第53話
青い光が、水路を走った。
一本の線ではない。
水面の下。
石造りの壁の隙間。
古い排水管の奥。
水路沿いの地面の下。
まるで王都の裏側に眠っていた血管が、一斉に目を覚ましたかのように。
青い光は脈打ちながら広がっていった。
ごぼり。
ごぼ。
ごぽり。
水が鳴る。
ただの水音ではない。
呼吸だ。
吸っている。
東水路そのものが、旧東工房区画の奥へ向かって、水も、空気も、光も、人の恐怖すらも吸い込もうとしているようだった。
「全員、上へ!」
セドの声が響いた。
普段より大きい。
けれど、叫び散らす声ではない。
通すための声。
必要な場所へ届かせるための声だった。
「石段の上まで退避してください! 水路沿いの道には戻らないでください!」
群衆が動く。
悲鳴。
足音。
泣き声。
怒鳴り声。
荷物を抱えた老人が、足をもつれさせる。
若い男がそれを支える。
母親が子供を抱き上げる。
工房の見習いが、別の見習いの腕を掴んで走る。
誰もが怖がっていた。
誰もが混乱していた。
けれど。
完全には崩れていなかった。
昨日まで、何度も言われたからだ。
東水路には近づかない。
光る石を拾わない。
変なものを見つけたら、大人へ知らせる。
水路沿いの低地からは、高い通りへ。
その言葉が、今、震える足を動かしている。
「こっちだ!」
ロイドが声を張る。
喉が痛い。
さっきから叫び続けているせいで、声は少し掠れていた。
それでも止めない。
「子供を先に! 荷物は後だ! 水路側へ戻るな!」
「でも、家に財布が!」
「命が先だって言ってるだろ!」
「薬があるんだよ!」
「誰か、薬の家を確認! 一人で行くな! 二人以上で、すぐ戻れ!」
ロイドは怒鳴りながら、頭の中で必死に考えていた。
何を止めるか。
何を許すか。
全部を止めれば、逆に人は勝手に動く。
だから線を引く。
戻るな。
でも薬や寝たきりの人がいるなら、複数で。
短く。
具体的に。
今までセドが何度も言ってきたこと。
ミラが短い言葉で示してきたこと。
ガルドが職人たちへ怒鳴ってきたこと。
全部が、ロイドの中で混ざっていた。
「ロイドさん!」
若い女が泣きそうな声で叫んだ。
「母が、まだ長屋に!」
「どこだ!」
「あっちの角、赤い布を干してる家!」
ロイドは走り出しそうになった。
だが、足を止める。
一人で行くな。
自分で言ったばかりだ。
「誰か!」
ロイドが叫ぶ。
「赤い布の家! 寝たきりの人がいる! 二人、いや三人で行けるか!」
「俺が行く!」
「俺も!」
「担架代わりになる板を持ってく!」
工房の男たちが動いた。
ロイドは彼らへ向かって叫ぶ。
「水路側の道は通るな! 裏の高い道から回れ! 戻ったら店へ向かえ!」
「分かった!」
男たちが走る。
ロイドは彼らの背中を見送りながら、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
大丈夫か。
間に合うか。
自分が行かなくてよかったのか。
考えが一瞬で膨らむ。
だが、すぐ横からセドの声がした。
「正しい判断です」
ロイドは振り返る。
セドは水路側を見たまま言った。
「ロイドさんがここを離れると、群衆の指示が途切れます」
「……でも」
「助けに向かう人を選び、道を指定しました」
一拍。
「今できる最善です」
ロイドは唇を噛んだ。
最善。
それでも、怖い。
誰かを行かせる判断は、こんなにも重い。
「……分かった」
短く答えた。
セドはそれ以上何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
その沈黙が、今はありがたかった。
水路は、さらに異様な音を立てていた。
逆流は強まっている。
水面の中央が、旧東工房区画側へ引き込まれている。
水路の縁に打ちつけるはずの水が、逆に内側へ引かれる。
そのせいで、水面は奇妙にえぐれ、青い光の筋が何本も浮かんでいた。
セドはそれを見て、眉を寄せる。
「……魔力の吸引が一定ではありません」
ロイドが聞く。
「どういう意味だ」
「強弱があります」
「それは悪いのか」
「悪いです」
即答だった。
「安定していない吸引は、次にどこから噴き出すか読みにくい」
「噴き出す?」
「地下水路や古い排水管から、魔力を含んだ水が逆流する可能性があります」
ロイドの顔が青ざめる。
「つまり、水路沿いじゃなくても危ない?」
「低い場所は危険です」
「……っ」
ロイドはすぐに叫んだ。
「低い路地から出ろ! 地下倉庫に入るな! 水が出てなくても危ないぞ!」
その声を、周囲の者たちが繰り返す。
「地下に入るな!」
「低い路地は駄目だ!」
「上へ行け!」
「子供を先に!」
言葉が流れていく。
店の貼り紙から始まった言葉が、今は人の口で広がっている。
恐怖の中で。
混乱の中で。
それでも、確かに。
ロイドの店では、ミラが避難してきた子供たちと住民を受け入れていた。
店内は、もう店というより一時避難所だった。
棚の前には子供たちが座っている。
奥には老人。
壁際には、震える女たち。
入口近くでは、ニコとトマが人の出入りを整理し、リナが泣く子のそばについている。
夜間用灯り石が、いくつも置かれていた。
職人灯りも、入口と奥の通路に置かれている。
淡い光。
青みのある光。
柔らかな光。
それぞれが、恐怖で暗くなりかけた店内を照らしていた。
「奥、詰めすぎない」
ミラが言う。
「座る。走らない。水、順番」
短い言葉。
でも、通る。
ミラは大きな声を出さない。
なのに、不思議と子供たちは従った。
静かな声が、逆に安心を与えているのかもしれない。
「ミラさん!」
ニコが叫ぶ。
「外、また人来た!」
「入れて」
「もういっぱい!」
「奥の箱、どける」
「分かった!」
ニコは走りかけた。
ミラが即座に言う。
「走らない」
「……歩く!」
ニコは急いで歩いた。
トマが入口で叫ぶ。
「子供と年寄りから! 大人は壁側!」
「何だこの子、しっかりしてるね」
「俺、見張りだから!」
「偉いねぇ」
「偉くないし!」
トマは照れ隠しのように顔を逸らす。
だが、その声にも震えがあった。
怖いのだ。
当然だ。
水路から聞こえる低い音は、店の中まで届いている。
ごぽり。
ごぼ。
青い光が、時折窓の外をかすめる。
小さな子供が泣き出す。
「怖い……」
リナがその子の背中をさすった。
「怖いよね」
「うん……」
「でも、ここにいるから」
「お水、来る?」
「ここは高いから、今は大丈夫」
リナの声も震えている。
けれど、逃げていない。
ミラはそれを見て、静かに近づいた。
リナの隣に、小さな夜間用灯り石を置く。
「これ」
「ミラさん?」
「怖い子の近く」
「……うん」
リナは灯り石を受け取り、泣いている子の前に置いた。
柔らかな光が、その子の顔を照らす。
泣き声が少しだけ小さくなった。
ミラはそれを見て、胸の奥に小さな痛みを感じた。
役に立っている。
嬉しい。
でも、この灯りが必要になる状況が、苦しい。
子供たちが震えている。
それを照らすために作ったわけではない。
ただ、夜を怖がる人のために作った。
それが今、避難所の灯りになっている。
「……」
ミラは少しだけ目を伏せた。
それでも、灯りを置く手は止めなかった。
今は、必要だから。
工房街側では、ガルドが職人たちを動かしていた。
「水路側の炉を止めろ!」
「冷却水を切るな、逆流する!」
「見習いを奥に入れろ!」
「端材箱を床から上げろ! 水が来たら危険品が混ざる!」
怒号が飛ぶ。
工房街の職人たちは、ロイドの店の客とは違う。
言葉が荒い。
動きが早い。
怒鳴られれば怒鳴り返す。
だが、危険が分かれば動く。
「ガルド!」
ハインツが走ってきた。
「東側の小工房が一つ閉め遅れてる!」
「人は?」
「親方と見習い二人!」
「場所は!」
「旧冷却路の近く!」
ガルドの顔が険しくなる。
「俺が行く」
「馬鹿言うな、一人で行くなって自分で言ってただろうが」
ハインツが怒鳴る。
ガルドは一瞬黙った。
「……お前も来い」
「最初からそのつもりだ」
二人は走り出す。
工房街の石畳にも、青い光が薄く反射し始めていた。
水路から離れているはずなのに。
古い地下配管が、生きている。
ガルドは歯を食いしばった。
「十年前の残骸が、まだこんなところまで……!」
「文句は後だ!」
ハインツが叫ぶ。
「まず人を出す!」
二人は小工房の扉を叩き破る勢いで開けた。
中には、親方らしき老人と、若い見習い二人がいた。
床の隙間から、青く光る水が滲んでいる。
「何してる!」
ガルドが怒鳴る。
「炉を止めないと!」
老人が叫ぶ。
「炉より命だ!」
「でも、暴走したら周りに!」
老人の言葉に、ガルドは一瞬詰まる。
確かに、炉を放置すれば周囲へ危険が広がる可能性がある。
だが、今ここで全員が残れば、巻き込まれる。
ハインツが即座に言った。
「俺が補助弁を閉める! ガルド、見習いを出せ!」
「親方は!」
「お前が担げ!」
「無茶言うな!」
「できるだろ!」
ガルドは舌打ちした。
できる。
やるしかない。
「見習い! 外へ走れ!」
「でも!」
「邪魔だ! 生きて出ろ!」
見習いたちは泣きそうになりながら外へ出る。
ガルドは老人の腕を掴む。
「立て!」
「道具が!」
「命が先だ!」
その言葉を、自分が言う日が来るとは。
ガルドは一瞬だけ苦く笑いそうになった。
けれど笑わなかった。
老人を肩に担ぎ、外へ向かう。
背後でハインツが補助弁を閉める音がする。
金属が軋む。
青い光が一瞬強くなる。
「ハインツ!」
「先に行け!」
「ふざけんな!」
ガルドは老人を外の職人に預け、すぐに戻ろうとした。
その瞬間、ハインツが飛び出してきた。
転がるように。
直後、工房内の床から青い水が噴き上がった。
低い爆音。
職人たちが悲鳴を上げる。
「下がれ!」
ガルドが叫ぶ。
「全員、下がれぇ!」
水はすぐに収まった。
だが、床は青く濡れている。
あそこに残っていたら。
ガルドは、冷たい汗を背中に感じた。
ハインツが荒い息を吐く。
「……危なかったな」
「笑ってんじゃねぇ」
「笑ってねぇよ」
「顔が笑ってる」
「生きてるからな」
二人は一瞬だけ睨み合い。
すぐに笑った。
乾いた、短い笑い。
怖さを押し返すための笑いだった。
処理場側でも、ディムが走り回っていた。
「東側搬入口を閉めろ!」
「排水溝に近づくな!」
「黒い荷箱は放っておけ! 今は人だ!」
処理場の職員たちは混乱していた。
黒羽の荷箱。
廃棄魔石。
青く光る排水溝。
普段なら、上の指示を待つ者も多い。
だが、今日は待っていられない。
ディムは怒鳴り続ける。
「上に確認してる暇があるか!」
「でも、組合から――」
「水が来てから組合に聞くのか!」
職員が黙る。
ディムは息を荒げながら、処理場の奥を見た。
黒い鳥の印がついた荷箱が、いくつか積まれている。
その一つから、微かに青い光が漏れていた。
「……やっぱりな」
ディムは低く呟く。
黒羽は、ただ廃棄魔石を抜いていたわけではない。
何かを集めていた。
旧東工房区画の冷却路と繋がるものを。
処理場にも、青い流れが伸びている。
ディムは叫んだ。
「その黒い荷箱から離れろ!」
「中身は?」
「知らん!」
「確認しなくていいのか!」
「命が先だ!」
その言葉は、ロイドの店から広がった言葉だった。
今、処理場でも使われている。
ディムはそれに気づき、少しだけ苦笑した。
「……染みついてきたな」
けれど、悪くない。
命が先だ。
今は、それでいい。
東水路の避難は、少しずつ進んでいた。
だが、問題は次々に起きた。
水路沿いの長屋から、老人が動けないという声。
地下倉庫に荷物を取りに行った男が戻らないという声。
青い水に触れた犬が暴れているという声。
子供を探している母親の悲鳴。
ロイドは一つずつ受け止めた。
全部には行けない。
全部を自分で助けられない。
それが苦しい。
「ロイドさん」
セドが横で言う。
「優先順位を」
「分かってる!」
ロイドは叫びそうになり、すぐに息を整えた。
「……ごめん」
「いえ」
「老人、子供、動けない人が先だ」
「はい」
「地下倉庫は?」
「危険です。行かせない」
「でも人がいるかも」
「確認班を作ります。ロープを使い、入口から声をかけるだけ。中には入らない」
「分かった」
ロイドはすぐに叫ぶ。
「地下倉庫に入るな! 声かけだけだ! ロープ持て! 入るな、引きずり出されるぞ!」
男たちが動く。
セドは水路の光を見続ける。
強くなる。
また弱まる。
しかし、全体としては増している。
このままなら、夜になる頃にはさらに危険になる。
エルマが必要だ。
旧東工房区画を知る者。
冷却路を理解している者。
彼女なしでは、次の判断ができない。
「ガルドさんは」
「まだ戻らねぇな」
ロイドが答える。
不安が胸をよぎる。
その時、遠くから声が聞こえた。
「道を空けろ!」
ガルドの声だった。
ロイドとセドが振り返る。
ガルドが走ってくる。
その後ろに、ディム。
そして。
エルマがいた。
白髪を乱し、魔導レンズを片目につけ、古びた工具袋を抱えている。
年老いた体には不釣り合いなほど鋭い足取り。
彼女は水路を見るなり、表情を失った。
「……馬鹿どもが」
低く呟く。
「本当に、動かしたのかい」
セドが駆け寄る。
「エルマさん」
「説明は後」
エルマは水路へ近づきすぎない位置で膝をつき、道具を取り出した。
小さな魔導針。
古い測定盤。
青い光を映すレンズ。
その手は震えていなかった。
「水が戻るって?」
エルマが聞く。
「はい」
「どのくらい」
「橋が一部崩れました。地下からの滲出もあります」
「人は」
「避難中です」
エルマは一瞬だけ目を閉じた。
そして、低く言った。
「よく動かしたね」
誰への言葉か分からなかった。
ロイドへか。
セドへか。
街へか。
それとも、十年前の自分へか。
エルマは測定盤を水路へ向ける。
針が激しく揺れた。
次の瞬間、彼女の顔が険しくなる。
「……炉心じゃない」
セドが眉を寄せる。
「どういう意味ですか」
「旧東工房区画の主炉心が吸ってるんじゃない」
「では」
「補助炉だ」
エルマの声が低くなる。
「十年前、封鎖前に止めたはずの補助冷却炉が、誰かに再接続されてる」
沈黙。
ロイドは意味を完全には理解できなかった。
だが、セドとガルドの顔で分かった。
悪い。
とても悪い。
「止められますか」
セドが聞く。
エルマは水路を睨む。
「ここからは無理だね」
「では」
「旧東工房区画側で、冷却弁を落とす必要がある」
空気が凍る。
旧東工房区画。
まだ近づくなと言われていた場所。
十年前の事故の中心。
黒羽が動く場所。
そこへ行かなければならない。
ロイドが唾を飲み込む。
「……今から?」
エルマは答えなかった。
沈黙が、答えのようだった。
セドが静かに口を開く。
「今は避難を優先します」
エルマが少しだけセドを見る。
「分かってるじゃないか」
「はい」
「すぐ突っ込むと思ったよ」
「以前なら、そうしたかもしれません」
セドは水路を見る。
「ですが、今は違います」
ロイドが隣で頷く。
「まず人を逃がす」
「その後で止める方法を考える」
ガルドが言う。
「一人では行かない」
ディムも続ける。
「処理場側の地図も持ってくる」
エルマは、彼らを見た。
一人ではない。
若者一人が無謀に突っ込むわけではない。
店主がいる。
職人がいる。
処理場の男がいる。
子供たちを守る店がある。
街が動いている。
エルマは、小さく息を吐いた。
「……十年前とは、少し違うね」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
けれど、セドには聞こえた。
夜が近づいていた。
青い光はまだ消えない。
東水路周辺の住民は、ほとんど高い通りへ避難していた。
ロイドの店には子供と老人。
工房街には職人たちが見回り。
処理場側ではディムたちが排水口を封鎖。
王城ではルイスが記録を動かし始めている。
それぞれの場所で、それぞれが動いていた。
ロイドは水路から少し離れた石段の上で、息を整えていた。
全身が痛い。
喉も痛い。
腕にはセドに掴まれた痕が残っている。
でも、生きている。
テオも生きている。
子供も生きている。
多くの人が、避難できた。
完全ではない。
まだ危険は続いている。
それでも。
今日、貼り紙の言葉は現実になった。
そして、街は動いた。
「ロイドさん」
セドが隣に立つ。
「何だ」
「ありがとうございました」
「急に何だよ」
「テオと子供を助ける時、灯りがなければ危険でした」
ロイドは手の中の夜間用灯り石を見る。
少し汚れている。
けれど、まだ光っている。
「ミラのおかげだな」
「はい」
「ガルドのおかげでもある」
「はい」
「お前もな」
セドは少しだけ黙った。
「……はい」
否定しなかった。
ロイドはそれを見て、少し笑った。
「成長したな」
「皆さんのおかげです」
「そういうところはまだ真面目だな」
二人は、青く光る水路を見た。
恐ろしい光。
でも、その手元には小さな灯りがある。
それは青い光ほど強くない。
けれど、人を吸い込まない。
ただ、足元を照らす。
ロイドは静かに言った。
「明日、旧東工房区画か」
「おそらく」
「怖いな」
「はい」
「でも、一人じゃない」
「はい」
水音が響く。
ごぽり。
ごぽり。
旧東工房区画の奥で、十年前の何かがまだ息をしている。
第一章の終わりは、もう目の前だった。
けれど、その終わりは絶望ではない。
ここまで積み上げてきた灯りを持って。
彼らは、ようやく本当の闇の入口に立とうとしていた。




