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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第55話



 旧東工房区画へ向かう道は、夜の王都の中で、そこだけ別の時間に沈んでいるようだった。


 表通りの灯りは遠い。


 人の声も遠い。


 避難した住民たちのざわめきも、工房街の怒鳴り声も、処理場の金属音も、すべて背後へ置いてきた。


 残っているのは、湿った石畳を踏む足音。


 壁の隙間を通る冷たい風。


 そして、低く続く水の音。


 ごぽり。


 ごぽり。


 旧東工房区画の方角から、まるで巨大な生き物の寝息のように響いてくる。


 ロイドは、手の中の灯り箱を抱え直した。


 ミラが持たせてくれた灯り石が、箱の隙間から柔らかな光を漏らしている。


 夜間用灯り石。


 職人灯り。


 強い光ではない。


 けれど、この青く歪んだ夜の中で、その光は確かに人の側の色をしていた。


「……寒いな」


 ロイドが小さく呟いた。


 誰に向けたわけでもない。


 ただ、黙っていると怖さが膨らみそうだった。


 ガルドが前を歩きながら答える。


「水路の冷気だ」


「水って、こんな冷えるのか」


「魔力を吸ってる水は、普通じゃねぇ」


「普通じゃないことばっかだな」


「今さらだ」


 短いやり取り。


 それだけでも、ロイドは少し呼吸がしやすくなった。


 先頭を歩くエルマは、一度も振り返らない。


 古い魔導レンズを片目につけ、青い光の筋を追うように歩いている。


 年老いた背中。


 小柄な体。


 だが、その足取りは迷っていなかった。


 セドはその少し後ろで、水路図と現場を照らし合わせている。


 時折立ち止まり、壁の古い刻印や石畳の段差を確認する。


「エルマさん」


「何だい」


「この先の外縁通路は、図面上では封鎖済みになっています」


「図面上ではね」


 エルマは短く返した。


「実際は?」


「塞いだ」


 一拍。


「塞いだはずだった」


 その言葉には、十年分の重さがあった。


 ロイドは思わず口を閉じる。


 エルマの声は怒っていない。


 泣いてもいない。


 ただ、乾いていた。


 何度も同じ傷を撫で、もう血も出なくなった場所から出てくるような声だった。


「……エルマさん」


 ロイドが言いかける。


 だが、続きが出なかった。


 何を言えばいいのか分からない。


 大丈夫ですか。


 辛かったですね。


 そんな言葉では軽すぎる気がした。


 エルマは振り返らずに言った。


「同情はいらないよ、店主」


「……はい」


「でも、黙られるのも気味が悪いね」


「難しいな!?」


 ロイドが思わず言うと、ガルドが低く笑った。


 セドも、ほんのわずかに目元を緩めた。


 エルマは鼻を鳴らす。


「そういうもんさ」


 その短いやり取りで、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


 けれど、すぐにまた重くなる。


 道の先。


 壊れた鉄柵の向こうに、旧東工房区画の外縁部が見えた。


 崩れた壁。


 黒く焼けた石。


 歪んだ配管。


 十年前の事故の痕跡が、そのまま夜に貼りついている。


 新しい建物はない。


 修復もされていない。


 ただ、封じられ、忘れられ、避けられてきた場所。


 けれど今、その奥から青い光が漏れている。


 忘れられた場所が、忘れられたままでは終わらないとでも言うように。


「……ここか」


 ロイドの声が自然と小さくなる。


 エルマは鉄柵の前で止まった。


 錆びついた鎖が巻かれている。


 だが、その鎖は切られていた。


 最近だ。


 切り口に新しい金属の光が残っている。


 ガルドが顔をしかめる。


「誰かが入ったな」


「黒羽でしょうか」


 セドが言う。


 エルマは鎖を見下ろす。


「他に誰が好き好んで入るんだい」


 ロイドは唾を飲み込んだ。


 ここから先に、黒羽がいるかもしれない。


 クロウか。


 灰色の外套の男か。


 あるいは、もっと別の誰かか。


 手の中の灯り箱が、急に重くなる。


「ロイドさん」


 セドの声。


「はい」


「息が浅いです」


「……よく見てるな」


「はい」


「怖い」


「はい」


「でも行く」


「はい」


 セドは、それ以上言わなかった。


 止めない。


 急かさない。


 ただ、隣にいる。


 それが、今のロイドにはありがたかった。


 エルマが古い工具で鉄柵を開ける。


 軋んだ音が夜に響いた。


 ぎぃ、と。


 まるで、十年間閉じ込めてきたものが、ようやく口を開くような音だった。


「ここからは、勝手に触るんじゃないよ」


 エルマが言った。


「見えるもの全部、危ないと思いな」


 ガルドが頷く。


「分かってる」


 ロイドもすぐに言う。


「触らない。近づきすぎない。一人で動かない」


 エルマが少しだけ振り返る。


「店主、復唱だけは優秀だね」


「実行もしますよ」


「そう願うよ」


 四人は、旧東工房区画の外縁部へ足を踏み入れた。


 


 中は、冷たかった。


 外よりもさらに。


 石壁から湿気が染み出し、床には薄く水が広がっている。


 青い光がその水に反射し、天井に揺れる模様を作っていた。


 水面の光が、壁を這う。


 まるで、青い炎の影だった。


 ロイドは灯り石を一つ取り出し、足元へ向けた。


 柔らかな黄色の光が、青い反射の中に小さな円を作る。


 すると、床の亀裂が見えた。


 水に隠れていた段差も見える。


「……これ、灯りなかったら危ないな」


「だから持たせた」


 セドが言う。


「ミラにな」


「はい」


 ロイドは少しだけ笑った。


「帰ったら礼言わないとな」


「灯りを返す約束です」


「そうだった」


 その言葉が、胸に残る。


 灯りを返す。


 つまり、帰る。


 全員で。


 外縁通路の奥から、低い振動が伝わってくる。


 ごぽり。


 ごぽり。


 それは水音というより、機械音に近かった。


 巨大な炉が、壊れかけの喉で呼吸しているような音。


 エルマは壁の配管に耳を近づけた。


 セドがすぐに注意する。


「近づきすぎでは」


「このくらいで死ぬなら、十年前に死んでるよ」


「冗談に聞こえません」


「冗談じゃないからね」


 ロイドは何とも言えない顔をした。


 エルマは配管を軽く叩く。


 中から、鈍い音。


「……流れてる」


「水ですか」


「水と魔力さ」


 エルマの声が低くなる。


「補助冷却炉が、東水路から吸った水をここへ通してる。外縁弁はこの先だ」


「黒羽は?」


 ガルドが聞く。


「先に入ってるなら、弁の周辺か、回収路の奥だろうね」


「回収路?」


 ロイドが聞く。


 エルマは少しだけ沈黙した。


「昔の搬出路さ」


 一拍。


「事故のあと、物を運び出すために使われた」


 その言葉に、空気が重くなった。


 物。


 記録。


 魔導炉部品。


 特殊魔石。


 そして、技師。


 王城でルイスが掴んだ情報が、セドの中で重なる。


 十年前、ここから何かが運び出された。


 選ばれたもの。


 選ばれなかったもの。


 運ばれた人。


 残された人。


 エルマは、残された側だった。


「……エルマさん」


 セドが口を開く。


「聞くなら、後にしな」


「はい」


「今聞かれると、足が止まる」


 その言葉があまりに正直で、誰も返せなかった。


 エルマは前を向く。


「止まりたくないんだよ」


 小さな声。


「十年前は、止まったからね」


 それだけ言って、歩き出した。


 


 通路の奥へ進むほど、青い光は強くなった。


 壁の刻印がぼんやり浮かび上がる。


 古い警告文。


 冷却路。


 補助炉。


 封鎖。


 安全弁。


 ロイドには読めない。


 だが、セドとエルマは一つずつ確認しながら進んでいる。


 ガルドは床と天井を見ている。


 崩れそうな場所。


 濡れている場所。


 危険な配管。


「止まれ」


 ガルドが低く言った。


 全員が止まる。


 ロイドの心臓が跳ねる。


「何だ」


「床が浮いてる」


 ガルドは工具袋から細い金属棒を取り出し、前方の床を軽く突いた。


 ぴし、と音がした。


 次の瞬間、床石の一部が崩れ、下へ落ちた。


 青い水がその下を流れている。


 かなり深い。


「……っ」


 ロイドは息を呑んだ。


 もし、そのまま踏んでいたら。


 考えただけで背筋が冷える。


「ありがとう」


 ロイドが言う。


 ガルドは短く答えた。


「礼は後だ」


 セドが灯りを向ける。


「迂回できますか」


「右壁沿いなら」


 エルマが言う。


「ただし配管に触るな」


「ロイドさん」


「分かってる。触らない」


「灯りを低く」


「おう」


 ロイドは灯り石を低く掲げ、全員の足元を照らした。


 一歩。


 二歩。


 水音が下から響く。


 足元の石がわずかに湿っている。


 滑らないよう、ゆっくり。


 急がない。


 怖い時ほど、急がない。


 自分に言い聞かせる。


「ロイドさん、そこで止まって」


 セドの声。


 ロイドは止まる。


「次、左足を少し内側へ」


「こうか」


「はい」


「お前、よく見えるな」


「灯りのおかげです」


 その返答に、ロイドは少しだけ胸が熱くなった。


 ミラの灯り。


 自分の手。


 セドの目。


 ガルドの判断。


 エルマの知識。


 全部が繋がって、今、進めている。


 一人では、絶対に無理だった。


 


 やがて、通路の先に広い空間が見えた。


 外縁冷却弁室。


 エルマがそう呼んだ場所だった。


 天井は高い。


 中央には古い円形の弁装置。


 巨大な金属の輪が横倒しになったような形をしている。


 そこから複数の配管が伸び、水路側と旧東工房区画内部へ繋がっているらしい。


 弁装置の周囲には、青い水が薄く溜まっている。


 そして。


 そこに、人影があった。


 灰色の外套。


 以前、店に来て貼り紙を外せと言った男。


 彼が、弁装置のそばに立っていた。


 ロイドの体が固まる。


 ガルドが一歩前へ出る。


 セドの目が鋭くなる。


 エルマは、男を見た瞬間、低く言った。


「……やっぱりね」


 灰色の外套の男は、ゆっくり振り返った。


 表情は変わらない。


 冷たい目。


 感情の薄い顔。


「来たか」


 その声は、驚いていなかった。


 待っていたようだった。


「ここで何してる」


 ロイドが聞いた。


 声が震えそうになる。


 だが、出した。


「店主が来る場所ではない」


 男は淡々と言う。


「俺もそう思うよ」


 ロイドは灯り箱を抱え直した。


「でも来た」


「愚かな選択だ」


「よく言われる」


 男の視線がセドへ移る。


「お前が止めなかったのか」


 セドは静かに答えた。


「ロイドさんは、自分の意思で来ました」


「意思」


 男はわずかに目を細める。


「価値のない意思ほど、邪魔なものはない」


 ロイドの顔が変わる。


 価値がない。


 その言葉が、今までのすべてに触れた。


 廃棄魔石。


 捨てられた端材。


 潰れかけの店。


 選ばれなかった者。


 ルイス。


 エルマ。


 そして、この街の人々。


「……価値がないかどうかは」


 ロイドが低く言った。


「お前が決めることじゃねぇ」


 灰色の男の目が、少しだけ冷える。


 エルマが一歩前へ出た。


「その弁から離れな」


「エルマ技師」


 男が初めて、名前を呼んだ。


 エルマの肩がわずかに動く。


「十年前に残された技師が、まだ歩くか」


 空気が凍った。


 ロイドは息を呑む。


 ガルドが低く唸る。


「てめぇ……」


 エルマは黙っていた。


 顔に表情はない。


 けれど、手がわずかに震えている。


「残された?」


 ロイドが怒りを抑えながら言う。


「お前らが残したんだろ」


 男はロイドを見る。


「選別の結果だ」


「ふざけんな」


 ロイドの声が一段低くなる。


「人を物みたいに言うな」


「価値ある者は運ばれた。危険すぎる者は残された。ただそれだけだ」


「ただそれだけ?」


 ガルドが前へ出ようとする。


 セドが手で制した。


「挑発です」


「分かってる」


 ガルドの声は怒りで震えていた。


「分かってても腹立つんだよ」


 灰色の男は、弁装置へ手を置く。


「この補助炉は、まだ役目がある」


「役目?」


 セドが問う。


「旧東に残されたものを回収する」


「何を」


「価値あるものだ」


 その答えは予想通りで、だからこそ気味が悪かった。


 エルマが低く言う。


「それで水路沿いの人間を巻き込む気かい」


「低地の住民に価値はない」


 次の瞬間。


 ロイドが動いた。


 殴りかかるほどの距離ではない。


 だが、一歩前へ出た。


 セドが止めるより早く、声が出ていた。


「黙れ」


 短い言葉。


 店で客に言う声ではない。


 怒りが、真っ直ぐ乗っていた。


「価値がない?」


 ロイドの手が震えている。


 怖さではない。


 怒りだ。


「今日、子供を抱えて逃げた母親がいた。動けない婆さんを担いだ職人がいた。泣いてる子をあやしてた子供がいた。地下倉庫に戻りたいって泣いた男がいた」


 一歩。


「全員、価値がある」


 もう一歩。


「お前が知らないだけだ」


 灰色の男は、ロイドを見ていた。


 感情は読めない。


 だが、初めて少しだけ沈黙した。


 セドはロイドの背中を見ていた。


 あの潰れかけの店主が。


 胃が痛いと言いながら、人前に立つことを怖がっていた男が。


 今、旧東工房区画の外縁弁室で、黒羽の人間に向かって言っている。


 価値は、お前が決めることではないと。


 セドの胸の奥が熱くなる。


 同時に、ルイスの顔が浮かんだ。


 価値なしと呼ばれた第二王子。


 彼に、この言葉を聞かせたいと思った。


 灰色の男は、ゆっくり息を吐いた。


「ならば、守ってみるといい」


 その手が、弁装置の脇にある小さな制御針へ伸びる。


 エルマが叫んだ。


「触るな!」


 男は針を折った。


 ぱきん。


 乾いた音。


 直後、弁室全体が震えた。


 青い光が爆ぜる。


 水路の音が、一気に強くなる。


 ごぼっ。


 ごぼぼぼぼっ。


 ロイドの耳が痛くなる。


 床の水が波立つ。


 弁装置が唸る。


「何をした!」


 ガルドが怒鳴る。


「補助炉の吸引を強めた」


 男は淡々と言った。


「外縁弁を落とせば止まる。落とせれば、だが」


「貴様!」


 ガルドが踏み出す。


 だが、床の青い水が急に流れを変えた。


 足を取られそうになる。


「下がって!」


 エルマが叫ぶ。


 灰色の男は、青い光の向こうへ下がっていく。


 背後に、古い搬出路があった。


「選別は続く」


 男の声が響く。


「価値あるものだけが残ればいい」


「待て!」


 ロイドが叫ぶ。


 しかし、男は搬出路の闇へ消えた。


 追う余裕はなかった。


 弁装置が暴れている。


 青い水が床に広がる。


 エルマが歯を食いしばる。


「まずいね」


「止められますか!」


 セドが叫ぶ。


「止めるしかない!」


 エルマは弁装置へ向かって走る。


 ガルドがその前に出る。


「俺が支える!」


「店主、灯り!」


「分かった!」


 ロイドは灯り箱を開け、職人灯りを二つ取り出した。


 青い光の中では、普通の光が飲まれそうになる。


 だが、職人灯りの青みがかった柔らかい光は、妙に馴染んだ。


 足元の段差。


 弁装置の傷。


 折られた制御針の位置。


 見える。


「ここ!」


 ロイドが灯りを置く。


「エルマさん、足元!」


「見えてる!」


 エルマは弁装置の脇に膝をつき、工具を差し込む。


 だが、装置が震えている。


 手元がぶれる。


 ガルドが巨大な弁輪を両手で押さえた。


「重っ……!」


「動かすんじゃない! 固定しな!」


「分かってる!」


 ガルドの腕に力が入る。


 筋が浮く。


 弁輪はわずかに暴れている。


 中の水圧と魔力が、金属を通して震えているのだ。


「セド!」


 エルマが叫ぶ。


「測定盤!」


 セドはすぐに測定盤を見る。


 針が激しく揺れている。


 だが、周期がある。


 強く吸う瞬間。


 弱まる瞬間。


 その隙間。


「三拍後に弱まります!」


「数えな!」


「一、二、三――今!」


 エルマが工具を回す。


 ぎぎぎ、と金属が軋む。


 弁装置の青い光が一瞬弱まる。


「もう一度!」


 エルマが叫ぶ。


 セドは測定盤を見る。


「次、二拍!」


「早いね!」


「一、二――今!」


 ガルドが弁輪を押さえ込む。


 エルマが工具を叩き込む。


 ロイドは灯りをずらし、手元を照らす。


 水が足元を流れる。


 冷たい。


 青い。


 触れた靴底から、ぞわりとした感覚が上がってくる。


「ロイドさん、下がってください!」


 セドが叫ぶ。


「灯りが届かなくなる!」


「でも水が!」


「あと少しだ!」


 エルマが叫んだ。


「店主、そこにいな!」


「はい!」


 ロイドは震えながらも踏みとどまる。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 水が足首に触れそうだ。


 青い光が視界を染める。


 今にも吸われそうだ。


 でも、灯りが必要だ。


 ここに置いた光がなければ、エルマの手元が見えない。


 ガルドの足元が見えない。


 セドの測定盤が見えない。


「……ミラ」


 小さく呟く。


「借りるぞ」


 灯り箱から、もう一つ夜間用灯り石を出す。


 それを自分の足元に置いた。


 青い水と黄色い光が、床の上で混じる。


 不思議と、足元の恐怖が少しだけ薄れた。


「セド!」


 エルマの声。


「次!」


 セドは測定盤を見た。


 針が大きく振れる。


 この次が、一番弱まる。


 ただし、その後は強い吸引が来る。


「次で決めてください!」


「分かった!」


「五拍後!」


 セドの声が弁室に響く。


「一!」


 青い光が強まる。


「二!」


 水が弁装置へ引かれる。


「三!」


 ガルドが歯を食いしばる。


「四!」


 ロイドが灯りを掲げる。


「五! 今!」


 エルマが工具を深く差し込み、全身で回した。


 ぎぎぎぎぎっ。


 古い金属が悲鳴を上げる。


 次の瞬間。


 弁装置の奥で、何かが落ちる音がした。


 ごん。


 重い音。


 青い光が、大きく脈打いた。


 一度。


 二度。


 そして。


 水音が、弱まった。


 ごぽり。


 ごぽ。


 ご……


 完全には消えない。


 だが、吸い込むような勢いは明らかに落ちていた。


 弁室の震動も小さくなる。


 床を流れていた青い水が、少しずつ動きを止める。


 ロイドはその場に膝をついた。


 息が荒い。


 手が震える。


 灯り石を落としそうになり、慌てて握り直した。


「……止まった?」


 かすれた声で聞く。


 エルマは測定盤を見る。


 長い沈黙。


 誰も息をしない。


 やがて、彼女は深く息を吐いた。


「一時的にはね」


 ロイドの肩から力が抜ける。


 ガルドも弁輪から手を離し、その場に座り込んだ。


「一時的かよ」


「完全停止じゃない」


 エルマは汗を拭う。


「でも、今夜の逆流は止まる。水路沿いは持つ」


 その言葉で、ようやく全員が息を吐いた。


 セドは目を閉じた。


 ロイドは天井を見上げた。


 ガルドは低く笑った。


「……生きてるな」


「はい」


 セドが答える。


「店主も?」


 ガルドが聞く。


「生きてる……」


 ロイドは情けない声で答えた。


 エルマが小さく笑った。


「よく灯りを持ったね」


 ロイドは顔を上げる。


「役に立ちました?」


「立った」


 エルマははっきり言った。


「なけりゃ手元を誤った」


 ロイドは何も言えなくなった。


 怖くても立っていたこと。


 それが役に立った。


 その事実が、胸に重く、温かく落ちた。


「……帰ったら、ミラに返さないとな」


 ロイドは灯り石を見た。


 汚れている。


 濡れている。


 けれど、光っている。


 小さく。


 確かに。


 


 弁室を出る前に、セドは灰色の男が消えた搬出路の方を見た。


 追わない。


 追えない。


 今はそれでいい。


 けれど、そこに何かがある。


 黒羽が運び出そうとしているもの。


 十年前に残された価値あるもの。


 そして、価値なしとして捨てられたものの真実。


「セド」


 ロイドが呼ぶ。


「行くぞ」


 セドは振り返った。


 以前なら、迷ったかもしれない。


 一人で追ったかもしれない。


 だが、今は違う。


「はい」


 即答した。


 ロイドは少し笑った。


「成長したな」


「皆さんに言われ続けましたので」


「いいことだ」


 エルマが搬出路を一度だけ見た。


 その目には、十年前の影があった。


 だが、そこに飲まれてはいない。


「……次は、あそこだね」


 彼女が言った。


 ガルドが頷く。


「ああ」


 セドも頷く。


「第二章の入口ですね」


 ロイドが少し苦笑した。


「また章の話か」


「ロイドさんが言い始めました」


「そうだったな」


 四人は、灯りを持って弁室を離れた。


 


 外へ戻ると、夜明け前の空が少しだけ白んでいた。


 東水路の青い光は、かなり弱くなっている。


 水音も落ち着いていた。


 避難していた人々が、遠巻きにこちらを見ている。


 ロイドたちの姿が見えると、ざわめきが起きた。


「戻った!」


「ロイドさんだ!」


「ガルドもいる!」


「エルマさん?」


「セドさん!」


 声が広がる。


 最初は小さく。


 そして、次第に大きく。


「水は!?」


「止まったのか!?」


 ロイドは疲れた体に力を入れ、声を張った。


「一時的に落ち着いた!」


 ざわめき。


「でも、まだ水路には近づくな! 完全に安全じゃない! 避難は続ける!」


 人々が頷く。


 以前なら、そこで不満の声が上がったかもしれない。


 だが今は違う。


 誰もすぐに水路へ戻ろうとはしなかった。


 今日の危険を見たから。


 貼り紙が嘘ではなかったから。


 そして、店が逃げなかったから。


 ロイドはその反応を見て、喉の奥が熱くなった。


 泣きそうになる。


 でも、今は泣かない。


 まだ終わっていない。


 店へ戻ると、ミラが入口に立っていた。


 眠っていない顔。


 疲れている。


 けれど、真っ直ぐにこちらを見ている。


「ただいま」


 ロイドが言った。


 声が震えた。


 ミラは、ロイドの手元を見る。


 灯り箱。


 汚れた灯り石。


 そして、戻ってきた四人。


「おかえり」


 短い言葉。


 その瞬間、ロイドの肩から力が抜けた。


 セドも静かに頭を下げる。


「灯りを返します」


 ミラは箱を受け取った。


 灯り石を一つずつ見る。


 汚れている。


 濡れている。


 傷もついている。


 でも、全部光っていた。


「……うん」


 ミラは小さく頷いた。


「返ってきた」


 その言葉だけで、十分だった。


 ニコたちも起きてきた。


 目をこすりながら。


 だが、ロイドたちの姿を見ると、ニコは一気に駆け寄った。


「帰ってきた!」


「走るな」


 ロイドが言う。


 ニコは途中で急停止し、ぎこちなく歩いてきた。


「……帰ってきた」


「ああ」


「水、止めた?」


「一時的にな」


「すげぇ!」


「すげぇのはエルマさんとガルドとセドとミラの灯りだ」


「ロイドさんは?」


 リナが聞いた。


 ロイドは少し困ったように笑う。


「俺は灯り持ってただけ」


 セドが静かに言った。


「その灯りが必要でした」


 ミラも頷く。


「必要」


 ガルドも言う。


「店主も働いた」


 エルマまで小さく笑う。


「震えながらね」


「そこ言います!?」


 店の中に、ようやく笑いが起きた。


 避難していた子供たちも、少しずつ笑う。


 大人たちも安堵の息を吐く。


 泣き出す者もいた。


 今日、全てが解決したわけではない。


 旧東工房区画はまだ残っている。


 黒羽は逃げた。


 搬出路の奥には何かがある。


 補助冷却炉も一時停止に過ぎない。


 それでも。


 今夜、水路沿いの人々は守られた。


 子供たちは戻った。


 灯りは返ってきた。


 


 同じ頃。


 王城の管理棟では、ルイスの確認依頼が正式に受理されていた。


 小さな紙一枚。


 けれど、その紙は王城の記録へ入った。


 旧東工房区画冷却路閉鎖記録の再確認。


 廃棄物処理契約の再委託先照会。


 事故後払い下げ記録の確認。


 文官たちは困惑していた。


 なぜ今。


 なぜ第二王子が。


 なぜ旧東工房区画なのか。


 だが、東水路で実際に異変が起きた以上、無視はできない。


 ルイスは管理棟を出ると、朝焼けの空を見上げた。


 東の空が、薄く明るい。


 青い光はもう見えない。


 けれど、何かが動いたことは分かる。


 フィリアが隣に立つ。


「終わった?」


「始まったんだと思う」


 ルイスは静かに答えた。


「外も、たぶん動いた」


「セドたち?」


「うん」


 足元の影が揺れる。


 ノクスが、何も言わずに見ている気がした。


 ルイスは胸に手を当てる。


 外へは行かなかった。


 でも、内側で一手を打った。


 それが届くかはまだ分からない。


 でも、確かに灯りを一人で持たなかった。


「フィリア」


「何?」


「ありがとう」


「だから、お礼はまだ早いよ」


 フィリアは少し笑った。


「ここからでしょ」


「うん」


 ルイスも笑った。


「ここからだ」


 


 ロイドの店の外では、朝の光が差し始めていた。


 壁の貼り紙が、夜露で少し湿っている。


 中傷紙も。


 訂正文も。


 東水路注意も。


 子供向けの約束も。


 買い取りルールも。


 工房端材の覚書も。


 全部、そこにある。


 悪意も、事実も、約束も、積み重ねも。


 この店が歩いてきた第一章の証のように。


 ロイドは店の前に立ち、ゆっくり息を吸った。


 疲れた。


 怖かった。


 もう何もしたくないくらい、体は重い。


 でも、胸の奥には不思議な熱があった。


 セドが隣に立つ。


 ミラが店の中で灯りを整えている。


 ガルドは端材箱の横で座り込んでいる。


 エルマは奥の椅子で目を閉じているが、たぶん眠ってはいない。


 ニコたちは、避難した子供たちと一緒に床で横になっている。


 街の人々は、少しずつ朝の中で動き始めている。


「……第一章、終わりって感じだな」


 ロイドがぽつりと言った。


 セドは少しだけ目を向ける。


「そうですね」


「否定しないんだな」


「一つの区切りだと思います」


「だよな」


 ロイドは東水路の方角を見る。


 青い光は弱まっている。


 だが、消えたわけではない。


「でも、解決はしてない」


「はい」


「黒羽は逃げた」


「はい」


「旧東工房区画の奥には、まだ何かある」


「はい」


「王城側も動くだろうな」


「はい」


 ロイドは笑った。


「問題山積みだな」


「はい」


「でも」


 一拍。


「俺たち、何もできないわけじゃなかった」


 セドは静かに頷いた。


「はい」


 ロイドの店は、潰れかけの灯り石屋だった。


 価値なしと呼ばれた第二王子の従者が来て、捨てられた魔石を拾い、灯りを作り、人が集まり、紙が増え、噂が流れ、黒羽が現れ、水路が逆流した。


 そして。


 店は、灯りを消さなかった。


 それが第一章の答えだった。


 ロイドは扉に手をかける。


「今日は休みにしたい」


「必要です」


 セドが言う。


 ロイドは目を丸くした。


「お前が休みを認めた」


「全員の休息が必要です」


「成長したな」


「皆さんのおかげです」


「そこは相変わらずだな」


 ロイドは笑った。


 そして、店の扉に小さな紙を貼った。


 本日午前、避難対応のため休業。


 午後以降、状況を見て再開します。


 水路には近づかないでください。


 店主ロイド


 貼り終えた紙が、朝の風で揺れる。


 その下で、ロイドは深く息を吐いた。


「さて」


 声は掠れていた。


 でも、折れていない。


「第二章に備えて、まず寝るか」


 セドが少しだけ目元を緩めた。


「はい」


 店の中から、ミラの声がした。


「寝る前に、食べる」


 ガルドの低い声も続く。


「それは正しい」


 ロイドは笑った。


「結局、飯か」


 エルマが奥から言う。


「生きてるうちは食うもんだよ」


 その言葉に、店の中へ小さな笑いが広がった。


 王都の裏側には、まだ黒い流れがある。


 旧東工房区画の奥には、十年前の真実が残っている。


 黒羽は、価値あるものだけを選ぼうとしている。


 王城の記録も、まだ多くを隠している。


 けれど。


 小さな灯り石の店は、もうただ流されるだけの場所ではなかった。


 捨てられたものに価値を見つける。


 怖がりながらも声を出す。


 紙を貼り、人を集め、灯りを持ち、帰ってくる。


 第一章は、ここで一区切りを迎える。


 価値なしと呼ばれた第二王子は、まだ表には出ていない。


 けれど、王城の内側で確かに灯りを持ち始めている。


 その従者は、もう一人で全てを背負わない。


 潰れかけの店主は、怖がりながらも人の前に立つことを覚えた。


 無口な少女は、灯りで避難所を照らした。


 外れた職人は、再び職人として人を救った。


 そして街は。


 小さな貼り紙と小さな灯りに導かれ、ほんの少しだけ、自分たちで動き始めた。


 朝の光が、店の壁を照らす。


 そこに並ぶ紙が、淡く白く浮かび上がる。


 その下で、夜間用灯り石がまだ一つ、消えずに光っていた。


 強くはない。


 けれど、確かに。


 誰かの足元を照らすには、十分な光だった。

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