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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第75話



 朝、ロイドの店の前には、いつもより多くの人が立ち止まっていた。


 灯り石を買いに来た客だけではない。


 水路沿いの住民。


 工房街の見習い。


 子供を連れた母親。


 処理場の職員。


 通りすがりの老人。


 皆、店の扉ではなく、扉の横に貼られた紙を見ていた。


 風が止まっても、安全ではありません。


 水路や旧い入口には近づかないでください。


 風がない場所ほど、空気が悪くなったり、水が急に戻ったりする危険があります。


 子供・見習いだけで確認に行かないこと。


 変な噂を聞いたら、大人かロイドの店へ知らせてください。


 店主ロイド


 紙は、夜のうちに少し湿っていた。


 端がわずかに波打っている。


 けれど、文字は読める。


 ロイドは店の中から、その様子を見ていた。


 扉を開ける前だというのに、胸の奥が重い。


 昨日、テオが持ち込んだ噂。


 風が止まったから、もう安全。


 大人たちは隠しているだけ。


 旧測量坑道の入口へ行っても大丈夫。


 その噂は、ただの子供の好奇心から出たものかもしれない。


 だが、タイミングが悪すぎた。


 黒羽の封鎖弁操作。


 風灯りと水灯りの試作。


 こちらが風の意味を読み始めた直後。


 そこで、風が止まったことを“安全”として広める噂が流れた。


 偶然と決めるには、あまりにも都合がよすぎる。


「……見てるな」


 ロイドが呟いた。


 ミラが横で頷く。


「うん」


「みんな、読んでる」


「うん」


「伝わるかな」


「伝える」


 短い答え。


 だが、ミラの声は強かった。


 ロイドは紙を見た。


 昨夜、急いで書いた言葉。


 上手い文章ではない。


 飾りもない。


 でも、必要なことを書いたつもりだった。


 風が止まっても、安全ではない。


 それだけは、絶対に伝えなければならない。


 セドは作業台で、同じ文面の写しを複数作っていた。


 工房街用。


 水路沿い用。


 処理場用。


 避難先の高い通り用。


 そして、子供にも読めるように文字を少し大きくした版。


 ロイドはその紙を見て、少しだけ苦笑した。


「また紙だらけだな」


「はい」


 セドは筆を止めずに答える。


「必要です」


「分かってる」


「噂は、早いです」


「うん」


「正しい情報は、それ以上に届く形にする必要があります」


 ロイドは頷いた。


 黒羽は道具を使う。


 操作線を使う。


 変装を使う。


 そして、噂も使うかもしれない。


 なら、こちらは言葉で対抗する。


 ただし、煽らない。


 怖がらせすぎない。


 でも、危険は隠さない。


 その加減が難しい。


「セド」


「はい」


「これ、怖すぎる?」


 ロイドは貼り紙の文を指差した。


 セドは少し考える。


「危険を伝えるには適切です」


「でも、子供が怖がりすぎないかな」


「怖がること自体は悪くありません」


 セドは静かに言った。


「ただし、何をすればいいかを書いてあることが大切です」


 ロイドは紙を見直す。


 近づかない。


 子供だけで行かない。


 変な噂を聞いたら知らせる。


 確かに、行動が書いてある。


「ただ怖いだけじゃなく、どうすればいいか」


「はい」


 ミラが言う。


「怖い場所ほど」


 ロイドが続けた。


「帰り道を先に描く」


「うん」


 セドも少しだけ目を伏せた。


 ミラベルの言葉は、今やこの店の考え方そのものになっていた。


 危険を知らせるだけではない。


 帰る行動を示す。


 戻る場所を示す。


 誰に伝えればいいかを示す。


 それが、言葉で描く帰り道なのだ。


 ガルドが奥から出てきた。


 手には、工房街へ持っていくための紙束がある。


「ハインツに渡す。あいつなら、親方連中へ回せる」


「お願いします」


 セドが言う。


「テオは?」


 ロイドが聞いた。


「見習いどもに声をかけさせる。ただし、一人で動かせねぇ。オルドをつける」


「よかった」


 ロイドは心からそう言った。


 テオは責任感が強い。


 昨日の水路のこともあり、自分が何とかしなければと思い詰める可能性がある。


 だから、大人が横につく必要がある。


「ミラ」


 ガルドが声をかける。


「うん」


「風灯りと水灯りは、今日は触るなよ」


 ミラは少しだけ顔を上げた。


「少しだけ」


「駄目だ」


 ガルドの声は短かった。


 ミラは黙る。


 ロイドも、静かに言った。


「今日は、噂を止める日だ」


「……うん」


「試作品も大事だけど、誰かが入口へ行ったら意味がない」


「うん」


 ミラは作業台の端に置かれた風灯りと水灯りを見た。


 布に包まれている。


 まだ改良したいはずだ。


 反射板。


 基準環。


 湿気対策。


 やることは山ほどある。


 それでも、今日は触らない。


 街の安全を先に固める。


「作るのも、守るため」


 ミラが小さく言った。


 ロイドは頷く。


「ああ」


「だから、今日は守る」


「うん」


 ミラは布の上から二つの試作品にそっと手を置き、それから手を離した。


「今日は、触らない」


 ロイドは少し安心した。


「えらい」


 ミラは小さく頷いた。


「うん」


 


 店を開けると、すぐに質問が飛んできた。


「店主さん、これ本当か?」


 水路沿いの男が、貼り紙を指差した。


「風が止まっても危ないって」


「本当です」


 ロイドははっきり答えた。


 店の前が静かになる。


「風が止まると、落ち着いたように見えるかもしれません。でも、古い通路や排水の中では、空気や水の流れが止まること自体が危険な場合があります」


 難しくなりすぎないように。


 でも、嘘にならないように。


 ロイドは慎重に言葉を選ぶ。


「水が止まってるから安全、じゃない。風がないから安全、でもない。急に戻ることがあります」


 マイラが、人混みの中から頷いた。


「昨日、私も見ました。風が弱くなったり止まったりして、気持ち悪かったです」


 彼女の言葉に、周囲の住民が顔を見合わせる。


 ロイドが言うより、実際に見た住民の言葉は強い。


 マイラは少し緊張していたが、続けた。


「だから、子供だけで見に行かせないでください。私たちも、噂を聞いたら止めます」


 母親たちが頷く。


「うちの子にも言っておく」


「昨日から坑道って言葉を面白がってたんだよ」


「見に行くなって言わないと」


 ロイドはその声を聞き、少しだけ息を吐いた。


 伝わっている。


 少なくとも、ここにいる人たちには。


 しかし、その中で一人、若い男が不満そうに言った。


「でも、大人が隠してるって話もあるだろ」


 空気が少し変わる。


 ロイドは男を見た。


 見覚えは薄い。


 工房街の見習いか、荷運びの若者か。


 悪意があるのか、ただ不満を言っているのかは分からない。


「何を隠してるって?」


 ロイドが聞く。


 若い男は少したじろいだが、言った。


「旧い入口の向こうに、価値あるものがあるって」


 店の中の空気が、さらに冷えた。


 価値あるもの。


 その言葉。


 黒羽の匂いがした。


 ロイドはすぐには反応しなかった。


 怒鳴りたくなる。


 だが、ここで怒鳴れば、逆に噂が強くなる。


「価値あるものがあるかどうかは、俺には分からない」


 ロイドは静かに言った。


「でも、命より価値あるものはありません」


 若い男が黙る。


 ロイドは続けた。


「もし誰かが“価値あるものがあるから行け”と言ったなら、その人はあなたを守る気がない」


 沈黙。


「本当に価値あるものなら、子供や見習いや住民を先に行かせたりしない。危険を説明せずに近づかせたりしない」


 ロイドの声は、少し低くなった。


「それは、利用しているだけです」


 周囲が静かになった。


 若い男は視線を逸らす。


「……聞いただけだ」


「聞いたなら、知らせてくれて助かります」


 ロイドは責めなかった。


 その方がいいと思った。


「その話、誰から聞きました?」


「分からない。工房街の方で、何人かが」


「どんな人でした?」


「顔は……覚えてない。水売りみたいな……いや、違うかも」


 セドが店内で静かに記録している。


 水売り。


 またその姿。


 黒羽の操作具を運んでいた可能性のある職の一つ。


 ロイドは頷いた。


「ありがとう。無理に思い出さなくていい。でも、同じ話を聞いたら、また教えてください」


 若い男は戸惑ったように頷いた。


「あ、ああ」


 ロイドは周囲へ向き直る。


「噂は、聞いたら一人で確かめに行かないでください。ここへ持ってきてください。俺たちだけじゃなく、工房の親方や処理場の人にも伝えてください」


 マイラが続ける。


「水路沿いなら、私にも言ってください」


 別の母親が言う。


「高い通りの避難所にも貼ろう」


 老人が頷く。


「読めない子には大人が読んでやればいい」


 小さな声が、少しずつ広がっていく。


 噂に対抗するのは、別の噂ではない。


 誰かを煽る言葉でもない。


 確認できる言葉。


 戻れる言葉。


 それを、人から人へ渡していくことだった。


 


 工房街では、ガルドとハインツが親方たちを集めていた。


 炉の音が響く中、貼り紙が数枚、工房の壁に貼られている。


 風が止まっても、安全ではない。


 見習いだけで旧い入口へ近づかない。


 変な噂を聞いたら親方へ。


 ハインツは腕を組み、低い声で言った。


「これを軽く見るな」


 親方の一人が眉をひそめる。


「噂くらいで大げさじゃないか?」


 ガルドが即座に睨む。


「噂で見習いが死んだら、お前が責任を取るのか」


 親方は口を閉じた。


 ハインツが続ける。


「旧測量坑道は、まだ安全確認が済んでいない。風が止まったという話が出ているが、それは安全の証拠じゃない」


「じゃあ何なんだ」


 別の親方が聞く。


 ガルドは少しだけ迷った。


 封鎖弁や操作線の詳細は言えない。


 言えば黒羽にこちらの把握状況が伝わるかもしれない。


 だが、曖昧すぎても伝わらない。


「古い通路は、風と水の流れが命綱だ」


 ガルドは言った。


「風が止まるってのは、通路の中で空気が死ぬ可能性がある。水が急に戻る可能性もある。だから危ない」


 職人たちは黙った。


 工房にいる者なら、空気の流れや水の流れの重要さは分かる。


 炉も、冷却水も、排気も、流れが止まれば危険になる。


 ハインツが言う。


「炉の排気が止まってるのに安全だと思う馬鹿はいないだろ」


「……いないな」


「それと同じだ」


 この説明は効いた。


 親方たちの顔が変わる。


「見習いに言っておく」


「旧資材倉庫裏へも近づかせない」


「水売りや修理工を名乗る奴が来たら、誰が呼んだか確認する」


 ガルドは頷いた。


「それも大事だ。呼んでない修理工を井戸に近づけるな」


 テオは、見習いたちの前に立っていた。


 緊張している。


 だが、逃げていない。


「お前ら、聞けよ」


 彼は少し声を張った。


「旧い入口へ行くな。風が止まったから安全とか、嘘だからな」


 見習いたちの一人が笑う。


「テオ、何でそんな真面目なんだよ」


 テオの顔が赤くなる。


 しかし、彼は言った。


「俺、水路で死にかけた子を見た」


 笑いが止まる。


 テオの声は震えていた。


「面白半分で行ったら、戻れないかもしれない。だから行くな」


 沈黙。


 見習いたちは、さっきまでの軽さを失っていた。


 テオは拳を握る。


「行きたいなら、大人に言え。隠れて行くな。変な話を聞いたら、俺でもいいから言え」


 オルドが少し離れた場所で見守っていた。


 ガルドも、ハインツも。


 誰も口を挟まなかった。


 テオの言葉は、彼自身のものだった。


 水路の恐怖を知った見習いの言葉。


 それは、貼り紙とは別の灯りになっていた。


 


 ロイドの店では、午前中だけで多くの噂が集まった。


 風が止まったから安全。


 旧測量坑道の奥に価値あるものがある。


 大人たちが先に取ろうとしている。


 ロイドの店は本当は入口の場所を知っている。


 工房街の親方だけが儲けようとしている。


 処理場が何かを隠している。


 どれも、少しずつ真実を混ぜていた。


 だから厄介だった。


 旧測量坑道の入口候補は、確かにある。


 価値あるものがある可能性もある。


 大人たちは入口の危険を知っている。


 処理場も黒い荷箱の件で何かを抱えている。


 全部が完全な嘘なら、否定しやすい。


 だが、真実の欠片が混じると、人は信じやすくなる。


 セドは集まった噂を分類していた。


「噂は三系統あります」


 ロイドが作業台を覗く。


「三系統?」


「一つ目、安全化の噂。風が止まったから安全」


「うん」


「二つ目、価値誘導の噂。奥に価値あるものがある」


「嫌なやつだな」


「三つ目、不信誘導の噂。大人や店、工房、処理場が隠している」


 ロイドは唇を結んだ。


「人を分断するやつか」


「はい」


 ミラが短く言う。


「黒羽っぽい」


「はい」


 セドは頷いた。


「黒羽の手口と一致します」


「価値あるものだけを餌にして、信用を切る」


 ロイドの声が低くなる。


「本当に嫌な連中だな」


 エルマが椅子で目を伏せた。


「十年前も、似たようなことがあったよ」


 店内が静まる。


「事故の前?」


 ロイドが聞く。


「ああ」


 エルマはゆっくり話した。


「危険を指摘する技師は、納期を遅らせたいだけだ、と言われた。冷却路が変だと言ったカイゼルは、音に怯えているだけだと笑われた。ミラベルが図面にない道を見つけた時も、測り間違いだと言われた」


 声が少しずつ低くなる。


「不信を撒くんだよ。危険を言う者を、邪魔者に見せる」


 ロイドは拳を握った。


 十年前も。


 今も。


 同じ構造。


 危険を危険と言う者を疑わせる。


 安全だと思わせる。


 価値あるものを餌にする。


 人を急がせる。


「……今回は、同じにしない」


 ロイドが言った。


 エルマが顔を上げる。


「しない」


 ミラも言う。


「言葉で止める」


 セドが続ける。


「記録で戻します」


 ガルドはまだ戻っていない。


 だが、その場にいなくても、きっと同じことを言うだろう。


 ロイドは作業台の紙を見た。


「噂に対する返答を作ろう」


「はい」


 セドは新しい紙を出す。


 ロイドは筆を取った。


 難しくしない。


 怒りすぎない。


 でも、はっきりと。


 一つ目。


 風が止まったから安全、ではありません。


 古い通路では、風が止まると危険が増える場合があります。


 二つ目。


 奥に価値あるものがある、という噂に乗らないでください。


 命より価値あるものはありません。


 三つ目。


 誰かが隠していると思ったら、一人で確かめに行かず、ロイドの店・工房の親方・処理場職員・水路沿いの代表へ知らせてください。


 確認は、一人ではなく大人複数で行います。


 ロイドは書き終えて、息を吐いた。


「どうだ」


 セドが確認する。


「良いです」


 ミラも頷く。


「分かる」


 エルマが静かに言う。


「最後がいいね」


「最後?」


「一人で確かめに行くな。複数で確認する。帰り道がある」


 ロイドは頷いた。


「噂にも帰り道が必要なんだな」


「そうだよ」


 エルマは茶器を持ち直した。


「疑うこと自体は悪くない。でも、一人で闇に入る疑い方は危ない」


 その言葉は、ロイドの胸に深く残った。


 疑うことも、帰り道がいる。


 


 午後には、店の前で小さな説明の場ができた。


 ロイドは最初、やるつもりではなかった。


 だが、噂を持ってくる人が増え、同じ説明を何度もするうちに、いっそ皆の前で話した方がいいという流れになった。


 店の前。


 通りの端。


 人々が少し距離を取りながら集まる。


 水路沿いの住民。


 工房の見習い。


 母親たち。


 処理場の職員。


 数は多すぎない。


 だが、視線は多かった。


 ロイドは緊張した。


 人前で話すのは得意ではない。


 店主として客に説明するのとは違う。


 これは、街の危険について話すことだ。


 失敗すれば、不安を煽るかもしれない。


 信頼を失うかもしれない。


 セドが横に立つ。


 ミラは店の扉の近く。


 エルマは奥で座っている。


 ガルドは工房街から戻り、通りの端に立っていた。


 テオとオルドもいる。


 マイラもいる。


 ロイドは深く息を吸った。


「まず」


 声が少し震えた。


 でも、続ける。


「旧い入口や水路に関する噂が出ています」


 人々が静かになる。


「風が止まったから安全だとか、奥に価値あるものがあるとか、大人が隠しているとか、そういう話です」


 ざわりとする。


 ロイドは声を少し強くした。


「噂を聞くこと自体は悪くありません。不安になるのも当然です。疑うのも当然です」


 一拍。


「でも、一人で確かめに行かないでください」


 その言葉は、通りに落ちた。


「古い通路では、風が止まることが安全の証拠にはなりません。むしろ危険な場合があります。水も、止まっているように見えて急に戻ることがあります」


 ロイドは、難しい封鎖弁の話はしない。


 だが、危険は伝える。


「奥に価値あるものがある、と言う人がいるかもしれません。でも、命より価値あるものはありません。危険を説明せずに人を向かわせる人は、あなたを守る気がありません」


 若い見習いたちが、真剣な顔で聞いている。


 テオも、拳を握っている。


「もし、大人が隠していると思ったら、店へ来てください。工房の親方へ言ってください。処理場の人へ言ってください。水路沿いならマイラさんへ。確認は、一人ではなく、必ず複数で行います」


 ロイドは少しだけ息を吸った。


「怖い場所へ、一人で行かないでください」


 沈黙。


 その沈黙の中で、ミラが小さく言った。


「帰れなくなる」


 声は大きくない。


 でも、不思議と通った。


 ロイドは頷く。


「そうです」


 彼は続けた。


「俺たちは、誰かを閉じ込めるために情報を止めているわけじゃありません。帰ってこられるように、順番を守っています」


 セドが静かに紙を掲げる。


 旧測量坑道調査方針の簡略版。


 入口へ近づかない。


 風が止まっても安全ではない。


 噂は一人で確かめない。


 確認は複数で。


 子供・見習いだけで行かない。


 全員帰る。


 人々はそれを見つめた。


 やがて、マイラが言った。


「水路沿いは、私たちで見ます。子供たちにも伝えます」


 ハインツが続ける。


「工房街は、親方連中で見張る。見習いだけで裏へ行かせない」


 ディムの部下であるバーツも、短く言った。


「処理場も見る」


 老人ヨゼフが頷く。


「噂があれば、持ってくる」


 その言葉が、少しずつ周囲へ広がる。


「うちでも読む」


「子供に言う」


「水売りや修理工も確認する」


「誰が呼んだか聞く」


 ロイドは、その声を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 店だけではない。


 街が、少しずつ噂への帰り道を作っている。


 


 説明が終わり、人々が少しずつ散っていく中。


 一人の少年が、店の前に残っていた。


 ニコではない。


 工房街の見習いの一人だ。


 まだ幼さが残る顔。


 彼はロイドを見上げ、言った。


「俺、行こうとしてた」


 ロイドはしゃがんだ。


「入口へ?」


 少年は頷く。


「風が止まったなら大丈夫だって聞いて。奥にすごいものがあるって。見つけたら、親方に認めてもらえるかもって」


 ロイドの胸が痛んだ。


 価値。


 認められる。


 その言葉は、黒羽の餌としてあまりにも残酷だった。


「話してくれてありがとう」


 ロイドは言った。


 少年は驚いたような顔をする。


「怒らないの?」


「行かなかったから」


「……行こうとはした」


「でも、今ここにいる」


 ロイドは少年の目を見る。


「それでいい」


 少年の唇が震えた。


「俺、馬鹿だった?」


「怖いものを見に行きたくなるのは、馬鹿とは違う。認められたいと思うのも悪くない」


 一拍。


「でも、危ない話を一人で信じて、一人で行くのは危ない」


 少年は頷いた。


「次に聞いたら?」


「誰かに言う。テオでも、親方でも、店でもいい」


「……分かった」


 少年は小さく頭を下げ、走っていった。


 ロイドはその背を見送る。


 行かなかった。


 戻れた。


 それだけで、今日は意味があった。


 ミラが横に立つ。


「止まった」


「うん」


「言葉で」


「ああ」


 ロイドは貼り紙を見る。


 読む灯り。


 言葉の灯り。


 それは、確かに誰かの足を止めた。


 


 夜。


 店内では、今日集まった噂と対応が整理されていた。


 噂は三系統。


 安全化。


 価値誘導。


 不信誘導。


 対応。


 貼り紙。


 説明。


 代表者への共有。


 子供・見習いへの声掛け。


 水売り・修理工などの確認徹底。


 そして、入口へ行こうとしていた見習いを一人止めた。


 セドは最後に、今日の記録へ一行を書いた。


 噂による誘導を確認。


 言葉による制止、効果あり。


 ロイドはそれを見て、深く息を吐いた。


「今日は、試作品進めなかったな」


 ミラが答える。


「進んだ」


「え?」


「人が行かなかった」


 ロイドは黙った。


 ミラは続ける。


「それも、帰り道」


 ロイドは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


 そうだ。


 風灯りや水灯りを作ることだけが進むことではない。


 危険な道へ誰かが行かないようにすることも、帰り道を描くことだ。


「……そうだな」


 ロイドは静かに言った。


「今日は進んだ」


 ガルドが腕を組む。


「工房街も、少し締まった。見習いどもも入口へは行かねぇだろう」


「テオ、頑張ってましたね」


 セドが言う。


「ああ」


 ガルドの声が少しだけ柔らかくなる。


「あいつなりにな」


 エルマは目を閉じて言った。


「十年前にも、こういう言葉があればね」


 店内が静まる。


 ロイドは何も言えなかった。


 十年前。


 カイゼルが異音を指摘した時。


 ミラベルが図面にない道を見つけた時。


 危険だと伝える言葉が、もっと届いていれば。


 不信ではなく、確認へ向かう空気があれば。


 何かが変わったのかもしれない。


 だが、過去は戻らない。


 だから今、同じにしない。


「エルマさん」


 ロイドは言った。


「今度は、止めます」


 エルマは目を開ける。


「うん」


「言葉でも、灯りでも、地図でも」


 ミラが続ける。


「道具でも」


 セドも。


「記録でも」


 ガルドが低く言う。


「職人の声でもな」


 エルマは、少しだけ笑った。


「頼もしいね」


 その声は、少し震えていた。


 でも、温かかった。


 ロイドは壁に新しい紙を貼った。


 噂対応方針。


 一、噂を笑わない。


 二、聞いた人を責めない。


 三、一人で確かめに行かせない。


 四、複数の大人で確認する。


 五、価値より命。


 六、疑いにも帰り道を作る。


 七、全員帰還。


 ミラがその紙の前に小さな灯り石を置いた。


 ロイドは最後の二行を見て、静かに頷いた。


 疑いにも帰り道を作る。


 全員帰還。


 外では、夜の通りに貼り紙が揺れている。


 水路の向こうから、冷たい風が一度だけ吹いた。


 風は止まっていなかった。


 けれど、たとえ止まっても、もう安全だとは誰も簡単に言わないだろう。


 少なくとも、この通りでは。


 ロイドの店には、風を見る灯りと、水を見る灯りが眠っている。


 そして今夜、新しく、言葉で人を止める灯りがともった。


 黒羽が噂を流すなら。


 こちらは、帰るための言葉を流す。


 誰かが価値を餌にするなら。


 こちらは、命の価値を伝える。


 誰かが一人で闇へ行こうとするなら。


 こちらは、戻る場所を示す。


 第二章の道は、まだ旧測量坑道の入口へ届いていない。


 けれど、今日、確かに一人の足が止まった。


 それは小さな勝利だった。


 派手な戦いではない。


 剣も魔法もない。


 ただの紙と、声と、灯り。


 それでも、ロイドは思った。


 こういう勝ち方もあるのだと。


 店の灯りを落とす前、彼はもう一度、扉の外の貼り紙を見た。


 風が止まっても、安全ではありません。


 その文字を照らす灯り石が、夜の中で静かに光っていた。


 誰かがそれを読み、足を止める。


 それだけで、今日の灯りは十分に役目を果たしていた。

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