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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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52/101

第52話



 ごぽり。


 水音は、一度で終わらなかった。


 ごぽ。


 ごぽり。


 まるで、水路の底で巨大な何かが息をしているような音だった。


 ロイドの店の中から、笑いが消えた。


 湯気の立つ茶。


 作業台の上の職人灯り。


 壁に並ぶ貼り紙。


 その全部が、急に遠くなった気がした。


「……今の、聞こえたよな」


 ロイドの声は低かった。


 誰も冗談を返さない。


 セドは扉の方へ目を向けた。


「はい」


 短い返答。


 けれど、その声には緊張があった。


 ガルドが壁から背を離す。


「水路だ」


「来た?」


 ミラが小さく言う。


 セドは頷かなかった。


 まだ断定はしない。


 だが、目はすでに動いていた。


 ロイドを見る。


 ガルドを見る。


 ミラを見る。


 ディムを見る。


 そして、壁の貼り紙を見る。


 今日一日かけて伝えてきたこと。


 避難経路。


 子供を近づけないこと。


 青い光を見ても触れないこと。


 水路に異変があれば高い場所へ。


 そのすべてが、今、試されようとしている。


「ロイドさん」


「分かってる」


 ロイドは震えそうになる息を、強引に整えた。


 怖い。


 腹の奥が冷たい。


 足の裏が浮くような感覚がある。


 それでも、扉へ向かった。


 店主だから。


 この店の前に人が集まるなら、自分が立つ。


 そう決めた。


「ミラ、店に残ってくれ」


「うん」


「子供が来たら中へ入れる。水路には絶対行かせるな」


「分かった」


「ガルド」


「俺は工房街へ回る」


「頼む」


「ディムさん」


「処理場側だな」


「はい」


 セドが言う。


「水路側の住民に、今すぐ高い場所へ移動するよう伝えてください」


「分かった」


 ディムは顔をしかめながらも、すぐに動いた。


 ロイドは扉に手をかけた。


 一瞬だけ、動きが止まる。


 外へ出れば、戻れない気がした。


 何かが始まる。


 もう、貼り紙で済む段階ではない。


 その重さが、指先に乗る。


「ロイド」


 ミラの声。


 振り返る。


 ミラは、夜間用灯り石を一つ差し出していた。


「持って」


「……今、昼だぞ」


「暗くなるかもしれない」


 短い言葉。


 けれど、妙に現実味があった。


 ロイドは黙って受け取った。


 小さな灯り石。


 手のひらに収まる光。


 強くはない。


 けれど、不思議と心細さを少しだけ押し返してくれる。


「ありがとう」


「うん」


 ロイドは扉を開けた。


 鈴が鳴る。


 その音は、いつもよりずっと鋭く聞こえた。


 


 外は、まだ夕方だった。


 しかし、通りの空気は明らかに変わっていた。


 人々が水路の方角を見ている。


 誰かが立ち止まり、誰かが窓から顔を出し、誰かが子供の手を引いている。


 ざわめきはまだ小さい。


 だが、その奥に恐怖がある。


「今、音したよな?」


「水路か?」


「地鳴りじゃないのか」


「青い光が見えたって!」


「誰が見たんだ!」


「分からない、でも東の方で――」


 声が重なる。


 ロイドは店の前に立ち、腹に力を入れた。


「聞け!」


 声を張った。


 通りの視線が集まる。


「東水路に近づくな! 子供は店か家の中に入れろ! 水路沿いの低い場所にいる奴は、高い通りへ移動しろ!」


 ざわめきが大きくなる。


「本当に危ないのか!」


「大げさじゃないのか!」


「何が起きてるんだ!」


「分からねぇ!」


 ロイドは正直に叫んだ。


 一瞬、人々が黙る。


 ロイドは続ける。


「分からねぇから近づくな! 分かってからじゃ遅い!」


 その言葉は、通りに落ちた。


 昨日まで何度も貼り紙で見た言葉。


 危険なら近づかない。


 異変を見たら大人に知らせる。


 子供だけで見に行かない。


 その言葉が、今ようやく現実の重さを持った。


「ニコたちは!?」


 ロイドが叫ぶ。


 すぐに、通りの向こうから声が返ってきた。


「ここ!」


 ニコだった。


 リナとトマもいる。


 だが、その周りに小さな子供が数人いた。


 泣きそうな子もいる。


 ニコは顔を青くしながらも、必死にその子たちをロイドの店の方へ押していた。


「こっち行けって! 店の中! 早く!」


「ニコ!」


 セドが駆け寄る。


「水路には行っていませんか」


「行ってない!」


 ニコが叫ぶ。


「ちゃんと戻した! でも、テオが!」


「テオ?」


 ガルドの顔が変わる。


 ハインツ魔導加工所の見習い。


 昨日、店を見に来た少年。


「テオがどうした」


 ガルドの声が低くなる。


 ニコは息を切らしながら言った。


「工房の人に知らせるって、水路側の道へ行った!」


 沈黙。


 ロイドの背筋が凍った。


 ガルドの顔から血の気が引く。


「馬鹿が……!」


 ガルドが走り出そうとする。


 セドが一歩前へ出た。


「待ってください」


「待てるか!」


「一人で行かない」


 セドの声は強かった。


 ガルドが歯を食いしばる。


 ロイドもすぐに言う。


「俺も行く」


「ロイドさんはここで群衆を」


「行く」


 ロイドはセドを見た。


 怖い顔ではない。


 必死な顔だった。


「俺がテオを店から送り出した。見習いにも注意しろって言った。なのに、あいつが行ったなら……俺も行く」


「……」


「群衆はミラに任せる。ニコたちも店に入れる。俺は行く」


 セドは一瞬だけ黙った。


 以前なら、止めたかもしれない。


 危険だから。


 店主だから。


 ここに残るべきだから。


 でも、今のロイドの目を見て、分かった。


 これは無謀ではない。


 責任だ。


 そして、一人で行くわけではない。


「分かりました」


 セドは言った。


「私も行きます」


「お前もかよ」


 ロイドが少し笑った。


 笑っている場合ではない。


 それでも、少しだけ笑った。


「三人で行きます」


 セドが言う。


「ガルドさん、先導を。ロイドさんは灯り石を。私は水路の流れを見ます」


「分かった」


 ガルドは短く答えた。


 ロイドはミラへ振り返る。


「ミラ!」


「聞いてた」


 ミラはすでに店の扉を大きく開けていた。


「子供、中へ」


「お願い」


「うん」


 ニコが叫ぶ。


「俺も行く!」


「駄目だ!」


 ロイドが即答した。


 ニコの顔が歪む。


「でも!」


「店を守れ!」


 ロイドは言った。


 ニコが止まる。


「小さい子を中へ入れろ! 泣いてる子のそばにいろ! それがお前の仕事だ!」


 ニコの目が揺れる。


 行きたい。


 助けたい。


 でも、言葉が刺さった。


 店を守れ。


 それは、子供扱いではない。


 役目を渡された言葉だった。


「……分かった!」


 ニコは涙目で叫ぶ。


「絶対連れて帰ってこいよ!」


「ああ!」


 ロイドは頷き、走り出した。


 


 東水路へ向かう道は、湿った冷気に包まれていた。


 夕暮れの色が薄れ始めている。


 空はまだ明るいはずなのに、水路の方角だけが暗く見えた。


 道の先から、人が逆方向へ走ってくる。


「逃げろ!」


「水が変だ!」


「青い光が!」


「子供がいるぞ!」


 叫び声。


 足音。


 誰かが転びそうになり、別の誰かが支える。


 ガルドが先頭で怒鳴る。


「道を空けろ! 水路へ向かうな! 高い通りへ上がれ!」


 職人たちがガルドの声に反応する。


「ガルドさん!」


「何が起きてる!」


「説明は後だ! 見習いを確認しろ! 水路側に残すな!」


「分かった!」


 工房の男たちが動き出す。


 怒鳴り声。


 指示。


 混乱。


 それでも、昨日までの貼り紙と今日の注意が効いているのか、人々は完全には崩れていない。


 大人が子供を抱き上げる。


 若い職人が老人に肩を貸す。


 長屋の女が隣の家の扉を叩く。


 怖がりながらも、動いている。


 ロイドはそれを見て、胸が熱くなった。


 無駄じゃなかった。


 昨日までしつこく言ったことは、無駄じゃなかった。


 その時。


 水路の方から、青い光が漏れた。


 淡く。


 けれど、不自然なほど濃い光。


 壁に反射し、石畳の隙間を青く染める。


「……っ」


 ロイドの足が止まりかける。


 セドが横で低く言った。


「近いです」


「分かってる」


 ロイドは手の中の夜間用灯り石を握った。


 小さな光が、青い光に負けそうになりながらも、手元を照らしている。


 その光を見て、ロイドは息を整えた。


 まだ動ける。


 怖いけど、動ける。


 


 東水路へ着いた瞬間、三人は言葉を失った。


 水が、逆に流れていた。


 本来なら、ゆっくりと東へ抜けていく水。


 それが今は、旧東工房区画の方角へ向かって吸い込まれている。


 水面が波立つ。


 中央がへこむ。


 まるで、水路全体が巨大な喉になったようだった。


 青い光は水底から漏れている。


 一定ではない。


 脈打つ。


 ごぽり。


 ごぼ。


 ごぽり。


 音が腹に響く。


「……冷却路が吸ってる」


 ガルドが低く言う。


「旧東の炉か」


 ロイドが聞く。


「ああ」


 ガルドの顔は青い。


「こんな吸い方、普通じゃねぇ」


 セドは水路の縁へ近づきすぎない位置で、流れを見る。


「中心に魔力流があります」


「見えるのか」


「光の乱れで」


 セドの声は冷静だった。


 だが、その指先はわずかに強く握られていた。


「水路へ落ちれば、吸われます」


「テオは!?」


 ロイドが叫ぶ。


 その声に、どこかから返事があった。


「こっち!」


 細い声。


 水路の向こう側。


 崩れた石橋の近く。


 テオがいた。


 足元の石畳が濡れている。


 水路の縁に近すぎる。


 片手で壁を掴み、もう片方の手で何かを抱えている。


 小さな子供だった。


「テオ!」


 ガルドが叫ぶ。


 テオが顔を上げる。


 泣きそうな顔。


 それでも、必死に子供を抱えている。


「この子が、水路の方にいて……!」


「動くな!」


 ガルドが怒鳴る。


「その場から動くな!」


 だが、足元の水が増えていた。


 水路から溢れているわけではない。


 石畳の隙間から、青く光る水が染み出している。


 まるで地下の古い管が逆流しているようだった。


「まずい」


 セドが言う。


「足元の魔力流が広がっています」


「どうする!」


 ロイドの声が震える。


 テオの位置までは、崩れた細い石橋を渡るしかない。


 だが橋は濡れている。


 水路の流れは強い。


 落ちれば終わりだ。


 ガルドが歯を食いしばる。


「俺が行く」


「待ってください」


 セドが止める。


「橋は危険です」


「じゃあどうする!」


 ガルドの声が荒れる。


 テオが子供を抱えたまま、震えている。


 子供は泣いている。


 その泣き声が、水音に混ざって耳へ刺さった。


 ロイドは手元の夜間用灯り石を見た。


 小さな光。


 ミラが持たせてくれた光。


 暗くなるかもしれない。


 そう言って。


 ロイドは顔を上げた。


「ガルド」


「何だ!」


「橋を照らす」


「は?」


「青い光で足元が見えにくい。俺が灯りを置く。セドは流れを見る。お前は渡る」


 ガルドは一瞬黙った。


 セドもロイドを見る。


「危険です」


「分かってる」


「ロイドさんも水路に近づくことになります」


「近づくだけだ。渡るのはガルド。流れを見るのはお前」


 ロイドは声を震わせながらも言った。


「役割だろ」


 セドは言葉を失った。


 役割。


 分担。


 一人で持たない。


 ロイドは、それを今、本当に実行しようとしている。


 ガルドが低く言う。


「……できるか」


「怖いけどな」


「正直すぎる」


「でもやる」


 ロイドは灯り石を握りしめた。


「テオを連れて帰る」


 セドは一瞬だけ目を伏せた。


 そして、頷く。


「分かりました」


 短く言う。


「私が流れを見ます。ロイドさんは灯りを。ガルドさんは、私の合図で動いてください」


「おう」


 ガルドが答える。


 ロイドは足元を確かめながら、橋の手前へ進む。


 青い光が顔を照らす。


 水音が近い。


 恐怖で膝が笑いそうになる。


 でも、後ろからセドの声が来た。


「右側の石は濡れています。左へ」


「分かった」


「三歩先、亀裂」


「おう」


 ロイドは灯り石を低く掲げた。


 柔らかな光が、青い水面とは違う色で石橋を照らす。


 足元の影が見える。


 亀裂が見える。


 濡れた部分と乾いた部分が分かる。


「ガルドさん、今です」


 セドの声。


 ガルドが走った。


 いや、走るというより、低く踏み込んだ。


 重い身体を、驚くほど正確に運ぶ。


 濡れた石を避け、崩れた縁を踏まず、ロイドの灯りが照らす道を進む。


「テオ!」


「ガルドさん!」


「子供を先に渡せ!」


「でも!」


「黙れ! 言う通りにしろ!」


 テオは泣きながら頷き、小さな子供をガルドへ渡そうとする。


 その瞬間。


 水路が、大きく鳴った。


 ごぼっ。


 青い光が強くなる。


 橋の下の水が、一気に旧東工房区画の方向へ引っ張られた。


 風が生まれる。


 水へ向かって吸い込む風。


「伏せろ!」


 セドが叫ぶ。


 ガルドが子供を抱え込み、テオの襟を掴む。


 ロイドは灯り石を握ったまま、石橋の手前で膝をついた。


 吸われる。


 体が前へ持っていかれそうになる。


「ロイドさん!」


 セドが手を伸ばす。


 ロイドの腕を掴む。


 強く。


 痛いほど。


「っ……!」


「離しません」


 セドの声が聞こえた。


 ロイドは歯を食いしばる。


 怖い。


 落ちる。


 水音が耳の中まで入ってくる。


 青い光が視界を潰す。


 それでも、手の中の灯り石だけは離さなかった。


「ガルド!」


 ロイドが叫ぶ。


「戻れぇ!」


 ガルドは子供を片腕で抱え、もう片方でテオを引きずるようにして戻る。


 橋が軋む。


 濡れた石が滑る。


 テオが足を取られかける。


「テオ、足を上げろ!」


「はいっ!」


「泣くな! 生きてから泣け!」


「はいぃっ!」


 ガルドの怒鳴り声が、水音を裂いた。


 セドが叫ぶ。


「左! 次、右へ!」


 ガルドは従う。


 ロイドの灯りが足元を照らす。


 青い光に負けない、小さな光。


 その細い道を、三人が戻ってくる。


 あと少し。


 あと二歩。


 あと一歩。


 ガルドが橋を渡りきった瞬間、セドとロイドが同時に手を伸ばした。


 子供を受け取る。


 テオを引き上げる。


 ガルドも転がるようにこちら側へ倒れ込んだ。


 直後。


 石橋の一部が崩れた。


 音を立てて、水路へ落ちる。


 青い水が、それを飲み込む。


 全員が、しばらく動けなかった。


 水音だけが響く。


 ごぽり。


 ごぽり。


 まるで、まだ足りないと言っているようだった。


「……生きてるか」


 ロイドがかすれた声で聞く。


「生きてる」


 ガルドが答える。


「テオ」


「は、はい……」


「子供は」


 子供は泣いていた。


 大声で。


 生きている証拠のように。


 ロイドは、その泣き声を聞いた瞬間、力が抜けた。


「……よかった」


 声が震えた。


 本当に、震えた。


 セドも、深く息を吐いた。


 彼の手はまだロイドの腕を掴んでいる。


 ロイドがそれに気づき、小さく笑った。


「セド」


「はい」


「痛い」


「……失礼しました」


 セドが手を離す。


 ロイドの腕には、指の跡が残っていた。


 でも、文句はなかった。


「助かった」


 ロイドは言った。


 セドは少しだけ目を伏せる。


「こちらこそ」


 その時、背後から人々の声が聞こえた。


「戻った!」


「子供が助かったぞ!」


「水路から離れろ!」


「高い場所へ!」


 群衆が集まりかけていた。


 だが、貼り紙の効果か、誰も水路の縁までは来ない。


 距離を取っている。


 誰かがロープを持ってきた。


 誰かが毛布を持ってきた。


 誰かが泣いている子供を受け取り、母親らしき女が叫びながら駆け寄る。


「リオ!」


 女は子供を抱きしめ、崩れるように座り込んだ。


「リオ、リオ……!」


 子供は泣きながら母親にしがみつく。


 テオはその光景を見て、ようやく膝から崩れた。


「……よかった」


 ガルドがテオの頭を軽く叩いた。


「馬鹿野郎」


「すみません……」


「謝るのは生きてるからできる」


 ガルドの声は震えていた。


 怒っている。


 でも、それ以上に安堵している。


「次は一人で行くな」


「はい……!」


 テオは泣いた。


 今度こそ、ちゃんと泣いた。


 


 東水路の青い光は、まだ消えていなかった。


 むしろ、少しずつ強くなっている。


 水は逆流を続けている。


 旧東工房区画へ向かって。


 何かが、向こうで動いている。


 ロイドは立ち上がり、群衆へ向かって叫んだ。


「全員、水路から離れろ!」


 声は枯れていた。


 それでも、通った。


「子供を先に! 老人を高い通りへ! 水路沿いの家には戻るな! 荷物は捨てろ、命が先だ!」


 群衆が動く。


 今度は、ためらいが少ない。


 目の前で子供が助かった。


 橋が崩れた。


 水が逆流している。


 もう、誰も大げさだとは言えない。


 昨日までの貼り紙が、今、行動に変わっていく。


「こっちだ!」


「長屋の婆さんがまだいる!」


「俺が行く!」


「一人で行くな、二人で!」


「子供はロイドの店へ!」


「ミラさんのところへ連れてけ!」


 人々が声を掛け合う。


 混乱はある。


 恐怖もある。


 だが、完全な崩壊ではない。


 準備していたからだ。


 言葉を流していたからだ。


 怖がることを許していたからだ。


 セドはその光景を見て、胸の奥に熱いものを感じた。


 これは、店だけの力ではない。


 街が動いている。


 小さな灯りが、人の手に渡っている。


「セド!」


 ロイドが叫ぶ。


「次はどうする!」


 セドは水路を見る。


 青い光。


 逆流。


 旧東工房区画の方向。


 まだ近づくべきではない。


 今は避難が最優先。


「水路沿いを封鎖します!」


 セドが答える。


「住民を高い通りへ。工房側と処理場側へ連絡を。エルマさんへも」


「分かった!」


「ガルドさん」


「おう」


「エルマさんへ行けますか」


「行く」


「一人では」


「テオは置いていく。ディムを拾う」


「お願いします」


 ガルドは頷き、テオを見る。


「お前は店へ行け」


「でも」


「今度逆らったら、ぶん殴る」


「はい!」


 テオは泣きながらも頷いた。


 ロイドがセドを見る。


「俺は?」


「群衆を」


「分かった」


「無理は」


「しない」


 ロイドは先に言った。


 セドは頷く。


 その返答に、少しだけ安心した。


 


 同じ頃。


 ロイドの店は、避難してきた子供たちでいっぱいになっていた。


 ミラは一人ひとりを奥へ入れ、水を渡し、座らせていた。


「泣いていい」


 泣きそうな子に、ミラが言う。


「でも、走らない」


「うん……」


「ここにいる」


「うん」


 ニコは入口近くで、小さい子たちを誘導している。


「こっち! 靴脱がなくていい! 奥に座って! 泣いてる子はリナの方!」


 リナは泣く子の背中をさすっていた。


 トマは外を見張っている。


 皆、怖い。


 ニコの顔も真っ青だ。


 それでも、動いている。


 ミラはそれを見て、短く言った。


「ニコ」


「何!」


「助かってる」


 ニコの目が揺れた。


 その一言だけで、彼の背筋が少し伸びた。


「うん!」


 店の中では、夜間用灯り石がいくつも灯されていた。


 夕方の薄暗さの中、子供たちの顔を柔らかく照らしている。


 強い光ではない。


 けれど、不安で震える子供たちには、その柔らかさが必要だった。


 職人灯りも一つ置かれている。


 青みのある光が、入口の足元を照らす。


 避難してくる者が転ばないように。


 ミラはそれを見て、静かに息を吐いた。


 灯りが役に立っている。


 ただ売るためではなく。


 今、人を守るために。


 


 王城。


 ルイスは書庫の窓から、東の空を見ていた。


 遠く。


 ほんのわずかに、青い光が見えた気がした。


「……始まった」


 声が漏れる。


 フィリアが隣に立つ。


「ルイス」


「東水路だ」


「分かるの?」


「分かる」


 理屈ではない。


 セドからの情報。


 冷却路の記録。


 旧東工房区画の未完了閉鎖。


 そして、今見える青い光。


 全部が繋がっていた。


「行くの?」


 フィリアが聞く。


 ルイスはすぐには答えなかった。


 行きたい。


 今すぐ。


 セドがいる。


 ロイドの店がある。


 水路が危ない。


 でも。


 自分が今、王城から飛び出せば何が起きる?


 第二王子が東水路へ向かったとなれば、王城も組合も動く。


 それは助けになるかもしれない。


 だが、同時にロイドの店を政治の流れへ巻き込む。


 まだ早い。


 そう判断する冷静な自分がいる。


 けれど、胸は叫んでいる。


「……行きたい」


 ルイスは正直に言った。


 フィリアは黙っている。


「でも、今は違う」


「じゃあ?」


「内側を動かす」


 ルイスは振り返る。


「旧東工房区画の冷却路閉鎖が完了していない記録を、正式な確認に回す」


「それって」


「騒ぎになる」


「危ない?」


「危ない」


 ルイスは頷く。


「でも、今なら東水路の異変と繋げられる。王城側からも“確認”を出せる」


「セドたちを助けるため?」


「うん」


 一拍。


「外へ行けなくても、内側から圧をかける」


 フィリアはルイスを見た。


 少しだけ笑う。


「強くなったね」


「怖いよ」


「うん」


「でも、やる」


「なら、私も手伝う」


 ルイスは頷いた。


 足元の影が揺れる。


 ノクスが見ている。


 ルイスは書庫の扉へ向かった。


 外と内。


 別々の場所で、同じ流れに向かって動く。


 灯りは、一人で持つものではない。


 今、その言葉が本当になる。


 


 東水路では、青い光がさらに強くなっていた。


 避難は進んでいる。


 だが、完全ではない。


 まだ水路沿いに残る家がある。


 まだ戻ろうとする者がいる。


 まだ荷物を取りに行こうとする者がいる。


 ロイドは叫び続けた。


「戻るな!」


「でも、金が!」


「命が先だ!」


「家に薬が!」


「誰か一緒に行け! 一人で行くな!」


 声が枯れる。


 喉が痛い。


 足も震える。


 でも、止まれない。


 セドは水路の流れを見ながら、避難の線を引いていた。


「この通りより下は危険です」


「どこまでだ!」


「石段の上まで」


「広すぎる!」


「水が地下から出ています。見える範囲だけではありません」


 人々の顔が青ざめる。


 しかし、セドの声が冷静だからこそ、動ける者もいた。


 冷静な声。


 ロイドの届く声。


 ガルドの怒鳴る声。


 ミラの静かな声。


 それぞれが違う形で、人を動かしている。


 青い水面が、また脈打った。


 ごぽり。


 今度は、地面まで震えた。


 セドが顔を上げる。


「……次が来ます」


 ロイドが振り返る。


「次?」


「逆流が強まります」


 その瞬間。


 水路の奥から、低い音が響いた。


 まるで、古い巨大な炉が、十年ぶりに息を吸ったような音だった。


 青い光が、一気に水路を走る。


 人々が悲鳴を上げる。


 セドが叫ぶ。


「全員、上へ!」


 第一章の終わりへ向けて。


 王都の裏側で止まっていた水が。


 ついに、本格的に戻り始めた。

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