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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第5話

翌日。


 噂は、思っていたよりも早く王城の中を歩いていた。


 朝食の席に向かう廊下で、すれ違った侍女が一瞬だけ僕を見た。


 すぐに頭を下げたけれど、その目には隠しきれない好奇心があった。


 昨日までとは違う。


 いや、昨日の午後からすでに変わり始めていた。


 スカーレット公爵家で体調を崩した第二王子。


 贈るはずだった花束を持ち帰った第二王子。


 剣術の稽古で騎士見習いに尻餅をつかされた第二王子。


 そして。


 いまだに契約精霊を持たない、光なき王子。


 たぶん、言葉は少しずつ形を変えている。


 誰かが面白がり、誰かが尾ひれをつけ、誰かが自分の都合のいいように並べ替える。


 そうして噂は、真実よりも早く広がる。


 僕はそれを、真正面から受け止めながら歩いた。


「ルイス様」


 半歩後ろを歩くセドが、小さく声をかけてくる。


「歩幅が乱れております」


「……分かってる」


「視線は正面へ」


「うん」


「口元に力が入りすぎです」


「そこまで見る?」


「見ます」


 いつも通りの敬語。


 いつも通りの距離。


 けれど、昨日までと違うのは、僕がその言葉の裏を少しだけ理解できるようになったことだ。


 セドは僕を整えている。


 ただ従者として世話をしているのではない。


 周囲に見せるための僕を、作っている。


 弱すぎず。


 強すぎず。


 気弱で、未熟で、けれど王子としての最低限の品は保つ。


 それが、今日の僕の仮面だ。


「おはようございます、ルイス殿下」


 廊下の角で、若い文官が頭を下げた。


「おはよう」


 僕は柔らかく返す。


 相手は一瞬だけ安堵したような顔をした。


 怯えではない。


 侮りでもない。


 ただ、扱いやすい相手を見る目。


 僕が怒鳴らないと分かっているから、安心している。


 その目を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 でも、同時に覚えた。


 誰が、どんな表情をするのか。


 僕の前で、誰が気を抜くのか。


 それはきっと、いつか役に立つ。


「……すごいな」


 思わず小さく呟いた。


「何がでしょうか」


「人の目って、こんなに分かりやすかったんだね」


「以前から分かりやすかったかと」


「僕が見ようとしてなかっただけ?」


「傷つくのを避けるために、見ないようにされていたのだと思います」


 セドの言葉は静かだった。


 否定できなかった。


 僕はずっと、優しい世界を見ようとしていた。


 兄上がいて、セドがいて、父上と母上がいて、フローラがいて。


 自分は少し未熟でも、いつか認められる。


 そう思っていたかった。


 けれど、本当は知っていたのかもしれない。


 自分へ向けられる目の中に、期待ではないものが混じっていることを。


 だから見ないようにしていた。


 優しさの形だけを拾って、自分を守っていた。


「見たら、きついね」


「はい」


「でも、知らないままよりはいい」


「その通りです」


 朝食の間へ入る。


 王族の食卓は広い。


 父上は朝から政務に出ていることが多く、全員が揃うことはあまりない。


 今日は、母上と兄上がいた。


 母上――王妃アレクシアは、僕を見るなり少しだけ眉を下げた。


「ルイス、体調はどう?」


「おはようございます、母上。もう大丈夫です」


「本当に? 昨日は顔色が悪かったと聞いているわ」


「少し疲れていただけです」


 嘘ではない。


 体ではなく、心が。


 母上は僕をじっと見た。


 正妃としての整った微笑みの奥に、母としての心配がある。


 胸が少し温かくなった。


「無理はしないこと。あなたは昔から我慢しすぎるところがあるのだから」


「はい」


「マルスも、そう思うでしょう?」


 母上に振られ、兄上が頷いた。


「ああ。昨日の訓練場でも、少し顔色が悪かった」


「兄上まで」


「事実だ」


 兄上は穏やかに言う。


「剣は焦らずでいい。お前は相手を見る目がある。基礎を積めば、伸びる」


 その言葉に、胸が詰まった。


 昨日も言われた。


 兄上は本当に、僕を馬鹿にしない。


 僕を兄上の劣化として見ない。


 それが嬉しくて。


 それが苦しい。


「ありがとうございます」


 僕は笑って席についた。


 食事が始まる。


 温かいスープ。


 焼きたてのパン。


 薄く切られた肉。


 いつもなら好きな味なのに、今日はあまり味がしない。


 それでも、きちんと食べる。


 体を壊したら、セドに怒られる。


「そういえば」


 母上がふと思い出したように言った。


「フローラ嬢には、後日お見舞いの手紙を送るように伝えておいたわ。昨日はあなたが急に帰ったから、きっと心配しているでしょう」


 手が止まりかけた。


 でも、止めなかった。


 スプーンを自然に置く。


「……そうですか」


「ええ。あなたからも一筆添える?」


 フローラに手紙。


 昨日聞いた言葉が、頭の中で蘇る。


 選べるなら選ばない。


 僕は息を吸った。


 感情を押し込める。


 今は朝食の席だ。


 母上も兄上もいる。


 ここで乱れるわけにはいかない。


「いえ。昨日は僕が迷惑をかけましたし、まずは少し休んでからにします」


「そう? なら無理はしないで」


「はい」


 母上はそれ以上踏み込まなかった。


 兄上は僕を見ていた。


 何かに気づいているような目。


 でも、何も言わない。


 兄上の優しさは、いつも静かだ。


 食事を終え、席を立つ時だった。


「ルイス」


 兄上が声をかけてきた。


「少し歩かないか」


 断る理由はなかった。


 けれど、胸がざわついた。


 兄上と二人きり。


 いや、セドはついてくる。


 それでも、兄上はきっと何かを聞く。


「はい」


 僕は頷いた。


 王城の中庭へ出る。


 朝の空気はまだ少し冷たい。


 整えられた植え込み。


 噴水の水音。


 白い石畳。


 ここは王族専用の庭で、人の目は少ない。


 セドは数歩後ろに下がる。


 近すぎず、遠すぎず。


 何かあればすぐ動ける位置。


 兄上は噴水の前で足を止めた。


「昨日、何があった」


 直球だった。


 思わず息が詰まる。


「体調を崩しただけです」


「それは表向きだろう」


「……」


「言いたくないなら、無理には聞かない」


 兄上は僕を見た。


「だが、お前が何かを抱えているのは分かる」


 兄上は敵じゃない。


 僕はそれを知っている。


 でも、言えない。


 フローラのことを言えば、兄上はきっと怒る。


 僕のために。


 それは嬉しい。


 けれど、今はまだ誰かに怒ってほしいわけじゃない。


 それに、ノクスのことはもっと言えない。


 光の王家に生まれた闇。


 兄上がどう受け止めるか、分からない。


 兄上なら拒絶しないかもしれない。


 でも、兄上の周囲がどう動くか分からない。


 この国の制度がどう反応するか分からない。


 だから、まだ言えない。


「兄上」


「なんだ」


「僕は……少し、自分で考えたいことができました」


 それだけ言った。


 嘘ではない。


「今まで、僕は色々なことを受け取るばかりでした。王子としての立場も、婚約も、周りの期待も」


 言葉にしながら、自分でも驚く。


 兄上の前だと、少しだけ本音が出る。


「だから、自分がどうしたいのかを考えたいんです」


 兄上は静かに聞いていた。


 馬鹿にしない。


 急かさない。


 ただ、僕の言葉を待ってくれる。


「それは、良いことだ」


 やがて兄上は言った。


「王になる者は、自分の意思を持たなければならない」


 王になる者。


 その言葉に、胸が揺れる。


「兄上は」


「ん?」


「兄上は、王になりたいと思ったことがありますか」


 聞いてから、少し怖くなった。


 兄上は第一王子だ。


 けれど側妃の子。


 僕は第二王子だが、正妃の子。


 王太子に近い立場にいるのは、僕だ。


 それでも、能力だけ見れば兄上の方が相応しい。


 誰もがそう思っている。


 たぶん、母上でさえ。


 兄上は少しだけ目を伏せた。


「ある」


 正直な答えだった。


「国を良くしたいと思ったことはある。自分なら何ができるかと考えたこともある」


 胸が締めつけられる。


「ですが」


 思わず敬語になった。


 兄上は苦笑する。


「責めているわけではない」


「……はい」


「王位は欲だけで求めるものではない。役目だ。背負う覚悟がある者が立つべき場所だ」


 兄上は空を見上げる。


「今の私は、まだ自分が王になるべきだとは思っていない」


「兄上ほどの人でも?」


「私ほど、などと言うな。私は私の欠点を知っている」


「欠点?」


 思わず聞き返した。


 兄上に欠点。


 そんなものがあるようには見えない。


「私は、正しさに寄りすぎる」


 兄上は静かに言った。


「間違ったものを見れば正したくなる。歪みを見れば整えたくなる。それは長所でもあるが、時に人を追い詰める」


「そんなこと」


「ある」


 兄上は僕を見る。


「ルイス。お前は人の痛みを見る。私はそこに、時々届かない」


 僕は何も言えなかった。


 兄上は完璧だと思っていた。


 でも、本人はそう思っていない。


「だから、お前はお前のまま考えろ」


 兄上は言った。


「マルスのようになろうとするな」


 胸の奥が、強く揺れた。


 まるで昨日の傷に、優しい手で触れられたみたいだった。


「……はい」


「ただし、困ったら頼れ」


 兄上は少しだけ笑った。


「兄だからな」


 その一言で、泣きそうになった。


 でも、泣かない。


 ここでは泣かない。


「ありがとうございます、兄上」


「ああ」


 その時。


 兄上の周囲に、淡い光が揺れた。


 人型の輪郭。


 白銀の髪。


 透き通るような肌。


 目を閉じた女性の姿。


 兄上の光精霊だ。


 名は、セレスティア。


 王族に伝わる光の精霊獣――いや、人型精霊。


 その姿は神々しく、ただそこにいるだけで空気が清められるようだった。


 けれど。


 その光が揺れた瞬間、僕の足元の影が微かに沈んだ。


 セレスティアが、ゆっくり目を開ける。


 そして、僕を見た。


 いや。


 僕の影を見た。


 ぞくりとした。


「セレスティア?」


 兄上が気づく。


 光の精霊は何も言わなかった。


 ただ一瞬だけ、表情を曇らせる。


 それは嫌悪ではない。


 警戒でもない。


 もっと別のもの。


 まるで、長く忘れていた名前を思い出しかけたような顔。


「どうした」


 兄上が問う。


 セレスティアは静かに首を振った。


 そして、光に溶けるように消える。


「珍しいな」


 兄上が呟く。


「セレスティアが自ら姿を見せるとは」


「……そうなんですか」


「ああ。基本的には戦闘や儀式以外で出ることは少ない」


 僕は足元を見る。


 影は何も言わない。


 でも、そこにいる。


 ノクスは、黙っている。


「ルイス?」


「いえ、少し驚いただけです」


「そうか」


 兄上は深く追及しなかった。


 けれど、僕は分かった。


 ノクスは完全に隠れているわけじゃない。


 少なくとも、強力な精霊には何かを感じ取られる。


 これは危険だ。


 同時に、情報でもある。


 後でセドと話さなければならない。


「兄上」


「ん?」


「今日はありがとうございました」


「礼を言うほどのことではない」


「でも、助かりました」


 兄上は少しだけ目を細めた。


「なら良かった」


 中庭を離れ、自室へ戻る途中、セドが静かに近づいてきた。


「先ほどの光精霊の反応」


「うん」


「見られましたね」


「やっぱり?」


「はい。少なくとも、何かを察知した可能性が高いです」


 セドの声は低い。


 周囲に人がいるため、敬語は崩さない。


「記録を調べる必要があります」


「どうやって?」


「王城図書館では限界があります。王族が閲覧できる範囲にも、闇に関する資料はほぼ存在しないでしょう」


「じゃあ」


「外です」


 外。


 僕は足を止めそうになった。


「外って、王都の?」


「はい」


「僕が簡単に出られると思う?」


「表向きには難しいです」


「だよね」


「ですので、まずは私が動きます」


「セドが?」


「はい」


 セドは淡々と言う。


「王都には古書商、魔道具商、精霊研究を扱う私塾、元神官などが点在しています。表では扱われない記録を持っている者もいるでしょう」


「そんな人たち、知ってるの?」


「数名は」


「いつの間に」


「必要になるかもしれないと思っておりましたので」


 相変わらず、準備が早い。


「ただし、資金が必要です」


「お金か」


「はい」


 セドは声を落とす。


「そして、継続的な資金源が必要になります」


 商会。


 昨日まで話していた裏の一歩。


 まだ漠然としていたそれが、急に現実味を帯びる。


「僕の私財では足りない?」


「初動には使えます。ですが、王族の支出は監視されています。大きな金額を動かせば、必ず誰かが気づきます」


「じゃあ、どうするの?」


「別の財布を作ります」


 セドの目が鋭くなる。


「王族ルイス様の財布ではなく、誰のものとも分からない財布を」


 背筋が少し冷えた。


 それは、ただの勉強や稽古とは違う。


 本当に裏へ足を踏み入れるということだ。


「商会を作るってこと?」


「いずれは」


「最初から?」


「いいえ。まずは既存の小商人を使います」


 セドはすぐに答えた。


「王都の外れに、赤字寸前の雑貨商があります。店主は誠実ですが商才が乏しく、借金もある。ですが、仕入れ先と近隣住民からの信頼はある」


「その人を助ける?」


「助ける形で、掌握します」


 言い方が怖い。


 でも、意味は分かる。


 ただ施すだけでは続かない。


 助けるなら、その先に仕組みを作る必要がある。


「どんな店?」


「生活雑貨、薬草、簡易魔道具などを扱っています」


「簡易魔道具?」


「火起こしの補助具、灯り石、浄水瓶などです」


 僕は少し考える。


 貴族にとっては珍しくないもの。


 でも平民にとっては高い。


 生活を少し便利にするもの。


 必要とされるもの。


「それを安く売れたら、需要はある?」


「あります。ただし仕入れと製造の問題があります」


「なら、そこを改善する」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 自然に言葉が出た。


「王都には使われていない魔石の欠片があるはずだよね。儀式や訓練で出るもの。大きな魔道具には使えないけど、小さな生活用なら加工できるかもしれない」


 セドが目を細める。


「続けてください」


「職人も、貴族向けの高級魔道具を作れない下級職人なら仕事に困っているかもしれない。安定した注文があれば、協力してくれる」


「はい」


「それを雑貨商に流す。高級品じゃなくて、庶民が日常で使える価格にする。火起こし、灯り、浄水、冬の簡易暖房……」


 言葉にしながら、頭の中で線が繋がる。


 王直轄地の税。


 資金。


 生活。


 必要とされるもの。


 王というものが、少しだけ違って見えた。


 玉座に座る人間だけが王じゃない。


 誰かの生活に必要なものを届ける仕組み。


 それも、人を支える力だ。


「面白いですね」


 セドが言った。


「できますか?」


「調べます」


「うん」


「ただし、表向きの発案者はルイス様ではありません」


「分かってる。僕は何も知らない王子」


「はい」


「じゃあ、誰が?」


「私が信用できる者を一人立てます」


「セドが前に出るのも危険じゃない?」


「その通りです。ですので、私の名前も出しません」


「本当に裏だね」


「裏です」


 怖い。


 でも、胸の奥が少しだけ熱い。


 初めて、何かを始めようとしている。


 ただ傷ついたから見返すのではなく。


 ただ馬鹿にされたから復讐するのではなく。


 必要とされるものを作る。


 それがいつか、僕自身の力になる。


「セド」


「はい」


「今日、その雑貨商のことを詳しく調べて」


「すでに人を向かわせます」


「早い」


「遅いくらいです」


「それと、魔石の欠片についても」


「王城内の廃棄記録を確認いたします」


「廃棄扱いなら、入手できる?」


「正規に買い取る形なら可能かと。ただし、誰が買うかは工夫します」


「うん」


 話しているうちに、自室へ着いた。


 扉が閉まる。


 ようやく周囲の目がなくなる。


 セドはすぐに室内を確認し、窓や隣室への扉まで見た。


「誰もおりません」


 その声は敬語のままだった。


 でも、僕は言った。


「セド」


「はい」


「普通に」


 セドは一瞬だけ僕を見る。


「……分かった」


 声が崩れる。


「で、どうする。お前、思ったより乗り気になってるぞ」


「自分でも驚いてる」


「いい傾向だ」


「でも怖い」


「それも正常だ」


 セドは机の上に紙を広げた。


「まず整理するぞ。目的は三つ」


「三つ?」


「一つ、ノクスに関する情報収集」


 その名が出た瞬間、足元の影が少しだけ濃くなった気がした。


「二つ、独立した資金源の確保」


「うん」


「三つ、将来的な人材確保」


「人材」


「商売には人が必要だ。裏にも人が必要になる。金だけじゃない。信頼できる目、耳、手足が必要だ」


 セドは紙に線を引く。


「雑貨商は、表の入口にちょうどいい。庶民の生活に近い。情報も入る。小さく始められる」


「失敗したら?」


「潰れるだけだ」


「軽いな」


「だからこそ最初に向いてる」


 セドの現実的な言い方に、少しだけ苦笑した。


「でも、店主は誠実なんだよね」


「ああ」


「なら、潰したくない」


「だろうな」


 セドは僕を見る。


「そこがお前の甘さで、強みだ」


「強み?」


「俺なら、利用価値があるかないかで判断する」


「うん」


「お前は、相手を生かす方法を考える」


「それは効率悪くない?」


「場合による。短期なら悪い。長期なら強い」


 セドは紙を指で叩いた。


「必要とされる王になるなら、こっちだ」


 必要とされる王。


 その言葉は、昨日よりも少しだけ重くなっていた。


「店主の名前は?」


「ロイド・ターナー。平民だ。妻と娘がいる」


「借金は?」


「銀貨百八十枚ほど。大金だが、返せない額ではない」


「借金相手は?」


「表向きは商業組合。裏に高利貸しがいる可能性がある」


「そこも調べる?」


「当然」


 セドの目が鋭くなる。


「高利貸しが腐っていれば、そこから裏の入口が見える」


「裏組織?」


「まだ早い。だが、王都の裏側を知るには、金に困った者の周辺を見るのが早い」


 怖いくらい、セドは現実を見ている。


 僕は王城の中で守られてきた。


 フローラの言葉に傷ついた。


 それは本当だ。


 でも、外にはもっと直接的な苦しさがある。


 金がない。


 仕事がない。


 借金で首が回らない。


 明日の食事に困る。


 そういう人たちがいる。


 もし、僕が王になるなら。


 その痛みを知らないままでいいはずがない。


「僕も、外を見たい」


 自然に言っていた。


 セドの動きが止まる。


「今は危険だ」


「分かってる。でも、いつか」


「……それなら、準備する」


「いいの?」


「止めても、お前はいずれ行くだろ」


「たぶん」


「なら、こっちで安全な道を作った方がいい」


 セドはため息をついた。


「本当に面倒な主だな」


「ごめん」


「褒めてる」


「それ、毎回分かりにくい」


 少しだけ笑った。


 空気が軽くなる。


 けれど、その瞬間。


 影が揺れた。


 部屋の隅。


 光が届きにくい場所。


 そこに、黒い輪郭が立っていた。


 今度ははっきり見えた。


 人型。


 女性。


 長い黒髪。


 夜を織ったような衣。


 顔はまだ薄く、細部は見えない。


 けれど、その存在感だけで、部屋の温度が一段下がったように感じた。


 セドが即座に僕の前へ出る。


「下がれ、ルイス」


「待って」


「待てるか」


 セドの声は低い。


 剣こそ抜いていないが、いつでも動ける姿勢だ。


 黒い女性は、僕たちを見ていた。


 いや、見ているように感じた。


 目の位置すら曖昧なのに。


 声がした。


 ――必要を知るのね。


 静かな声。


 昨日よりも、少しだけ近い。


「ノクス……?」


 僕が呼ぶと、影の女性はわずかに首を傾げた。


 ――名を呼ぶには、まだ弱い。


「弱い?」


 ――あなたはまだ、私を隠すだけで精一杯。


 セドが僕を見る。


「聞こえるのか」


「うん」


「俺には声は聞こえない」


 そうか。


 姿は見えても、声は僕にしか聞こえない。


 ノクスはゆっくりと手を伸ばした。


 けれど、僕に触れる前に止まる。


 ――光は気づく。獣も、いずれ気づく。


「獣?」


 ――四つの柱。東西南北を守るもの。


 四公爵の精霊獣。


 東西南北の四獣を基にした、王国を支える強力な精霊。


 それらも、ノクスに気づく。


 やっぱり危険だ。


「どうすればいい」


 僕は問う。


 ノクスは答えるまで、少し間を置いた。


 ――隠れること。選ぶこと。求められるまで、眠ること。


「求められるまで?」


 ――あなたが私を力として求めれば、あなたは闇に呑まれる。


 背筋が冷えた。


 ――あなたが私を道具として拒めば、私はあなたから離れる。


「じゃあ、どうすれば」


 ――共に在るだけでいい。


 その言葉を最後に、ノクスの輪郭が揺らいだ。


 黒が薄れ、影へ戻る。


 部屋の空気が元に戻った。


 セドはしばらく動かなかった。


 それから、深く息を吐く。


「……厄介だな」


「うん」


「だが、敵意はなかった」


「分かるの?」


「殺気がない。少なくとも今は」


 セドは僕を見る。


「何を言われた」


 僕はノクスの言葉をそのまま伝えた。


 光は気づく。


 獣もいずれ気づく。


 隠れること。


 選ぶこと。


 求められるまで眠ること。


 力として求めれば闇に呑まれる。


 道具として拒めば離れる。


 共に在るだけでいい。


 セドは黙って聞いていた。


 そして、眉間に皺を寄せる。


「つまり、使おうとするな、捨てようとするな、か」


「たぶん」


「面倒だな」


「セド、そればっかり」


「事実だ」


 でも、セドの表情には恐怖だけではない。


 考える顔だ。


 未知を前にして、怯えるより先に扱い方を考えている。


 本当に頼もしい。


「ノクスのことは、当面完全秘匿」


「うん」


「光精霊と四公爵の精霊獣には注意」


「うん」


「それと、お前自身の精神状態にも注意だ」


「僕?」


「力として求めれば呑まれると言ったんだろう」


「そうだけど」


「つまり、追い詰められた時が危ない」


 フローラの言葉。


 訓練場の嘲笑。


 精霊なしと馬鹿にされる未来。


 そういう時に、僕がノクスの力を求めたら。


 どうなるのだろう。


「セド」


「なんだ」


「僕が危なかったら、止めて」


「当然だ」


「それが、ノクス相手でも?」


「お前が相手でも止める」


 即答だった。


 胸が少しだけ温かくなる。


「ありがとう」


「礼はいらない。面倒が増えただけだ」


「やっぱりひどい」


「褒めてる」


「分かりにくい」


 笑う。


 でも、すぐに真剣な空気に戻る。


 やることは増えた。


 ノクスの秘匿。


 商会の種。


 雑貨商ロイド。


 魔石の欠片。


 古い記録。


 外の世界。


 どれも、昨日までの僕には関係のないものだった。


 でも今は違う。


 僕が選んだ道の先にある。


「まず、何から?」


 僕が聞くと、セドは紙に書き込んだ。


「今日の午後、私は外へ出ます」


「理由は?」


「ブルーム公爵家の用件という名目で十分です」


「僕は?」


「通常通り。座学と礼法です」


「笑われる?」


「たぶん」


「そっか」


 少しだけ息を吐く。


「じゃあ、僕は笑われてくる」


「言い方」


「でも、そういうことでしょ?」


「そうだな」


 セドは小さく笑った。


「笑われて、見てこい」


「何を?」


「誰が笑うか。誰が笑わないか。誰が近づくか。誰が離れるか」


 セドは言った。


「それが、お前の最初の情報網だ」


 情報網。


 そんな大層なものではないかもしれない。


 でも、確かにそうだ。


 僕自身が見る。


 僕自身が覚える。


 僕自身が選ぶ。


「分かった」


 僕は頷いた。


「見てくる」


 その日の午後。


 僕は礼法の講義に出た。


 案の定、昨日の噂はさらに広がっていた。


「ルイス殿下、ご無理はなさらないでくださいませ」


「昨日は大変だったとか」


「やはり、繊細なお方でいらっしゃるのですね」


 丁寧な言葉。


 柔らかい笑み。


 その奥にある好奇心と侮り。


 僕は笑って受け流した。


「ありがとう。もう平気だよ」


 相手は安心する。


 僕が怒らないから。


 僕が傷ついていることに気づいても、踏み込めると思っているから。


 僕は一人一人を見る。


 声。


 目。


 口元。


 指先。


 誰が僕を軽く見るのか。


 誰が同情するのか。


 誰が距離を取るのか。


 誰が、笑わないのか。


 その中に、一人だけいた。


 男爵家の娘。


 名はエリナ・フォード。


 年は僕と同じくらい。


 彼女は周囲が僕を探る中、一度だけ眉をひそめた。


 不快そうに。


 僕に対してではなく、周囲の空気に対して。


 そして目が合うと、慌てて頭を下げた。


 その表情に、侮りはなかった。


 覚えておく。


 エリナ・フォード。


 笑わなかった一人。


 講義中、僕はいつもより少し不器用に振る舞った。


 作法を間違えすぎない。


 でも、完璧にはしない。


 指摘されれば素直に頷く。


 周囲が安心する程度に未熟でいる。


 悔しい。


 けれど、昨日ほど苦しくはなかった。


 僕はただ笑われているのではない。


 見ている。


 記録している。


 選んでいる。


 夕方、自室へ戻ると、セドはまだ戻っていなかった。


 珍しい。


 僕は机に向かい、今日見た者たちの名前を書き出した。


 レイモンド・グレイ。


 優越感が強い。


 扱いやすいが、口が軽そう。


 ガレス。


 剣に自信あり。


 悪意は薄いが流されやすい。


 エリナ・フォード。


 周囲の侮りに不快感。


 要観察。


 書きながら、手が少し震えた。


 僕は何をしているのだろう。


 人を観察し、分類し、利用価値を考えている。


 それは少し怖い。


 でも、必要だ。


 誰かを傷つけるためではない。


 守るために、知る。


 そう自分に言い聞かせた時、扉が叩かれた。


「ルイス様、セドリック様がお戻りです」


「通して」


 扉が開き、セドが入ってくる。


 いつもの整った姿。


 けれど、靴に少しだけ土がついていた。


 外を歩いた証だ。


「おかえり」


 僕が言うと、セドは扉が閉まるのを確認してから息を吐いた。


「ただいま、ルイス」


 言葉が崩れている。


 つまり、人払い済み。


 話すべきことがある。


「どうだった?」


「当たりだ」


 セドは机に数枚の紙を置いた。


「ロイド・ターナーの店は、潰れる寸前だ。借金は銀貨百八十枚。だが、店主の信用は残ってる」


「助けられる?」


「助けるだけなら簡単だ。だが、それじゃ意味がない」


「仕組みにする」


「ああ」


 セドは紙を指差す。


「魔石の欠片も入手経路がありそうだ。王城の廃棄分ではなく、工房の端材が狙い目だな」


「職人は?」


「一人、面白い奴がいる」


「どんな人?」


「腕はあるが、貴族向けの装飾魔道具が嫌いで干されてる職人だ。名前はミラ・カートン。平民の女職人」


「女性?」


「ああ。気が強い。口も悪い。だが腕はいい」


「会ったの?」


「遠目に見ただけだ。店主に怒鳴っていた」


「それ、大丈夫?」


「たぶん使える」


 セドの“使える”は信用できる。


 少し怖いけれど。


「それと」


 セドの声が低くなる。


「ロイドの借金相手、裏に高利貸しがいる」


「やっぱり」


「ああ。名はダリオ。表では金貸し、裏では人を縛る」


「人を?」


「借金でな。払えなくなった者を、安い労働力として流しているらしい」


 胸が冷える。


 それは、ただの商売ではない。


 人を食い物にしている。


「許せない」


 思わず言うと、セドが僕を見る。


「そう言うと思った」


「どうするの?」


「今すぐ潰すのは無理だ」


「……分かってる」


「だが、証拠を集める。ロイドの店を救うついでに、ダリオの金の流れを見る」


 セドの目が鋭くなる。


「これが、裏組織の最初の獲物になるかもしれない」


 裏組織。


 その言葉が、重く響いた。


 本当に始まる。


 僕が必要とされる王になるための道が。


 王城の白い壁の外側で。


 誰にも知られない小さな商店から。


 借金に苦しむ店主と、干された職人と、腐った金貸しをきっかけに。


「セド」


「なんだ」


「僕は、ロイドの店を助けたい」


「ああ」


「ミラって職人にも、ちゃんと話を聞きたい」


「ああ」


「ダリオは……許せない」


「だろうな」


「でも、感情だけで動かない」


 僕は言った。


 自分に言い聞かせるように。


「証拠を集める。仕組みを作る。助けた人が、また同じ目に遭わないようにする」


 セドは少しだけ口元を上げた。


「いい顔になってきた」


「そう?」


「ああ」


 その時、足元の影がわずかに揺れた。


 ノクスは姿を見せない。


 声もない。


 でも、そこにいる。


 共に在る。


 それだけでいい。


 今は。


「始めよう、セド」


 僕は言った。


「僕たちの、最初の商いを」


 セドは片膝をついた。


 今度は従者としてではなく、共犯者として。


 それでも、深い忠誠を込めて。


「仰せのままに」


 その声は、敬語だった。


 けれど、僕には分かった。


 これは表の敬語ではない。


 僕たちの企みが、今ここで形を持った証だ。


 王城の外では、きっとまだ誰も知らない。


 笑われる第二王子が、初めて手を伸ばしたことを。


 精霊なしと馬鹿にされる王子が、闇を隠したまま、誰かの生活を変えようとしていることを。


 フローラも。


 レイモンドも。


 訓練場で笑った者たちも。


 まだ何も知らない。


 それでいい。


 気づいた時には、もう遅い。


 僕は昼行燈の仮面を被ったまま、静かに力を蓄える。


 最初の一歩は、小さな雑貨商。


 でも、いつかそこから広がるものがある。


 金。


 情報。


 人。


 信頼。


 そして、必要とされる理由。


 僕は机の上の紙に、震える手で一つの言葉を書いた。


 まだ名前にもならない。


 ただの願いに近い言葉。


 灯火。


 暗い場所に、小さな火を灯すもの。


 僕はその文字を見つめる。


 光ではない。


 眩しく照らす王の光ではない。


 闇の中で、誰かが迷わないように置く、小さな灯り。


「これがいい」


「商会の名か?」


「まだ仮だけど」


 セドは紙を見た。


 そして、静かに頷く。


「悪くない」


「本当?」


「ああ」


 セドは少しだけ笑った。


「お前らしい」


 その言葉に、胸が温かくなった。


 僕らしい。


 昨日までは、嫌だった。


 僕らしいという言葉は、弱いと言われているみたいで。


 頼りないと言われているみたいで。


 でも今は、少しだけ違う。


 僕らしさを、武器にする。


 誰かに選ばれない理由ではなく。


 誰かに必要とされる理由へ変える。


 窓の外では、夕陽が沈みかけていた。


 王城の影が長く伸びる。


 その影の中で、僕は静かに息を吸う。


 今日、僕はまた笑われた。


 でも、ただ笑われただけでは終わらなかった。


 名前を覚えた。


 目を見た。


 外へ手を伸ばした。


 そして、最初の商いの種を得た。


 まだ何も成し遂げていない。


 でも。


 始まった。


 確かに。


 僕の王への道は、玉座ではなく、王都の片隅にある潰れかけた雑貨商から始まる。


 誰も知らない。


 誰も気づかない。


 だからこそ、進める。


 僕は紙に書いた“灯火”の文字を、そっと指でなぞった。


 選ばれなかった僕が、選ぶために。


 必要とされる王になるために。


 まずは一つ。


 誰かに必要とされる場所を作る。


 それが、僕の最初の反撃だった。

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