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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第61話



 ミラベル・サージ。


 その名前が刻まれた金属片は、朝になっても作業台の上に置かれていた。


 夜間用灯り石の光は、もう消されている。


 代わりに、朝の薄い光が店の窓から差し込み、金属片の表面を鈍く照らしていた。


 小さな認識札。


 指二本ほどの幅しかない。


 端は少し欠け、表面には細かな傷がある。


 十年前の時間が、そのままこびりついているようだった。


 けれど、名前だけは読めた。


 外縁通路測量班。


 ミラベル・サージ。


 ロイドは、作業台の前で立ち尽くしていた。


 昨夜から何度も見た。


 もう見なくても文字の並びは覚えてしまった。


 それでも、朝になってもう一度見ると、胸の奥が重くなる。


「……戻ってきたんだよな」


 小さく呟く。


 ミラが隣で答えた。


「うん」


「でも、戻ってきただけじゃない」


「うん」


「誘ってる」


「たぶん」


 ミラの声はいつも通り短い。


 でも、その目は認識札から離れない。


 彼女にとっても、ミラベルという名前は少し特別に響くのかもしれない。


 同じ音を持つ名前。


 十年前に消えた測量士。


 怖い場所ほど、帰り道を先に描くと言った人。


 その人の認識札が、ロイドの店の裏口へ置かれた。


 偶然ではない。


 誰かが置いた。


 誰かが、こちらへ見せた。


 搬出路の奥で、道はまだ眠っている。


 鳥が起こす前に、思い出せ。


 紙片の言葉は、まるで親切のようで。


 同時に、罠のようでもあった。


「セドは?」


 ロイドが聞く。


「奥」


 ミラが答える。


「エルマさんと見てる」


「認識札を?」


「真偽確認」


「だよな」


 ロイドは深く息を吐いた。


 昨夜、すぐにでも搬出路へ向かいたくなる空気があった。


 認識札が戻ってきた。


 ミラベルの名がある。


 道が眠っている。


 そう言われれば、確かめに行きたくなる。


 けれど、セドは動かなかった。


 ロイドも止めた。


 ミラも、ガルドも、エルマも。


 急がない。


 それが今の合言葉のようになっている。


 急がず。


 でも、忘れず。


「……成長したよな、俺たち」


 ロイドが言う。


 ミラが少しだけ首を傾げる。


「俺たち?」


「すぐ走らなかった」


「うん」


「昔なら……いや、昔ならそもそも関わってねぇか」


「たぶん」


「それもそうだな」


 ロイドは苦笑した。


 潰れかけの灯り石屋だった頃なら、認識札が置かれていても意味が分からなかった。


 黒羽も、旧東工房区画も、消えた七人も。


 何も知らずに、ただ店を畳むかどうかで悩んでいたかもしれない。


 それが今は、王都の裏側で起きていることに関わっている。


 怖い。


 重い。


 けれど、不思議と後悔はなかった。


「ロイド」


 ミラが呼ぶ。


「ん?」


「顔」


「また顔?」


「行きたそう」


 ロイドは言葉に詰まった。


 ミラは認識札を見る。


「行きたい?」


「……行きたい、というか」


 ロイドは頭を掻く。


「気になる。確かめたい。ミラベルさんのことも、搬出路のことも」


「うん」


「でも、行きたくない。怖い。罠かもしれないし」


「うん」


「どっちもある」


「正しい」


 ミラは短く言った。


 ロイドは少しだけ驚く。


「正しい?」


「怖いから、考える」


 その言葉に、ロイドは黙った。


 ミラベルの言葉が重なる。


 怖い場所ほど、帰り道を先に描く。


 怖いことは、足を止める理由になる。


 でも同時に、準備する理由にもなる。


「……そうだな」


 ロイドは頷いた。


「帰り道を先に描く、か」


「うん」


「俺たちも、行く前に帰り道を作らないとな」


「店に」


「そうだな」


 ロイドは店の中を見る。


 棚。


 灯り石。


 作業台。


 壁の貼り紙。


 ここが帰る場所だ。


 なら、帰るための準備をしなければならない。


 


 奥の小部屋では、エルマが認識札を手にしていた。


 小さな金属片を、古い魔導レンズ越しに見ている。


 セドは向かい側で、記録紙を広げていた。


 ガルドは壁際で腕を組み、黙って二人を見ている。


 部屋の空気は重い。


 外よりもずっと。


 エルマが認識札を持つ手は、わずかに震えていた。


 それが老いによるものではないことは、誰の目にも明らかだった。


「……本物ですか」


 セドが静かに聞く。


 エルマはすぐには答えなかった。


 認識札の裏側を見て、端をなぞる。


 傷の位置。


 刻印の深さ。


 古い管理番号。


 そして、裏に小さく刻まれた記号。


「本物だね」


 ようやく、エルマは言った。


 声は低い。


「少なくとも、当時の認識札で間違いない」


 セドは筆を取る。


「根拠は」


「材質。刻印の形式。管理番号の規則」


 エルマは淡々と答えようとした。


 だが、途中で声が止まる。


「それと」


 一拍。


「裏の傷」


 セドは筆を止めた。


「傷?」


「ミラベルは、認識札の裏に自分で傷をつけていた」


 エルマは認識札を裏返す。


 そこには、細い線が三本あった。


 まっすぐではない。


 少し斜めに交差している。


「何のために」


 ガルドが聞く。


「本人曰く、上下が分からなくなるのが嫌だから、だとさ」


 エルマは微かに笑った。


 痛みを伴う笑みだった。


「暗いところで札を触った時、向きが分かるようにしていた」


 セドはその三本線を見つめる。


 怖がりだから。


 帰り道を確かめる人だから。


 小さな札にまで、向きを刻む。


 それはミラベルという人の性格そのもののようだった。


「本物だ」


 エルマはもう一度言った。


 今度は、認めるのが辛そうだった。


「これは、ミラベルのものだ」


 沈黙が落ちる。


 セドはゆっくり記録する。


 認識札、ミラベル・サージ本人のものと推定。


 裏面三本傷、本人が向き確認用に刻んだ特徴。


 エルマ証言により一致。


 書き終えたあと、セドは少しだけ筆を置いた。


「エルマさん」


「何だい」


「この札がここへ届けられたということは、黒羽、またはクロウが、消えた七人の遺物を持っている可能性があります」


「分かってる」


 エルマの声は硬い。


「誘いですね」


「だろうね」


「搬出路へ向かわせるための」


「ああ」


 エルマは認識札を作業台へ置いた。


 その音は小さかった。


 でも、部屋に響いた。


「分かってるよ」


 声が少し震えた。


「分かってるのに、行きたくなる」


 その言葉は、あまりに正直だった。


 ガルドが目を伏せる。


 セドも返せない。


 エルマは認識札を見つめ続ける。


「あの子の札が戻ってきた。誰かが持っていた。なら、他にもあるかもしれない。カイゼルのものも、他の子たちのものも」


 手が震える。


「そう思ったら、すぐにでも行きたくなる」


「……」


「十年前、私は動けなかった」


 エルマの声が低くなる。


「動けなかったのか、動かなかったのか、今でも分からない。瓦礫と煙と、水と悲鳴の中で、誰がどこにいるか分からなくなって……気づいたら、全部終わっていた」


 セドは黙って聞いていた。


 ガルドも。


 誰も軽い慰めを言わない。


 エルマは続ける。


「だから今、札が戻ってきたら、足が勝手に前へ出そうになる」


「エルマさん」


 セドが静かに言った。


「はい」


 エルマは顔を上げる。


「今度は、一人ではありません」


 その言葉に、エルマの目が揺れた。


「ロイドさんも、ミラも、ガルドさんもいます。ディムさんやハインツさんも、街の人たちもいます。王城側ではルイス様も動いています」


 一拍。


「行く時は、準備して、帰り道を描いてから行きます」


 エルマは、しばらく黙っていた。


 そして、少しだけ笑った。


「ミラベルに聞かせたい言葉だね」


「彼女の言葉から学びました」


「そうかい」


 エルマは認識札へ視線を戻す。


「じゃあ、あの子に恥じないようにしないとね」


 ガルドが低く言う。


「まず、帰り道だな」


「そう」


 エルマは頷く。


「旧東外縁部から搬出路へ入るなら、退避経路が最低二本いる」


「二本?」


「一本が塞がれたら終わる」


 セドが記録する。


「退避経路二本。入口、外縁弁室側と?」


「旧測量坑道」


 エルマが答える。


 セドが顔を上げる。


「図面にありますか」


「正式図面にはない」


「では」


「ミラベルの実測図には、あるはずだ」


 部屋の空気が少し変わる。


 ミラベルの実測図。


 王城側でルイスが見つけた、事故三日前に借りられ、返却されていない図面。


 セドはまだそれを知らない。


 だが、感覚的に重要だと分かった。


「その実測図は?」


 ガルドが聞く。


 エルマは苦い顔をする。


「事故後、見つからなかった」


「黒羽が持っていった?」


「可能性はある」


 エルマは認識札を見た。


「でも、ミラベルなら隠したかもしれない」


 セドが静かに問う。


「理由は」


「怖がりだったから」


 エルマは答えた。


「怖い場所ほど、帰り道を先に描く子だよ。自分がいなくなっても、誰かが帰れるように残した可能性はある」


 セドはゆっくり頷いた。


「では、次に探すべきはミラベルの実測図」


「そうだね」


「ただし、搬出路へ直接入らずに探せる手掛かりから」


「正しい」


 エルマは小さく息を吐いた。


「王城の記録に、貸出の記録が残ってるかもしれない」


 セドは筆を止めた。


 王城。


 ルイス。


 なら、向こうで探せるかもしれない。


「ルイス様へ確認します」


「頼むよ」


 エルマは初めて、はっきりと頼んだ。


 セドは小さく頭を下げる。


「必ず」


 


 王城では、ルイスがまさにその記録を前にしていた。


 外縁通路実測図、改訂版。


 事故三日前、ミラベル・サージが借用。


 返却記録なし。


 貸出簿のその一行は、朝から何度見ても変わらなかった。


 フィリアは隣で別の帳簿を開いている。


「ルイス」


「うん」


「これ、見て」


 彼女が指差したのは、備品保管記録だった。


 事故後、回収された個人装備の一覧。


 認識札。


 工具袋。


 筆記具。


 測量糸。


 携帯用方位器。


 名前ごとに回収品が並んでいる。


 ルイスは一つずつ目で追った。


 そこに、ミラベル・サージの名前はなかった。


「ミラベルの装備、回収されてない」


「うん」


「認識札も?」


「ない」


 ルイスは眉を寄せた。


 認識札が回収されていない。


 つまり、事故後に王城側へ戻っていない。


 もし今、その認識札がロイドの店に届いているなら。


 誰かが、十年間持っていたことになる。


 黒羽か。


 クロウか。


 あるいは、別の誰かか。


 ルイスはまだそのことを知らない。


 だが、胸の奥に嫌な予感があった。


「……ミラベルのものが、何も戻ってない」


 フィリアが言う。


「カイゼルは?」


 ルイスは別の欄を見る。


 カイゼル・ノート。


 回収品、工具袋一部破損。


 認識札、未回収。


「カイゼルも認識札未回収」


「未回収が多い?」


「いや」


 ルイスは一覧をざっと見る。


「他の負傷者や死亡者は、認識札が戻っている人が多い」


「じゃあ、消えた七人は?」


 二人で確認する。


 七人全員。


 認識札、未回収。


 沈黙。


 王城の静かな部屋で、その事実だけが重く浮かぶ。


「……黒羽が持っている?」


 フィリアが小さく言う。


「可能性が高い」


 ルイスは紙へ書く。


 ――消えた七人、認識札未回収。


 ――通常回収記録と異なる。


 ――本人装備ごと消失。


 ――ミラベルの外縁通路実測図も未返却。


 筆が止まる。


「これ、すぐセドへ?」


 フィリアが聞く。


 ルイスは少しだけ目を伏せた。


 急がず。


 でも、これは急ぐべきかもしれない。


 セドたちがもし認識札を見つけたら。


 もし黒羽が誘いをかけてきたら。


 この情報は必要になる。


 道を急げば、鳥の先導になる。


 自分でそう書いた。


 なら、道を急がせないための情報は早く渡すべきだ。


「送る」


 ルイスは言った。


「ただし、警告として」


「うん」


 フィリアが頷く。


 ルイスは覚書を丁寧に書き直した。


 ――消えた七人の認識札は、全員未回収。


 ――通常の事故処理記録と異なる。


 ――本人装備ごと、記録から外れている。


 ――ミラベルの実測図改訂版も返却なし。


 ――認識札や遺物が現れた場合、それは誘導である可能性が高い。


 最後に一行。


 ――帰り道を描くまで、道へ入らないで。


 書き終えた瞬間、ルイスは深く息を吐いた。


 フィリアが静かに言う。


「その言葉、いいね」


「ミラベルがそういう人だった気がする」


「まだ会ったこともないのに?」


「記録から、少し見えた」


 ルイスは紙を畳む。


 名前は、人を戻す。


 記録は、消された足跡を戻す。


 ロイドの店が外でそれをしているなら、自分は王城の中で続ける。


「届ける」


 ルイスは立ち上がった。


 


 ロイドの店では、午前の営業を短く終えたあと、認識札の扱いについて話し合っていた。


 ミラベルの認識札は、布の上に置かれている。


 直接作業台へ置かない。


 物として雑に扱わない。


 ミラがそう提案した。


 誰も反対しなかった。


「保管箱がいるな」


 ロイドが言う。


「普通の箱じゃなくて」


「湿気を避ける」


 ミラが答える。


「あと、見える場所には置かない」


 セドが言う。


「狙われる可能性があります」


 ガルドが低く頷く。


「黒羽が取り返しに来る可能性もあるな」


「誘いなら、しばらくは来ないかもしれません」


 セドは言った。


「でも油断はできません」


「じゃあどうする」


 ロイドが聞く。


 ミラが少し考えて言う。


「灯り石の保管箱」


「ん?」


「壊れやすい試作品用」


「ああ、あれか」


 ロイドは思い出す。


 棚の奥にある小さな箱。


 内側に布が貼られ、衝撃を避けるための仕切りがある。


 ミラが大切な試作品を入れていたものだ。


「いいのか?」


「うん」


「大事な箱だろ」


「大事なものを入れる」


 ミラの声は短い。


 でも、それで十分だった。


 ミラベルの認識札は、灯り石の試作品と同じように。


 大切に保管される。


 ロイドは少しだけ胸が熱くなった。


「じゃあ、それで」


 ミラは箱を持ってきた。


 内側の布を整え、認識札をそっと置く。


 まるで小さな灯り石を置くように。


 その動作に、エルマが目を細めた。


「……丁寧だね」


「名前がある」


 ミラは答えた。


「雑にしない」


 エルマは何も言わなかった。


 ただ、深く頷いた。


 その時、裏口で音がした。


 全員が警戒する。


 セドが素早く動き、ガルドも工具に手を伸ばす。


 しかし、そこにあったのはいつもの古書だった。


 ルイスからの連絡。


 セドは本を取り、店内へ戻る。


 挟まれていた紙を広げた瞬間、表情がわずかに変わった。


「ルイス様からです」


 ロイドが身を乗り出す。


「何て?」


 セドは読み上げた。


「消えた七人の認識札は、全員未回収。通常の事故処理記録と異なる。本人装備ごと、記録から外れている。ミラベルの実測図改訂版も返却なし。認識札や遺物が現れた場合、それは誘導である可能性が高い」


 店内が静まり返る。


 認識札。


 まさに、現れたばかりだ。


 ルイスは知らずに警告している。


 いや、王城側の記録から、そう推測したのだ。


 セドは最後の一行を読んだ。


「帰り道を描くまで、道へ入らないで」


 誰もすぐには口を開かなかった。


 ミラベルの言葉と、ルイスの警告が重なる。


 怖い場所ほど、帰り道を先に描く。


 帰り道を描くまで、道へ入らないで。


 ロイドはゆっくり息を吐いた。


「……完全に誘いだったな」


「はい」


 セドが答える。


「でも、気づけた」


「はい」


「ルイス様、すごいな」


「はい」


 セドの声には、静かな誇りがあった。


 ルイスが外へ出なくても、王城の内側で灯りを持っている。


 それが今、店を守った。


 ガルドが腕を組む。


「じゃあ、次にやることは決まったな」


「何?」


 ロイドが聞く。


「帰り道を描く」


 ガルドは言った。


 エルマが頷く。


「旧測量坑道、外縁弁室、搬出路入口。最低でも三つの位置関係を確認する」


「現地へ行く?」


 ロイドが聞く。


 セドは首を横に振る。


「まず図面と証言です」


「だよな」


「次に、外から確認できる範囲」


「それから?」


「退避経路を二本確保してから、搬出路へ」


 ロイドは頷いた。


「急がず」


 ミラが続ける。


「でも、忘れず」


 セドは認識札の入った保管箱を見る。


「はい」


 エルマはそっと箱に手を置いた。


「ミラベル」


 小さく名前を呼ぶ。


「今度は、帰り道を描くよ」


 その声は震えていた。


 けれど、昨夜より少しだけ前を向いていた。


 


 夕方。


 店の壁に新しい紙が貼られた。


 それは客向けの注意書きではない。


 店内の作業台の横。


 仲間たちだけが見る位置。


 セドが書き、ロイドが確認し、ミラが灯りを置いた。


 旧東搬出路調査方針


 一、誘導に乗らない。


 二、認識札・遺物は記録し、保管する。


 三、帰り道を先に描く。


 四、退避経路を二本確保する。


 五、一人で動かない。


 六、消えた七人を、手掛かりではなく人として扱う。


 ロイドはその最後の一文を見て、深く頷いた。


「これ、大事だな」


「はい」


「忘れたら駄目だ」


「はい」


 ミラが灯りを少し近づける。


 紙の文字が、柔らかく浮かび上がった。


 ガルドが低く言う。


「黒羽が一番嫌がりそうだ」


「何が?」


「人として扱うこと」


 ロイドは少しだけ笑った。


「じゃあ、絶対やめない」


 エルマも小さく笑う。


「いいね」


 店の外では、夕方の通りを人々が歩いている。


 水路への立入制限は続いている。


 工房街はまだ復旧中。


 王城ではルイスが記録を追っている。


 黒羽は、どこかでこちらを見ているかもしれない。


 だが、ロイドの店はもう走らない。


 誘われても、飛び込まない。


 名前を戻し、帰り道を描き、灯りを持って進む。


 ミラベルの認識札は、小さな保管箱の中で静かに眠っている。


 それは罠かもしれない。


 誘いかもしれない。


 けれど同時に、消された人が戻るための最初の欠片でもあった。


 ロイドは保管箱を見つめ、静かに言った。


「待っててくれ」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 ミラベルへか。


 カイゼルへか。


 消えた七人へか。


 それとも、旧東工房区画の奥で眠る道へか。


「急がない」


 一拍。


「でも、必ず行く」


 その声に、誰も反対しなかった。


 店の中の灯りが、静かに揺れていた。

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