第56話
朝になっても、ロイドの店は静かではなかった。
本日午前、避難対応のため休業。
午後以降、状況を見て再開します。
水路には近づかないでください。
店主ロイド
扉に貼られたその紙は、夜露を含んで少し波打っていた。
文字の端がにじんでいる。
それでも、読めないほどではない。
むしろ、夜を越えた紙の湿り気が、昨夜の出来事をそのまま残しているようだった。
店の前には、朝早くから人が来ていた。
灯り石を買いに来た客ではない。
様子を見に来た者。
避難していた家族を迎えに来た者。
水路がどうなったか聞きに来た者。
そして、ただロイドの店が開いているかを確かめに来た者。
「休業か」
「そりゃそうだよ。昨日あれだけ動いてたんだから」
「店主さん、戻ってきたんだよな?」
「戻ってきた。夜明け前に見た」
「水路は?」
「まだ近づくなって」
「でも家に戻りたい人もいるだろ」
「今戻って、また水が来たらどうするんだよ」
ざわめきはある。
けれど、昨日のような悲鳴ではない。
夜が明けたことで、恐怖は少し形を変えていた。
すぐ逃げなければならない恐怖から、これからどうすればいいのかという不安へ。
家に戻れるのか。
仕事はできるのか。
処理場は動くのか。
工房は再開できるのか。
子供を外に出していいのか。
水路沿いの長屋は無事なのか。
誰もが、答えを探していた。
その答えを、なぜかロイドの店に求めている。
少し前なら考えられないことだった。
潰れかけの灯り石屋。
客足も少なく、棚の商品も寂しく、店主が毎日ため息をついていた店。
そこが今、街の不安が集まる場所になっている。
そして店の中では。
ロイドが床に座り込んだまま、空の器を持っていた。
「……食ったら眠くなってきた」
声が低い。
というより、ほとんど力がない。
目の下には濃い隈。
髪は乱れ、服も泥が落ちきっていない。
手にはまだ、灯り石を握っていた時の疲れが残っている。
ミラが横から言った。
「寝る」
「寝たい」
「寝る」
「でも外に人が」
「寝る」
「ミラさん、今日は強いな」
「昨日も強い」
「そうだった」
ロイドは器を置き、壁にもたれた。
だが、完全には目を閉じない。
扉の向こうの声が気になっている。
店主として。
水路の件を知る者として。
何より、昨夜の避難誘導に関わった者として。
放っておけない。
でも、体は限界だった。
セドは作業台の横で記録を整理していた。
こちらも眠っていない。
しかし、ロイドほど崩れてはいない。
ただ、いつもより筆の動きが少し遅い。
紙の上には、昨夜の出来事が細かく書かれている。
東水路逆流。
青色魔力水。
石橋崩落。
テオと幼児リオ救助。
住民避難。
工房街地下配管から青色水噴出。
処理場黒羽荷箱から青光。
エルマ解析。
旧東工房区画外縁冷却弁、一時閉鎖。
灰色外套の男、搬出路へ逃走。
補助冷却炉、完全停止ではない。
項目は多い。
多すぎる。
第一章が終わったなどと言ったばかりなのに、問題はむしろ増えていた。
「セド」
ロイドが目を半分閉じたまま呼ぶ。
「はい」
「お前も寝ろ」
「記録が終わったら」
「その言い方で寝た奴を俺は知らない」
「……」
「図星みたいな顔するな」
セドは筆を止めた。
少しだけ沈黙する。
「記録を残さないと、次の判断が遅れます」
「分かる」
ロイドは頷いた。
「分かるけど、倒れたら判断も何もない」
「……」
「昨日、お前が俺に言ったようなことだぞ」
セドは返せなかった。
ロイドは少しだけ笑う。
「返ってくるもんだな」
「はい」
「じゃあ寝ろ」
「もう少しだけ」
「それ禁止」
ミラが即座に言った。
セドがそちらを見る。
「禁止ですか」
「禁止」
「理由は」
「倒れる」
「……」
「寝る」
ガルドが奥の椅子から低く言った。
「従っとけ。今のミラに逆らうと面倒だ」
ミラはガルドを見る。
「ガルドも寝る」
「俺は」
「寝る」
「……分かった」
ガルドは渋い顔をした。
その顔を見て、ロイドが少し笑う。
「全員ミラに管理されてるな」
「ロイドも」
「はい」
ロイドは素直に返事をした。
そのやり取りに、避難していた子供たちの何人かが小さく笑った。
店の中には、まだ避難者が残っている。
昨夜から床に毛布を敷いて眠っていた子供たち。
迎えを待つ老人。
高い通りへ移った家族の伝言を待つ住民。
その中に、ニコ、リナ、トマもいた。
ニコは寝不足の顔で、それでも入口の方をちらちら見ている。
ロイドがそれに気づいた。
「ニコ」
「何?」
「見張りは大人がやる。お前も寝ろ」
「でも」
「でも禁止」
ミラが言う。
「ミラさんも!?」
「寝る」
ニコは不満そうに口を尖らせた。
リナが横から静かに言う。
「寝よう。昨日、ずっと起きてたし」
「リナも起きてたじゃん」
「だから寝る」
トマはすでに半分寝ていた。
「俺、寝る……」
「裏切り者」
「眠い……」
ニコはしばらく粘る顔をした。
けれど、店の奥で小さな子が眠っているのを見て、ため息を吐く。
「……分かった」
それから、ロイドへ向かって言った。
「でも、何かあったら起こして」
「起こさない」
「何で!」
「子供だから」
「昨日は店守れって言ったじゃん!」
「あれはあれ。これはこれ」
「ずるい!」
ロイドは少しだけ笑った。
でも、声は柔らかかった。
「寝るのも仕事だ」
ニコは黙った。
その言葉は、意外と刺さったらしい。
「……仕事なら仕方ない」
「そうだ」
ミラが頷く。
「寝る仕事」
「何か変だけど……分かった」
ニコは毛布に潜った。
リナがその隣に座る。
トマはもう寝息を立て始めていた。
店の中に、少しだけ穏やかな空気が戻る。
だが、それは長く続かなかった。
扉の外から、遠慮がちなノックが聞こえた。
全員の目が向く。
ロイドが立とうとする。
ミラが手で制した。
「私」
短く言って、扉へ向かう。
少しだけ開けると、そこにはハインツが立っていた。
大柄な職人。
目の下に隈。
服には煤。
彼もまた、ほとんど寝ていない顔だった。
「……休業なのは見た」
ハインツは低く言った。
「だが、報告だけ置く」
ミラは扉を少し広げる。
「入る?」
「長居はしない」
「入って」
ハインツは一瞬迷ったが、店内へ入った。
避難している子供たちを見て、声を落とす。
「すまん」
ロイドが立ち上がりかける。
「座って」
ミラが言う。
「でも」
「座って」
ロイドは座った。
ハインツは少しだけ目を細める。
「ずいぶん強いな、この店の娘は」
「うちで一番強い」
ロイドが小声で答える。
ミラは無反応だった。
ハインツは作業台の近くに立ち、ガルドを見る。
「工房街の東側は、今朝の時点で一応落ち着いた」
「被害は」
ガルドが聞く。
「床下浸水が三件。炉の停止遅れが一件。怪我人は軽傷が数人。死者はいない」
その言葉で、店内の空気が少しだけ緩んだ。
死者はいない。
それだけで、胸の奥に張り詰めていた何かが少しほどける。
ロイドは目を閉じた。
「……よかった」
本当に、それしか言えなかった。
ハインツは頷く。
「昨日の注意がなければ、もっと悪かった」
ロイドが目を開ける。
「そうか?」
「ああ」
ハインツはガルドを見る。
「見習いを奥に下げていた工房が多かった。水路側の道を使うなとも言ってあった。端材箱を床から上げていたところもある」
ガルドは低く息を吐いた。
「無駄じゃなかったな」
「無駄じゃない」
ハインツははっきり言った。
「それを伝えに来た」
ロイドは何も言えなくなった。
伝えに来た。
わざわざ、休業中の店へ。
ロイドたちが動いたことが、無駄ではなかったと。
ハインツは続ける。
「ただし、工房街はざわついている」
「何で」
「黒い鳥の荷箱だ」
店内の空気が再び重くなる。
セドが顔を上げる。
「工房街にも?」
「ああ。昨日の混乱の中で、二つ見たという話がある」
「場所は」
「旧冷却路に近い小工房周辺」
「回収ですか」
「おそらくな」
ハインツは拳を握る。
「水が来ている最中に、奴らは人を助けず、何かを運んでいた」
その言葉は、静かな怒りを帯びていた。
ロイドの胸にも、また熱が湧く。
人が逃げている最中に。
子供が泣いている最中に。
工房が浸水している最中に。
黒羽は何かを選び、運んでいた。
「……本当に」
ロイドは低く呟く。
「価値あるものしか見てないんだな」
「だから厄介だ」
ガルドが言う。
セドは記録へ手を伸ばそうとした。
ミラがその手を止める。
「後」
「……はい」
セドは素直に引いた。
ハインツが少し驚いた顔をする。
「本当に管理されてるな」
「否定できない」
ロイドが答える。
少しだけ笑いが起きた。
ハインツは短く息を吐く。
「報告は以上だ」
「ありがとう」
ロイドが言う。
「休めよ」
ハインツは少しだけ目を伏せた。
「そっちもな」
彼は扉へ向かい、出る前に一度だけ振り返った。
「職人灯り」
「ん?」
「昨夜、役に立った」
ミラが顔を上げる。
「本当?」
「ああ」
ハインツは短く頷く。
「低い光が、煙の中でも手元を見せた。見習いを転ばせずに済んだ」
ミラはしばらく何も言わなかった。
そして、小さく頷く。
「よかった」
ハインツはそれだけ聞くと、店を出ていった。
扉が閉まる。
鈴の音が小さく響く。
ロイドは天井を見上げた。
「……また、灯りが役に立ったな」
「うん」
ミラは職人灯りの一つを手に取り、柔らかく撫でた。
その光は小さい。
でも、確かに人を転ばせなかった。
それだけで、価値があった。
王城の朝は、いつも通りに見えた。
白い廊下。
磨かれた床。
整えられた窓辺。
静かに歩く使用人。
低い声で話す文官たち。
けれど、その裏側には微かなざわめきがあった。
旧東工房区画冷却路閉鎖記録の再確認。
廃棄物処理契約の再委託先照会。
事故後払い下げ記録の確認。
第二王子ルイスが、夜間に正式依頼を出した。
その情報は、朝になる頃には管理棟の一部に広がっていた。
ルイスは自室に戻らず、書庫の小部屋でフィリアと向かい合っていた。
二人とも寝ていない。
机の上には、確認依頼の写し。
古い水路図。
そして、セドへ送るにはまだ整っていない覚書。
フィリアが温かい茶を置いた。
「飲んで」
「ありがとう」
ルイスは器を受け取る。
指先が少し冷えていた。
茶の温かさが、そこへ染みる。
「東の青い光、弱くなったね」
フィリアが窓の外を見る。
「うん」
ルイスも頷く。
「たぶん、外側で何かした」
「セドたち?」
「そう思う」
胸が少しだけ締めつけられる。
無事だろうか。
怪我はしていないだろうか。
セドはまた無茶をしていないだろうか。
ロイドの店は大丈夫だろうか。
考え出すと、止まらない。
けれど、今すぐ確かめる術はない。
ルイスは茶を一口飲み、息を整えた。
「フィリア」
「うん」
「たぶん今日、何か反応が来る」
「管理棟から?」
「うん。僕の依頼を面倒だと思う人もいるはず」
「無視される?」
「無視はしにくいと思う。東水路の異変が実際に起きたから」
ルイスは紙を見る。
「でも、遅らせることはできる」
「時間稼ぎ?」
「そう」
「じゃあ、どうする?」
フィリアの問いは、まっすぐだった。
ルイスは少しだけ沈黙する。
以前なら、答えを一人で考え込んだ。
フィリアには心配させたくないと言って、必要なことだけを伝えただろう。
でも今は違う。
灯りは、一人で持つものではない。
「……管理棟だけじゃなく、医療記録側も見る」
「医療?」
「十年前、旧東工房区画の事故で負傷者が出たはずなんだ」
「……うん」
「もし黒羽が技師を運び出したなら、表向きの負傷者記録と合わない可能性がある」
フィリアの顔が少し強張る。
「人の記録を見るんだね」
「うん」
「重いね」
「重い」
ルイスは正直に頷く。
「でも、人が選別されたなら、物の記録だけじゃ足りない」
フィリアはしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「私、医療棟の古い閲覧手続きなら少し分かる」
「本当?」
「昔、王妃様の慈善活動の補助で、記録閲覧の手順だけ見たことがある」
「助かる」
ルイスは心から言った。
フィリアは少しだけ笑う。
「役に立てるならよかった」
「……ありがとう」
「だから、お礼は後」
「うん」
ルイスも少し笑った。
外側でセドたちが水路を一時的に止めたなら。
内側では、自分たちが記録の水路を辿る。
物の流れ。
人の流れ。
隠された空白。
それを見つける。
第二章は、もう始まっていた。
昼近くになって、ロイドの店の外にはまた人が増え始めていた。
休業の紙が貼られていても、完全には人が途切れない。
ただ、以前のように騒がしく詰め寄る者は少なかった。
皆、扉の前で声を落とす。
中に避難者がいることを知っているからだ。
「まだ休ませてやれよ」
「でも、水路のこと聞きたい」
「午後まで待てって書いてあるだろ」
「子供が中にいるんだ。静かにしろ」
街の人々が、互いに互いを抑えている。
それもまた、変化だった。
ロイドは扉の内側でその声を聞き、目を閉じた。
「……ありがたいな」
「はい」
セドが答える。
「でも、午後は開けないとだよな」
「無理をする必要は」
「無理じゃない」
ロイドは目を開けた。
「説明は必要だ。水路に近づくなって、改めて言わないと」
「……はい」
「ただし」
ロイドはセドを見る。
「時間を決める。短く。俺たちも休む」
セドは少し驚いたように目を瞬いた。
「良い判断です」
「だろ」
「はい」
「褒められ慣れないなぁ」
ロイドは苦笑する。
「午後に一度だけ説明する。店の前で。水路の現状と、まだ戻るなってこと。それから、旧東工房区画には絶対近づくなってこと」
「黒羽については」
「言わない」
ロイドは即答した。
「まだ、名前は出さない。でも、黒い鳥の印がある荷箱や外套を見たら近づくな、くらいは言う」
「妥当です」
「本当か?」
「はい」
「よし」
ロイドは少しだけ背筋を伸ばした。
体は重い。
喉も痛い。
それでも、言葉を出す必要がある。
大げさにせず。
隠しすぎず。
恐怖を煽らず。
しかし、危険を軽く見せない。
難しい。
でも、少しずつできるようになってきた。
「セド」
「はい」
「お前は横にいてくれ」
「もちろんです」
「俺が言いすぎたら止めろ」
「はい」
「言わなすぎても」
「補足します」
「頼む」
セドは頷いた。
「ロイドさん」
「ん?」
「私が言いすぎたら、止めてください」
ロイドは一瞬驚き、それから笑った。
「ああ」
その笑いは疲れていた。
でも、嬉しそうだった。
「任せろ」
午後。
ロイドの店の前には、人々が集まった。
大勢というほどではない。
だが、長屋の住民、工房街の職人、処理場の者、子供を連れた母親、老人、見習い。
いくつもの顔があった。
ニコたちは店内から出ようとしたが、ミラに止められた。
「聞きたい」
ニコが言う。
「中」
「でも」
「中から聞こえる」
「……分かった」
ニコは不満そうだったが、扉の隙間近くに座った。
リナとトマも隣にいる。
ロイドは店の前に立った。
手には、泥のついた夜間用灯り石。
あえて持ってきた。
昨日、外縁弁室で使ったものだ。
人々の視線が、その灯りに集まる。
「まず」
ロイドは声を出した。
少し掠れている。
それでも、届く。
「昨日、東水路の逆流は一時的に落ち着いた」
ざわめき。
「でも、完全に安全になったわけじゃない。水路沿いの低い場所には、まだ戻らないでくれ」
「いつ戻れるんだ!」
誰かが叫ぶ。
当然の問いだった。
ロイドはすぐ答えられなかった。
適当なことは言えない。
セドが隣で静かに言う。
「現時点では不明です」
人々の顔が曇る。
セドは続けた。
「ですが、水の勢いは落ちています。エルマさんが確認を続けています。戻れる範囲が分かれば、必ず知らせます」
ロイドが頷く。
「約束する。分かったことは貼る。言えることは言う」
「また貼り紙か」
男が苦笑する。
ロイドも少し笑った。
「また貼り紙だ」
少し笑いが起きる。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
だが、すぐにロイドは真面目な顔へ戻った。
「もう一つ」
一拍。
「旧東工房区画には絶対に近づくな」
空気が重くなる。
「昨日、俺たちは外縁部まで行った。危険だ。水路より危ない。黒い鳥の印がある荷箱や、不審な外套の連中を見ても、追うな。話しかけるな。見たら知らせろ」
人々がざわめく。
「黒い鳥って、やっぱり……」
「昨日、処理場で見たぞ」
「工房街にも来てた」
「何をしてるんだ、あいつら」
ロイドは手を上げた。
「分からないことも多い」
正直に言う。
「でも、これだけは言える。近づくな。追うな。子供や見習いを行かせるな」
ハインツが群衆の中から声を出した。
「工房街は、それで動く」
ディムも言う。
「処理場側もだ」
長屋の女が頷く。
「水路沿いも、戻る時は声をかけるよ」
声が続く。
ロイドはそれを聞きながら、胸が詰まるのを感じた。
もう、店だけが言っているのではない。
街のそれぞれの場所に、受け止める人がいる。
工房街にはハインツとガルド。
処理場にはディム。
水路沿いには住民同士の声。
店にはミラと子供たち。
王城にはルイス。
見えないところも含めて、流れは広がっている。
「……ありがとう」
ロイドは小さく言った。
だが、周囲には聞こえたらしい。
老婆が笑った。
「礼を言うのはこっちだよ、店主さん」
「いや、俺だけじゃ」
「知ってるよ」
老婆は店を見る。
「この店、みんなでやってるんだろ」
ロイドは何も言えなくなった。
セドも少しだけ目を伏せる。
その言葉は、店の中にも届いた。
ミラが静かに灯り石を置き直す。
ニコが少し誇らしそうに胸を張る。
リナが小さく笑う。
トマが眠そうにしながらも、にやりとした。
店は、みんなでやっている。
それは、いつの間にか街にも伝わっていた。
夕方。
説明を終えたあと、ロイドはようやく奥の床に倒れ込むように横になった。
「……もう無理」
声が床に沈む。
ミラが毛布をかける。
「寝る」
「寝る」
ロイドは目を閉じた。
今度は、扉の外の声がしても立ち上がらなかった。
いや、立ち上がれなかった。
セドも作業台に突っ伏すように座っていた。
ガルドは椅子で腕を組んだまま目を閉じている。
エルマは店の奥で、測定盤を抱えたまま眠っているように見えた。
ミラは最後に、店の灯りを調整した。
明るすぎず。
暗すぎず。
皆が眠れる程度に。
ニコたちも、もう起きていられなかった。
避難者のほとんどは別の高い場所へ移動し、店内には少しだけ空間が戻っている。
けれど、床にはまだ毛布があり、壁には紙があり、棚には灯り石がある。
昨日までのすべてが、ここに残っている。
ミラは入口の扉を見る。
そこには、また新しい紙が貼られていた。
東水路、完全安全確認まで接近禁止。
旧東工房区画、立入禁止。
黒い鳥の印がある荷箱・外套を見ても近づかない。
見かけた場合は、近隣の大人またはロイドの店へ。
店主ロイド
文字は少し歪んでいた。
疲れた手で書いたからだ。
でも、読める。
十分だった。
ミラは小さく息を吐き、最後の夜間用灯り石を入口に置いた。
「……消えない」
誰に言うでもなく、呟く。
その光は、小さく揺れた。
夜。
王城の医療記録庫では、ルイスとフィリアが古い台帳を開いていた。
本来なら、こんな時間に閲覧できるものではない。
だが、旧東工房区画冷却路の確認依頼が正式に受理されたことで、関連記録の閲覧許可が一部下りた。
もちろん、全部ではない。
むしろ、肝心なところほど伏せられている。
それでも、以前より前進だった。
ルイスは台帳の文字を追う。
十年前。
旧東工房区画事故。
負傷者数。
搬送先。
死亡確認。
行方不明。
その欄で、指が止まる。
「……数が合わない」
フィリアが隣で息を呑む。
「どういうこと?」
「事故当日の工房勤務者名簿と、負傷者・死亡者・行方不明者の合計が合わない」
「差は?」
「七人」
部屋の空気が冷えた。
七人。
たった七人。
でも、人だ。
記録の中で消えた七人。
ルイスは胸の奥が重くなるのを感じた。
「運ばれた技師……?」
「可能性がある」
フィリアが口元を押さえる。
「ひどい」
短い言葉。
けれど、そこにすべてがあった。
ルイスは台帳の端を見る。
小さな印。
羽のような記号。
黒くはない。
ただ、古いインクで小さく記されている。
嘴を下に向けた鳥のようにも見える。
「……あった」
声が震えた。
フィリアが覗き込む。
「これ」
「羽の印」
「黒羽?」
「たぶん」
ルイスは拳を握った。
セドへ伝えなければならない。
だが、今すぐではない。
外は疲弊している。
ロイドの店も休む必要がある。
急がず。
でも、消さず。
ルイスは台帳を閉じた。
「明日、整理する」
「今じゃなくて?」
「今書くと、焦る」
フィリアは少し驚いた顔をした。
ルイスは苦笑する。
「セドに言われたから」
「急がず?」
「うん」
「守れてるね」
「少しだけ」
ルイスは窓の外を見た。
王都の夜。
東の空は、もう青く光っていない。
その代わり、街の小さな灯りがぽつぽつと見える。
その一つが、ロイドの店かもしれない。
「……休んでるかな」
ルイスが呟く。
フィリアが小さく笑う。
「セドは休まなさそう」
「うん」
「でも、周りが休ませてるかも」
ルイスは少しだけ想像した。
ロイドが言い、ミラが止め、ガルドが睨み、セドが渋々筆を置く姿。
胸の奥が少し温かくなる。
「そうだといい」
ルイスは台帳に布をかけた。
今日はここまで。
それもまた、前に進むために必要な判断だった。
ロイドの店では、全員が眠っていた。
完全な安眠ではない。
誰かが水音の夢を見て、時々身じろぎする。
ニコが寝言で「水路行くな」と呟く。
ロイドが床で寝返りを打ち、腕の痛みに顔をしかめる。
セドは作業台に突っ伏したまま、半分だけ眠っている。
ガルドは椅子で腕を組み、低い寝息を立てている。
ミラだけが、最後まで起きていた。
入口の灯りを見ていた。
夜間用灯り石。
柔らかな光。
青い水路の光とは違う。
人を吸い込む光ではない。
人を帰すための光。
ミラはそっと、その灯りに手をかざした。
温かくはない。
熱くもない。
でも、そこにある。
消えていない。
「……第二章」
小さく呟く。
ロイドが言っていた言葉。
セドも否定しなかった言葉。
第一章は終わった。
でも、終わっていない。
旧東工房区画の奥には、まだ何かがある。
黒羽は消えていない。
王城の記録も、まだ隠している。
でも、今は眠る。
灯りを消さずに。
誰かが起きた時、足元が見えるように。
ミラは最後にもう一つ小さな灯り石を置き、毛布を引き寄せた。
店の中に、静かな寝息が広がる。
外の貼り紙が夜風に揺れる。
水路は、遠くで低く鳴っている。
けれど今夜だけは。
ほんの少しだけ。
ロイドの店に、休む時間が与えられていた。




