第63話
朝の王都には、まだ東水路の匂いが残っていた。
湿った石の匂い。
乾ききらない泥の匂い。
水路沿いから運び出された濡れた木箱の匂い。
工房街から流れてくる煤と油の匂い。
その全部が混じり合って、王都の外れの空気を重くしている。
けれど、その重さの中に、人の動く音が戻っていた。
長屋の住人が、高い通りに置いた仮の荷物を整理している。
工房の見習いが、濡れた床を布で拭いている。
処理場の職員が、排水口の周囲に新しい板を打ちつけている。
子供たちは、まだ水路に近づかない。
代わりに、ロイドの店の前の貼り紙を読んだり、昨日までの避難で使った毛布を畳んだりしている。
怖さは消えていない。
不安も残っている。
だが、街は止まっていなかった。
ロイドは店の扉を開ける前に、外の様子を見ていた。
扉の隙間から、通りを覗くように。
「……動いてるな」
ぽつりと言う。
ミラが横で答える。
「うん」
「昨日より、少しだけ普通っぽい」
「でも、違う」
「そうだな」
ロイドは頷いた。
普通には戻っていない。
戻れない。
東水路の逆流も、旧東工房区画も、黒羽も、消えた七人も、全部知ってしまった。
知らなかった頃と同じ日常には戻れない。
けれど、別の日常を作ることはできる。
ロイドの店が、そうだった。
潰れかけの灯り石屋だった店は、今では貼り紙と地図と記録の場所になっている。
それでも、灯り石屋だ。
灯りを売る。
灯りを作る。
灯りで足元を照らす。
それは変わらない。
「今日は、周辺確認だけ」
ミラが言った。
ロイドは苦笑した。
「言われなくても分かってる」
「顔」
「また顔か」
「入口まで行きたそう」
「……そんなに?」
「うん」
ロイドは自分の頬を押さえた。
情けない。
でも否定できない。
昨日から、旧測量坑道のことが頭から離れない。
水路東側の古い石積み奥にある鉄扉。
工房街側の古い資材倉庫裏にある石封鎖。
ルイスが見つけた書き込み。
測量坑道、東側扉、風。
そして、ミラベルの言葉。
怖い場所ほど、帰り道を先に描く。
その帰り道候補が、すぐそこにあるかもしれない。
そう思うと、確かめたい気持ちが胸を押す。
でも、だからこそ行かない。
入口そのものには近づかない。
今日は周辺だけ。
人の動き。
黒羽の気配。
地形。
風の抜け方。
水路の状態。
それを確認する。
「……分かってる」
ロイドはもう一度言った。
「今日は入口に触らない。近づきすぎない。周りを見るだけ」
「うん」
「もし入口が見えても?」
「触らない」
「もし開いてても?」
「入らない」
「もしミラベルさんの手掛かりっぽいものがあっても?」
ミラはロイドをじっと見た。
ロイドは自分で言って、胸が少し痛くなった。
もし本当に、認識札のようなものがそこにあったら。
手を伸ばさない自信があるか。
一瞬、迷う。
その迷いを、ミラは見逃さなかった。
「ロイド」
「はい」
「一人で拾わない」
「……はい」
「見つけたら、呼ぶ」
「はい」
「全員で見る」
「はい」
ロイドは深く息を吐いた。
「店主なのに、完全に子供扱いされてる気がする」
「違う」
「違うのか?」
「仲間扱い」
その言葉に、ロイドは何も返せなくなった。
以前、ミラがセドに言った言葉だ。
子供扱いではない。
仲間扱い。
危険へ一人で行かせないこと。
無茶を止めること。
それは信じていないからではない。
一緒に帰るためだ。
「……そっか」
ロイドは小さく笑った。
「じゃあ、ちゃんと仲間扱いされとく」
「うん」
ミラは頷いた。
店の作業台では、セドが今日の確認手順をまとめていた。
紙は三枚。
一枚目、水路東側周辺。
二枚目、工房街資材倉庫周辺。
三枚目、共通注意。
ロイドはその紙を覗き込み、少しだけ顔を引きつらせた。
「細かいな」
「必要最低限です」
「セドの必要最低限、だいたい多いんだよな」
「今回は少なくしました」
「本当か?」
「はい」
ガルドが横から紙を見て、鼻を鳴らす。
「これで少ないなら、普段は何なんだ」
「普段は詳細版です」
「やっぱりな」
エルマが椅子に座ったまま、少し笑った。
「いいじゃないか。紙の上で細かいのは悪くない。現場で迷うよりずっといい」
「それはそうですけどね」
ロイドは紙を見る。
水路東側周辺確認。
・鉄扉へ接近しない。
・古い石積みの状態を見る。
・風の有無を確認。ただし扉前には立たない。
・黒い鳥の印、黒外套、灰色外套の目撃確認。
・子供や住民が近づいていないか確認。
・青い水の滲出、異臭、冷気を記録。
工房街資材倉庫周辺確認。
・倉庫裏へ直接入らない。
・周辺の人通り、見張り、荷車の痕跡を確認。
・石封鎖の状態は遠目のみ。
・黒羽らしき者の誘導に乗らない。
・異物を拾わない。見つけたら全員で確認。
共通注意。
・二人以上で行動。
・入口を開けない。
・見つけたものに触れない。
・予定時間を過ぎたら戻る。
・戻ってから整理する。
・急がない。
ロイドは最後の一行を指差した。
「これ、もう合言葉だな」
「はい」
セドは頷いた。
「必要です」
「分かってる」
ガルドが言う。
「組み合わせは?」
「水路東側は、ロイドさん、私、マイラさん」
「マイラ?」
ロイドが聞く。
「水路沿いの住民代表として。周辺を知っています」
「ああ、赤い布の家の」
「はい」
「確かに、俺たちだけよりいいな」
「工房街側は、ガルドさん、ハインツさん、オルドさん」
ガルドが頷く。
「妥当だ」
「ミラは店に残り、情報の受け口をお願いします」
「うん」
「エルマさんは」
「私は地図を見る」
エルマが言った。
「現場に行くなって言うんだろう?」
「はい」
セドは即答した。
エルマは少しだけ眉を上げる。
「遠慮がないね」
「体力面と安全面を考慮しました」
「年寄り扱いかい」
「はい」
「そこは否定しな」
ロイドが思わず笑った。
エルマも少しだけ笑った。
「まあいい。今日は行かない。ミラベルの札を見た後で、現場へ行けば私が一番危ない」
その言葉に、店内が少し静かになる。
エルマは自分で分かっている。
感情が動く場所へ行けば、冷静ではいられないかもしれないと。
それを認めるのは、簡単なことではない。
ロイドは深く頷いた。
「地図、お願いします」
「ああ」
エルマは地図へ目を落とした。
「帰り道を描くのは、現場に行くだけじゃない。紙の上でもできる」
その言葉で、今日の動きが決まった。
水路東側へ向かう道は、まだ人通りが少なかった。
ロイド、セド、マイラの三人は、東水路へ近づきすぎないよう、高い通りを選んで歩いた。
マイラは水路沿いの長屋に住む女性で、昨日、母親を避難させた人だ。
顔には疲れが残っている。
だが、目はしっかりしていた。
「この先です」
マイラが小声で言う。
「古い石積みは、あの角の向こう」
ロイドは頷く。
「近づきすぎないで見る」
「はい」
「もし危ないと思ったら、すぐ言ってください」
「分かりました」
セドは周囲を見ていた。
人影。
荷車の跡。
壁の新しい傷。
水の染み。
風の向き。
すべてを拾うように。
「セド」
ロイドが小声で呼ぶ。
「はい」
「何かある?」
「今のところ、人為的な見張りは見えません」
「今のところ、な」
「はい」
マイラが少し不安そうに聞く。
「見張りがいるかもしれないんですか」
「黒い鳥の関係者が見ている可能性があります」
セドは正直に答えた。
「ただし、姿を見たら追わないでください」
「分かっています」
マイラは少しだけ唇を結ぶ。
「昨日、散々言われましたから」
「申し訳ありません」
「謝らないでください」
マイラは首を振った。
「言われたから、今ここにいます」
その言葉に、ロイドは少しだけ胸が温かくなった。
昨日までの声掛けは、確かに届いている。
三人は角の手前で止まった。
そこから、古い石積みが見える。
水路東側の壁の奥。
苔むした石が重なり、その一部に鉄の枠らしきものが埋まっている。
扉の全体は見えない。
半分ほど石と土で覆われている。
だが、確かに人工物だった。
鉄扉。
旧測量坑道の入口候補。
ロイドは息を呑む。
「……あれか」
近づきたくなる。
もっと見たい。
風が出ているか確認したい。
扉の傷を見たい。
ミラベルが通った場所なのか確かめたい。
その気持ちが足を前へ押す。
だが、ロイドは止まった。
自分で足に力を入れて、止めた。
セドが横で静かに言う。
「ここまでです」
「ああ」
ロイドは頷く。
「分かってる」
「風は感じますか」
セドが聞く。
三人はしばらく黙った。
通りの風ではない。
水路の湿った空気でもない。
角の向こうから、ほんの少しだけ冷たい風が流れてくる。
ひゅう、と。
弱く。
しかし、確かに。
マイラが腕をさする。
「……冷たい」
ロイドも頷く。
「風、あるな」
セドは記録する。
水路東側鉄扉候補。
遠目で確認。
半埋没状態。
冷気あり。
風あり。
接近せず。
「石積みの状態は?」
ロイドが聞く。
「一部崩れかけています」
セドが答える。
「自然に?」
「判断不可。ただし、上部に新しい擦過痕があります」
「擦過痕?」
「誰かが最近触れた可能性」
ロイドの背筋が冷える。
「黒羽か」
「可能性はあります」
マイラが小さく息を呑んだ。
ロイドはすぐに言う。
「追わない。近づかない」
自分にも言い聞かせた。
セドは小さく頷く。
「戻りましょう」
「もう?」
「予定通りです」
ロイドは扉をもう一度見た。
見たい。
まだ見たい。
しかし、戻る。
今日の役割は、入口を見ることではない。
周辺確認だ。
「……戻る」
ロイドは言った。
その声は少しだけ悔しそうだった。
けれど、ちゃんと戻る声だった。
工房街側では、ガルドたちが古い資材倉庫の周辺を見ていた。
ガルド。
ハインツ。
オルド。
三人とも職人だ。
通りを歩いていても違和感は少ない。
むしろ、いつもの工房街の見回りのように見える。
それでも、今日は誰も倉庫裏へ直行しない。
遠回りする。
周囲の工房へ声をかける。
荷車の跡を見る。
屋根の上や路地の陰も確認する。
「……いたな」
ハインツが低く言った。
「何が」
オルドが聞く。
「見張りだ」
ハインツの視線の先。
古い資材倉庫の向かいにある空き工房の窓。
その奥で、影が動いた。
一瞬だけ。
だが、確かに。
ガルドはそちらを見ないようにしながら、低く言う。
「追うな」
「分かってる」
ハインツが答える。
オルドは緊張で喉を鳴らした。
「あれが黒羽か?」
「断定はしない」
ガルドは言う。
「だが、黒い外套か?」
「影だけだ。色は分からん」
「記録する」
オルドが小さな紙に書き込む。
手が少し震えている。
ガルドはそれに気づいた。
「怖いか」
「怖いに決まってる」
オルドは正直に答えた。
「でも、怖いから記録するんだろ」
ガルドは少しだけ目を細めた。
「そうだ」
ハインツが低く笑う。
「ロイドの店に染まってきたな」
「悪いか」
オルドが言う。
「悪くない」
ハインツは答えた。
三人は資材倉庫の正面を通り過ぎる。
裏へは入らない。
ただ、周囲を見る。
倉庫の裏側へ続く細い路地には、最近荷車が通った跡があった。
車輪の幅。
泥の付き方。
重い荷物を運んだ跡。
ガルドが低く言う。
「黒い荷箱かもしれねぇ」
「水路騒ぎの前か後か」
ハインツが聞く。
「泥の乾き方から見て、最近だ。昨日か一昨日」
「つまり、測量坑道側にも荷箱を運んでる可能性」
「ある」
オルドが青ざめる。
「じゃあ、入口はもう」
「触られてるかもしれん」
ガルドは拳を握る。
だが、路地へは入らない。
入らない。
今日は周辺確認。
見張りの気配あり。
荷車跡あり。
入口へは近づかない。
戻る。
「帰るぞ」
ガルドが言った。
ハインツは頷く。
オルドも小さく息を吐いた。
「……正直、もっと見に行くと思ってた」
「俺もだ」
ハインツが言う。
「だが、今日は戻る」
ガルドは苦々しく笑った。
「ミラベルって女は、面倒なことを教えてくれたな」
「帰り道か」
「ああ」
三人は倉庫から離れた。
背後の空き工房の窓で、また影が動いた。
だが、誰も振り返らなかった。
ロイドたちが店へ戻ると、すでにガルドたちも戻っていた。
作業台の上に、二つの確認結果が並べられる。
水路東側。
鉄扉候補あり。
半埋没。
冷気と風あり。
新しい擦過痕。
接近せず。
工房街側。
資材倉庫裏へ続く路地に荷車跡。
空き工房に見張りらしき影。
黒羽関与の可能性。
入口には接近せず。
セドは両方の紙を見比べた。
「両方とも、黒羽が触れている可能性があります」
「つまり」
ロイドが言う。
「帰り道候補は、向こうも見てる」
「はい」
店内の空気が重くなる。
ミラが地図の上に灯り石を置く。
点線の道が照らされる。
しかし、その道の両端には、黒羽の影がある。
ガルドが低く言う。
「最悪、帰り道そのものを潰しに来る」
「はい」
セドが答える。
「または、帰り道だと思わせて誘導する」
ロイドは顔をしかめた。
「本当に嫌な連中だな」
「はい」
ミラが短く言った。
「だから、さらに確認する」
「そうだな」
ロイドは地図を見る。
帰り道は見えた。
でも、まだ安全ではない。
点線は、道ではなく候補だ。
その候補が、黒羽に見られている。
「次は?」
ロイドが聞く。
セドは少し考えた。
「入口確認の前に、見張りの動きを確認します」
「黒羽の?」
「はい」
「どうやって」
「こちらから近づかず、向こうがどこを見ているかを見る」
ロイドは少し首を傾げた。
ガルドが腕を組む。
「囮はなしだぞ」
「使いません」
セドは即答した。
「人を危険に出す必要はありません」
「なら?」
「街の通常の動きを利用します」
セドは地図へ印を置く。
「水路側は、必要物資回収班が高い通りを通ります。工房街側は、端材分別のため職人が行き来します。その中で、不自然に視線を向ける者、同じ場所に立つ者を記録する」
「なるほど」
ロイドが言う。
「普段の流れの中で見る」
「はい」
ミラが短く言う。
「無理しない」
「はい」
エルマは地図を見つめていた。
「……ミラベルなら、次は風の強さを測るね」
セドが顔を上げる。
「風の強さ?」
「通れる道なら、風は一定のはずだ。途中で塞がっていれば、風は弱くなる。逆に、どこかで開けられたばかりなら、風の向きが変わる」
「測れますか」
「簡単な風紙を作ればね」
「風紙?」
ロイドが聞く。
エルマは紙片を指で示す。
「細い紙を垂らして、揺れを見る。原始的だが、意外と使える」
ミラがすぐに紙を取り出した。
「作る」
「今すぐ?」
「うん」
ミラは細い紙片を何本も切り始める。
ロイドが苦笑する。
「行動早いな」
「入口には行かない」
ミラは言った。
「でも、準備はする」
その言葉に、店内の全員が頷いた。
入口には行かない。
でも、準備はする。
それが今のロイドの店だった。
王城では、ルイスがセドから戻ってきた短い返答を受け取っていた。
――東側扉候補、風あり。
――工房街側、見張りらしき影と荷車跡あり。
――帰り道候補は黒羽にも見られている可能性。
――入口確認は延期。
――風の測定準備へ。
ルイスはその文を読み、深く息を吐いた。
「延期した」
フィリアが言う。
「うん」
「よかった?」
「すごく」
ルイスは正直に答えた。
「セドが止まった」
「ロイドさんたちも止めたんじゃない?」
「たぶん」
ルイスは少し笑った。
「外の灯りが、ちゃんとセドを止めてる」
フィリアも微笑む。
「いいね」
「うん」
だが、すぐにルイスの顔は引き締まった。
「帰り道候補が見られているなら、黒羽はそこを潰すか、利用する」
「王城側に何か記録は?」
「探す」
ルイスは旧測量坑道に関する別の記録を引っ張り出した。
外縁通路関連の補助記録。
崩落危険区域。
封鎖処理予定。
測量坑道、東側扉。
工房街側封鎖。
そして、そこに小さな注記があった。
緊急時排気路として残置。
ルイスの指が止まる。
「……排気路」
フィリアが覗き込む。
「測量坑道って、ただの通路じゃないの?」
「緊急時には空気を逃がす道でもあったみたい」
「だから風がある」
「うん」
ルイスは読み進める。
緊急排気路として残置。
ただし、封鎖弁は旧東側より制御。
封鎖弁。
旧東側より制御。
ルイスの顔が強張る。
「まずい」
「何が?」
「測量坑道の風は、旧東側から止められる」
フィリアの顔も変わる。
「つまり、帰り道を向こうが塞げる?」
「可能性がある」
ルイスはすぐに紙を取る。
これは急ぐ。
急がせるためではない。
止めるためだ。
――旧測量坑道は、緊急時排気路として残置。
――風があるのは通路が生きている証拠。
――ただし、封鎖弁は旧東側から制御可能。
――黒羽が旧東側を押さえている場合、帰り道を後から閉じられる危険。
――入口確認より先に、封鎖弁の位置を特定して。
書き終え、ルイスは筆を置いた。
手が少し震えている。
フィリアがそっとその手に触れた。
「大丈夫」
「うん」
「送ろう」
「うん」
ルイスは頷いた。
外へ行けない。
でも、道を守るための情報は送れる。
それが今の自分の灯りだった。
夜。
ロイドの店では、ミラが作った風紙が作業台に並んでいた。
細く切った紙。
糸に結んだもの。
小さな木片に吊るしたもの。
簡単な道具だ。
だが、これで風の有無や強さを見る。
ロイドはそれを見て、少し感心していた。
「こういうの、灯り石より地味だけど大事だな」
「うん」
ミラが頷く。
「足元と風」
「どっちも見えにくい」
「だから見る道具」
その時、裏口に古書が届いた。
セドが取りに行き、戻ってくる。
中の紙を読み、表情が変わった。
「ルイス様からです」
ロイドが身を起こす。
「何て?」
セドは紙を作業台に置いた。
「旧測量坑道は、緊急時排気路として残置。風があるのは通路が生きている証拠。ただし、封鎖弁は旧東側から制御可能」
ガルドの顔が険しくなる。
「封鎖弁?」
セドは続ける。
「黒羽が旧東側を押さえている場合、帰り道を後から閉じられる危険。入口確認より先に、封鎖弁の位置を特定して」
沈黙。
店の中の空気が、一段冷えた。
ロイドは地図の点線を見る。
帰り道候補。
やっと見えたと思った道。
その道が、向こう側から閉じられるかもしれない。
「……帰り道を潰せるのか」
「はい」
セドが答える。
「黒羽が封鎖弁を操作できるなら」
ミラが風紙を見る。
「風を見ても、途中で止められる」
「はい」
ガルドが低く唸る。
「つまり、帰り道に見せかけた檻か」
エルマが地図を睨む。
「……そこまで残してたか」
声には怒りがあった。
「旧東側制御の封鎖弁。確かに、緊急時には必要だった。だが、今は最悪だね」
ロイドは地図を見つめた。
怖い。
また怖くなる。
帰るための道さえ、敵に閉じられるかもしれない。
でも、同時に思う。
知れてよかった。
入る前でよかった。
もし知らずに測量坑道へ入り、奥で封鎖されたら。
考えるだけで背筋が冷える。
「……ルイス様、すげぇな」
ロイドが呟いた。
セドは静かに頷いた。
「はい」
その声には、誇りと安堵が混じっていた。
ルイスの灯りが、また外へ届いた。
ロイドは深く息を吸った。
「じゃあ、次は封鎖弁の位置を探す」
「はい」
セドが答える。
「入口確認はさらに延期します」
「もちろん」
ロイドは即答した。
「帰り道が閉じられるかもしれないなら、入口どころじゃない」
ミラが頷く。
「風紙は保留?」
「いえ」
エルマが言った。
「使うよ」
「どう使う?」
「風の強さが変われば、封鎖弁が動いた可能性がある。定点観測に使える」
「定点観測」
ロイドが繰り返す。
「つまり、入口に近づかなくても、周辺で風を測り続ける?」
「そうだ」
エルマは少しだけ笑った。
「ミラベルなら、まず風を記録する」
ミラが風紙を見つめる。
「じゃあ、使う」
「うん」
セドは新しい紙を出した。
旧測量坑道調査方針、改訂。
一、入口確認は延期。
二、封鎖弁の位置特定を優先。
三、風紙による定点観測を行う。
四、風が急に止まった場合、黒羽の操作を疑う。
五、帰り道候補を確定扱いしない。
六、道に見えるものほど疑う。
ロイドは最後の一文を見て、苦笑した。
「嫌な方針だな」
「必要です」
「分かってる」
ミラが灯り石を置く。
紙の文字が浮かぶ。
ガルドが腕を組む。
「また道が遠のいたな」
「はい」
セドが答える。
「ですが、閉じ込められる危険は減りました」
「そう考えるしかねぇか」
ロイドは椅子にもたれた。
進んでいるのか、遠ざかっているのか分からない。
でも、確かに足元は見えている。
見えないまま突っ込むより、ずっといい。
店の外で、また風が鳴った。
ひゅう、と冷たく。
水路の方から吹く風。
生きている道の息。
あるいは、黒羽が閉じるかもしれない罠の呼吸。
ロイドはその音を聞きながら、静かに言った。
「焦らない」
セドが頷く。
「はい」
「でも、止まらない」
ミラが続けた。
「うん」
エルマが、ミラベルの認識札が入った箱へ視線を向ける。
「帰り道を、もっと描こう」
その言葉に、誰も異論を挟まなかった。
第二章の道は、思っていたよりもずっと複雑だった。
帰り道すら、敵に握られているかもしれない。
けれど、それを知った今。
彼らは、また紙の上に新しい線を引き始める。
細く。
慎重に。
消えた人たちの名前を忘れずに。
そして、必ず帰るために。




