第65話
風紙定点観測、開始。
その紙は、ロイドの店の壁に貼られていた。
客に見せるためではない。
仲間たちが見るための紙だ。
けれど、ロイドは店を開ける前に、その紙を何度も見てしまった。
帰り道は、見つけるものではなく、描くもの。
セドが書いた最後の一文。
昨夜見た時よりも、朝の光の中では少し違って見えた。
格好いい言葉だと思った。
でも、格好いいだけではない。
重い。
帰り道を描けなければ、旧東工房区画の奥へは行けない。
ミラベルの認識札が戻ってきた。
消えた七人の痕跡があるかもしれない。
搬出路の奥で、黒羽が何かを起こそうとしているかもしれない。
それでも、行けない。
帰るための線を描くまでは。
ロイドは息を吐いた。
「……焦るなぁ」
小さく漏れた声に、横からミラが答える。
「焦る」
「聞こえてた?」
「うん」
「最近、独り言も拾われるな」
「顔にも出てる」
「顔もかぁ……」
ロイドは自分の頬を押さえた。
ミラは、風紙の入った小箱を確認していた。
薄く細い紙片が、糸に結ばれて並んでいる。
昨日まではただの紙だった。
今は、帰り道を描くための道具だ。
「ミラ」
「うん」
「怖いか?」
ミラは手を止めた。
少しだけ考えてから、頷く。
「怖い」
「だよな」
「風が止まったら怖い」
「うん」
「風が強くても怖い」
「うん」
「何も変わらなくても怖い」
ロイドは少し目を丸くした。
「何も変わらなくても?」
「分からないから」
「ああ……」
確かにそうだ。
風が変われば危険かもしれない。
でも、変わらないから安全とも限らない。
見えないものを見ようとしている。
それ自体が怖い。
ミラは小箱の蓋を閉じる。
「でも、見る」
「うん」
「見ない方が怖い」
その言葉に、ロイドは静かに頷いた。
「それ、分かる」
店の奥では、セドが観測表を確認していた。
朝、昼、夕。
水路側三点。
工房側三点。
風向き。
強弱。
冷気。
異臭。
見張りの有無。
荷車跡。
住民や職人の反応。
記録する項目は多い。
けれど、以前のようにセド一人が抱える形ではなかった。
水路側は、マイラたち住民。
工房側は、ガルド、ハインツ、オルドたち職人。
店ではミラが記録の受け口。
ロイドは全体の説明と連絡。
セドは整理と判断。
エルマは地図と古い構造の照合。
それぞれの役割がある。
ロイドは、作業台に並ぶ紙を見て、少しだけ息を整えた。
一人ではない。
何度言っても、怖さは消えない。
でも、動ける。
「ロイドさん」
セドが声をかける。
「はい」
「今日の確認です」
「来たな」
「まず、観測者は入口へ近づかない」
「はい」
「風紙は設置せず、その場で短時間見るだけ」
「はい」
「黒羽らしき者を見ても追わない」
「はい」
「異物を見つけても拾わない」
「はい」
「予定外の変化があったら、観測を中止して戻る」
「はい」
「ロイドさんもです」
「俺もです」
ロイドは素直に頷いた。
セドは少しだけ目元を緩める。
「良い返事です」
「完全に教育されてるな、俺」
「仲間扱いです」
ミラが短く言った。
「それ、便利な言葉になってきたな」
「便利じゃない」
「大事?」
「うん」
ガルドが奥から低く言う。
「行くぞ。朝の風を逃すな」
「風って逃すものなのか?」
ロイドが聞く。
エルマが椅子から答えた。
「逃すよ。風は同じ顔をしていない」
「詩人みたいなこと言いますね」
「技師の言葉だよ」
エルマは地図を指で叩いた。
「朝の風、昼の風、夕方の風。全部違う。変化を見るなら、時間ごとに記録する必要がある」
「了解」
ロイドは頷く。
「じゃあ、風を見に行くか」
その言葉は少し変だった。
けれど、今のロイドの店には相応しかった。
朝の水路側観測は、静かに始まった。
マイラたちは、昨日と同じように布を持って高い通りに立つ。
洗濯物の干し場を探しているように。
風向きを確かめているように。
そこへロイドとセドが、少し離れて立つ。
昨日より人の目は少ない。
だが、完全になくなったわけではない。
水路沿いの立入制限が続いている以上、人々はどうしてもこちらを見る。
「あれ、何してるんだ?」
「洗濯物だろ」
「こんな時に?」
「避難先でも洗濯は必要だろ」
「それもそうか」
そんな声が通りを流れる。
生活の動きに紛れる。
ミラの言った通りだった。
生活は強い。
どれほど大きな事件があっても、人は食べ、洗い、干し、眠る。
その中に、観測を忍ばせる。
黒羽が嫌がるのは、こういう小さな流れかもしれない。
ロイドはそう思った。
「第一地点」
マイラが布を軽く掲げる。
高い通りの角。
布は、昨日と同じように西から東へ弱く揺れた。
普通の通り風。
セドが記録する。
「変化小」
「昨日と同じ?」
ロイドが聞く。
「おおむね」
「よし」
第二地点。
古い石積みが見える手前。
マイラの表情が少し硬くなる。
布を持つ手が、わずかに強張った。
紙片が揺れる。
下から、細かく。
昨日と同じ冷たい風。
しかし。
「……強い?」
ロイドが小声で言う。
セドは目を細める。
「昨日より弱いです」
「弱い?」
「はい。冷気はありますが、吸い上げる力が減っています」
マイラも戻ってきて言った。
「昨日より、引っ張られる感じは少ないです」
「それは良いことなのか?」
ロイドが聞く。
セドはすぐには答えなかった。
「判断できません」
「だよな」
「自然に弱まったなら良い変化です。ですが、封鎖弁が少し閉じられた可能性もあります」
ロイドの胸が冷える。
風が弱い。
それだけでは喜べない。
帰り道が閉じられかけている可能性もあるからだ。
第三地点。
長屋の壁際。
風はほとんどなし。
昨日と同じ。
セドは記録する。
朝観測。
水路側第一、通常風。
第二、冷気あり。昨日より弱。
第三、ほぼ無風。
ロイドは古い石積みの方を見ないようにしながら、低く言った。
「……誰かが触った?」
「可能性はあります」
「見張りは?」
「今のところ見えません」
その時、マイラが小さく言った。
「店主さん」
「ん?」
「あそこの屋根」
彼女の視線の先。
水路から少し離れた家の屋根。
煙突の陰に、何か黒いものが見えた。
一瞬。
布の端かもしれない。
鳥かもしれない。
人影かもしれない。
次の瞬間には消えた。
ロイドの体が反射的に動きそうになる。
見たい。
確認したい。
けれど、セドが静かに言った。
「見続けないでください」
ロイドは止まる。
マイラも視線を外した。
「追わない」
ロイドが自分に言い聞かせる。
「はい」
セドは紙に記録する。
水路側、屋根上に黒影一瞬。
追跡せず。
観測終了。
「戻りましょう」
セドが言う。
「もう?」
「見られている可能性があります」
「……分かった」
ロイドは頷いた。
もっと見たい。
でも戻る。
それが今日の勝ち方だった。
工房街側の朝観測も、不穏だった。
ハインツは粉塵避けの確認という名目で風紙を持ち、正面通りへ出た。
オルドは端材箱を抱え、ガルドは少し離れて周囲を見る。
資材倉庫の向こうにある空き工房。
昨日、見張りらしき影があった場所。
今日は窓が開いていた。
中は暗い。
人影は見えない。
それが逆に気味悪かった。
「第一地点」
ハインツが風紙を見る。
正面通り。
風は普通。
工房街特有の熱と煙を含んだ風。
問題なし。
第二地点。
裏路地入口手前。
昨日はほぼ無風だった。
今日は。
紙が、ぴたりと止まった。
まったく動かない。
不自然なほど。
オルドが小声で言う。
「……風が死んでる」
ガルドの顔が険しくなる。
「昨日より悪いな」
ハインツが低く答える。
「ああ」
第三地点。
空き工房の向かい。
ここも、ほとんど風がない。
ただ、足元の石畳の隙間から、わずかに冷気がある。
上ではなく、下。
道の下で何かが動いているような感覚。
ガルドはしゃがみそうになり、途中で止めた。
近づきすぎない。
触らない。
見すぎない。
自分で自分を止める。
「……戻るぞ」
ガルドが言った。
オルドが頷く。
だが、ハインツは一瞬だけ空き工房を見た。
その瞬間。
窓の奥で、白い紙がひらりと揺れた。
誰かが見せたのか。
風で動いたのか。
分からない。
ただ、その紙には何かが書かれているように見えた。
ハインツの目が細くなる。
「……紙」
ガルドが即座に言う。
「見るな」
「分かってる」
ハインツの声は低い。
「だが、見えた」
「何が」
「文字だ」
オルドが緊張した顔になる。
「読めたんですか」
「一文字だけ」
ハインツは唇を結ぶ。
「道」
沈黙。
ガルドの拳が強く握られる。
道。
あまりにも露骨な誘い。
「戻るぞ」
ガルドの声は、今度はさらに低かった。
「今すぐだ」
三人は背を向けた。
空き工房へは近づかない。
窓の紙も見に行かない。
道という文字が見えた。
それだけを持ち帰る。
背中に視線を感じながら。
職人たちは、工房街の表通りへ戻った。
昼。
ロイドの店に、朝の観測結果が集まった。
水路側。
第二地点の風、昨日より弱。
屋根上に黒影。
工房側。
裏路地側、完全無風。
足元から冷気。
空き工房に「道」と読める紙。
接近せず。
セドはすべてを記録し、地図に印を増やした。
ロイドは腕を組み、唸る。
「向こう、誘ってきてるよな」
「はい」
セドは答えた。
「かなり露骨です」
「道って紙を見せるとか、馬鹿にしてんのか」
ガルドが低く吐き捨てる。
「または、こちらの方針を知っている」
セドが言う。
店内が静まる。
ミラが顔を上げる。
「方針?」
「私たちは今、帰り道を探しています」
「それを知ってる?」
「可能性があります」
ロイドは壁の紙を見る。
旧東搬出路調査方針。
風紙定点観測計画。
店内に貼ってある紙。
外向けではない。
だが、店には人が来る。
情報は漏れる可能性がある。
「……中に入り込まれた?」
ロイドが低く言う。
「断定はできません」
セドは慎重に答えた。
「ですが、黒羽は私たちの動きを予測している可能性が高い」
「嫌な言い方だな」
「はい」
ミラが静かに言う。
「紙、隠す?」
セドは少し考える。
「一部は隠します」
「全部じゃなくて?」
ロイドが聞く。
「全部隠すと、かえって動きが不自然になります。仲間内の共有も遅れます」
「じゃあ」
「重要な詳細だけ別管理にします」
ミラベルの認識札と同じように。
保管箱。
記録の分離。
情報の扱いも、次の段階へ進む必要がある。
ロイドは頭を掻いた。
「店がどんどん秘密基地みたいになってくな」
「秘密基地?」
セドが首を傾げる。
「いや、何でもない」
重い空気の中で、ロイドは少しだけ笑った。
「でも、情報の保管場所は必要だな」
「はい」
エルマが地図を見つめながら言う。
「誘ってきたってことは、焦っている可能性もある」
「黒羽が?」
「ああ」
エルマは指で工房側を示す。
「もし完全に帰り道を潰せるなら、わざわざ“道”なんて見せない。こちらを動かしたい理由がある」
「動かしたい理由……」
セドが考え込む。
ロイドが言う。
「俺たちに入口を開けさせたい?」
「可能性があります」
「また鳥の先導か」
「はい」
ガルドが腕を組む。
「なら、なおさら動けねぇな」
「はい」
ミラが風紙を手に取る。
「昼も見る」
「え?」
ロイドが聞く。
「予定通り」
ミラは言った。
「誘われても、予定を変えない」
その言葉に、全員が少しだけ黙った。
誘いがあった。
だから焦る。
だからやめる。
どちらも、相手の影響を受けている。
しかし、予定通り観測する。
入口には近づかない。
風を見る。
それは、自分たちの流れを守ることだった。
セドが頷く。
「ミラの言う通りです」
「じゃあ、昼も同じように」
ロイドが言う。
「ただし警戒は上げる」
「はい」
ガルドも頷いた。
「空き工房の紙には近づかない」
「記録だけ」
ミラが言う。
「はい」
方針は揺れなかった。
昼の観測では、水路側の風がさらに弱くなっていた。
第二地点の冷気は残っている。
しかし、朝よりも細い。
まるで誰かが遠くで少しずつ弁を閉めているようだった。
マイラが戻ってきて、腕をさすった。
「朝より弱いです。でも、気持ち悪さは増えた感じがします」
「気持ち悪さ?」
ロイドが聞く。
「風が、止まりかけてるのに、奥で何かが吸ってるみたいな」
セドが表情を硬くする。
「圧だけ残っている可能性があります」
「危険?」
「はい。急に開けば、風が強く戻るかもしれません」
ロイドは息を呑む。
「つまり、溜めてる?」
「可能性です」
「……黒羽が操作してる?」
「可能性はあります」
ロイドは拳を握った。
だが、今日はその場で怒らない。
戻る。
記録する。
昼観測、水路側風さらに弱。
圧の残留感。
観測者、気分不快あり。
即時撤退。
それだけを持ち帰る。
一方、工房街側では、空き工房の窓の紙が消えていた。
代わりに、裏路地入口の石畳に、黒い羽が一枚落ちていた。
鳥の羽か。
印か。
誘いか。
ハインツがそれを見つけた瞬間、足を止めた。
「羽だ」
オルドが顔を青くする。
「拾いますか」
「拾わねぇ」
ガルドが即答した。
「近づくな」
黒い羽は、風のない路地の手前で、まったく動かずに落ちている。
まるで、見ろと言っているように。
ガルドは奥歯を噛みしめた。
「記録だけだ」
ハインツが頷く。
「黒羽一枚。裏路地入口。動かず」
「絵に描くか?」
オルドが聞く。
「遠目で十分だ」
ガルドは低く言った。
「近づかない」
三人は戻った。
背中に、見えない視線が刺さる。
それでも戻った。
夕方。
三回目の観測で、異変が起きた。
水路側第二地点。
朝、弱い冷気。
昼、さらに弱く、圧の残留感。
夕方。
布が、まったく動かなかった。
マイラが布を持ったまま、動けなくなる。
冷気がない。
風がない。
しかし、耳の奥で低い音がした。
ごく小さく。
ごぽり。
水路の音ではない。
もっと奥。
石積みの向こう。
測量坑道の中。
ロイドはその音を聞いた瞬間、背筋が凍った。
「……戻る」
セドが即座に言った。
「全員、戻ってください」
マイラたちはすぐに動いた。
誰も文句を言わない。
昨日までの経験があるからだ。
異変があれば近づかない。
戻る。
報告する。
ロイドも動く。
だが、最後に一瞬だけ石積みを見た。
古い鉄扉のあたり。
そこに、何か白いものが挟まっているように見えた。
紙。
また紙。
見たい。
読まなければ。
もしかしたら、ミラベルの手掛かりかもしれない。
そう思った瞬間、セドの声が飛んだ。
「ロイドさん」
強い声。
ロイドは肩を震わせる。
「見ないでください」
「……っ」
「戻ります」
ロイドは歯を食いしばった。
見たい。
でも、戻る。
「……分かった」
声が苦かった。
セドはそれ以上責めなかった。
ただ、ロイドの横に立ち、同じ速度で歩いた。
一人で戻らせない。
それが何よりありがたかった。
店に戻ると、工房側からも同じような報告が来ていた。
夕方、工房側の裏路地入口で、完全に風が止まった。
黒い羽は消えていた。
代わりに、石畳に水のような青い染みが現れていた。
触れていない。
近づいていない。
記録だけして戻った。
作業台の上に、三回分の観測結果が並ぶ。
朝。
昼。
夕。
水路側も、工房側も、時間が進むごとに風が弱まり、夕方には止まった。
エルマはその結果を見て、顔を険しくした。
「……閉じたね」
ロイドが聞く。
「封鎖弁?」
「少なくとも、風の流れは止められた」
「黒羽が?」
「その可能性が高い」
セドは地図に線を引く。
「水路側、工房側、同時に風が停止」
「つまり」
ガルドが低く言う。
「封鎖弁が動いた」
「はい」
「こっちの観測に合わせて?」
「可能性があります」
ロイドは拳を握った。
「見られてるな」
「はい」
「風紙観測も」
「おそらく」
ミラが静かに言う。
「でも、分かった」
全員がミラを見る。
「風が止められる」
一拍。
「夕方に」
セドの目が動く。
「そうです」
ミラは続ける。
「相手が動いたなら、記録できる」
エルマが小さく笑った。
「その通りだよ」
黒羽に見られていた。
風を止められた。
誘われた。
それは危険だ。
だが同時に、黒羽が反応したという記録でもある。
観測は無駄ではない。
むしろ、相手の操作を引き出した。
セドは新しい紙を出し、書き込む。
第一日観測結果。
朝、水路側弱風、工房側無風傾向。
昼、水路側弱化、圧残留。工房側誘導物確認。
夕、水路側・工房側とも風停止。
黒羽による封鎖弁操作の可能性。
観測に反応した可能性。
入口接近なし。
全員帰還。
ロイドは最後の一行を見て、少しだけ息を吐いた。
全員帰還。
それが一番大事だった。
「……今日は勝ちか?」
ロイドが呟く。
ガルドが低く言う。
「勝ちではねぇ」
「だよな」
「だが、負けてもいねぇ」
ミラが頷く。
「帰った」
「はい」
セドも言う。
「情報も得ました」
エルマは地図を見つめながら、静かに言った。
「それに、封鎖弁が動く時間が見えた」
「夕方」
ロイドが言う。
「はい」
「じゃあ、明日は?」
セドは少し考える。
「観測を続けます。ただし、時間帯をずらします」
「向こうの反応を見る?」
「はい」
「危ないな」
「危険です。ですが、入口には近づきません」
ロイドは頷いた。
「分かった」
その時、裏口で小さな音がした。
全員が一斉に動きを止める。
セドが慎重に向かう。
扉を開ける。
そこには、何もなかった。
いや。
床に、小さな紙片が落ちていた。
白い紙。
濡れていない。
セドは布越しにそれを拾い、店へ戻る。
紙には、短い文字があった。
風を止めても、道は消えない。
だが、帰る者だけが道を知る。
署名はない。
ロイドは紙を見て、低く呟いた。
「……クロウか?」
セドは答えない。
ミラは紙を見つめる。
ガルドは眉をひそめる。
エルマは目を細めた。
「挑発か、助言か」
ロイドが聞く。
セドは静かに言う。
「両方の可能性があります」
「いつもそれだな」
「はい」
ロイドは深く息を吐いた。
風は止められた。
黒羽は見ている。
クロウか誰かが、また紙を置いた。
帰り道は、まだ描ききれていない。
でも、今日一日で分かったことがある。
相手は反応する。
風は操作される。
誘いは来る。
そして、自分たちは戻れた。
ロイドは壁の方針紙を見る。
急がない。
でも、忘れない。
一人で動かない。
帰り道を先に描く。
その文字の下で、風紙が小箱の中に収まっている。
頼りない細い紙。
けれど今日、その紙は黒羽の手を少しだけ動かした。
ロイドは静かに言った。
「明日も、風を見る」
セドが頷く。
「はい」
ミラも。
「見る」
ガルドが低く続ける。
「今度は、こっちが相手の動きを見る番だ」
エルマはミラベルの認識札が入った箱へ目を向けた。
「帰り道は、まだ消えてない」
外では、夜の風が一度だけ窓を鳴らした。
それが自然の風なのか。
坑道から漏れた息なのか。
誰にも分からない。
けれど、店の中の灯りは消えなかった。
小さく。
淡く。
風に揺れない光が、作業台の上の観測記録を照らしていた。




