せず。


 全員帰還。


 次課題。


 偽装ではなく実用化。


 風灯り、小型携帯灯り石へ。


 水灯り、水回り点検灯へ。


 目的。


 黒羽に用途を悟られず、生活にも役立つ形で帰り道を守る。


 ロイドはその最後の文を見て、深く頷いた。


「いいな」


 ミラが聞く。


「何が?」


「生活にも役立つ形で、帰り道を守る」


「うん」


「これ、うちらしい」


 ミラは少しだけ考えて、頷いた。


「うん」


 セドも静かに言う。


「ロイドの店らしい方針です」


 ロイドは少し照れた。


「そう言われると、嬉しいな」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「店主なんだから、胸張っとけ」


「急に厳しい」


「褒めてる」


「分かりづらいなぁ」


 エルマが笑う。


「いい店になったね」


 その一言に、店内が静かになった。


 ロイドは何も言えなかった。


 潰れかけの店。


 価値なしと見られた端材。


 誰にも注目されなかった灯り石屋。


 その店が今、王都の裏側で帰り道を描いている。


 いい店になった。


 エルマのその言葉が、胸の奥に染みた。


「……まだまだです」


 ロイドはようやく言った。


「でも、そうなれるようにします」


 エルマは頷く。


「もう、なってるよ」


 ミラが風灯りと水灯りに布をかけた。


 今日も、二つの灯りは役目を果たした。


 未完成でも。


 不格好でも。


 危険の手前で止まるための灯りとして。


 ロイドは店の扉を閉める前、外の貼り紙を見た。


 夜風に揺れる紙。


 その下に立つ小さな灯り石。


 遠くの水路から、冷たい風が流れてくる。


 その風は、もうただの不安ではなかった。


 見れば、分かるかもしれない。


 灯りがあれば。


 仲間がいれば。


 帰ると決めていれば。


「明日も、戻るために進もう」


 ロイドが静かに言う。


 ミラが答えた。


「うん」


 セドも。


「はい」


 ガルドも。


「ああ」


 エルマも、深く頷いた。


「帰り道を、また一本」


 店の灯りが、夜の中で静かに揺れる。


 その奥で、風灯りと水灯りは眠っていた。


 次に目を覚ます時。


 それは、ただの試作品ではなく。


 ロイドの店の灯りとして、街の中へ溶け込むために。

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