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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第76話



 夜が明けても、貼り紙はそこにあった。


 風が止まっても、安全ではありません。


 噂を一人で確かめに行かないでください。


 価値より命。


 疑いにも帰り道を作る。


 ロイドは店の扉を開ける前、その文字をしばらく見ていた。


 昨日、ひとりの見習いの足が止まった。


 旧測量坑道の入口へ向かおうとしていた少年が、店の前で話してくれた。


 奥に価値あるものがあると聞いた。


 親方に認めてもらえるかもしれないと思った。


 行こうとしていた。


 けれど、行かなかった。


 それだけで、昨日の灯りは意味があった。


 剣を振るったわけではない。


 黒羽を捕まえたわけでもない。


 旧測量坑道へ近づいたわけでもない。


 ただ、紙を書いた。


 声をかけた。


 人の前で説明した。


 それだけだ。


 それでも、一人が戻った。


 ロイドは、その事実を何度も噛みしめていた。


「……言葉って、重いな」


 小さく呟く。


 隣でミラが答えた。


「うん」


「昨日までは、貼り紙って便利だな、くらいに思ってたけど」


「便利」


「でも、それだけじゃないな」


「うん」


 ミラは店先の貼り紙を見上げている。


 朝の光が紙の端を薄く照らし、夜露で少し波打った紙面を淡く光らせていた。


「読む灯り」


 ミラが言った。


 ロイドは頷いた。


「ああ。読む灯りだ」


 その言葉は、昨日の夜に生まれた。


 貼り紙も灯りだ。


 誰かが危ない道へ踏み出す前に、足を止める光。


 道を照らすだけではなく、戻る理由を照らす光。


 ロイドは扉に手をかけた。


 その手が、少しだけ止まる。


「今日、どう動くかな」


「試作?」


 ミラが聞く。


「風灯りと水灯りも進めたい。でも、噂が完全に止まったわけじゃない」


「うん」


「だから今日は、両方だな」


「両方?」


「街の声を聞く。噂がどこで残ってるか見る。それと、風灯りと水灯りを次に外へ出す準備をする」


 ミラは少しだけ考えた。


「現場?」


「いや、まだ現場じゃない」


 ロイドは首を横に振る。


「昨日までで、安全区域の試験はした。次は、現場周辺の手前だ。でも、いきなり行かない。今日は準備」


「準備」


「うん。どこまで行って、どこで止まるか。誰が行くか。何を見たら戻るか。全部決めてから」


 ミラは小さく頷いた。


「帰り道を先に描く」


「そう」


 ロイドは少し笑った。


「それができてから、外へ出す」


「うん」


 ミラは納得したように、店の中へ戻った。


 その背中を見ながら、ロイドは思った。


 ミラも変わった。


 作りたい気持ちだけで進まない。


 反応を見たい気持ちだけで近づかない。


 止まる力を、少しずつ身につけている。


 それは、彼女だけではない。


 ロイドも。


 セドも。


 ガルドも。


 街の人たちも。


 黒羽の罠は、人を急がせる。


 価値で誘う。


 不信で走らせる。


 なら、こちらは止まる力を持たなければならない。


 ロイドは貼り紙をもう一度見た。


 疑いにも帰り道を作る。


 それは、今日の方針でもあった。


 


 店を開けると、すぐに数人の客が来た。


 灯り石を買いに来た人もいたが、多くは貼り紙の件だった。


「店主さん、昨日の話、うちの子にも言ったよ」


「ありがとうございます」


「でも、まだ旧い入口の話を面白がってる子がいるね」


「どのあたりですか」


「市場通りの方。水売りの荷車が集まるところで聞いたって」


 ロイドはその言葉を受け、すぐにセドへ視線を向けた。


 セドは作業台の横で記録している。


 市場通り。


 水売り。


 また同じ言葉が出てきた。


 別の母親も言う。


「うちは、見習いの子が“灯り石屋が何か作ってるらしい”って言ってたって聞いた」


「何か作ってる?」


「危ない場所でも見える灯りだとか」


 ロイドの胸がわずかに硬くなる。


 風灯りと水灯りのことか。


 まだ広く見せたわけではない。


 しかし、試作していること自体は、店に出入りする人がいれば気づくだろう。


 黒羽がどこまで知っているかは分からない。


 セドが静かに言う。


「噂の形が変わり始めています」


「うん」


 ロイドは頷いた。


「入口へ行け、から、店が何か作っている、へ」


「はい」


「悪い方向へ変えられる前に、説明した方がいいか」


 ミラが奥から顔を上げる。


「見せる?」


「まだ全部は見せない」


 ロイドは少し考えながら言った。


「でも、“危ない場所へ入るための道具じゃない”って説明は必要かもしれない」


 セドが記録紙を見ながら頷く。


「昨日の噂対応と同じです。隠しすぎると不信に変わる可能性があります」


「だよな」


「ただし、内部構造や具体的な反応は伏せるべきです」


「分かった」


 ロイドは新しい紙を出した。


 まだ正式に貼る文面ではない。


 下書きだ。


 新しい灯り石は、危険な場所へ入るためではなく、危険を判断して戻るための試作品です。


 完成前のため、勝手に持ち出せません。


 反応したら進むのではなく、戻るための灯りです。


 ロイドはそこまで書いて、筆を止めた。


「……これ、どうだ?」


 セドが読む。


「良いと思います」


 ミラも見る。


「戻るための灯り」


「うん」


「いい」


 ガルドが奥から出てきて、紙を覗き込んだ。


「まだ貼るなよ」


「分かってます」


「噂がどこまで広がってるか見てからだ」


「はい」


 ガルドは腕を組む。


「市場通りの方が臭いな」


「やっぱり?」


「ああ。水売り、配達人、露店。人も噂も流れやすい。黒羽が使うには都合がいい」


 セドが頷く。


「今日、そこへは行きません。まず情報を集めます」


「分かってる」


 ガルドは少しだけ苛立ったように言う。


「追わねぇよ」


 ミラが短く言った。


「えらい」


「……だから、それはもういい」


 ロイドは笑いそうになり、こらえた。


 でも、こういう小さなやり取りがあるから、重い空気に押し潰されずにいられる。


 


 午前のうちに、店にはいくつかの報告が戻ってきた。


 マイラからは、水路沿いの子供たちへ短い言葉が届き始めているという報告。


 灯りが揺れたら、進まず戻る。


 一人で確かめない。


 母親たちが、それを子供たちに読ませているらしい。


 テオからは、工房街の見習いたちの様子。


 昨日の説明以降、旧い入口へ行こうとする動きは一旦止まっている。


 ただし、まだ「奥に価値あるものがある」という噂は残っている。


 そして新しく、「ロイドの店が特別な灯りを作っている」という話が混ざり始めている。


 ロイドはその報告を聞き、作業台に手を置いた。


「完全に、こっちへ矛先を変えてきてるな」


「はい」


 セドが答える。


「黒羽が流したものか、噂が自然に変化したものかは断定できません」


「でも、放置できない」


「はい」


 ミラは風灯りの布へ視線を落とす。


「灯りが、噂になる」


「うん」


 ロイドは頷いた。


「だから、灯りの意味を先に決めておかないといけない」


「意味?」


「危険へ入るためじゃない。戻るため。近づかない判断をするため」


「うん」


「それを、道具の形にも、言葉にも入れる」


 ミラは少しだけ目を伏せた。


「形にも」


「そう」


 ロイドは風灯りを見る。


 まだ不格好な試作品。


 でも、外装を変えれば、携帯灯り石として見えるかもしれない。


 水灯りも、水回り点検灯として形を整えられる。


 隠すためではなく、本当に役に立つ形にする。


 それが、次の段階だ。


 セドが紙に書き加える。


 次段階方針。


 風灯り――携帯灯り石として自然な外見。


 水灯り――水回り点検灯として自然な外見。


 目的――危険へ入るためではなく、戻る判断の補助。


 説明――見せすぎず、隠しすぎない。


 ロイドはその文字を見て、静かに言った。


「これ、77話……じゃなくて、次の動きの土台だな」


 ミラが首を傾げる。


「なに?」


「いや、何でもない」


 ロイドは咳払いした。


「とにかく、今日中に準備をまとめよう」


 


 昼過ぎ、風灯りと水灯りの確認が始まった。


 外へは出ない。


 店内で、持ち運び方だけを確認する。


 ロイドは腰に風灯りを下げてみた。


 まだ外装は仮のままだが、布で包むと意外と普通の小型灯り石に見える。


 ただし、羽根板の一部が見えている。


「これは怪しい」


 ロイドが言う。


 ミラが頷く。


「怪しい」


 ガルドも言った。


「測定具に見える」


「じゃあ、隠す?」


 ミラが聞く。


「隠すというより、灯りの装飾に見せる」


 ロイドは風灯りを持ち上げる。


「葉っぱとか、波とか、普通の飾り穴みたいに」


 ミラの目が少し動く。


「風の穴を飾りにする」


「うん」


 エルマが椅子から言う。


「ミラベルも、似たことをしてたよ」


 全員が見る。


 エルマはゆっくり続けた。


「携帯風圧灯は、測量具に見えないようにしていた。飾り穴の中に風の取り込み口を混ぜていたはずだ」


 ミラはすぐに紙へ線を引く。


「葉脈」


「そうだね。細い穴を何本も入れるなら、葉脈に見える」


 ロイドは頷いた。


「いいな。店の商品としても自然だ」


 セドが記録する。


 風灯り外装案。


 葉脈型通風口。


 携帯灯り石として自然化。


 ロイドは少しだけ笑った。


「だんだん商品開発っぽくなってきた」


「商品です」


 ミラが言う。


「え?」


「生活にも使える」


「ああ、そうだな」


 ミラは風灯りを見た。


「嘘じゃない形にする」


 その言葉に、ロイドは頷いた。


「うん。嘘じゃない形だ」


 黒羽は生活を偽装に使う。


 こちらは、生活に本当に役立つものとして作る。


 似ているようで、全然違う。


 その違いを、見失ってはいけない。


 水灯りの方は、さらに難しかった。


 ロイドが持つと、どうしても不自然だ。


 丸い枠。


 持ち手。


 基準環。


 反射片。


 普通の灯り石には見えない。


 しかし、バーツが持つと違った。


 処理場職員の手にあると、水回りの点検道具に見える。


「誰が持つかで変わるな」


 ロイドが言う。


 バーツは短く答えた。


「職員なら普通」


「俺が持つと?」


「怪しい」


「ですよね」


 ミラが水灯りを見る。


「持つ人を選ぶ」


 セドが記録する。


 水灯りは一般携帯不可。


 処理場職員、工房職人、点検者用。


 使用者を限定。


 ロイドは頷いた。


「じゃあ、次に外へ出すなら、バーツさんかガルドさんが持つ方が自然か」


 ガルドが言う。


「工房側なら俺かハインツ。水路側ならバーツ」


「ミラは?」


 ミラは自分を指差す。


「私?」


「作った本人だけど」


 セドが首を横に振る。


「ミラが持つと、黒羽に作成者として目を付けられる可能性があります」


 店内が少し静まる。


 ミラは水灯りを見る。


「……持たない方がいい?」


「現場周辺では、できれば」


 セドは慎重に言った。


「店内や安全区域では構いません。しかし、黒羽に用途を悟られた場合、作成者を探す可能性があります」


 ロイドの胸が冷える。


 そうだ。


 道具が注目されれば、作った人間も注目される。


 ミラを危険に晒すわけにはいかない。


 ミラは黙っていた。


 少しだけ、手が止まっている。


 ロイドは声をかけた。


「ミラ」


「うん」


「作ったからって、全部自分で持つ必要はない」


「うん」


「道具は、使う人まで考えて作るものなんだろ?」


 ミラは少しだけ顔を上げた。


「うん」


「なら、持たない判断も作ることの一部だ」


 エルマが静かに頷いた。


「その通りだよ」


 ミラは少し黙り、それから小さく頷いた。


「分かった」


 その声は少しだけ悔しそうだった。


 でも、納得もしていた。


 ロイドは胸の奥で、痛みと安心を同時に感じた。


 進むことは、持つことだけではない。


 作ることは、前に出ることだけではない。


 誰に渡すか。


 どこで止めるか。


 それもまた、作る責任なのだ。


 


 夕方前、テオが店へ来た。


 今日は一人ではない。


 オルドが一緒にいる。


 約束通りだった。


「ロイドさん」


「どうした?」


「見習いの間で、新しい噂が出てます」


 ロイドは椅子から立ち上がる。


「どんな?」


 テオは少し言いにくそうにする。


 だが、オルドが頷くと、覚悟を決めたように言った。


「ロイドの店の新しい灯りを使えば、旧い入口の中でも迷わないって」


 店内の空気が、すっと冷える。


 ミラの目が細くなる。


 ロイドは拳を握りかけて、開いた。


「……誰から?」


「市場通りの方で聞いたって。配達人か、露店の客かは分からないそうです」


 セドが記録する。


 新噂。


 ロイドの店の新灯りを使えば旧い入口で迷わない。


 出所、市場通り方面。


 ロイドは深く息を吐いた。


「やっぱり、市場通りだな」


「はい」


 セドが答える。


「黒羽が意図的に、試作品を“進む道具”として歪めようとしている可能性があります」


 ミラが短く言う。


「違う」


「うん」


 ロイドは頷いた。


「戻るための灯りだ」


「うん」


「それを、明確にしよう」


 ロイドは昼に下書きした紙を取り出した。


 そこへ一文を足す。


 この灯りは、迷わず進むためのものではありません。


 危ないと分かった時、迷わず戻るためのものです。


 書いた瞬間、ロイド自身の中でも何かが定まった。


 迷わず進む灯りではない。


 迷わず戻る灯り。


 それこそ、風灯りと水灯りの意味だった。


 ミラが紙を見る。


「いい」


 セドも頷く。


「非常に分かりやすいです」


 ガルドが低く言う。


「工房街にも貼る」


「お願いします」


 テオが紙を見て、何度も小さく読んだ。


「迷わず戻るための灯り……」


 ロイドは彼を見る。


「見習いたちに伝えられるか?」


「はい」


 テオは頷いた。


「これは、分かります」


 オルドも言う。


「私も一緒に伝えます」


 ロイドは二人に紙を渡す。


「一人で抱えないでください」


 テオは少し笑った。


「はい。分かってます」


 その返事を聞いて、ロイドは少し安心した。


 テオも学んでいる。


 一人で走らないことを。


 噂を戻すことを。


 それも、帰り道の一つだった。


 


 夜。


 店の壁には、新しい方針紙が貼られた。


 風灯り・水灯り説明方針。


 一、危険へ入るための道具ではない。


 二、危険を判断して戻るための灯り。


 三、迷わず進むためではなく、迷わず戻るため。


 四、完成前のため持ち出し禁止。


 五、使用者を限定する。


 六、見せすぎず、隠しすぎない。


 七、全員帰還。


 ロイドはそれを見て、静かに頷いた。


「これで、77話……じゃなくて、次に外へ出す準備はできたかな」


 ミラが横で首を傾げる。


「また?」


「何でもない」


 ロイドは苦笑した。


 セドは地図を見ながら言う。


「明日は、現場周辺の手前で反応を見ることが可能です。ただし、噂の変化を確認してから」


「水路東側安全線の手前?」


「はい」


「高台側排水路の延長地点?」


「はい」


 ロイドは深く息を吸った。


 次に進む場所が見えた。


 まだ入口ではない。


 E三副にもW二にも近づかない。


 でも、安全区域より一歩だけ近い。


 そこで、風灯りと水灯りが本当に役に立つかを見る。


 反応したら進むのではない。


 反応したら戻る。


 その試験だ。


 ミラが風灯りに布をかける。


 水灯りにも。


 その手つきは、昨日より少し落ち着いていた。


「明日、持つ?」


 ロイドが聞く。


 ミラは首を横に振った。


「水灯りは持たない」


「うん」


「風灯りは、短時間なら」


「無理はしない」


「うん」


「見えたら?」


「戻る」


 ロイドは頷いた。


「よし」


 ガルドが壁にもたれながら言う。


「俺は店で待機する」


「ガルドさんが?」


「現場で直したくなる奴を止める役もいるだろ」


 ミラがガルドを見る。


「止める人」


「ああ」


「えらい」


「もう慣れてきた自分が嫌だ」


 店内に小さな笑いが起きた。


 その笑いの中で、ロイドは店の外の貼り紙を見る。


 夜風に揺れている。


 灯りが文字を照らす。


 危ないと分かった時、迷わず戻るための灯り。


 それは、道具だけではない。


 言葉も。


 人の声も。


 街の目も。


 全部が、戻るための灯りになっていく。


 ロイドは静かに言った。


「明日は、見えたら戻る日だ」


 ミラが頷く。


「うん」


 セドも。


「はい」


 ガルドも。


「ああ」


 エルマが、柔らかい声で言った。


「怖いなら、戻る場所を先に決める。いい準備だよ」


 店の灯りが、静かに揺れていた。


 旧測量坑道の闇は、まだ遠くにある。


 だが、その影は少しずつ近づいている。


 だからこそ、ロイドたちは急がない。


 戻るための灯りを、ひとつずつ確かめながら。


 次の一歩を、明日に置いた。

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