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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第54話



 夜になっても、東水路の青い光は消えなかった。


 昼間ほど強くはない。


 けれど、確かに残っている。


 水面の下で、淡い青が脈打つ。


 ごぽり。


 ごぼ。


 時々、腹の底を撫でるような低い音がして、水路沿いに避難した人々が一斉に息を呑む。


 もう、誰も近づこうとはしなかった。


 ロイドの店の貼り紙は、笑われなかった。


 大げさだと言う者も、ほとんどいなかった。


 子供たちは店の中に集められ、老人たちは高い通りの家や工房に分かれて避難している。


 工房街の職人たちは交代で見回りに出ていた。


 処理場側では、ディムたちが排水口を封鎖している。


 それでも、空気は落ち着かない。


 王都の夜に、知らない青い光が混じっている。


 それだけで、人は眠れなくなる。


 ロイドは、水路から少し離れた石段に座っていた。


 手には、ミラから渡された夜間用灯り石。


 泥で少し汚れている。


 橋の近くでテオと子供を助けた時、落としそうになった。


 でも、手放さなかった。


 その小さな灯りは、まだ光っている。


 強くない。


 けれど、ロイドの手元と足元を照らすには十分だった。


「……まだ光ってるな」


 ロイドは呟いた。


 自分でも、何を言いたいのか分からない。


 灯り石のことなのか。


 店のことなのか。


 今日、避難してきた子供たちの顔のことなのか。


 東水路の異変に飲み込まれそうになりながらも、それでも人々が動いたことなのか。


 ただ、消えていない。


 それだけが、今は少しありがたかった。


「ロイドさん」


 セドの声がした。


 振り返ると、セドが石段の下から上がってくるところだった。


 彼も疲れていた。


 いつも整っている表情に、わずかな影がある。


 袖は濡れ、靴には泥がついている。


 腕には、青い水を避ける時についたのか、細かい傷があった。


「休めって言っただろ」


 ロイドが言う。


 セドは少しだけ目を伏せる。


「状況確認をしていました」


「それを休んでないって言うんだよ」


「……はい」


 素直に認めた。


 ロイドは少しだけ驚き、それから苦笑した。


「認めるようになっただけ成長か」


「そうでしょうか」


「そうだよ」


 ロイドは隣を指す。


「座れ」


 セドは一瞬迷った。


 だが、座った。


 石段の冷たさが、衣服越しに伝わってくる。


 しばらく、二人は何も言わなかった。


 遠くで、人の声がする。


 避難した住民たちの声。


 誰かが水を配る声。


 泣き疲れた子供のすすり泣き。


 工房の男たちが、危険区域の境を確認する声。


 そして、水路の音。


 ごぽり。


 ごぽり。


 沈黙を裂くように、それが響く。


「……怖かったな」


 ロイドが言った。


 セドはすぐには答えなかった。


「はい」


 少し遅れて、そう答えた。


「テオと子供が橋の向こうにいた時」


「はい」


「俺、足がすくんだ」


「分かっています」


「分かってたのか」


「はい」


「情けないだろ」


「いいえ」


 セドは即答した。


 ロイドは横を見る。


 セドの横顔は、青い光と夜間用灯り石の光に照らされていた。


「ロイドさんは、怖がりながら動きました」


 一拍。


「それは、情けないことではありません」


 ロイドは言葉を失った。


 同じことを、少し前にニコへ言った。


 怖がることは悪くない。


 怖がった上で正しく動けばいい。


 その言葉が、今、自分に返ってきた。


「……そっか」


 小さく笑う。


「自分で言っといて、自分には難しいな」


「はい」


「そこは否定してくれよ」


「難しいものは難しいです」


「本当にな」


 二人は少しだけ笑った。


 疲れた笑い。


 けれど、確かに笑った。


 その瞬間だけ、水路の音が少し遠くなった気がした。


 


 ロイドの店は、まだ灯りがついていた。


 店内には避難した子供たちが眠っている。


 床に毛布を敷き、棚の前や作業台の下に体を寄せ合っている。


 泣き疲れた子。


 眠れずに天井を見ている子。


 小さな手で夜間用灯り石を握る子。


 その間を、ミラが静かに歩いていた。


 足音を立てないように。


 灯り石の位置を少しずつ直しながら。


 強すぎないように。


 暗すぎないように。


 リナは奥の壁にもたれて、眠っている小さな子の手を握っていた。


 トマは入口近くで座ったまま、半分寝かけている。


 ニコは眠れないようで、膝を抱えていた。


「ニコ」


 ミラが声をかける。


「……うん」


「寝ない?」


「寝れない」


「怖い?」


「うん」


 ニコは素直に頷いた。


 昼間より、ずっと子供の顔だった。


 ミラは隣に座る。


 しばらく何も言わない。


 ニコは膝に顔を埋めた。


「俺さ」


「うん」


「テオみたいに行かなくてよかったって思ってる」


「うん」


「でも、ちょっとだけ、行けばよかったとも思ってる」


 声が震えた。


「何か、ずるい」


「ずるい?」


「ロイドさんたちばっか危ないとこ行って、俺は店にいて」


 ミラは何も言わなかった。


 急いで否定しない。


 ニコの言葉が全部出るのを待った。


「でも、小さい子たちいたし」


「うん」


「泣いてたし」


「うん」


「俺がここにいたら、ちょっとは役に立ったかなって思って」


「うん」


「でも、助けに行けなかったって思うと……何か、ぐちゃぐちゃする」


 ニコは顔を上げなかった。


 ミラは夜間用灯り石を一つ、二人の間に置いた。


「ニコ」


「……何」


「役に立った」


 短い言葉。


 ニコの肩が少し動く。


「ほんと?」


「うん」


「でも」


「小さい子、逃げた。泣いてる子、座れた。リナもトマも動けた」


 一拍。


「ニコがいたから」


 ニコの目から涙が落ちた。


 声は出さなかった。


 ただ、ぽろぽろと落ちる。


 ミラは、泣くなとは言わなかった。


「怖くても、ここにいた」


「……うん」


「それも、守る」


 ニコは唇を噛んだ。


 しばらくして、何度も頷いた。


「……うん」


 その小さなやり取りを、入口近くのトマが半分寝ながら聞いていた。


 リナも、目を開けていた。


 誰も茶化さなかった。


 店の中には、柔らかな灯りと、子供たちの小さな呼吸があった。


 それは、今日守れたものの形だった。


 


 水路沿いの石段では、エルマが測定盤を広げていた。


 セド、ロイド、ガルド、ディムが周囲に集まっている。


 少し離れた場所には、ハインツや数人の職人もいる。


 全員、疲れている。


 だが、眠れる状況ではなかった。


 青い水路は、まだ脈打っている。


 エルマは魔導レンズを調整し、測定盤の針を見つめていた。


 針は安定しない。


 左右に揺れる。


 時折、強く跳ねる。


 そのたびに、水面がごぽりと鳴る。


「……補助冷却炉で間違いないね」


 エルマが言った。


 声は低かった。


 誰もすぐには口を開かない。


「旧東工房区画の主炉心じゃない。もっと外側にある補助炉だ」


「補助炉って、何のためのものなんだ」


 ロイドが聞く。


「主炉を冷やすための予備機構さ」


 エルマは水路の方を見る。


「旧東工房区画は、昔かなり無茶な炉を使ってた。高出力の魔導炉を動かすには、冷却水と冷却石を組み合わせる必要があった」


「それが東水路と繋がってる」


 セドが言う。


「そうだよ」


 エルマは頷く。


「水路はただの水路じゃない。昔は冷却路としても使われていた。事故後に封鎖したはずだった」


「はず」


 ガルドが低く言う。


「でも完了してなかったんだな」


 エルマの目が鋭くなる。


「誰かが、完了させなかった」


 沈黙。


 ディムが拳を握る。


「黒羽か」


「可能性はある」


 エルマは断定しない。


 だが、否定もしない。


「補助冷却炉を残しておけば、旧東工房区画の内部へ魔力と水を引き込める。使い道はいくらでもある」


「何のために」


 ロイドが聞く。


 エルマは測定盤を閉じた。


「価値あるものを回収するためさ」


 その言葉に、空気が重くなる。


 価値あるもの。


 黒羽の選別。


 十年前から続く言葉。


「旧東工房区画には、まだ何か残っている」


 エルマは言った。


「魔導炉の部品か、記録か、特殊魔石か。あるいは、もっと厄介なものか」


「それを取るために、補助炉を再接続した?」


 セドが問う。


「そう考えるのが自然だね」


「でも、何で今なんだ」


 ロイドが言った。


「十年前から残ってたなら、もっと早く取ればいいだろ」


 エルマはしばらく黙った。


 その沈黙が、答えを重くした。


「動かせなかったんだよ」


「何を」


「炉を」


 エルマの声が低くなる。


「十年前の事故後、旧東工房区画の内部は不安定だった。下手に触れば、二次災害になる。だから、残したものがあっても、すぐには取りに行けなかった」


「今は安定した?」


「逆だね」


 エルマは苦々しく言った。


「時間が経って、封鎖が劣化した。そこへ誰かが外から流れを繋ぎ直した」


「……」


「安定したから動かしたんじゃない」


 一拍。


「崩れ始めたから、今のうちに取りに来ている」


 ロイドの喉が鳴った。


 崩れ始めた。


 つまり、今日の逆流は始まりにすぎない。


 旧東工房区画の奥では、もっと大きな異変が起きている可能性がある。


「止めるには」


 セドが聞いた。


 エルマは、彼を見た。


 その視線は厳しい。


 だが、以前のように突き放すものではなかった。


「外縁冷却弁を落とす」


「場所は」


「旧東工房区画の外縁部。主区画までは入らなくていい」


 少しだけ空気が動く。


 主区画へ入らなくていい。


 それはわずかな救いだった。


 だが、エルマは続ける。


「ただし、外縁部でも十分危険だよ」


「黒羽がいる可能性もある」


 ガルドが言う。


「あるね」


 エルマは頷く。


「それに、補助炉が不安定なら、弁までの通路にも魔力漏れがある」


「行く人数は?」


 ディムが聞く。


「少数」


 エルマは即答した。


「多ければ足手まといになる。だが、一人は論外」


 その瞬間、全員がセドを見た。


 セドは少しだけ眉を寄せる。


「……なぜ私を」


「日頃の行いだ」


 ロイドが言う。


「同意」


 ガルドが言う。


「同意だね」


 エルマまで言った。


「不本意です」


 セドは静かに言った。


 ロイドは少し笑った。


 緊張の中の小さな笑い。


 それがなければ、皆が押し潰されそうだった。


「行くとしたら」


 セドが気を取り直して言う。


「エルマさん、ガルドさん、私」


「俺も行く」


 ロイドが言った。


 セドがすぐに見る。


「ロイドさんは」


「言うと思った」


 ロイドは先に遮る。


「でも行く」


「危険です」


「分かってる」


「店は」


「ミラがいる。ニコたちもいる。避難所としては店に残す」


「店主がいないのは」


「さっき、テオを助ける時、俺が灯りを持った」


 ロイドは手元の夜間用灯り石を見る。


「役に立った」


 セドは黙る。


「外縁部に行くなら、暗い場所もあるだろ。青い光だけじゃ足元が見えない。俺は戦えないし、炉も分からない。でも、灯りを持つことはできる」


 その声は震えていた。


 怖いのだ。


 でも、引いていない。


「俺は店主だ」


 一拍。


「この流れを作った店の店主だ。危ないから全部任せて待つだけは、できない」


 沈黙。


 セドは、ロイドを見つめた。


 以前なら止めただろう。


 危険だから。


 必要ないから。


 守る対象だから。


 でも、今は違う。


 ロイドは守られるだけの人ではない。


 自分で選び、立ち、灯りを持つ人だ。


「……分かりました」


 セドが言った。


 ロイドの目が少し開く。


「いいのか」


「はい」


「止められると思ってた」


「止めたい気持ちはあります」


「正直だな」


「ですが」


 セドは静かに続けた。


「ロイドさんの灯りは、必要です」


 その言葉に、ロイドは何も言えなくなった。


 エルマが小さく鼻を鳴らす。


「決まりだね」


 ガルドが腕を組む。


「少数なら、エルマ、セド、俺、ロイド」


「ディムさんは」


 セドが見る。


 ディムは苦笑した。


「行きたいが、処理場側を空けられない。黒い荷箱も怪しい」


「では処理場側の封鎖を」


「ああ」


 ハインツが前へ出る。


「工房街は俺が見る」


「助かる」


 ガルドが頷く。


 それぞれの役割が決まっていく。


 誰か一人で抱えない。


 灯りは、一人で持たない。


 その言葉が、今また形になっていた。


 


 王城では、ルイスが動いていた。


 夜の廊下。


 書類を抱えたまま、フィリアと共に管理棟へ向かう。


 普段ならこの時間、第二王子が管理棟へ出向くことなどほとんどない。


 すれ違う使用人たちが驚いた顔をする。


 文官が慌てて頭を下げる。


 ルイスは歩みを止めない。


 胸の奥は、ずっとざわついていた。


 東の空に見えた青い光。


 セドたちが動いているという確信。


 そして、旧東工房区画の冷却路閉鎖未完了記録。


 これを、正式な確認に回す。


 それは小さな一手に見える。


 だが、王城の中で記録が動けば、組合は無視しにくくなる。


 黒羽の隠れ場所にも、わずかな光が差す。


「ルイス」


 フィリアが小声で言う。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


 ルイスは正直に答えた。


「でも、止まらない」


「うん」


「怖い?」


「怖いよ」


 フィリアも即答した。


「でも、言ったでしょ。私も手伝うって」


 ルイスは少しだけ笑った。


「ありがとう」


「お礼は、終わってから」


 管理棟の前に着く。


 扉の向こうには、夜間当直の文官がいるはずだ。


 ルイスは一度、深く息を吸った。


 自分は第二王子だ。


 期待されていない。


 価値なしと呼ばれた。


 だからこそ、見えるものがある。


 低い場所に落ちた記録。


 閉じられた台帳。


 誰かが隠した空白。


 そこへ手を伸ばす。


 ルイスは扉を開けた。


「夜分にすみません」


 声は震えていなかった。


「旧東工房区画の冷却路閉鎖記録について、確認依頼を出します」


 文官たちが顔を上げる。


 驚き。


 困惑。


 わずかな警戒。


 それでも、ルイスは紙を差し出した。


「正式な記録として扱ってください」


 その一言が、王城の静かな夜に落ちた。


 小さな一手。


 だが、確かに内側の流れが動き始めた。


 


 ロイドの店に戻ると、ミラは話を聞いても驚かなかった。


 いや、表情にはほとんど出なかった。


 ただ、ロイドが「俺も行く」と言った時、少しだけ目を細めた。


「行くの?」


「ああ」


「怖い?」


「怖い」


「うん」


 ミラは頷いた。


「でも、行く?」


「行く」


「じゃあ、持って」


 ミラは小さな箱を出した。


 中には、夜間用灯り石が複数。


 そして、職人灯りが二つ。


「足元用。手元用。目印用」


 ロイドは箱を見つめる。


「準備してたのか」


「たぶん必要」


「すごいな」


「作ったから」


 ミラは短く言う。


「使って」


 その言葉は、いつもより少しだけ強かった。


 ロイドは箱を受け取る。


「ありがとう」


 ミラは頷く。


 そして、セドを見る。


「セド」


「はい」


「帰ってくる」


「はい」


「ロイドも」


「分かってる」


「ガルドも」


「おう」


「エルマも」


 エルマが少し目を丸くし、それから小さく笑った。


「私までかい」


「うん」


「……分かったよ」


 ミラは全員を見た。


 声は小さい。


 だが、はっきりしていた。


「灯り、返して」


 それは、帰ってこいという意味だった。


 誰も軽く返せなかった。


 ロイドは箱を抱え、静かに頷いた。


「ああ」


 セドも。


 ガルドも。


 エルマも。


 それぞれが頷いた。


 店の中には、避難した子供たちの寝息がある。


 外には青い水路がある。


 旧東工房区画の外縁部へ向かわなければならない。


 そこに、黒羽がいるかもしれない。


 十年前の残骸があるかもしれない。


 それでも。


 彼らは一人ではない。


 ロイドは箱の中の灯り石を見た。


 小さな光。


 価値なしとされた魔石から生まれた光。


 捨てられた端材から生まれた光。


 街の言葉に守られた光。


 その光を持って、彼らは闇へ向かう。


 


 深夜に近い時刻。


 東水路の青い光は、少し弱まっていた。


 だが、消えてはいない。


 むしろ、奥へ引いているように見えた。


 旧東工房区画の方へ。


 水路沿いの人々は避難し、通りは静まり返っている。


 そこに、四人が立っていた。


 エルマ。


 ガルド。


 セド。


 ロイド。


 ロイドの手には、ミラの灯り箱。


 セドの手には、記録と水路図。


 ガルドの肩には工具袋。


 エルマは古い魔導レンズを装着している。


 誰も、軽口を言わなかった。


 言えなかった。


 青い光に照らされた旧東工房区画への道は、まるで王都の裏側に開いた傷口のようだった。


「行くよ」


 エルマが言った。


「外縁弁まで。主区画には入らない。勝手に動かない。何か見ても触らない」


 ガルドが頷く。


「分かってる」


 ロイドも頷いた。


「触らない、近づかない、一人で動かない」


「店主が一番しっかり復唱してるね」


 エルマが少しだけ笑う。


「必死なんだよ」


 ロイドは正直に言った。


 セドは夜の道を見た。


 旧東工房区画。


 十年前の事故。


 黒羽。


 選別。


 王城の空白。


 全部が、この先にある。


 第一章の終わりは、もう目の前だった。


 しかし、それは終わりではない。


 始まりでもある。


 セドは静かに息を吸った。


「行きましょう」


 ロイドが灯り石を掲げる。


 柔らかな光が、青い闇の中に小さな道を作った。


 その道を、四人は歩き出した。


 王都の裏側で止まっていた十年前の水が、今も低く鳴っている。


 ごぽり。


 ごぽり。


 まるで、来る者を待っているように。


 それでも。


 小さな灯りは、消えなかった。

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