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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第3話



 馬車の中は、ひどく静かだった。


 行きと同じ道を戻っているはずなのに、景色はまるで違って見えた。


 王都の街並み。


 行き交う人々。


 陽光を受けて白く輝く建物。


 すべてが、いつも通りだった。


 なのに。


 僕の胸の奥だけが、ぐしゃぐしゃに崩れていた。


「……ルイス様」


 セドの声がした。


 いつもの敬語。


 いつもの従者の声。


 公爵家を出てから、セドはすでにその態度へ戻っていた。


 それは正しい。


 ここは馬車の中とはいえ、王家の馬車だ。


 御者もいる。


 外に誰の耳があるか分からない。


 セドは、そういうところを絶対に間違えない。


「はい」


 僕は顔を上げる。


 ちゃんと返事をしたつもりだった。


 でも、声は少し掠れていた。


「この後、王城へ戻りましたら、まず医師を呼びます」


「医師?」


「体調不良という形でスカーレット公爵家を辞した以上、その体裁は整えるべきです」


「……そうだね」


「その後、本日の件について、陛下へご報告するかどうかを判断いたします」


 報告。


 その言葉を聞いた瞬間、胸がきゅっと縮んだ。


「父上に?」


「はい」


「……フローラが困る」


 思わず、そう言っていた。


 セドがわずかに目を細める。


「ルイス様」


「彼女は、僕に聞かせるつもりで言ったわけじゃない。だから、正式に問題にするのは……違うと思う」


「ですが」


「分かってる」


 僕は花束を見下ろした。


 少し潰れた白薔薇。


 渡せなかった花。


 それを握る指先に、力が入る。


「分かってるんだ。王族としては、ちゃんと報告するべきなんだって」


 婚約者が婚約破棄を望んでいる。


 それも王族との婚約だ。


 政治的にも家同士の関係にも関わる。


 僕一人の感情で済ませていい話じゃない。


 分かっている。


 分かっているのに。


「でも……今は、無理だ」


 情けない言葉だった。


 でも、それが本音だった。


「今、父上に言ったら、僕はきっと、何も考えられないまま頷く。誰かが決めたことに、ただ従うだけになる」


「……」


「それは、嫌だ」


 セドは黙って僕を見る。


 責める目ではない。


 ただ、見極めるような目だった。


「僕は、考えたい」


 ゆっくり言葉にする。


「フローラとの婚約をどうするか。僕自身がどうしたいのか。王子として、どう振る舞うべきなのか」


 そこまで言って、唇を噛んだ。


「……まだ、全然分からないけど」


「分からないまま即断されないのは、悪いことではございません」


 セドは静かに言った。


「ただし、先送りにしすぎるのも危険です」


「うん」


「では、本日のところは体調不良で押し通します。陛下への詳細報告は保留。スカーレット公爵家への追及もしない」


「それでお願い」


「かしこまりました」


 セドは頭を下げる。


 その仕草を見て、胸が少し痛んだ。


 さっき、彼は僕を名前で呼んだ。


 敬語を崩してくれた。


 兄のように、親友のように、真正面から言葉をくれた。


 でも今は、また従者だ。


 それでいい。


 いいはずなのに。


「セド」


「はい」


「さっきは、ありがとう」


「……何のことでございましょう」


「誤魔化さなくていいよ」


 少しだけ笑った。


 うまく笑えているかは分からなかった。


「僕が頼んだんだ。だから、あれは君が悪いわけじゃない」


「ルイス様」


「それに、助かった」


 馬車の車輪が石畳を踏む音がする。


 ごとん。


 ごとん。


 妙に大きく聞こえる。


「たぶん、あのままだったら、僕は本当に壊れてた」


 セドはすぐには答えなかった。


 けれど、その沈黙は冷たくなかった。


「ルイス様が望まれるなら、私はいつでも」


「うん」


 僕は頷く。


「でも、今は大丈夫」


 大丈夫。


 その言葉が、本当かどうかは分からない。


 でも、そう言わないと立っていられない時もある。


 セドはそれを分かっているのか、それ以上は何も言わなかった。


 王城が見えてくる。


 高い城壁。


 白い塔。


 陽光を浴びて輝く王家の紋章。


 光の王家。


 ゾディアック王家。


 王族は、代々光の精霊と契約する。


 それが正統の証だ。


 兄上はすでに光精霊を得ている。


 父上も当然、光精霊を持っている。


 祖父も、その前も。


 王族の歴史にはいつも光があった。


 だからこそ、僕はずっと思っていた。


 いつか、自分にも光が現れるのだと。


 王族として。


 第二王子として。


 皆が納得できる形で。


 でも、僕にはまだ何もない。


 今朝のあれが本当に契約だったとしても。


 あれは光ではなかった。


 闇だ。


 誰にも知られていない、王家の系譜に存在しないもの。


 そんなものを、どう扱えばいいのか分からない。


「……ノクス」


 小さく呟く。


「ルイス様?」


「なんでもない」


 影は返事をしない。


 ただ、足元の暗がりがほんの少しだけ濃く見えた。


 気のせいかもしれない。


 でも、もう完全に夢だとは思えなかった。


 馬車が王城の門をくぐる。


 兵士たちが整列し、頭を下げる。


 いつも通りの光景。


 いつも通りの王子としての帰城。


 僕は花束を持ち直した。


 白薔薇の花弁が、少し指に触れる。


 柔らかい。


 傷ついても、まだ花は花のままだった。


 僕はどうだろう。


 傷ついた僕は、まだ僕のままでいられるのだろうか。


 馬車が止まった。


 扉が開く。


 セドが先に降り、恭しく手を差し出す。


「ルイス様」


「ありがとう」


 僕はその手を取って馬車を降りた。


 その瞬間。


 王城の空気が、肌に触れた。


 整えられた、静かな空気。


 誰もが役割を持ち、誰もが立場に従う場所。


 ここでは泣けない。


 ここでは崩れられない。


 ここでは、第二王子ルイス・エル・ゾディアックでいなければならない。


「ルイス」


 不意に、声がした。


 顔を上げる。


 廊下の向こうから、兄上が歩いてきていた。


 マルス・エル・ゾディアック。


 この国の第一王子。


 僕の兄。


 十二歳にして、すでに完成された王子と評される人。


 背筋は真っ直ぐで、足取りは落ち着いている。


 視線は穏やかで、それでいて周囲を自然と従わせる力があった。


 立っているだけで安心する。


 フローラの言葉が、頭の中で蘇る。


 ――マルス殿下のようながっしりとして頼れる方の方が好みなの。


 胸が痛んだ。


 でも、兄上が悪いわけではない。


 兄上は、いつだって僕に優しかった。


「兄上」


 僕は頭を下げる。


「ただいま戻りました」


「今日はスカーレット公爵家で茶会だったな。早かったようだが」


「少し、体調が優れなくて」


「体調が?」


 兄上の表情が変わる。


 心配するように眉が寄った。


「大丈夫なのか」


「はい。少し休めば平気です」


「無理はするな。必要なら医師を呼べ」


「ありがとうございます」


 優しい。


 本当に、兄上は優しい。


 だから余計に苦しくなる。


 嫌な人なら、憎めたのに。


 見下してくる兄なら、怒れたのに。


 兄上は完璧で、優しくて、強くて。


 僕が憧れるには十分すぎる人だった。


「その花は?」


 兄上の視線が僕の手元に落ちる。


 白薔薇の花束。


 潰れた包み紙。


 僕は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……渡しそびれました」


「そうか」


 兄上はそれ以上、聞かなかった。


 ただ、少しだけ寂しそうに目を伏せた。


「次に渡せばいい」


 その言葉に、喉が詰まりかけた。


 次。


 次はあるのだろうか。


 僕は次も、何も知らない顔でフローラの前に座れるのだろうか。


「はい」


 それでも、僕は頷いた。


 王子として。


 弟として。


 崩れないように。


「ルイス」


「はい」


「お前は昔から、つらい時ほど平気そうな顔をする」


 息が止まりかけた。


 兄上は静かに僕を見る。


「今は、平気ではないのだろう?」


「……」


 何も言えなかった。


 セドなら気づくと思っていた。


 でも、兄上にも見抜かれていた。


「言いたくないなら、聞かない」


 兄上は優しく言った。


「ただ、覚えておけ。お前は一人ではない」


 その言葉は温かかった。


 でも同時に、痛かった。


 一人ではない。


 分かっている。


 兄上もいる。


 セドもいる。


 父上も母上も、きっと僕を見捨てたりはしない。


 それでも。


 選ばれなかった痛みは、僕の胸の中に残っている。


 誰かがいることと。


 自分が選ばれないことは。


 同じではない。


「ありがとうございます、兄上」


「休め」


「はい」


 僕はもう一度頭を下げ、兄上の横を通り過ぎた。


 すれ違う瞬間、兄上の光精霊の気配を感じた。


 柔らかな光。


 清らかで、整った魔力。


 王族の証。


 正統の輝き。


 それに触れた瞬間、足元の影がほんのわずかに沈んだ気がした。


 まるで、その光を避けるように。


 僕は思わず足元を見る。


 影は普通だった。


「ルイス様?」


「……行こう」


「はい」


 自室へ戻るまでの道のりは、やけに長かった。


 使用人たちは僕を見ると頭を下げる。


 近衛兵たちは姿勢を正す。


 誰も僕を笑わない。


 誰も僕を責めない。


 けれど、僕は知っている。


 王城の中で、僕は“期待されていない王子”だ。


 兄上がいる。


 完璧な第一王子が。


 王族には光精霊が必要だと言われる中、僕にはまだ契約の証がない。


 学問も武術も、兄上ほどではない。


 人望も、セドほど築けていない。


 だから皆は優しい。


 期待していないから、優しくできる。


 第二王子だから。


 正妃の子だから。


 王太子だから。


 僕に与えられたものはある。


 でも、僕自身が掴んだものは、まだ何もない。


 部屋に入る。


 扉が閉まる。


 ようやく、息が漏れた。


「……苦しい」


 思わず呟いた。


 セドが静かに控えている。


「医師を」


「違う」


 僕は首を振った。


「体じゃない」


「……左様でございますか」


 セドはすぐに理解したようだった。


 でも、敬語は崩さない。


 僕が求めていないから。


 僕がまだ立っているから。


 それが、彼の線引きなのだろう。


 僕は花束を机の上に置いた。


 白薔薇。


 少し傷ついた花。


 そのまま捨てる気にはなれなかった。


「セド」


「はい」


「僕は、弱いのかな」


「弱さの定義によります」


 即答だった。


 思わず、少しだけ笑ってしまった。


「君らしい答えだね」


「感情的な慰めがお望みでしたら、先にそうお申し付けください」


「いや、いい」


 僕は椅子に座る。


 体から力が抜けた。


「本当のことが聞きたい」


「では、申し上げます」


 セドは僕の正面に立った。


「ルイス様は、武術においてマルス殿下に及びません。社交においても、現時点では周囲を掌握するほどの力はございません。精霊契約に関しては、公式には未契約。王族として見れば、不安材料が多いのは事実です」


 胸が痛む。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 セドは嘘を言わない。


 必要なら厳しいことも言う。


 それが、僕にはありがたかった。


「ですが」


 セドは続ける。


「ルイス様には、観察力があります」


「観察力?」


「はい。人の顔色、声色、些細な癖。そういったものをよく見ておられる」


「それは……気にしすぎなだけじゃないかな」


「いいえ。気にしすぎで終わる者と、そこから考えられる者は違います」


 セドの声は静かだった。


「ルイス様は、相手が何を望み、何を恐れ、何に傷つくのかを考えます。それは王として必要な資質です」


「でも、それだけじゃ」


「はい。それだけでは足りません」


 はっきり言われた。


 でも、なぜか少しだけ胸が軽くなった。


「足りないなら、足せばよろしい」


「足す?」


「知識。人脈。資金。情報。実績。信頼」


 セドは一つずつ並べる。


「王族として与えられたものではなく、ルイス様自身が築いたものを」


 築く。


 その言葉が胸に残った。


 フローラは僕を選ばなかった。


 それは、僕に何もないからだ。


 なら。


 作ればいい。


 誰かに与えられるのを待つのではなく。


 兄上のようになれないと嘆くのではなく。


 セドのようになれないと俯くのではなく。


 僕自身の形で。


「でも、どうやって」


「表立って動けば、警戒されます」


 セドはすぐに答えた。


「特にルイス様は、形式上王太子に近い立場です。何か動けば、貴族たちは意味を探ります」


「うん」


「ならば、逆です」


「逆?」


「期待されないようにすればいい」


 僕は顔を上げた。


 セドの目は真剣だった。


「ルイス様は今、周囲から“まだ未熟な王子”として見られています。これを利用します」


「利用する……?」


「はい」


 セドは淡々と言う。


「勉学ではほどほど。武術でも目立たず。社交でも強く主張しない。周囲に、ルイス様は大きな脅威ではないと思わせる」


「馬鹿にされるよ」


「されるでしょう」


「笑われる」


「笑わせておけばよろしい」


「悔しくなる」


「その悔しさを、忘れなければよろしい」


 静かな声だった。


 けれど、その奥に熱がある。


「表では昼行燈。裏では、必要なものを積み上げる」


 昼行燈。


 ぼんやりと明かりだけを灯し、役に立たないもの。


 そう呼ばれる王子になる。


 わざと。


「それは、逃げじゃないかな」


「違います」


 セドは即答した。


「これは戦略です」


「戦略……」


「はい。ルイス様が本当に王になるための」


 王。


 その言葉に、胸が揺れた。


 僕は王になりたいのだろうか。


 今までは、そうなるものだと思っていた。


 正妃の子だから。


 父上がそう決めているから。


 周囲がそう扱うから。


 でも、今日。


 僕は初めて思った。


 与えられた王位に座るだけでは、きっと意味がない。


 誰にも必要とされないまま王になっても。


 それはただの椅子だ。


「僕は」


 言葉を探す。


「必要とされたい」


 口にした瞬間、自分でも驚くほどしっくりきた。


「王子だからじゃなくて。正妃の子だからじゃなくて。婚約者だからじゃなくて」


 胸の奥が熱くなる。


「僕自身が必要だって、そう思われたい」


 セドは黙って聞いている。


「ただ選ばれるのを待つんじゃなくて……僕が選んで、僕が築いて、その結果として必要とされる人間になりたい」


 それは、まだ幼い願いだった。


 大きすぎる理想だった。


 でも、嘘ではなかった。


「ならば」


 セドは片膝をついた。


 僕の前で。


 従者として。


 臣下として。


 そして、覚悟を持つ者として。


「私をお使いください」


「セド」


「ルイス様が表で昼行燈を演じるなら、私は裏で手足となります」


 セドの声が低くなる。


「情報を集めます。人材を探します。金の流れを読みます。腐った者を見つけます。必要なら、切り捨てます」


「切り捨てるって」


「言葉の通りです」


 その目に迷いはなかった。


 僕のためなら、本当に何でもする。


 それが分かった。


 怖いと思った。


 同時に、心強いとも思った。


「セド」


「はい」


「僕は、悪い王にはなりたくない」


「承知しております」


「誰かを傷つけて平気な人間にもなりたくない」


「はい」


「でも、優しいだけで何も守れないのも嫌だ」


 フローラの言葉が蘇る。


 優しいだけ。


 守ってくれる感じではない。


 その言葉を、僕は一生忘れないだろう。


「だから」


 僕はセドを見る。


「僕が迷ったら、止めてほしい」


「……」


「僕が間違えたら、言ってほしい」


「それは」


「命令じゃない」


 セドの目が揺れる。


「お願いだ」


 沈黙。


 そして、セドは小さく息を吐いた。


 その表情が、ほんの少しだけ崩れる。


「……本当に、面倒な主ですね」


 敬語ではある。


 でも、少しだけ柔らかい。


 少しだけ、昔のセドに近い。


「うん。自分でもそう思う」


「ですが」


 セドはまっすぐ僕を見た。


「その願い、確かに承りました」


 僕は頷いた。


 その時。


 窓辺の燭台の火が、ふっと揺れた。


 風はない。


 カーテンも動いていない。


 けれど、炎だけが小さく震えた。


 セドが一瞬そちらを見る。


「今のは」


「……分からない」


 僕は足元を見る。


 影がある。


 いつも通りの影。


 だけど、その奥に誰かがいるような感覚がした。


「ノクス」


 小さく呼ぶ。


 返事はない。


 でも。


 声が聞こえた気がした。


 ――選んだのね。


 女の声。


 静かで、淡い声。


 けれど、頭の奥に直接響くような声だった。


 僕は息を呑む。


「ルイス様?」


「今……」


 聞こえた。


 そう言いかけて、止めた。


 まだ言えない。


 闇。


 王族に存在しないはずの属性。


 もしこれを知られたら、どうなる。


 光を継ぐ王家に、闇の精霊と契約した王子がいる。


 それは、きっと祝福では済まない。


 異端。


 不吉。


 王家の汚点。


 そう呼ばれるかもしれない。


 今はまだ、出せない。


 これは切り札ですらない。


 僕自身も理解できていない、得体の知れないものだ。


「なんでもない」


「……左様でございますか」


 セドはそれ以上聞かなかった。


 けれど、気づいている。


 僕が何かを隠したことには。


「セド」


「はい」


「今から決める」


 僕は立ち上がった。


 胸はまだ痛い。


 でも、さっきよりも足に力が入る。


「僕は、表では何もしない王子になる」


 言葉にすると、覚悟が形を持つ。


「笑われてもいい。馬鹿にされてもいい。精霊なしだって言われてもいい」


 セドが静かに頭を垂れる。


「その代わり、裏で全部積み上げる」


 情報。


 人材。


 資金。


 信頼。


 必要とされる理由。


「いつか、僕が王になる時」


 僕は白薔薇を見る。


 潰れても、まだ美しい花。


「血筋ではなく、誰かの都合でもなく」


 胸の奥の影が、静かに広がる。


「この人が必要だと、そう思われる王になる」


 言い終えた瞬間。


 部屋の空気が少し変わった気がした。


 暗くなったわけではない。


 冷たくなったわけでもない。


 ただ、影が僕の足元で静かに沈んだ。


 まるで、膝をつくように。


 セドはそれを見ていた。


 見ていたはずだ。


 でも、何も言わなかった。


「では、まず最初にすべきことがございます」


「何?」


「本日は休んでください」


「え?」


「泣くにしろ、悔しがるにしろ、考えるにしろ、体力が必要です」


「……そこ?」


「そこです」


 真面目な顔で言われて、僕は少しだけ笑った。


 今日初めて、ちゃんと笑えた気がした。


「分かった。休む」


「医師も呼びます」


「それは必要?」


「体裁です」


「……分かった」


 セドは立ち上がり、扉へ向かう。


 その背中に、僕は声をかけた。


「セド」


「はい」


「これから、大変になるね」


 セドは振り返った。


 そして、ほんのわずかに口元を上げる。


「望むところでございます」


 その笑みを見て、僕は思った。


 きっと、僕一人では無理だ。


 でも、一人ではない。


 兄上は敵じゃない。


 セドは隣にいる。


 ノクスという得体の知れない影も、僕の中にいる。


 そして、僕自身も。


 今日、少しだけ変わった。


 選ばれなかった痛みは消えない。


 フローラの言葉も消えない。


 でも、それをただの傷で終わらせない。


 僕は、昼行燈になる。


 笑われる王子になる。


 期待されない王子になる。


 その陰で。


 誰よりも静かに、力を蓄える。


 いつか。


 誰もが気づいた時には、もう遅い。


 僕を選ばなかった者たちが、僕を必要とするその日まで。


 僕は、笑って何も知らないふりをする。


 それが。


 第二王子ルイス・エル・ゾディアックの、最初の選択だった。

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