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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第62話



 帰り道を先に描く。


 その言葉は、ロイドの店の壁に貼られた紙の中で、妙に静かに光っていた。


 旧東搬出路調査方針。


 一、誘導に乗らない。


 二、認識札・遺物は記録し、保管する。


 三、帰り道を先に描く。


 四、退避経路を二本確保する。


 五、一人で動かない。


 六、消えた七人を、手掛かりではなく人として扱う。


 ロイドは朝から、その三番目を何度も見ていた。


 帰り道を先に描く。


 当たり前のことのようで。


 でも、今までの自分たちは、意外とそれをしてこなかった気がする。


 危ないから止める。


 異変があるから調べる。


 誰かが危険だから助けに行く。


 それは間違っていない。


 けれど、帰ることまで考えていたかと言われると、胸を張れなかった。


 テオと子供を助けた時も。


 旧東工房区画の外縁弁へ行った時も。


 必死だった。


 怖かった。


 帰るための道を描く余裕なんて、ほとんどなかった。


 だからこそ、今回は違う。


 ロイドは作業台に置かれた地図を見下ろし、深く息を吐いた。


「……で、帰り道ってどう描くんだ?」


 正直に聞いた。


 セドは地図の上にいくつか小石を置いている。


 旧東工房区画外縁部。


 外縁弁室。


 搬出路入口。


 旧測量坑道。


 東水路側の高台。


 工房街へ抜ける細道。


 それぞれに小さな印が置かれていた。


「まず、候補を出します」


「うん」


「次に、その候補が実際に通れるかを確認します」


「現地に行く?」


「いきなり奥までは行きません」


 セドは即答した。


「外から確認できる場所。人が普段使っている道。古い記録に残っている道。複数の証言が一致する道から」


 ロイドは頷く。


「つまり、いきなり搬出路じゃなくて、周辺の道から見る」


「はい」


「いいな」


 ガルドが腕を組んで低く言った。


「旧測量坑道が生きてるかどうかが重要だ」


「その坑道って、何なんだ?」


 ロイドが聞く。


 エルマが茶をすすりながら答えた。


「昔、外縁通路を測るために使われた細い点検道だよ」


「通れるのか?」


「十年前はね」


「今は?」


「知らないね」


「怖いこと言うなぁ……」


 エルマは肩をすくめた。


「だから調べるんだろう」


 ミラが地図を覗き込む。


「狭い?」


「狭い」


 エルマは答えた。


「大人が一人通るのがやっとの場所もある。荷物を持って走るには向かない」


「じゃあ避難経路としては微妙か」


 ロイドが言う。


「完全な避難経路にはならないかもしれません」


 セドが答える。


「ですが、緊急時の退避先や、外縁弁室から離脱する第二経路として使える可能性があります」


「一本目は?」


「来た道。外縁弁室側の通路」


「でも、そこが塞がれたら」


「だから二本目が必要です」


 ロイドは地図をじっと見る。


 線と印。


 紙の上では簡単だ。


 でも、実際の旧東工房区画は暗く、濡れていて、青い水があり、黒羽がいるかもしれない。


 紙の線一本の向こうに、命が乗っている。


「……やっぱ重いな」


 ロイドが言う。


 セドが顔を上げる。


「はい」


「でも、紙の上で怖がれるのはいいな」


「どういう意味ですか」


「現場で怖がる前に、ここで怖がれる」


 ロイドは地図を指で軽く叩いた。


「ここ危ないかも、とか。ここ塞がってたらどうするとか。ここで迷ったら終わるとか」


 ミラが小さく頷く。


「怖い場所ほど、先に」


「帰り道を描く」


 ロイドが続けた。


 店内が少しだけ静かになる。


 ミラベルの言葉。


 もう、店の中では誰もが覚えていた。


 エルマは目を伏せる。


「……あの子が聞いたら、得意げな顔をするだろうね」


「ミラベルさん?」


「ああ」


 エルマの口元が少しだけ緩む。


「怖がりのくせに、自分の正しさが証明されると、妙に胸を張る子だった」


 ロイドは少し笑った。


「いいですね、それ」


「いい子だったよ」


 また、過去形。


 でも、昨日より痛み方が少し違う気がした。


 消えたままの過去ではなく。


 今、店の中で話される過去になっている。


 ミラベルという人が、少しずつ戻ってきている。


 


 午前中、ロイドたちは店を短時間だけ開けた。


 完全な営業ではない。


 だが、街の人々は水路の現状や避難区域について聞きに来る。


 ロイドは説明し、ミラは必要な灯り石を渡し、セドは情報を記録した。


 その合間に、旧測量坑道についての聞き取りも始めた。


「旧測量坑道?」


 水路沿いに住む老人が、目を細めた。


「ああ、昔そんな道があったな」


 ロイドが身を乗り出す。


「知ってるのか?」


「知ってるというほどじゃないが、子供の頃、入るなと言われていた」


「場所は?」


「水路の東側、古い石積みの奥に鉄扉があったはずだ。今は塞がってるかもしれん」


 セドが記録する。


 水路東側、古い石積み奥、鉄扉。


「他に覚えていることはありますか」


「湿った風が出ていた」


「風?」


「ああ。夏でも冷たい風が出る。だから子供たちが肝試しに行こうとして、よく怒られた」


 ロイドは顔をしかめた。


「また子供が行きたがりそうなやつだな」


「今は近づけません」


 セドが即座に言う。


「はいはい、分かってる」


 ロイドは苦笑した。


 老人は小さく笑う。


「今の子供たちは、あんたらの貼り紙を読んでるからな。昔より賢いかもしれん」


「そうだといいけど」


 店内の奥で、ニコが聞き耳を立てていた。


 ロイドはそれに気づき、すぐに言う。


「ニコ」


「何も言ってない!」


「行くなよ」


「言われると思った!」


「思ったなら分かってるな」


 ニコは口を尖らせた。


「行かないよ」


「本当に?」


「店守るって言ったし」


 その声には少しだけ悔しさが残っていた。


 でも、以前よりしっかりしていた。


 リナが横から言う。


「ニコ、昨日も小さい子に水路行くなって言ってた」


「えらいな」


 ロイドが言う。


 ニコは赤くなる。


「えらくないし」


「えらい」


 ミラが短く言った。


 ニコはさらに赤くなり、黙り込んだ。


 店内に小さな笑いが生まれる。


 怖い話の中でも、こういう笑いがある。


 それが、ロイドにはありがたかった。


 


 工房街では、ガルドとハインツが旧測量坑道の別の入口について聞いていた。


「旧測量坑道だと?」


 レム工房のオルドが眉をひそめる。


「あれは危ないぞ」


「知ってるのか」


 ガルドが聞く。


「直接は知らない。ただ、うちの先代が言っていた。外縁通路の下に、測量用の細道があると」


「入口は?」


「工房街側にも一つあったらしい」


 ハインツが目を細める。


「場所は」


「古い資材倉庫の裏だ。ただ、十年前の事故後に石で塞いだと聞いている」


 ガルドは記録する。


 工房街側、古い資材倉庫裏、石封鎖。


「通れる可能性は」


「分からん」


 オルドは首を振る。


「だが、もし残っているなら、搬出路の外縁側へ近いはずだ」


「やっぱり二本目になるか」


 ハインツが低く言う。


「ただし」


 オルドは声を落とした。


「最近、その倉庫の周りで黒い外套を見たという話がある」


 ガルドの顔が険しくなる。


「いつ」


「水路騒ぎの前日だ」


「何をしていた」


「分からない。だが、倉庫裏を見ていたらしい」


 ガルドは拳を握る。


「先に目をつけられてるな」


「かもしれん」


 ハインツは周囲を見回した。


「その倉庫には近づくなと工房街へ伝える」


「それだけでいいのか」


 オルドが聞く。


「今はな」


 ガルドは答えた。


「すぐ見に行きたいところだが、誘いかもしれねぇ」


 ハインツが少し驚いた顔をする。


「お前がそれを言うか」


「悪いか」


「いや」


 ハインツは薄く笑う。


「学んだな」


「うるせぇ」


 ガルドは不機嫌そうに顔を逸らした。


 だが、足は倉庫へ向かわなかった。


 まず戻る。


 情報を持ち帰る。


 帰り道を描く。


 それが、今のルールだった。


 


 王城では、ルイスがミラベルの実測図についてさらに調べていた。


 貸出簿には、返却記録なし。


 備品回収記録にも、ミラベルの装備はない。


 認識札も未回収。


 それだけでも異常だが、もう一つ気になる点があった。


 事故後の図面再作成記録。


 旧東工房区画外縁通路図、欠落部分あり。


 再作成不能。


 理由、現場崩落および資料喪失。


 資料喪失。


 その言葉が、妙に引っかかった。


「フィリア」


「うん」


「資料喪失って、便利な言葉だね」


「便利?」


「何が失われたのか、誰が失わせたのか、書かなくていい」


 フィリアは顔をしかめた。


「嫌な言い方だけど、本当だね」


「ミラベルの実測図は、ただ返ってこなかったんじゃなくて、“喪失”として処理されてる」


「誰が処理したの?」


 ルイスは記録の承認欄を見る。


 そこには、また空白があった。


 承認者印、欠落。


 管理印のみ。


「……また空白」


 フィリアが低く言う。


「うん」


 ルイスは紙へ書く。


 ――外縁通路実測図、事故後に資料喪失扱い。


 ――承認者印欠落。


 ――管理印のみ。


 ――意図的な責任回避の可能性。


 さらに、貸出簿の端に小さな書き込みを見つけた。


 薄く、消されかけている。


 文字はほとんど読めない。


 だが、目を凝らすと一部が見えた。


 測量坑道。


 東側扉。


 風。


 ルイスは息を止めた。


「……フィリア」


「何?」


「これ」


 フィリアが覗き込む。


「測量坑道?」


「うん」


「東側扉、風……?」


 ルイスの胸が高鳴る。


 ロイドの店側でも、おそらく測量坑道を探しているはずだ。


 ミラベルが残した書き込みか。


 あるいは、記録係が写したものか。


 分からない。


 でも、重要だ。


「東側扉」


 ルイスは呟く。


「風がある場所」


 フィリアが静かに言う。


「帰り道?」


「かもしれない」


 ルイスはすぐに覚書を書こうとして、手を止めた。


 深呼吸。


 焦るな。


 でも、これは送る。


 帰り道を描くための情報だ。


 急がせる情報ではない。


 止めるための情報。


 ルイスは筆を取り、慎重に書いた。


 ――ミラベルの実測図は事故後、資料喪失扱い。


 ――承認者印は欠落。


 ――貸出簿端に消えかけた書き込みあり。


 ――測量坑道、東側扉、風。


 ――帰り道候補として確認。ただし誘導の可能性も捨てない。


 最後に、少し迷ってから一行足した。


 ――風がある道は、生きているかもしれない。


 フィリアがその文を見て、小さく頷いた。


「外の人たちに届くといいね」


「届ける」


 ルイスは紙を畳んだ。


 彼もまた、王城の中で帰り道を描いていた。


 


 夕方、ロイドの店に情報が戻ってきた。


 水路東側の古い石積み奥に鉄扉。


 工房街側の古い資材倉庫裏に石封鎖。


 測量坑道は外縁通路下を通っている可能性。


 黒い外套が資材倉庫裏を見ていたという目撃情報。


 そして、ルイスからの覚書。


 測量坑道。


 東側扉。


 風。


 その言葉が、店の作業台で重なった。


 ロイドは地図の上に指を置く。


「水路東側の鉄扉」


 セドが別の印を置く。


「工房街側の資材倉庫裏」


 ガルドが腕を組む。


「この二つが、同じ坑道に繋がってる可能性がある」


 エルマが頷く。


「あり得るね」


 ミラが言う。


「風」


「はい」


 セドは顔を上げる。


「風が通っているなら、完全に塞がっていない可能性があります」


「でも、黒羽も見てる」


 ロイドが言う。


「はい」


「じゃあ、すぐ見に行かない」


「はい」


 今度は誰も反対しなかった。


 むしろ、全員が自然にそう考えていた。


「まず、外から確認」


 ミラが言う。


「近づきすぎない」


 ガルドが続ける。


「二組で行くか」


「いえ」


 セドは首を横に振った。


「明日は下見ではなく、周辺確認だけにしましょう」


「どう違うんだ?」


 ロイドが聞く。


「入口そのものに近づかず、周囲の人の動き、黒羽の気配、地形を確認します」


「なるほど」


「入口を見るのはその次」


 エルマが頷く。


「慎重だね」


「必要です」


「いいことだ」


 エルマは静かに言った。


「ミラベルなら、そうする」


 その一言で、方針は決まった。


 


 夜。


 店の作業台には新しい地図が置かれた。


 まだ完成していない。


 けれど、そこには初めて“帰り道候補”が描かれていた。


 一本目。


 外縁弁室から来た道。


 二本目。


 旧測量坑道。


 東側扉から工房街側の封鎖地点へ抜ける可能性。


 まだ点線だ。


 確定ではない。


 危険も多い。


 黒羽に見られている可能性もある。


 それでも、地図の上に帰り道が現れた。


 ロイドはそれを見て、静かに息を吐いた。


「……少しだけ、見えたな」


「はい」


 セドが答える。


「まだ点線だけど」


「点線でも、ないよりは良いです」


「だな」


 ミラが地図の横に夜間用灯り石を置いた。


 点線の道が柔らかく照らされる。


 エルマはその線を見つめていた。


 ミラベルの認識札が入った箱の横で。


「ミラベル」


 彼女は小さく呟いた。


「帰り道、描き直してるよ」


 誰も茶化さなかった。


 誰も急かさなかった。


 店の中に、静かな空気が流れる。


 その時、外で風が鳴った。


 ひゅう、と。


 水路の方角から吹く、冷たい風。


 ロイドは顔を上げる。


 セドも扉の方を見る。


 ガルドが眉をひそめる。


 ミラが灯り石を一つ手に取る。


 エルマが低く言った。


「……風が強くなったね」


 それは偶然かもしれない。


 だが、誰もただの偶然とは思えなかった。


 測量坑道。


 東側扉。


 風。


 生きているかもしれない道。


 その向こうに、黒羽が待っているかもしれない。


 それでも。


 今夜はまだ、行かない。


 ロイドは地図の点線を見つめ、静かに言った。


「明日は、入口じゃなくて周りを見る」


「はい」


 セドが頷く。


「急がない」


 ミラが言う。


「でも、忘れない」


 ガルドが続ける。


「一人で動かない」


 エルマが最後に言った。


「帰り道を、先に描く」


 店の中の灯りが、静かに揺れた。


 旧東工房区画の闇はまだ深い。


 けれど、紙の上に一本だけ、細い点線が引かれている。


 それはまだ道ではない。


 でも、道になるかもしれないものだった。

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