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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第69話



 切らない。


 触らない。


 けれど、見ないままにもしておかない。


 その三つが、朝のロイドの店の空気を決めていた。


 作業台の上には、昨日の記録が並んでいる。


 工房街側の井戸周辺。


 水路側の排水溝。


 後付けの細い操作線。


 封鎖弁の補助操作線は二系統。


 片方を切れば、安全機構により弁が閉じる可能性。


 安全機構の解除には、第三点検口での手動処理が必要。


 つまり、帰り道を守るつもりで操作線を切れば、逆に帰り道を閉じてしまうかもしれない。


 ロイドはその記録を何度見ても、胃のあたりが重くなった。


「……嫌な仕組みだな、本当に」


 思わず声が漏れる。


 セドが向かい側で頷いた。


「はい」


「切れない。放っておけない。でも触れない」


「はい」


「めちゃくちゃ性格悪いな」


「黒羽らしい仕組みです」


 セドの声は冷静だった。


 だが、目は冷えている。


 怒りがないわけではない。


 ただ、それを紙の上に落としている。


 ロイドは最近、その違いが少し分かるようになってきた。


 セドは怒っていないのではない。


 怒りを、焦りに変えないようにしている。


 ロイド自身も、そうしなければならない。


 ミラが作業台の端に灯り石を置いた。


「暗い」


「ああ、ありがとう」


 ロイドが礼を言うと、ミラは小さく頷く。


 灯り石の光が、操作線の図を照らす。


 井戸から伸びる線。


 排水溝から伸びる線。


 その先にある、まだ見ぬ第三点検口。


 線は細い。


 けれど、その細い線が、人の生死を左右するかもしれない。


「今日は何をする?」


 ガルドが腕を組んで聞いた。


 昨日より声が低い。


 井戸の石組みに後付けの線を見つけたことが、彼の中に残っているのだろう。


 職人として、勝手に細工されたものが許せない。


 それがよく分かる。


 セドは新しい紙を広げた。


「今日は、操作線の“仕組み”を理解します」


「仕組み?」


 ロイドが聞く。


「はい。切るのではなく、どう動いているのかを知る」


「具体的には?」


「井戸側の主線、水路側の副線。それぞれが、封鎖弁へ何を伝えているのか。開閉の命令なのか、状態確認なのか、圧力調整なのか」


 エルマが横から口を挟む。


「そこを見誤ると、死ぬよ」


 店内が一瞬静まった。


 エルマは淡々と言った。


「大げさじゃない。開けるつもりで閉める。閉めるつもりで圧を溜める。こういう古い魔導設備じゃ、よくある」


 ロイドは喉を鳴らした。


「よくあっちゃ困るやつですね」


「困るから技師がいるんだよ」


 エルマは地図を指で叩く。


「でも今は、その技師がいない。ミラベルも、カイゼルもいない。だから残った記録と、風と、水で読むしかない」


 その言葉に、また名前が戻る。


 ミラベル。


 カイゼル。


 消えた七人のうち、店に戻り始めた二人。


 ロイドはその名前を聞くたび、少し背筋が伸びるようになっていた。


 ただの事件ではない。


 これは、人の声を拾う作業でもある。


「で、どう読む?」


 ガルドが聞く。


 エルマはミラを見る。


「風紙は続ける」


「うん」


「ただし、今日は風だけじゃ足りない。水も見る」


「水?」


 ミラが少し首を傾げた。


「カイゼルの領分だよ」


 エルマは言った。


「排水溝と井戸の水面。風が止まる前後で、水がどう動くかを見る」


 ロイドは顔をしかめた。


「水に近づくのか?」


「近づきすぎない」


 セドが即座に言った。


「鏡棒と、浮き片を使います」


「浮き片?」


 ミラが小さな木片を出した。


 薄く削られた小片。


 表面に細い線が入っている。


「これ」


「作ったのか」


「うん」


「いつ?」


「朝」


「早いな」


 ミラは特に誇らしげでもなく答える。


「水面に浮かべる。流れを見る」


 ガルドが手に取り、少し確認した。


「軽い。悪くない」


「水に入れるのか?」


 ロイドが心配そうに聞く。


 セドが答える。


「直接、危険な青い水には入れません。安全確認済みの井戸周辺と、排水溝の浅い流れのみ。回収できない場合は放棄します」


「放棄?」


「はい。取りに行きません」


 ロイドはすぐ頷いた。


「大事だな」


 ミラも言う。


「拾わない」


「うん」


 ロイドは小さく笑った。


「昨日から、拾わないことばっか覚えてるな」


「拾う前に見る」


 ミラの声は短い。


 でも、ちゃんと意味があった。


 拾うのは簡単だ。


 手を伸ばせばいい。


 でも、拾った瞬間に相手の罠に触れるかもしれない。


 だから、拾う前に見る。


 近づく前に考える。


 帰り道を描く。


「じゃあ今日も、追わない、拾わない、切らない、だな」


 ロイドが言うと、ガルドが低く笑った。


「どんどん禁止事項が増えるな」


「守るための禁止です」


 セドが言う。


「分かってる」


 ガルドは素直に頷いた。


 その姿を見て、ロイドは少しだけ胸の奥が温かくなった。


 皆、変わっている。


 いや、変わらざるを得なかったのかもしれない。


 黒羽が張る罠は、怒りや焦りを餌にする。


 なら、こちらは止まる力を覚えるしかない。


 


 工房街の井戸周辺では、今日も給水管点検が続いた。


 昨日、後付けの細い金属線を見つけた場所だ。


 だが、今日はそこを直接いじらない。


 井戸の水面を見る。


 風紙を見る。


 水売りや修理工風の者が現れるかを見る。


 ハインツが職人たちへ説明していた。


「昨日の点検で、井戸周辺の石組みに緩みが見つかった。今日は水の濁りと流れを見る」


 親方たちは頷いた。


 不満よりも、不安の方が大きい。


「水、使って大丈夫なのか?」


「今のところ飲み水に異常はない。ただし、工房用と分けろ」


「見習いだけで水汲みに行かせるなって話だったな」


「ああ」


 テオがその場にいた。


 行きたそうな顔をしている。


 だが、彼は井戸へ近づかず、少し離れた場所で見習いたちに声をかけていた。


「おい、そっち行くなよ! 点検中だから!」


「分かってるよ」


「分かってない奴が落ちるんだよ!」


「テオが言うと説得力あるな」


「うるさい!」


 周囲に少し笑いが起きる。


 テオは顔を赤くしたが、それでも役目をやめなかった。


 ガルドはそれを見て、何も言わずに頷く。


 危ない場所へ行くことだけが役目ではない。


 テオも、それを少しずつ受け入れている。


「始めるぞ」


 ハインツが低く言った。


 ガルドは井戸の縁から少し離れた位置に立つ。


 オルドが記録係。


 若い職人が、水面を見るための鏡板を持っている。


 ミラが作った浮き片を、一つだけ井戸の水面へ落とす。


 慎重に。


 紐付きだ。


 回収できるように。


 浮き片は水面に乗った。


 しばらく、何も起きない。


 ゆらゆらと、小さく揺れるだけ。


「通常」


 オルドが記録する。


 風紙も、弱く揺れている。


 そこへ、ハインツが小声で言った。


「昨日の操作時間まで、まだある」


「今日は早く動くかもしれねぇ」


 ガルドが答える。


「周りは?」


「今のところ不審者なし」


 だが、その言葉が終わる前に、テオの声がした。


「ガルドさん」


 ガルドが振り返る。


 テオは見習いたちのそばにいたまま、視線だけで合図した。


 井戸の向かい。


 古い壁の前。


 野菜売りの女が立っている。


 珍しくはない。


 工房街にも野菜売りは来る。


 だが、籠の中の野菜が妙に少ない。


 売る気があるようには見えない。


 ガルドはすぐに視線を逸らす。


「気づいたか」


 ハインツが低く言う。


「ああ」


「女か」


「変装かもしれねぇ」


 オルドが記録する。


 野菜売り風。


 籠内少量。


 井戸向かい。


 観測中出現。


 その時、浮き片が動いた。


 井戸の中心から、わずかに南東へ。


 後付けの線がある方向へ。


 風紙も揺れ方を変える。


「流れた」


 若い職人が小声で言う。


 ハインツの顔が険しくなる。


「水面が引かれてる」


 ガルドは野菜売り風の女を見ない。


 見たい。


 だが見ない。


 水面を見る。


 風紙を見る。


 オルドの手元を見る。


 追わずに、見落とさない。


 浮き片は、南東へゆっくり寄ったあと、ぴたりと止まった。


 同時に風紙も止まる。


「操作が入った」


 ハインツが低く言った。


 ガルドは頷く。


「井戸側の線は、弁の操作と水圧に関係してる」


「風だけじゃないな」


「ああ」


 ガルドは周囲へ声を張った。


「井戸の水面が不安定だ! 今日は長く汲むな! 必要分だけにしろ!」


 職人たちがざわつく。


 野菜売り風の女は、その声を聞くと、ゆっくり歩き出した。


 追わない。


 誰も追わない。


 テオが唇を噛んでいるのが見えた。


 ガルドは彼に向かって短く言う。


「見習いを下げろ」


「はい!」


 テオはすぐに動いた。


 それでいい。


 今の役目を守れ。


 ガルドはそう思いながら、井戸の水面へ視線を戻した。


 


 水路側でも、排水溝の水が見られていた。


 ロイド、セド、マイラ、バーツ。


 今日は、さらに年配の住民が一人加わっていた。


 水路沿いに長く住んでいる男で、名をヨゼフという。


 古い排水溝の位置に詳しい。


「昔は、この辺りの溝から冷たい風がよく出ていた」


 ヨゼフは低く話した。


「夏は子供が涼みに来たもんだ」


 ロイドは顔をしかめる。


「今なら絶対近づけさせないやつですね」


「昔は何も知らなかったからな」


 ヨゼフは苦く笑った。


「知らないってのは、楽で怖い」


 その言葉に、ロイドは頷いた。


 知らなければ怖くない。


 でも、危険は消えない。


 今は知ってしまった。


 なら、怖くても見るしかない。


 バーツが鏡棒で排水溝を確認する。


 セドは風紙を持ち、ロイドは周囲を見る。


 マイラは住民に説明する役だ。


 昨日の男は現れない。


 それが逆に落ち着かない。


「始めます」


 セドが言う。


 バーツが細い浮き片を浅い水へ置く。


 水はほとんど動いていないように見えた。


 だが、浮き片はゆっくり回った。


 時計回りに。


「回ってる?」


 ロイドが聞く。


 バーツが頷く。


「下で吸ってる」


 セドが記録する。


 排水溝、表面流弱。


 浮き片回転。


 下方吸引の可能性。


 風紙は、わずかに揺れる。


 その揺れが、急に止まった。


 同時に、浮き片の回転も止まる。


 そして、次の瞬間。


 逆回転した。


「……っ」


 ロイドの背筋が冷える。


 セドの目が鋭くなる。


 バーツが低く言う。


「戻ってる」


「水が?」


「流れが」


 ロイドは周囲を見る。


 誰かいるか。


 誰が動かしたのか。


 その時、ヨゼフが小さく言った。


「あの男」


 通りの端。


 古い街灯のそばに、靴磨きの男が座っていた。


 昨日はいなかった。


 靴磨きの箱を前に置き、客を待っているように見える。


 だが、今の水路沿いに靴磨きを頼む者などほとんどいない。


 男は、箱の蓋に片手を置いていた。


 ロイドは見すぎないようにしながら、セドへ伝える。


「靴磨き風。街灯横。箱に手」


「確認しています」


 セドが記録する。


 マイラは緊張で息を殺している。


 靴磨き風の男は、しばらくその場にいた。


 風が止まり、水の流れが変わったあと、ゆっくり立ち上がる。


 箱を持つ。


 そして去る。


 追わない。


 ロイドは拳を握った。


 本当に、生活の姿を利用してくる。


 水売り。


 修理工。


 野菜売り。


 靴磨き。


 どれも街にいてもおかしくない。


 だからこそ腹が立つ。


「……普通を汚すなよ」


 ロイドが低く呟いた。


 セドが横で静かに言う。


「記録します」


「ああ」


 ロイドは深く息を吸った。


「全部、記録しよう」


 


 昼過ぎ、ロイドの店に戻った記録は、昨日よりさらに具体的だった。


 井戸側。


 野菜売り風の女。


 籠内少量。


 出現後、浮き片が南東へ移動。


 風停止。


 水面が後付け線方向へ引かれる。


 水路側。


 靴磨き風の男。


 箱に手。


 風停止。


 浮き片の回転停止後、逆回転。


 下方吸引と逆流の切り替わり。


 エルマは記録を見て、長く黙った。


 そして、低く言った。


「主線と副線の役割が見えてきた」


「どういうことですか」


 セドが聞く。


「井戸側の主線は、弁の開閉そのものに近い。水圧が引かれてる」


 エルマは井戸の図を指す。


「水路側の副線は、風圧と流れの確認。もしくは微調整」


「両方が揃うと遠隔補助操作可能」


 セドがルイスの記録を読み返す。


「そう」


「では、黒羽は井戸側で操作し、水路側で確認または調整している」


「可能性が高い」


 ロイドは椅子に座り、腕を組んだ。


「つまり、帰り道を閉じる手は二つある」


「はい」


「片方だけ見ても駄目」


「はい」


「切っても駄目」


「はい」


「……面倒だなぁ」


 心底からの声だった。


 ミラが静かに言う。


「でも、見えてる」


「うん」


「昨日より、見えてる」


「そうだな」


 ガルドが低く続ける。


「相手の変装も雑になってきた」


「雑?」


 オルドが聞く。


「いや、巧妙ではある。だが毎回“街の仕事”を使ってる」


 ガルドは指を折る。


「水売り、修理工、野菜売り、靴磨き」


 ロイドが続ける。


「荷運び人、老人も」


「共通点があります」


 セドが言った。


 全員がセドを見る。


「どれも、一時的にその場にいても不自然ではない職です」


「でも、長くは留まらない」


 ミラが言う。


「はい」


 セドは頷く。


「そして、道具箱、荷車、籠、靴磨き箱など、手元を隠せるものを持っている」


 ロイドは息を吐いた。


「操作具を隠してる」


「可能性があります」


「じゃあ次は、持ち物を見る?」


「はい。ただし、近づきません」


 ガルドが腕を組む。


「遠目で形を記録する」


「はい」


「絵がいるな」


 その言葉に、ミラが顔を上げる。


「描く」


「ミラ?」


「形なら描ける」


 ロイドが少し驚く。


「そうなのか?」


「灯り石の形、いつも描いてる」


「ああ、設計図みたいなやつ」


「うん」


 ミラは紙を取る。


「見えた形、教えて」


 ガルドが少し考えて、野菜売りの籠の形を説明する。


 ハインツが補足する。


 ロイドが靴磨き箱の大きさを説明する。


 バーツが箱の留め具の位置を思い出す。


 ミラは静かに線を引く。


 速くはない。


 だが、正確だった。


 籠の底が妙に厚い。


 靴磨き箱の側面に不自然な金具。


 修理工の工具箱の蓋が二重。


 水売りの荷車下に小さな箱状の部分。


 紙の上に、黒羽の道具が少しずつ形を持つ。


 ロイドはそれを見て、感心した。


「ミラ、すごいな」


「見たもの、形にする」


「それ、かなり大事だ」


「うん」


 ミラは少しだけ目を伏せた。


「ミラベルも、たぶん」


「そうだな」


 ロイドは頷いた。


「見た道を、形にした」


 ミラは静かに線を足した。


 十年前の測量士のやり方が、今、灯り石を作る少女の手に少しだけ受け継がれている。


 エルマはその絵を見つめて、何も言わなかった。


 だが、その目は柔らかかった。


 


 夕方、王城から届いた覚書には、補助操作具の仕様があった。


 ルイスが見つけた古い備品記録。


 ――外縁封鎖弁補助操作具、携帯型。


 ――通常、工具箱程度の大きさ。


 ――風圧確認用の副具は小箱型。


 ――主具と副具は対で運用。


 ――主具のみでは粗い開閉。


 ――副具併用で圧調整可能。


 セドが読み上げるたび、店内の空気が重くなった。


 ロイドはミラの描いた絵を見る。


 工具箱。


 水売り荷車下の小箱。


 靴磨き箱。


 野菜籠の厚い底。


「……完全にそれじゃん」


 声が低くなる。


「はい」


 セドが答える。


「黒羽は携帯型の補助操作具を使っています」


 ガルドが拳を握る。


「なら、奪えば」


「駄目です」


 セドが即答した。


 ガルドは舌打ちする。


「分かってる」


 セドは続ける。


「奪えば、黒羽はこちらが仕組みを理解したと気づきます。さらに、予備を持っている可能性もあります」


「でも、持ち物の形は分かった」


 ミラが言う。


「はい」


「次から、見つけやすい」


「はい」


 ロイドは深く息を吐いた。


「切らない。奪わない。でも、見つける」


「はい」


「どんどん我慢大会が高度になってくな」


「はい」


 セドが真顔で頷いたので、ロイドは少し笑ってしまった。


「そこは否定してくれ」


「事実ですので」


 ミラが小さく言う。


「でも、えらい」


 ロイドは頭を掻いた。


「やっぱり嬉しいな、それ」


 ガルドは顔を逸らした。


「俺は嬉しくない」


 オルドがまた小声で言う。


「本当ですか?」


「黙れ」


 店内に小さな笑いが起きる。


 重い情報の中で、それでも笑う。


 それは必要なことだった。


 


 夜、作業台の上には新しい紙が貼られた。


 補助操作具確認方針。


 一、持ち物の形状を記録する。


 二、奪わない。


 三、近づかない。


 四、主具と副具の対を探す。


 五、操作時刻と持ち物を重ねる。


 六、仕組みを理解するまで手を出さない。


 ロイドはそれを見て、何度目かのため息を吐いた。


「また、手を出さない、か」


「はい」


 セドが答える。


「でも、手を出さないことで見えるものがあります」


「今日みたいに?」


「はい」


 ミラが補助操作具の絵を保管箱とは別の紙束に入れる。


 認識札とは違う。


 これは敵の道具の記録。


 だが、同じように丁寧に扱う。


 雑に扱えば、見落とす。


「ロイド」


 ミラが呼んだ。


「ん?」


「今日は、誰も触らなかった」


「ああ」


「でも、たくさん分かった」


「うん」


「だから、触らないのも進む」


 ロイドは言葉を失った。


 触らないのも進む。


 それは、今の自分たちに必要な言葉だった。


 進むとは、踏み込むことだけではない。


 切ることだけではない。


 捕まえることだけでもない。


 触らずに見る。


 見て、記録して、形にする。


 それも進むことだ。


「……そうだな」


 ロイドは静かに頷いた。


「今日は進んだ」


 セドも頷く。


「はい」


 ガルドも低く言う。


「腹は立つが、進んだ」


 エルマはミラベルの認識札が入った箱を見た。


「ミラベルも、そうやって進んだんだろうね」


 怖い場所へ入る前に、帰り道を描く。


 触る前に見る。


 逃げ道を先に作る。


 その慎重さは、臆病ではなかった。


 命を持ち帰るための技術だった。


 ロイドは店の灯りを見つめる。


 柔らかな光が、作業台の上の紙を照らしている。


 井戸。


 排水溝。


 操作線。


 補助操作具。


 主具。


 副具。


 黒羽の手が、少しずつ形を持っていく。


 まだ戦わない。


 まだ切らない。


 まだ奪わない。


 けれど、見えている。


 昨日よりも。


 確かに。


 外では夜風が吹いていた。


 それが自然の風なのか、旧測量坑道の息なのかは分からない。


 でも、店の中には風に揺れない灯りがあった。


 その灯りの下で、ロイドたちはまた一つ、帰り道を描くための線を紙に加えた。

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