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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第4話



 翌朝。


 目覚めた時、最初に感じたのは痛みだった。


 体の痛みではない。


 胸の奥に残った、鈍い痛み。


 昨日の出来事が、夢ではなかったと教えるように、静かにそこに居座っている。


 フローラの声。


 婚約破棄という言葉。


 選べるなら選ばない、という一言。


 何度も思い出したくないのに、何度も蘇る。


 目を閉じても。


 布団を被っても。


 逃げることはできなかった。


「……最悪だ」


 小さく呟く。


 王子らしくない言葉だ。


 でも、今だけは許してほしい。


 昨日、僕は決めた。


 昼行燈になると。


 笑われる王子になると。


 期待されないことで、裏に潜ると。


 けれど、決めたからといって、心がすぐに強くなるわけじゃない。


 傷はまだ新しい。


 触れれば痛む。


 思い出せば息が詰まる。


 それでも、今日も朝は来る。


 王子である僕の一日は、僕の都合を待ってくれない。


「ルイス様、起きていらっしゃいますか」


 扉の外から、セドの声がした。


 いつも通りの敬語。


 いつも通りの時間。


 僕は息を整えてから答える。


「起きてる」


「入室してもよろしいでしょうか」


「うん」


 扉が開く。


 セドが入ってきた。


 手には今日の予定表と、薄く湯気の立つ紅茶。


「お加減はいかがですか」


「悪くないよ」


「嘘ですね」


「早いな」


「顔色が昨日より悪いです」


 セドは遠慮なく言った。


 ただし口調は崩れない。


 従者として、正しく。


 僕の体調を確認している。


「眠れなかっただけだよ」


「どの程度ですか」


「少し」


「具体的に」


「……ほとんど」


「でしょうね」


 セドは紅茶を机に置き、窓のカーテンを少しだけ開けた。


 朝の光が部屋に入る。


 眩しくて、思わず目を細めた。


「本日は午前に座学、午後に剣術の稽古がございます」


「いつも通りだね」


「はい。ただし、医師からは無理を避けるよう言われております」


「昨日呼んだ医師、そんなこと言ってた?」


「私が言わせました」


「それは医師の診断なのかな」


「診断書にはそう記載されます」


 淡々とした声だった。


 思わず苦笑する。


「便利だね、君は」


「便利に使っていただくためにおりますので」


 セドは表情を変えずに返した。


 昨日、僕は彼に言った。


 迷ったら止めてほしい。


 間違えたら言ってほしい。


 そして、僕を使ってほしいのではなく、僕がセドを使うのだと。


 その言葉を、彼はもう現実に変え始めている。


「それで、無理を避けるって具体的には?」


「剣術の稽古で、ほどよく手を抜いてください」


「……手を抜く?」


「はい」


 セドは予定表を広げる。


「本日より、表向きの評価調整を始めます」


「いきなり?」


「早い方がよろしいかと」


「昨日の今日で?」


「昨日の今日だからです」


 セドの声に迷いはない。


「ルイス様が変わろうとしていることを、誰かに察知される前に、周囲の認識を固定します」


「認識を固定?」


「はい。ルイス様は、少し気弱で、身体も強くなく、才能も平凡。努力はするが結果がついてこない。そういう印象を作ります」


「それ、かなり悲しくない?」


「悲しいかどうかではなく、有効かどうかです」


「君、本当に遠慮ないね」


「本当のことを聞きたいとおっしゃったのはルイス様です」


「言ったけど」


 胸の奥が少しだけ軽くなる。


 セドとのこういう会話は、不思議と息がしやすい。


 彼は僕を甘やかさない。


 でも、突き放すこともしない。


 必要なことを、必要な温度で言ってくれる。


「ただし」


 セドは続けた。


「失敗の仕方にも品が必要です」


「品?」


「露骨に怠けると、ただの愚か者に見えます。努力しているのに届かない、という形が最も警戒されません」


「……嫌な言い方だね」


「効果的な言い方です」


「つまり、頑張っているけど空回りする王子を演じろってこと?」


「その通りです」


 僕は紅茶に手を伸ばした。


 温かい。


 一口飲むと、少しだけ胃が落ち着いた。


「難しそうだな」


「ルイス様なら可能です」


「褒めてる?」


「はい」


「本当に?」


「人の顔色を窺い、相手の望む反応を考えることに関しては、ルイス様は優秀です」


「それ、褒められてる気がしない」


「褒めております」


 セドは真顔だった。


 僕は小さく笑った。


 笑える。


 昨日より、少しだけ。


「分かった。やってみる」


「はい」


「でも、僕が本当に失敗した時は?」


「その時は修正します」


「修正って?」


「私が裏で整えます」


 怖いくらい当然のように言われた。


「……頼もしいね」


「お任せください」


 セドは軽く頭を下げた。


 その姿を見ながら、僕はふと思う。


 昨日の庭園で、フローラがセドの名前を出した時。


 僕は確かに傷ついた。


 でも今、セドが僕の前にいてくれることが、何より心強い。


 比べる相手ではなく。


 奪われる相手でもなく。


 僕を支える人間として、彼はここにいる。


 それを間違えてはいけない。


「セド」


「はい」


「今日、僕はどこまで失敗すればいい?」


「剣術では、型を一つ崩してください」


「一つ?」


「はい。大きな失敗ではなく、積み重ねる違和感です」


「座学は?」


「分かる問題を、少し迷ってから正解してください。分からないふりをする必要はありません」


「なぜ?」


「完全な無能を装うと、教育係が騒ぎます。ほどほどが重要です」


「なるほど」


「そして、誰かに挑発されても反論しないでください」


 その言葉に、指が止まった。


「挑発?」


「昨日、スカーレット公爵家を体調不良で途中退出したことは、早ければ本日中に一部へ伝わります」


「そんなに早く?」


「貴族の噂は、風より早いです」


 セドは淡々と言う。


「フローラ嬢が何も言わずとも、屋敷の使用人が違和感を覚えている可能性があります。花束を持ち帰ったことも、見る者が見れば何かを察するでしょう」


「……そっか」


 胸がまた痛む。


「ですので、今日は探りが入る可能性がございます」


「誰から?」


「王城に出入りする貴族子息、教育係、あるいは騎士見習い。特に、ルイス様を軽く見ている者ほど反応します」


「軽く見ている者、か」


 言葉にすると、胃が重くなる。


 これから僕は、そういう目を受け入れなければならない。


 わざと。


 自分から。


「怖いですか」


 セドが聞いた。


 僕は少し迷ってから頷いた。


「怖いよ」


 嘘はつかなかった。


「馬鹿にされるのは怖い。笑われるのも嫌だ。たぶん、昨日のことを思い出す」


「はい」


「でも、やる」


 紅茶のカップを置く。


 手は少し震えていた。


 でも、昨日ほどではない。


「僕が決めたから」


「承知いたしました」


 セドは深く頭を下げる。


「では、支度を」


「うん」


 立ち上がる。


 鏡の前に立つと、そこには少し青ざめた顔の少年が映っていた。


 第二王子。


 契約精霊なし。


 兄より劣る弟。


 婚約者に選ばれなかった少年。


 そして。


 今日から、昼行燈を演じる王子。


「……ひどい顔だ」


「利用できます」


「セド」


「失礼いたしました」


 失礼と言いながら、まったく悪びれていない。


 僕はまた少し笑った。


 笑えるなら、大丈夫だ。


 まだ立てる。


 着替えを終え、部屋を出る。


 廊下を歩くと、すぐに空気の違いに気づいた。


 いつもと同じ王城。


 けれど、すれ違う使用人たちの視線が少しだけ長い。


 頭を下げるまでの間。


 去っていく足音。


 小さな囁き。


 気にしすぎかもしれない。


 でも、たぶん違う。


 昨日のことは、もう少しだけ広がり始めている。


「ルイス様」


 セドが後ろから静かに言う。


「視線を拾いすぎです」


「分かってる」


「正面を」


「うん」


 顔を上げる。


 王子らしく。


 でも、少しだけ頼りなく。


 この加減が難しい。


 座学の部屋には、すでに数人の貴族子息がいた。


 王族や高位貴族の子弟は、時折王城で合同の講義を受ける。


 将来、政務や外交で関わる者同士の顔合わせも兼ねているからだ。


 その中に、見慣れた顔があった。


 レイモンド・エル・グレイ。


 伯爵家の長男。


 年は僕より一つ上。


 成績は悪くないが、やたらと家格に敏感で、相手を見て態度を変える。


 僕に対しては、丁寧だ。


 丁寧すぎるくらいに。


 けれど、その目の奥にあるものを、僕は知っている。


 第二王子なのに精霊契約がない。


 兄と比べるまでもない。


 そう思っている目だ。


「ルイス殿下」


 レイモンドが立ち上がる。


 周囲もそれに続いて頭を下げた。


「おはようございます。本日はご体調、いかがでしょうか」


 言葉は丁寧。


 でも、声に少しだけ含みがある。


「ありがとう。もう大丈夫だよ」


「それはようございました。昨日はスカーレット公爵家でのお茶会を途中で辞されたと伺いましたので、心配しておりました」


 早い。


 本当にもう伝わっている。


「少し、気分が優れなくて」


「そうでしたか。殿下は繊細でいらっしゃいますからね」


 繊細。


 その言葉に、周囲の数人が小さく目を動かした。


 笑ってはいない。


 でも、空気が揺れた。


 セドが一歩後ろで静かに控えている。


 何も言わない。


 今は僕の場だ。


「そうかもしれないね」


 僕は柔らかく笑った。


 怒らない。


 反論しない。


 受け流す。


「体調管理も、僕にはまだ課題みたいだ」


 そう言うと、レイモンドの目が一瞬だけ満足そうに細くなった。


 ああ。


 こういうことか。


 相手が僕に望んでいる反応が分かる。


 反撃されないこと。


 弱さを認めること。


 自分が優位に立っていると感じられること。


 なら、与えればいい。


 今は。


「殿下はご無理なさらない方がよろしいかと。政務や武術は、マルス殿下のようなお方にこそ向いておりますから」


 胸の奥が刺された。


 兄上の名前。


 まただ。


 でも、僕は笑う。


「兄上はすごいからね」


 嘘ではない。


 兄上は本当にすごい。


「僕も少しずつ学ばないと」


「ええ、少しずつがよろしいかと」


 レイモンドが微笑む。


 勝ったと思っている顔だ。


 僕はそれを覚えた。


 声の調子。


 表情。


 周囲の反応。


 誰が笑いを堪えたか。


 誰が目を逸らしたか。


 誰が不快そうに眉を寄せたか。


 全部、見る。


 傷つきながら。


 記憶する。


 これも力だ。


 やがて教育係が入室し、講義が始まった。


 今日の内容は王国財政の基礎。


 税収。


 領地管理。


 王直轄地と貴族領の違い。


 昔なら、ただ覚えるだけだった。


 けれど今日は違う。


 金の流れ。


 人の流れ。


 力の流れ。


 セドが言っていた。


 資金、情報、人材。


 王になるために必要なもの。


「では、ルイス殿下」


 教育係に名を呼ばれる。


「王直轄地の税が王家の権力維持において重要である理由をお答えください」


 分かる。


 答えはすぐに浮かんだ。


 王家が貴族に依存しすぎないため。


 軍備、公共事業、救済策に直接資金を投じられるため。


 そして、王が国の中心であることを実質的に示すため。


 でも、すぐには答えない。


 少し迷う。


 視線を下げる。


「ええと……王家が自由に使える資金が、必要だから……でしょうか」


 あえて、幼い答えにする。


 間違ってはいない。


 でも、深くはない。


 教育係は少しだけ頷いた。


「大筋では正しいですが、もう少し具体性が必要ですね」


「はい。申し訳ありません」


 周囲から、かすかな息が漏れる。


 失笑に近い。


 でも、露骨ではない。


 この程度なら、誰も問題にしない。


 ルイス殿下はまだ未熟。


 それで終わる。


 その後、レイモンドが補足するように答えた。


 僕が言えたはずの内容を、彼は少し誇らしげに語る。


 教育係が褒める。


 周囲が感心する。


 僕は感心したように頷いた。


「レイモンドはすごいね」


「いえ、殿下ほどのお立場でしたら、いずれ自然と身につかれるかと」


 いずれ。


 自然と。


 つまり今はない。


 そういう意味だ。


 痛い。


 でも、耐える。


 耐えるだけではなく、見る。


 レイモンドは褒められると姿勢が伸びる。


 自分より上の者には媚びる。


 自分より下と見た者には優越を隠しきれない。


 扱いやすい。


 そう思った瞬間、自分で少し驚いた。


 昨日までの僕なら、ただ傷ついて終わっていた。


 今は違う。


 傷つきながら、相手を見ている。


 セドの言葉が頭に浮かぶ。


 利用します。


 僕はまだ、その言葉に慣れない。


 でも、必要なのだろう。


 優しいだけでは守れない。


 守るためには、知る必要がある。


 昼前に講義が終わる。


 部屋を出た瞬間、セドが近づいてきた。


「お見事でした」


「どこが?」


「大きく外さず、深く見せず、相手に優越感を与える。初回としては十分です」


「褒め方が嫌だな」


「褒めております」


「うん、分かってきた」


 廊下を歩きながら、僕は小さく息を吐いた。


「思ったより、きついね」


「はい」


「分かってた?」


「はい」


「教えてくれてもよかったのに」


「知っていても、痛みは変わりません」


「それもそうか」


 胸の奥はまだざわついている。


 馬鹿にされるのは、やっぱり苦しい。


 笑われるのも嫌だ。


 でも。


 全部が無駄ではないと思えるだけで、昨日とは違った。


「午後は剣術だね」


「はい」


「そっちは、もっと分かりやすく笑われそうだ」


「でしょうね」


「否定してよ」


「必要ですか?」


「……いらない」


 セドのこういうところは、本当に容赦がない。


 でも、今はそれがいい。


 昼食を軽く済ませ、午後。


 訓練場へ向かう。


 王城の東側にある広い訓練場では、騎士たちや見習いが稽古をしていた。


 木剣が打ち合う音。


 掛け声。


 土を踏む足音。


 熱気。


 その中心に、兄上がいた。


 マルス兄上は、騎士団の若い隊士を相手に稽古をしていた。


 まだ十二歳なのに、動きに無駄がない。


 振るう剣は鋭く、それでいて相手を潰さない余裕がある。


 強い。


 立っているだけで安心する人。


 フローラの言葉がまた蘇る。


 胸が痛む。


 でも、今度は目を逸らさなかった。


 兄上の剣を見る。


 足運び。


 重心。


 間合い。


 相手の癖を読む目。


 すごい。


 悔しいほどに。


「ルイス」


 稽古を終えた兄上がこちらに気づいた。


「体調はもういいのか」


「はい。無理のない範囲で、と医師にも言われています」


「そうか。ならば無理はするな」


「ありがとうございます」


 兄上は僕の頭に手を置こうとして、途中で止めた。


 ここは訓練場。


 人目がある。


 弟扱いしすぎないように気を遣ってくれたのだろう。


 そういうところも、兄上らしい。


「今日は基礎型だったな」


「はい」


「焦る必要はない。型は地味だが、必ず後で効く」


「はい、兄上」


 兄上は優しく頷き、少し離れた。


 その視線に侮りはない。


 兄上だけは、僕を馬鹿にしない。


 それが救いで。


 同時に、少し苦しい。


 稽古が始まる。


 相手は騎士見習いの少年だった。


 僕より二つ上。


 名前はガレス。


 子爵家の次男で、剣の腕には自信があるらしい。


「よろしくお願いいたします、ルイス殿下」


「よろしく」


 木剣を構える。


 本来なら、僕はそこまで弱いわけではない。


 兄上やセドと比べれば劣る。


 けれど、基礎は積んできた。


 相手の打ち込みに反応することもできる。


 だからこそ、崩す。


 一つだけ。


 セドの指示通り。


 最初の数合は普通に受ける。


 木剣がぶつかる音が響く。


 腕に衝撃が走る。


 ガレスは力で押してくるタイプだ。


 動きは単純。


 けれど、勢いはある。


 受け流せる。


 足を半歩ずらせば、相手の体勢を崩せる。


 でも、しない。


「はっ!」


 ガレスの打ち込みがくる。


 僕は受ける。


 その瞬間、わざと足を浅く置いた。


 重心が浮く。


 木剣が弾かれる。


「あっ」


 情けない声が出た。


 そのまま尻餅をつく。


 訓練場の土が服についた。


 周囲の空気が揺れる。


 誰かが息を呑み。


 誰かが笑いを堪えた。


「も、申し訳ございません、殿下!」


 ガレスが慌てて木剣を下げる。


「大丈夫。僕の足運びが悪かった」


 僕は苦笑して立ち上がる。


 手のひらに土がついていた。


 痛い。


 尻も痛い。


 それより、周囲の視線が痛い。


 兄上がこちらを見ている。


 セドも見ている。


 兄上の目には心配があった。


 セドの目には評価があった。


 たぶん、合格という意味だ。


 嫌な合格だ。


「もう一度お願いします」


「は、はい」


 再開する。


 今度は大きく崩れない。


 けれど、先ほどの一度で十分だった。


 訓練場にいた者たちの中に、印象が残る。


 第二王子はまだまだだ。


 やはりマルス殿下とは違う。


 精霊契約もない上に、剣も平凡。


 その空気が作られていく。


 稽古が終わる頃、僕は汗だくになっていた。


 体力的な疲労より、心の疲労が大きい。


「ルイス」


 兄上が歩いてきた。


「足は痛めていないか」


「大丈夫です」


「先ほどの崩れ方は危なかった。焦ったのか?」


 兄上の目は真剣だった。


 見抜かれているわけではない。


 純粋に心配してくれている。


「はい。少し、力んでしまいました」


「そうか」


 兄上は頷いた。


「なら、次からは呼吸を意識しろ。相手に押されても、息を止めるな」


「ありがとうございます」


「お前は、相手を見る目は悪くない。急がず磨け」


 胸が詰まった。


 兄上は、僕を見てくれている。


 ちゃんと。


 馬鹿にせず。


 決めつけず。


「はい」


 僕は頭を下げた。


 兄上が去った後、セドが近づいてくる。


「上出来です」


「尻餅ついたけど」


「必要な尻餅でした」


「そんな言葉ある?」


「今できました」


 僕は思わず笑ってしまった。


 でも、その笑いはすぐに消える。


「兄上は、敵じゃないね」


「はい」


「分かってたけど」


「はい」


「ちゃんと、僕を見てくれてる」


「その通りです」


 セドは静かに言った。


「だからこそ、マルス殿下には嘘をつきすぎない方がよろしいかと」


「うん」


 兄上を騙すのは、苦しい。


 でも、すべてを話すわけにはいかない。


 少なくとも今は。


「兄上には、いつか話したい」


「それが最善となる時が来れば」


「うん」


 訓練場を出る時、背後から小さな声が聞こえた。


「やっぱり、マルス殿下とは違うな」


「精霊契約もまだなんだろう?」


「正妃様の子でなければ、どうなっていたか」


 足が止まりそうになる。


 でも、止めない。


 聞こえていないふりをする。


 昼行燈。


 笑われる王子。


 期待されない王子。


 今日から僕は、それになる。


 でも、忘れない。


 声も。


 顔も。


 言葉も。


 全部、覚えておく。


 部屋へ戻る頃には、体も心もぐったりしていた。


 扉が閉まる。


 その瞬間、僕は壁に背を預けた。


「……きつい」


「はい」


「想像より、ずっときつい」


「はい」


「でも」


 僕はゆっくり顔を上げる。


「できた」


「はい」


 セドは深く頭を下げた。


「本日の第一段階は成功です」


「成功、か」


 馬鹿にされて。


 笑われて。


 失敗して。


 それが成功。


 変な話だ。


 でも、これが僕の選んだ道だ。


 その時。


 足元の影が、ゆっくり揺れた。


 窓の外は明るい。


 部屋には火もない。


 それなのに、影だけが少し濃くなる。


 セドが視線を落とす。


 僕も見る。


 影の中に、何かがいた。


 輪郭はない。


 けれど、一瞬だけ。


 黒い髪の女の横顔のようなものが見えた。


 そして、声が響く。


 ――上手に隠れたわね。


 僕は息を呑む。


 セドの手が、腰の短剣へ伸びかけた。


「待って」


 僕は反射的に止めた。


 影はすぐに普通へ戻る。


 声も消える。


 部屋には、僕とセドだけが残された。


「ルイス様」


 セドの声は低かった。


「今のものは、何ですか」


 もう、誤魔化せない。


 セドは見た。


 聞こえたかは分からない。


 でも、見た。


 僕は深く息を吸った。


 怖い。


 言えば、何かが変わる。


 闇。


 王族にあるはずのない属性。


 光の王家に生まれた、異質な契約。


 それでも。


 セドには、隠しきれない。


「セド」


「はい」


「普通に……話してほしい」


 セドの目が揺れた。


「それは、命令でしょうか」


「違う」


 僕は小さく首を振る。


「お願いだ」


 沈黙。


 それから、セドが深く息を吐いた。


「……分かった」


 声が変わる。


 従者ではなくなる。


「ルイス。今のは何だ」


 僕は足元の影を見る。


 もう何もない。


 でも、確かにいる。


 ノクス。


 僕が名を与えた闇。


「たぶん」


 声が震えた。


「僕の、精霊だ」


 セドの表情が固まる。


「精霊?」


「うん」


「光じゃない」


「……うん」


「闇か」


 はっきりと言われて、胸が跳ねた。


「たぶん」


 セドは黙った。


 責めるでもなく、怯えるでもなく。


 ただ、考えている。


「いつからだ」


「昨日の朝。夢みたいな場所で、名を与えた」


「名前は」


「ノクス」


 セドはその名を繰り返さなかった。


 軽々しく口にしてはいけないと思ったのかもしれない。


「誰かに言ったか」


「言ってない」


「マルス殿下にも?」


「言ってない」


「陛下にも?」


「言ってない」


「よし」


 セドは短く言った。


「絶対に言うな」


 その声は鋭かった。


「やっぱり、まずい?」


「まずいどころじゃない」


 セドは僕の前に立つ。


「王族は光。それが常識だ。そこに闇なんてものが出たら、祝福じゃ済まない」


「異端?」


「そう言う奴は必ず出る」


 分かっていた。


 でも、セドの口から聞くと現実味が増す。


「じゃあ、僕は」


「隠せ」


 即答だった。


「今まで以上にだ。契約精霊なしで通す」


「でも、さっきみたいに出たら」


「制御する方法を探す」


「どうやって?」


「情報を集める。古い記録、禁書、精霊研究者。使えるものは全部使う」


 セドはもう動き始めていた。


 頭の中で、道筋を作っている。


「ルイス」


「うん」


「これは切り札だ」


「切り札」


「いや、それ以前だ。今は爆弾に近い」


「爆弾……」


「使えば強いかもしれない。だが、扱いを間違えればお前ごと吹き飛ぶ」


 怖い言い方だった。


 でも、正しい。


「だから、表では絶対に出すな」


「うん」


「誰に馬鹿にされても、精霊なしと言われても、黙っていろ」


「分かった」


「泣きたくなるくらい悔しくてもだ」


「……分かった」


 セドは僕を見る。


 その目に、兄のような厳しさがあった。


「お前は今日、昼行燈になる稽古を始めた」


「うん」


「なら、精霊なしを笑われることも、その仮面の一部にしろ」


 仮面。


 その言葉が胸に落ちる。


 精霊なし。


 無能。


 頼りない。


 非力。


 選ばれない。


 全部、仮面にする。


 傷つかないわけじゃない。


 でも、その傷ごと使う。


「できるか」


 セドが聞く。


 僕はすぐには答えられなかった。


 怖い。


 悔しい。


 でも。


 昨日より、少しだけ分かっている。


 選ぶということは、痛みのない道を探すことじゃない。


 痛みがあっても進む道を決めることだ。


「やる」


 僕は答えた。


「できるかは分からない。でも、やる」


 セドは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


「なら、支える」


「うん」


「ただし、無茶はするな」


「努力する」


「それは信用できない」


「ひどい」


「昨日からのお前を見ていれば当然だ」


 少しだけ笑えた。


 その時、影の奥から気配がした。


 声は聞こえない。


 けれど、見られている感覚がある。


 ノクス。


 闇の精霊。


 隠された属性。


 僕の中にある、誰にも知られてはいけない力。


 これが何なのか、まだ分からない。


 でも、一つだけ決めた。


 今は使わない。


 出さない。


 見せない。


 僕は精霊なしの王子でいい。


 笑われるなら、笑わせておけばいい。


 その間に、僕は積み上げる。


 情報を。


 人を。


 金を。


 信頼を。


 そして、いつか。


 必要な時にだけ、この闇を見る。


 僕は窓の外を見た。


 夕陽が王城の白い壁を赤く染めている。


 光の王家。


 その影に立つ、闇の王子。


 笑われるための稽古は、今日始まったばかりだ。


 痛みは消えない。


 でも、進める。


 僕は静かに息を吐いた。


「セド」


「なんだ」


「明日も、笑われるかな」


「間違いなくな」


「そこは励ましてよ」


「励ましてる」


「どこが?」


「笑われるだけなら、まだ勝ってる」


 僕は目を瞬かせた。


 セドは真顔で続ける。


「本当に負けるのは、笑われることに耐えられなくなって、自分の目的を捨てた時だ」


 その言葉に、胸が静かになる。


「……そっか」


「ああ」


「じゃあ、まだ負けてないね」


「当然だ」


 セドは、今度こそわずかに笑った。


「お前はまだ、始めたばかりだろ」


 その言葉に、僕も頷いた。


 そうだ。


 まだ始まったばかりだ。


 第二王子ルイス・エル・ゾディアック。


 光を持たないと笑われる王子。


 剣も学も兄に劣ると囁かれる王子。


 婚約者に選ばれなかった王子。


 けれど。


 闇を胸に隠し、昼行燈の仮面を被り、静かに力を積み上げていく王子。


 誰にも知られず。


 誰にも悟られず。


 いつか、必要とされる王になるために。


 僕は今日、初めて笑われた。


 そして。


 初めて、それを利用した。

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