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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第70話



 ロイドは、朝の店の中でその数字を思い浮かべて、少しだけ変な気持ちになった。


 何かが大きく変わるわけではない。


 今日も店は店だ。


 棚には灯り石が並び、作業台には紙が広がり、壁には貼り紙が増えている。


 外では東水路の立入制限が続き、工房街では濡れた端材の分別が続き、処理場では黒い荷箱の記録が続いている。


 王城ではルイスがまだ古い記録を追っているはずだ。


 何も終わっていない。


 むしろ、問題は増えている。


 旧測量坑道。


 第三点検口。


 封鎖弁。


 主線と副線。


 補助操作具。


 黒羽の変装。


 ミラベルの認識札。


 消えた七人。


 数え上げれば、胃が痛くなるものばかりだった。


 それでも、ロイドは少しだけ思った。


 ここまで来たのか、と。


 潰れかけの灯り石屋だった頃には、考えもしなかった。


 自分の店が、王都の裏側の闇に関わることになるなんて。


 店の作業台で、帰り道の地図を描くことになるなんて。


 そして、怖がりながらも逃げずに立っているなんて。


「……変な店になったな」


 ロイドがぽつりと言う。


 ミラが棚の前で答える。


「元から」


「元から?」


「少し」


「そうかな」


「うん」


 ロイドは苦笑した。


「まあ、潰れかけの店だったしな」


「でも、灯りはあった」


 その言葉に、ロイドは一瞬黙る。


 ミラはいつも通り、淡々と灯り石を並べている。


 しかし、その短い言葉は、店の奥にまで届いた。


 潰れかけでも。


 客が少なくても。


 棚が寂しくても。


 灯りはあった。


 だから、ここまで来たのかもしれない。


「……ありがとな」


 ロイドが言う。


 ミラは少しだけ首を傾げる。


「何が?」


「いや、今の言葉」


「うん」


「ちょっと救われた」


「よかった」


 それだけ。


 でも十分だった。


 作業台では、セドが今日の方針を書いていた。


 補助操作具確認方針、第二段階。


 一、主具と副具の対を探す。


 二、持ち物の形状を記録する。


 三、操作時刻と風・水の変化を重ねる。


 四、奪わない。


 五、追わない。


 六、操作役と確認役の組み合わせを特定する。


 七、観測者全員の帰還を最優先。


 ロイドは最後の項目を見て、頷いた。


「全員帰還」


「はい」


 セドも頷く。


「最重要です」


「毎回書くと、いいな」


「確認になります」


「うん」


 ガルドが腕を組んで紙を見る。


「主具と副具の対、か」


「昨日の記録では、主具は井戸側、給水管点検路に接続。副具は水路側、風圧確認孔付近に接続している可能性が高いです」


「つまり、二人一組」


「はい」


 セドは昨日の観測図を示す。


「水売りと袋持ち。修理工と老人風の男。野菜売りと靴磨き。いずれも工房側と水路側に一人ずつ現れています」


 ロイドが顔をしかめる。


「嫌なペアだな」


「はい」


「でも、ペアがあるなら、同時に動く」


「その可能性が高いです」


 ミラが短く言う。


「片方を見れば、もう片方も探せる」


「はい」


 セドは頷いた。


「今日はそれを確認します」


 エルマは地図の前で目を細める。


「主具と副具が同時に動くなら、風と水の変化には順番が出る」


「順番?」


 ロイドが聞く。


「主具で弁を動かし、副具で圧を調整するなら、まず井戸側の水面が変わる。その後、排水溝の風や水が変わる」


「逆なら?」


「副具で状態確認してから主具で動かすなら、排水溝側に小さな変化が先に出る」


 セドがすぐに書き込む。


 変化の順番。


 井戸先行、主具操作。


 排水溝先行、副具確認。


 同時、合図連動。


 ロイドは目を丸くした。


「順番まで見るのか」


「はい」


「細かいな」


「細かいところが命を分ける場合があります」


 エルマが言う。


「ミラベルも、そういう子だった」


 ミラベル。


 その名前が出ると、店の空気が少し変わる。


 重くなるだけではない。


 背筋が伸びる。


 怖がりの測量士。


 帰り道を先に描いた人。


 細かいところを見落とさなかった人。


 彼女のやり方を、今この店は受け継いでいる。


 ロイドは深く息を吐いた。


「よし」


 声を出す。


「今日も、触らない。追わない。奪わない」


 ミラが続ける。


「でも、見る」


 セドが頷く。


「記録する」


 ガルドが低く言う。


「重ねる」


 エルマが最後に言った。


「帰る」


 全員が頷いた。


 


 午前の観測は、昨日よりさらに慎重に行われた。


 工房側には、ガルド、ハインツ、オルド。


 さらに、今日は水面記録をする若い職人が一人。


 水路側には、ロイド、セド、マイラ、バーツ、ヨゼフ。


 そして、店にはミラが残り、二箇所から届く合図の時刻を合わせる役を担った。


 合図といっても派手なものではない。


 工房側からは、ハインツの工房の煙突に出る煙の量。


 水路側からは、マイラたちが干す布の位置。


 それを、通りの人に紛れた連絡役が店へ伝える。


 大げさな通信ではない。


 だが、今の街にはそれで十分だった。


 ロイドは水路側の高い通りに立ちながら、少し離れた場所で布を扱うマイラを見た。


 彼女はもう、怯えて固まるだけではなくなっている。


 怖さはある。


 だが、動ける。


 ヨゼフも、排水溝の位置を見ながら低く呟く。


「昔は、こんなものを気にしてなかった」


 ロイドが聞く。


「風ですか」


「ああ」


 ヨゼフは古い石畳を見る。


「風も、水の音も、ただそこにあるものだと思っていた」


「今は?」


「今は、知らせてくれていたのかもしれんと思う」


 その言葉に、ロイドはカイゼルを思い出した。


 水は嘘をつかない。


 人は水を聞かない。


 今なら、その意味が少しだけ分かる。


「今日は聞きましょう」


 ロイドが言う。


 ヨゼフは少し驚いた顔をし、それから静かに頷いた。


「ああ」


 バーツが浮き片を準備する。


 セドは時刻を確認した。


「始めます」


 水路側の排水溝。


 浮き片を置く。


 風紙を見る。


 最初は、ゆるやかな回転。


 昨日と同じ。


 下方吸引がある。


 ただし弱い。


 セドが記録する。


 時刻。


 回転方向。


 風、弱。


 不審者なし。


 その頃、工房側の井戸でも同じように浮き片が浮かべられていた。


 井戸の水面は静か。


 風紙も弱く揺れている。


 ハインツが周囲を見る。


 今日は、誰が来るか。


 水売りか。


 修理工か。


 野菜売りか。


 あるいは別の姿か。


「……来た」


 オルドが小さく言った。


 井戸の向こう。


 壺売りの男がいた。


 背負い籠に小さな壺をいくつも入れている。


 工房街に壺売りが来ることはある。


 油入れや粉入れに使うからだ。


 不自然ではない。


 だが、その男は誰にも壺を売ろうとしていなかった。


 ただ、井戸から少し離れた壁際に立っている。


 そして、背負い籠の底へ手を入れていた。


 ガルドは視線を固定しない。


「壺売り風」


 ハインツが低く言う。


「籠の底」


 オルドが記録する。


 その瞬間、井戸の浮き片が動いた。


 昨日と同じように、南東へ寄る。


 だが、今回はその動きが小さい。


 ガルドは眉をひそめる。


「弱いな」


「主具じゃない?」


 オルドが聞く。


 ハインツが小さく答える。


「副具かもしれん」


 井戸側にいるのに、副具。


 つまり、昨日までの役割と違う可能性。


 黒羽も手を変えてきている。


 その直後、水路側で変化が起きた。


 排水溝の浮き片が、先に回転を早めた。


 時計回り。


 次に風紙が止まる。


 さらに数秒後、井戸側の風紙が止まった。


 ロイドはセドを見る。


「順番、どっちが先だ?」


「排水溝側です」


 セドの声が低い。


「つまり?」


「今日は副具確認が先。その後、主具操作」


「昨日と違う」


「はい」


 マイラが顔を強張らせる。


「向こうも、変えてきているんですか」


「その可能性があります」


 ロイドは排水溝の向こうを見る。


 誰かいる。


 そう思った。


 しかし、見えない。


 見える場所には誰もいない。


 なら、どこから操作している?


 バーツが低く言った。


「上じゃない」


「え?」


「下」


 バーツは排水溝の奥を鏡棒で見る。


「溝の反対側。別の小孔」


 セドの目が鋭くなる。


「別の確認孔ですか」


「たぶん」


 ロイドの背筋が冷える。


 水路側には、まだ見えていない副具接続点がある。


 黒羽はそちらを使ったのかもしれない。


「触るなよ」


 ロイドが思わず言う。


 バーツは無表情で答えた。


「触らない」


「すみません」


「大事」


 短いやり取り。


 だが、ロイドは少しだけ安心した。


 全員、もう分かっている。


 触らないことが、進むことになる時がある。


 


 店へ戻った午前の記録は、予想以上に複雑だった。


 水路側が先に変化。


 排水溝の別小孔の可能性。


 工房側の壺売り風は、動きが弱い。


 井戸側の浮き片変化小。


 その後、風停止。


 セドは紙を並べ、しばらく黙った。


 ロイドはその顔を見て、少し不安になる。


「複雑?」


「はい」


「黒羽が変えてきた?」


「おそらく」


「こっちが見てるのに気づいてるから?」


「はい」


 ガルドが腕を組む。


「だが、変えたから見えたものもある」


 エルマが頷く。


「その通り」


 彼女は水路側の図を指す。


「別の小孔。つまり、副線が一本じゃない可能性」


 ロイドが顔をしかめる。


「また増えるのか」


「増えるというより、枝がある」


「枝?」


「主線と副線は二系統。でも、副線側に確認孔が複数あるんだろうね」


 セドが記録する。


 副線側に複数確認孔の可能性。


 黒羽、観測対応として接続点変更。


 ロイドは頭を抱えた。


「描く地図がどんどん細かくなる」


「だからミラベルの実測図が必要なんです」


 セドが静かに言った。


 店内が少し静まる。


 ミラベルの実測図。


 事故三日前に借りられ、返却されていない図面。


 それがあれば、旧測量坑道の細部や確認孔の位置が分かるかもしれない。


 だが、今はない。


 どこにあるかも分からない。


 ミラベルが隠したのか。


 黒羽が持っているのか。


 搬出路の奥に眠っているのか。


 ロイドは壁の紙を見る。


 帰り道は、見つけるものではなく、描くもの。


 だが、描くための元の地図がない。


「……ミラベルさん、本当にすごい人だったんだな」


 ロイドが呟く。


 エルマが静かに答えた。


「ああ」


「いなくなって十年経っても、その人の地図を探してる」


「そうだね」


「黒羽も欲しがってる」


「だから、余計に腹が立つ」


 エルマの声は低かった。


「人として見ずに、地図として欲しがってるんだろうからね」


 ロイドは頷いた。


「俺たちは、そうしない」


「はい」


 セドも頷く。


「地図が必要でも、ミラベルさんを地図扱いはしません」


 ミラが短く言う。


「名前が先」


 その言葉に、エルマは目を伏せた。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 でも、確かに届いた。


 


 昼過ぎ、王城から新しい覚書が届いた。


 ルイスの筆跡は、いつもより少し急いでいるように見えた。


 セドは紙を開き、読み上げる。


「外縁通路実測図の補助索引を発見」


 全員の視線が集まる。


「補助索引?」


 ロイドが聞く。


 セドは続ける。


「本図そのものではないが、確認孔・測量点・通風点の索引番号が記録されている。ミラベル・サージの手書きと思われる注記あり」


 エルマが立ち上がった。


「見せな」


 セドは紙を作業台に置く。


 ルイスは、索引の一部を写してくれていた。


 東側扉付近。


 通風点E二。


 確認孔E三。


 排水溝下、小孔E三副。


 工房側井戸付近。


 給水管点検路W一。


 操作線接続点W二。


 旧資材倉庫裏、測量点W三。


 そして、注記。


 ――怖いなら、風が戻る場所を探すこと。


 ――風が戻る場所には、人も戻れる。


 店内に、長い沈黙が落ちた。


 エルマの手が震えている。


 ミラは紙を見つめたまま、瞬きもしない。


 ロイドは胸が詰まった。


 ミラベルの言葉だ。


 たぶん。


 怖いなら、風が戻る場所を探すこと。


 風が戻る場所には、人も戻れる。


 怖がりの測量士が、未来の誰かへ残したような言葉。


「……ミラベルさん」


 ロイドが小さく呟く。


 エルマは何も言わなかった。


 ただ、椅子に座り直す。


 目元を手で押さえる。


 誰も急かさなかった。


 セドは静かに紙を見つめる。


「今日、バーツさんが見つけた別小孔は、E三副の可能性があります」


「はい」


 ロイドが言う。


「井戸側はW二」


「はい」


「資材倉庫裏がW三」


「はい」


 ガルドが低く言う。


「一気に繋がったな」


「はい」


 セドの声も少し震えていた。


「ミラベルさんの索引で、観測結果に名前がつきました」


 名前がつく。


 それは大きかった。


 見えないものが、ただの違和感ではなくなる。


 E三副。


 W二。


 W三。


 番号がつき、位置がつき、意味がつく。


 地図になる。


 ミラは紙の横に、小さな灯り石を置いた。


「見える」


 短く言う。


 ロイドは頷いた。


「ああ」


「見えるようになった」


「うん」


 エルマはようやく顔を上げた。


 目は少し赤かった。


 だが、声はしっかりしていた。


「……あの子、残してたんだね」


「はい」


 セドが答える。


「完全な図面ではありませんが、索引が残っています」


「十分だよ」


 エルマは紙を撫でるように見た。


「怖がりのあの子らしい。全部持っていかれても、番号だけは別に残したんだ」


 ロイドは胸の奥が熱くなる。


 黒羽が欲しがった道。


 ミラベルは、それを全部渡さなかった。


 少なくとも、一部を王城の記録に残した。


 消されても、十年経っても、届くように。


「……すごいな」


 ロイドは言った。


「本当に」


 


 夕方の観測は、索引番号を意識して行われた。


 水路側。


 E二、通風点。


 E三、確認孔。


 E三副、排水溝下の小孔。


 工房側。


 W一、給水管点検路。


 W二、操作線接続点。


 W三、旧資材倉庫裏の測量点。


 番号がついたことで、観測者たちの意識も変わった。


 マイラは紙を見ながら小さく言う。


「E三副……ここに名前があるんですね」


「はい」


 セドが答える。


「ミラベルさんが残した番号です」


「じゃあ、ちゃんと見ます」


 その言葉に、ロイドは胸が熱くなった。


 ただの穴ではない。


 ただの排水溝ではない。


 誰かが怖がりながら測り、番号をつけた場所。


 それを、今、別の誰かが見ている。


 工房側でも同じだった。


 ガルドが井戸周辺を見て言う。


「W二」


 ハインツが頷く。


「操作線接続点」


 オルドが記録する。


「W三、資材倉庫裏」


 テオが少し離れた場所から聞いて、呟いた。


「名前があると、何か……ただの場所じゃなくなりますね」


 ガルドは短く答える。


「ああ」


 その通りだった。


 番号がつくことで、場所は記録になる。


 記録になることで、誰かが見つけられる。


 誰かが帰れる。


 ミラベルの仕事は、十年後の今も生きている。


 


 夕方の操作は、また行われた。


 水路側では、E三副に先に変化が出た。


 排水溝下の小孔。


 浮き片が短く逆回転。


 その五秒後、工房側W二で井戸の水面が南東へ引かれた。


 さらに三秒後、E二の風が弱まる。


 セドは時刻を刻む。


 マイラが布を下げる。


 バーツが鏡棒を引く。


 誰も近づかない。


 工房側でも、ガルドたちはW二の変化を見て、すぐに戻った。


 操作役らしき人物は見えなかった。


 しかし、持ち物は見えた。


 路地を通り過ぎた配達人の背負い箱。


 箱の側面に、ミラが描いた副具の金具と同じ形があった。


 追わない。


 記録する。


 戻る。


 店に集まった夕方の結果は、明確だった。


 E三副。


 W二。


 E二。


 この順番。


 副具で確認。


 主具で操作。


 通風点で結果確認。


 黒羽の操作手順が、初めて順番として見えた。


 ロイドは作業台の上の紙を見つめ、静かに言った。


「……見えたな」


 セドが頷く。


「はい」


 ガルドが腕を組む。


「これで、相手がどの順番で動かしてるか分かる」


「はい」


 ミラが補助操作具の絵を横に置く。


「主具と副具の対」


「はい」


 エルマがミラベルの索引写しを見て、息を吐いた。


「ミラベルが番号を残してなきゃ、ここまで繋がらなかった」


 ロイドは頷いた。


「ルイス様が見つけてくれた」


「はい」


 セドの声には、誇りがあった。


 王城の中でルイスが紙を探し、外でロイドたちが風と水を見て、街の人々が協力し、ミラベルの残した番号が繋がる。


 一人ではない。


 本当に、一人ではない。


「次は」


 ロイドが聞いた。


「この操作手順をどう使うか?」


 セドはすぐには答えなかった。


 考える。


 そして、静かに言う。


「封鎖弁を守る準備に入れます」


 店内の空気が変わる。


「守る?」


 ガルドが聞く。


「はい。黒羽に閉じられないようにする。あるいは、閉じられても開ける方法を用意する」


「操作具を使うのか?」


「使える可能性があります。ただし、奪うのではなく、仕組みを再現する」


 ミラが顔を上げる。


「作る?」


 セドはミラを見る。


「可能ですか」


 ミラは補助操作具の絵を見た。


 長い沈黙。


 ロイドは思わず息を止める。


 ミラはゆっくり言った。


「同じものは無理」


「はい」


「でも、止めるだけなら……分からない」


「分からない?」


「見たい」


「操作具を?」


「うん」


「近づく必要がある?」


 ミラは首を横に振った。


「もっと絵。形。金具。動いた時」


 ロイドは頷いた。


「つまり、あと少し観測が必要」


「うん」


 セドも頷く。


「明日以降、操作具の外形と動作をさらに記録します」


 ガルドが低く言う。


「それで、こっちの封鎖弁対策具を作る」


「可能性として」


 ロイドは胸が高鳴るのを感じた。


 今まで、黒羽の手を見ているだけだった。


 切れない。


 奪えない。


 触れない。


 でも、次は。


 こちらも、守るための手を作るかもしれない。


 ミラが作る。


 灯り石を作ってきた手で。


 端材に価値を見つけてきた手で。


 帰り道を守る道具を。


「……ミラ」


 ロイドが声をかける。


「うん」


「無理はするなよ」


「うん」


「でも、頼りにしてる」


 ミラは少しだけ目を伏せた。


 そして、小さく頷いた。


「作れるか、考える」


 それだけで十分だった。


 


 夜。


 店の壁に、新しい紙が貼られた。


 補助操作具確認方針、第三段階。


 一、E三副、W二、E二の順番を基準とする。


 二、主具と副具の外形をさらに記録する。


 三、黒羽の操作具を奪わない。


 四、仕組みを理解し、再現可能性を探る。


 五、目的は攻撃ではなく、帰り道の保護。


 六、全員帰還。


 ロイドはその紙を見て、深く息を吐いた。


「攻撃じゃなく、帰り道の保護」


「はい」


 セドが答える。


「大事だな」


「はい」


 ミラが紙の前に灯り石を置く。


 柔らかな光が文字を照らす。


 エルマはミラベルの索引写しを見つめ、静かに言った。


「風が戻る場所には、人も戻れる」


 ロイドは頷いた。


「じゃあ、風を戻す道具を作る」


 ミラが小さく言う。


「できるか、まだ分からない」


「それでいい」


 ロイドは笑った。


「分からないところから、いつも始まってる」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「店主らしい雑な励ましだな」


「うるさい」


 セドが少しだけ目元を緩める。


「ですが、間違ってはいません」


 ミラも頷く。


「うん」


 店の中に、小さな笑いが生まれた。


 その笑いの中で、作業台の上には地図と観測記録と、補助操作具の絵が並んでいる。


 黒羽の手は、まだ街の中にある。


 井戸にも。


 排水溝にも。


 生活のすぐそばに。


 けれど、もう一方的に握られているだけではない。


 ロイドたちは、見た。


 記録した。


 順番を掴んだ。


 そして今、守るための道具を考え始めている。


 帰り道は、まだ完全には描けていない。


 それでも、紙の上の線は、昨日より少し濃くなっていた。


 風が戻る場所には、人も戻れる。


 その言葉を灯りの下に置いたまま、ロイドの店の夜は静かに深まっていった。

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