第51話
朝の空気は、妙に静かだった。
風がない。
王都の外れを流れる東水路も、今日は水音が薄い。
それなのに。
ロイドは店の扉を開けた瞬間、肌の奥に嫌な感覚を覚えた。
「……静かすぎるな」
ぽつりと呟く。
通りには人がいる。
荷車も動いている。
工房街からは、いつものように金属音も聞こえてくる。
なのに、何かが違う。
空気の張り方が違った。
嵐の前。
あるいは、地鳴りの前。
そんな気配。
「ロイド」
ミラが小さく呼ぶ。
「うん」
「怖い?」
ロイドは少し笑った。
「怖いな」
隠さなかった。
最近、隠さない方がいいと分かってきた。
怖くないふりをすると、余計に視野が狭くなる。
セドが横で頷く。
「正しいと思います」
「最近、お前に肯定されると安心するな」
「良いことです」
「そうか?」
「はい」
ガルドが奥で鼻を鳴らした。
「朝から妙に素直な店だな」
「お前もな」
「俺は違う」
「違わねぇよ」
小さな笑い。
だが、今日は長く続かなかった。
全員、分かっている。
今日は動く日だ。
クロウの警告。
――今度は、貼り紙だけじゃ足りない。
その言葉が、まだ耳に残っている。
だから今日は、店の中だけでは終わらせない。
東水路周辺の住人へ、直接伝える。
避難。
注意。
子供を近づけないこと。
夜間に異変を見たら知らせること。
もし水が逆流したら、高い場所へ逃げること。
大げさだと笑われるかもしれない。
騒ぎを広げるなと怒られるかもしれない。
黒羽に睨まれるかもしれない。
それでも。
言わなければならない。
「……確認するぞ」
ロイドが机を叩く。
その声で、全員の視線が集まった。
「俺は水路沿いの長屋側」
「はい」
セドが頷く。
「ディムさんは処理場側」
「任せろ」
ディムが低く返す。
「ガルドさんは工房街寄り」
「おう」
「ミラは店」
「うん」
「ニコたちは絶対水路に近づけるな」
「分かった」
ミラの返答は短かった。
だが、その声には強さがあった。
ロイドは少し息を吐く。
「……全員、無理するな」
「ロイドさんも」
セドが即座に返す。
「はいはい」
「返事が軽いです」
「最近厳しくない?」
「必要ですので」
ガルドが低く笑う。
「完全に店主が管理されてるな」
「うるせぇ」
けれど、その軽口のおかげで少しだけ肩の力が抜ける。
ロイドはそれを感じていた。
怖い。
不安だ。
でも、一人じゃない。
それだけで、足が止まらない。
朝の店は、いつもより早く開けた。
目的は販売だけではない。
東水路周辺へ行く前に、貼り紙を追加するためだ。
セドが新しい紙を壁へ貼る。
東水路周辺注意。
夜間、青い光や異常な水流を見た場合は近づかないこと。
子供だけで見に行かない。
異変を見たら近隣へ知らせる。
水路沿い低地の住民は、避難経路を確認。
紙を貼る間、通りの人々が足を止める。
「また増えたねぇ」
「今度は避難かい?」
「そんな大事なのか?」
「水路って、あの旧東工房の近くか?」
ざわめきが広がる。
ロイドは紙を押さえながら振り返った。
「大げさなくらいでいい」
通りへ向かって言う。
「何もなきゃ、それで終わりだ。でも、もし何かあった時に“知らなかった”が一番危ねぇ」
人々は黙って聞いていた。
中には顔をしかめる者もいる。
「また不安煽るのか?」
男が一人、眉を寄せて言った。
「この前の中傷紙騒ぎで、ただでさえ空気悪いんだぞ」
空気が少し張る。
ロイドはすぐに言い返さなかった。
数秒。
通りのざわめきだけが響く。
その沈黙を破ったのは、セドだった。
「不安にさせるためではありません」
静かな声。
「準備のためです」
「準備?」
「はい。危険が来ないことが一番です」
セドは男を見る。
「ですが、もし来た時、“知らない”“聞いていない”“逃げ方が分からない”では遅い」
男は口を閉じる。
セドは続けた。
「怖がらせたいわけではありません」
一拍。
「生き残ってほしいだけです」
その言葉は、静かだった。
けれど、通りへしっかり落ちた。
人々の顔が変わる。
怒りではなく。
考える顔。
男も、しばらく黙ったあと、小さく舌打ちした。
「……分かったよ」
乱暴に頭を掻く。
「避難経路くらい確認しとく」
「お願いします」
セドが頭を下げる。
そのやり取りを見ていた老婆が、ぽつりと言った。
「この店、最近ずっと頭下げてるねぇ」
ロイドが苦笑する。
「商売ってそんなもんだろ」
「違うよ」
老婆は壁の紙を見る。
「命の話してる顔だ」
ロイドは、一瞬言葉を失った。
通りも静かになる。
命の話。
そうだ。
今、自分たちは灯り石だけの話をしているわけじゃない。
東水路。
旧東工房区画。
逆流。
黒羽。
もし本当に何か起きれば、人が死ぬ。
だから動いている。
怖くても。
嫌でも。
ロイドは深く息を吸った。
「……そうだな」
小さく答える。
「だから、しつこく言う」
昼前。
ロイドとセドは、水路沿いの長屋へ向かっていた。
通りは徐々に湿った空気へ変わる。
東水路に近づくほど、水の匂いが強くなる。
古い石畳。
湿気。
壁の苔。
低い位置に建てられた長屋。
そして、ところどころに残る、古い工房跡。
今は使われていない。
だが、死んだわけでもない。
そんな空気だった。
「……嫌な感じだな」
ロイドが呟く。
「はい」
セドも頷く。
今日は水音が変だ。
流れている。
だが、奥で何かが引っかかっているような、不自然な重さがある。
水路沿いの住民たちは、ロイドたちを見るとざわついた。
「灯り石屋?」
「また貼り紙の人たちだ」
「本当に危ないのか?」
「子供を外に出すなって?」
セドは一軒ずつ説明した。
避難経路。
異変が起きた時の合図。
夜間の青い光。
水路へ近づかないこと。
住民の反応は様々だった。
真剣に聞く者。
半信半疑の者。
怖がる者。
怒る者。
「何でそんなこと分かるんだ」
男が睨む。
「また変な噂じゃないのか」
「噂ではありません」
セドは静かに答える。
「ですが、証明もできません」
「なら信用できるか!」
「だから準備だけでもしてください」
「……」
「間違っていれば、それで終わりです」
セドは一歩引かない。
「ですが、本当に起きた場合、“聞かなかった”では済みません」
男は舌打ちし、扉を閉めた。
ロイドは小さく息を吐く。
「きついな」
「当然です」
「……怒られてるのに、よく平然としてるな」
「平然ではありません」
セドは小さく言った。
「怖いです」
ロイドが少し目を見開く。
「怖い?」
「はい」
「でも言うのか」
「言わない方が怖いので」
ロイドはしばらく何も言えなかった。
湿った風が通る。
遠くで、水音がした。
ごぽ、と。
妙に重い音。
二人は同時に水路を見る。
水面が、わずかに揺れていた。
風ではない。
下から押されたような波。
「……今の」
「見ました」
ロイドの喉が鳴る。
嫌な予感が、現実味を帯び始めていた。
一方その頃。
工房街側では、ガルドが職人たちへ怒鳴っていた。
「聞け!」
工房街に声が響く。
「夜間、東水路へ近づくな!」
「何だ急に!」
「また貼り紙か!」
「うるせぇ!」
ガルドは一喝する。
「死にたくなきゃ聞け!」
空気が静まる。
元組合職人の怒声は、やはり迫力があった。
「青い光を見ても近づくな! 見習いを行かせるな! 端材を水路へ捨てるな! 何かあったら高い場所へ逃げろ!」
「そこまでかよ……」
「大げさじゃねぇのか」
ざわめき。
だが、工房街の職人たちは完全には笑わない。
彼らは知っている。
工房の事故がどういうものか。
魔力暴走が何を起こすか。
旧東工房区画で何があったか。
十年前を知る者ほど、顔が硬かった。
ハインツが前へ出る。
「ガルド」
「あ?」
「……お前、本気なんだな」
「当たり前だ」
ハインツは周囲を見る。
「聞いとけ」
低い声。
「こいつがここまで怒鳴る時は、本当に危ねぇ」
工房街が静まった。
見習いたちの顔も青い。
ガルドは深く息を吐く。
「いいか」
もう一度言う。
「死ぬな」
その言葉は、不器用だった。
でも、真っ直ぐだった。
同じ頃。
王城。
ルイスはフィリアと共に、古い工房記録庫を調べていた。
薄暗い部屋。
埃。
積み上がった紙。
古い水路図面。
旧東工房区画の設計記録。
フィリアが眉をひそめる。
「……これ、変」
「どこ?」
「ここ」
彼女は図面の一部を指差した。
「旧東工房区画の冷却路、本来なら閉鎖済みになってる」
「……」
「でも、更新記録が途中で消えてる」
ルイスの目が鋭くなる。
「消えてる?」
「うん。閉鎖申請はある。でも、完了印がない」
沈黙。
ノクスの影が、足元で揺れる。
ルイスは喉が冷えるのを感じた。
「……つまり」
「完全には止まってない可能性がある」
フィリアの声も硬かった。
ルイスは窓の外を見る。
王都の東。
旧東工房区画の方向。
「クロウの言ってた“水が戻る”……」
点が繋がる。
冷却路。
水路。
逆流。
黒羽。
旧東工房区画。
何かが、動き始めている。
しかも。
かなり近い。
夕方。
ロイドたちは一度店へ戻っていた。
全員、疲れた顔をしている。
説明。
説得。
怒鳴り合い。
不安。
恐怖。
一日中、人の感情を受け止め続けた。
ロイドは椅子へ座り込み、天井を見る。
「……疲れた」
「はい」
セドも珍しく即答した。
ミラが静かにお茶を置く。
「飲む」
「ありがとう……」
ロイドは湯気を見る。
店の中は、少し静かだった。
外ではまだ人の声がする。
貼り紙を見る者。
避難経路を確認する者。
東水路の話をする者。
王都の空気は、確実に変わり始めていた。
「……セド」
ロイドが小さく呼ぶ。
「はい」
「怖いな」
セドは少し黙った。
それから、静かに頷く。
「はい」
「でも」
ロイドは笑った。
「前より、一人じゃない感じがする」
ミラが隣に座る。
「うん」
ガルドも壁にもたれた。
「逃げる時は声かけろ」
「縁起悪いな!」
「死ぬよりマシだ」
ロイドは吹き出した。
疲れているのに。
怖いのに。
それでも、笑いが残っている。
それが今の店だった。
セドは、その光景を静かに見ていた。
そして、思う。
ここまで来た。
価値なしと呼ばれた第二王子から始まった、小さな流れ。
捨てられた魔石。
潰れかけの店。
中傷紙。
黒い鳥。
東水路。
工房端材。
職人灯り。
全部が繋がって、今ここにある。
まだ終わっていない。
むしろ、ここからだ。
だが。
確かに、この灯りはもう一人のものではなかった。
外で、水音がした。
ごぽり。
今度は、少し大きい。
全員が同時に顔を上げる。
沈黙。
店の外の空気が、妙に冷えていた。
セドが静かに立ち上がる。
「……来ます」
ロイドも立つ。
怖い。
全員、怖い。
でも、もう逃げるだけではない。
守るために動く。
その覚悟だけは、確かに店の中へ残っていた。




