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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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2/19

第2話

馬車の揺れは、いつもより少しだけ大きく感じた。


舗装された王都の道を進んでいるだけだ。


特別、荒れているわけではない。


けれど、車輪が石畳を踏むたびに、胸の奥に残った小さな違和感まで揺らされている気がした。


 


「ルイス様」


 


向かいの席に座るセドが、静かに口を開く。


 


「ご気分が優れないのでしたら、到着後に少し休憩を挟むよう手配いたします」


 


「大丈夫だよ」


 


僕は笑う。


 


いつも通りに。


 


「少し寝起きが悪かっただけだから」


 


「左様でございますか」


 


セドはそれ以上、踏み込んでこない。


ただ、視線だけは僕から外さなかった。


 


昔からそうだ。


セドは僕の顔色を見るのが上手い。


僕が平気なふりをしても、だいたい見抜く。


だけど、無理に聞き出そうとはしない。


僕が言葉にできるまで、待ってくれる。


 


その距離感が、心地よかった。


 


「今日の花は?」


 


「ご指示通り、白薔薇を中心にご用意しております」


 


セドが視線を落とす。


馬車の座席横には、丁寧に包まれた花束が置かれていた。


白薔薇。


薄桃色の小花。


淡い青のリボン。


派手すぎず、けれど寂しくもない。


 


フローラは華やかなものが好きだ。


でも、あまり強すぎる色は好まない。


以前、鮮やかな赤い花を贈った時、彼女は笑顔で受け取ってくれたけれど、少しだけ困ったように目を伏せていた。


だから、それからは控えめで柔らかい色を選ぶようにしている。


 


今日の花なら、きっと喜んでくれる。


 


「綺麗だね」


 


「はい。スカーレット公爵令嬢にもお喜びいただけるかと」


 


「そうだといいな」


 


指先でリボンに触れる。


 


フローラ・エル・スカーレット。


五歳の頃からの婚約者。


月に一度のお茶会は、僕にとって大切な時間だった。


王子としてではなく、ただ一人の婚約者として彼女と向き合える数少ない時間。


 


最初は緊張ばかりだった。


何を話せばいいか分からなくて、何度も言葉に詰まった。


彼女はそんな僕を笑わなかった。


「ゆっくりでいいわ」と言って、紅茶を飲みながら待ってくれた。


 


その優しさが嬉しかった。


 


だから僕は、彼女に相応しい人間になりたいと思った。


 


王子として。


婚約者として。


 


……彼女の隣に立つ者として。


 


「ルイス様」


 


「ん?」


 


「お顔が緩んでおります」


 


「えっ」


 


慌てて頬に触れる。


セドは淡々と続けた。


 


「お茶会を楽しみにされているのは分かりますが、到着前からそれでは公爵家の使用人にまで伝わります」


 


「そんなに?」


 


「はい」


 


「……気をつける」


 


そう答えると、セドは小さく頷いた。


 


「ですが、悪いことではございません」


 


「え?」


 


「婚約者に会うことを楽しみにされるのは、自然なことでございます」


 


まっすぐな声だった。


からかいでもない。


慰めでもない。


 


ただ、本当にそう思っているような声。


 


「……ありがとう」


 


「礼を言われるようなことではございません」


 


セドは窓の外へ視線を向ける。


 


馬車は王都の中心街を抜け、貴族街へ入っていく。


建物の高さが揃い、通りの幅が広くなり、歩く人々の服装も変わっていく。


王城ほどではないが、貴族街には独特の静けさがある。


整えられすぎた静けさ。


乱れを許さない空気。


 


スカーレット公爵家のタウンハウスは、その中でもひときわ目立つ屋敷だった。


白い外壁。


赤みを帯びた屋根。


門を飾る薔薇の紋章。


 


馬車が門前で止まる。


 


「到着いたしました」


 


セドが先に降り、扉を開ける。


 


僕は花束を手に取って馬車を降りた。


 


「ようこそお越しくださいました、ルイス殿下」


 


出迎えの執事が深く頭を下げる。


 


「本日は招いてくれてありがとう。フローラは?」


 


「庭園にてお待ちでございます」


 


「分かった」


 


答えながら、僕は少しだけ足を速めた。


 


予定より遅れている。


本来なら、すでにお茶会が始まっていてもおかしくない時間だ。


出発前に父上から急な確認を求められたせいで、時間が押してしまった。


フローラを待たせている。


 


早く行かないと。


 


「ルイス様、廊下ではお足元にご注意ください」


 


後ろからセドが声をかける。


 


「分かってる」


 


そう答えたつもりだったけれど、きっと声は少し弾んでいた。


 


庭園へ続く廊下を進む。


大きな窓から陽光が入り、床に淡い金色の線を作っていた。


その先に、庭園の入口が見える。


 


あと少し。


 


もう少しで、フローラに会える。


 


そう思った時だった。


 


風が吹いた。


 


庭園から流れ込んできた風が、僕の髪を揺らす。


花の香りがした。


薔薇と、土と、紅茶の香り。


 


そして。


 


声が、聞こえた。


 


「あ~あ、なんとか婚約破棄できないかしら?」


 


足が止まった。


 


まるで、誰かに足首を掴まれたみたいに。


 


「お嬢様、お声が大きいですよ」


 


侍女の声。


少し焦ったような、たしなめる声。


 


聞き間違い。


 


そう思いたかった。


 


でも、無理だった。


 


あの声を、僕が間違えるはずがない。


 


フローラの声だ。


 


「だって、退屈なんだもの」


 


楽しそうですらある声。


少し拗ねたような響き。


いつものお茶会で見せる、柔らかい笑みを思わせる声。


 


なのに。


 


言葉だけが、僕の胸を冷たく刺した。


 


「婚約破棄、でございますか。ですが、お相手はこの国の第二王子ルイス殿下でございますよ。どこにご不満がおありなのですか?」


 


「不満っていうほどじゃないのよ」


 


フローラは、軽く笑った。


 


「ルイスのこと、嫌いじゃないもの」


 


嫌いじゃない。


 


その言葉に、ほんの少しだけ息が戻った。


 


「優しいし、話もちゃんと聞いてくれるし、顔だって悪くないわ。むしろ整っている方だと思う」


 


なら。


 


なら、どうして。


 


「けれど?」


 


侍女が問う。


 


少し間が空いた。


 


僕は動けない。


 


手の中の花束が、急に重くなる。


 


「正直、タイプじゃないのよね」


 


胸の奥で、何かが音を立てた。


 


「……タイプ、でございますか?」


 


「ええ。なんというか、非力そうで頼りなさそうなの。ルイスは優しいけれど、優しいだけというか……守ってくれる人、という感じではないのよ」


 


呼吸が浅くなる。


 


非力。


頼りない。


優しいだけ。


 


一つ一つの言葉が、丁寧に僕の中へ沈んでいく。


 


「私はね、マルス殿下のようながっしりとして頼れる方の方が好みなの。あの方は本当に素敵だわ。立っているだけで周囲が安心するもの」


 


マルス兄上。


 


僕の兄。


三つ年上の第一王子。


誰からも信頼される、完璧な人。


 


「それに、セド様も素敵よね」


 


隣で、セドの気配が強張った。


 


「ブルーム公爵家の四男とはいえ、あの年であれほど優秀なんて信じられないわ。背も高くなりそうだし、姿勢も綺麗で、落ち着いているし。正直、ルイスよりもよほど頼りがいがあるわ」


 


手から力が抜けた。


 


花束が落ちる。


 


床に触れた瞬間、包み紙が小さく鳴った。


 


乾いた音だった。


 


その音を聞いて、ようやく自分が震えていることに気づいた。


 


セドが何かを言おうとする。


けれど、言葉になっていない。


 


無理もない。


 


セドは悪くない。


マルス兄上も悪くない。


フローラだって、たぶん悪くない。


 


ただ。


 


彼女の好みが、僕ではなかっただけ。


 


それだけ。


 


それだけなのに。


 


どうして、こんなに苦しいんだろう。


 


「でも、お嬢様。ルイス殿下はとてもお優しい方で……」


 


「分かっているわ。だから困るのよ」


 


フローラの声が、少しだけ弱くなる。


 


「嫌いなら、まだ楽だったのに」


 


胸の奥に刺さった言葉が、さらに深く沈んだ。


 


「ルイスは悪くないわ。むしろ、いい人よ。けれどね、結婚して、一生隣に立つ相手でしょう? 私は……私を引っ張ってくれる人がいいの。守ってくれる人がいいの。見ているだけで安心できる人がいいの」


 


「ルイス殿下では、いけませんか」


 


「……いけない、というわけではないのよ」


 


少しだけ沈黙。


 


そして、フローラは小さく言った。


 


「でも、選べるなら選ばないわ」


 


世界から、音が消えた。


 


庭園の風も。


鳥の声も。


遠くで鳴る噴水の水音も。


 


全部、消えた。


 


選べるなら、選ばない。


 


それが答えだった。


 


フローラは僕を嫌っていない。


否定しているわけでもない。


傷つけようとしたわけでもない。


 


ただ。


 


僕は、選ばれない。


 


その事実だけが、まっすぐ胸を貫いた。


 


「あら? 今、何か音が……」


 


庭園の奥で、侍女が気づいたように声を上げる。


 


僕は反射的に後ずさった。


 


「ルイス様」


 


セドが低く呼ぶ。


 


いつもの敬語。


いつもの声。


 


でも、今はその声すら遠かった。


 


花束が床に落ちている。


フローラに渡すために選んだ花。


喜んでくれると思っていた花。


 


拾わなきゃ。


 


そう思うのに、体が動かなかった。


 


「ルイス様、お待ちください」


 


待てない。


 


ここにいたら、見つかる。


 


見つかったら、フローラはきっと困る。


侍女も慌てる。


セドも何かを言わなくてはいけなくなる。


 


そして僕は。


 


笑わなくてはいけなくなる。


 


「……戻る」


 


声が、自分のものではないみたいだった。


 


「ルイス様」


 


「戻る」


 


もう一度言って、背を向けた。


 


歩き出す。


 


来た時と同じ廊下。


同じ陽光。


同じ景色。


 


なのに、全部違って見えた。


 


さっきまで金色に見えていた光は、今はただ眩しいだけだった。


 


「ルイス様、落ち着いてください」


 


セドがついてくる。


 


当たり前だ。


彼は従者だから。


僕を一人にはしない。


 


それが今は、少し苦しかった。


 


「聞かなかったことにしてください」


 


セドの声が、後ろから届く。


 


「先ほどの発言は、お嬢様の一時的な感情かもしれません。正式な場での言葉ではございません」


 


分かってる。


 


「ルイス様」


 


分かってるんだ。


 


「まずは一度、別室で――」


 


「やめて」


 


足が止まった。


 


声が、思ったより弱かった。


 


セドも足を止める。


 


「……申し訳ございません」


 


その言葉が、なぜか痛かった。


 


謝らないでほしい。


セドは何も悪くない。


 


でも。


 


敬語で言われるたびに、思い出してしまう。


 


僕は王子だ。


彼は従者だ。


フローラは公爵令嬢だ。


マルス兄上は第一王子だ。


 


役割。


立場。


家格。


才能。


精霊。


期待。


 


全部、全部、僕の周りにある。


 


なのに。


 


僕自身は、どこにもいない。


 


「セド」


 


「はい」


 


振り返れないまま、僕は言った。


 


「……その言い方、やめてくれないか」


 


背後の気配が止まる。


 


「ルイス様?」


 


「様も、敬語も、今は……きつい」


 


言った瞬間、喉が詰まった。


 


情けない。


王子なのに。


婚約者の何気ない言葉で、こんなにぐらついている。


 


「命令ではございませんか」


 


セドの声は静かだった。


 


けれど、その奥にわずかな揺れがあった。


 


僕は小さく首を横に振る。


 


「違う」


 


息を吸う。


 


うまく入らない。


 


「お願いだ」


 


沈黙。


 


長いようで、短い沈黙。


 


それから。


 


セドが、深く息を吐いた。


 


「……分かった」


 


その声は、いつもの従者の声ではなかった。


 


「ルイス」


 


名前だけで呼ばれた瞬間。


胸の奥に押し込めていたものが、崩れそうになった。


 


「こっち向け」


 


「……嫌だ」


 


「いいから」


 


「無理だ」


 


「無理でも向け」


 


強い声だった。


 


けれど、冷たくはない。


 


兄みたいな。


家族みたいな。


 


昔、転んで膝を擦りむいた時。


泣きそうな僕に「見せろ」と言った時と同じ声。


 


僕はゆっくり振り返った。


 


セドは、ひどい顔をしていた。


 


怒っている。


 


けれど、その怒りは僕に向けられたものではない。


 


「……なんで、お前がそんな顔してんだよ」


 


「……」


 


「花まで落として、顔真っ青にして、声まで震わせて」


 


「震えてない」


 


「震えてる」


 


「震えてない」


 


「震えてるって言ってんだろ」


 


いつものセドなら、絶対にこんな言い方はしない。


 


僕の目が熱くなる。


 


「……聞いたんだ」


 


「聞いたな」


 


「フローラは、僕のこと嫌いじゃないって」


 


「ああ」


 


「でも、選ばないって」


 


「……ああ」


 


「マルス兄上みたいな人がいいって」


 


「……」


 


「セドみたいな人がいいって」


 


セドの表情が歪んだ。


 


「それは違う」


 


「違わないよ。聞いただろ」


 


「違う。俺が言ってるのは、そこじゃない」


 


セドは一歩近づいた。


 


「お前は今、あいつの言葉を使って自分を削ってる」


 


「……」


 


「非力だとか、頼りないとか、選ばれないとか。あいつが勝手に言った言葉を、お前自身の価値みたいに飲み込んでる」


 


「だって、事実だ」


 


声がこぼれた。


 


止められなかった。


 


「僕は兄上みたいに強くない。セドみたいに優秀でもない。王族なのに、まだ契約精霊だっていない」


 


七歳を過ぎれば、多くの王族や高位貴族は精霊契約の兆しを得る。


王族なら光。


四公爵なら、それぞれ受け継ぐ属性の精霊。


精霊は家格と役割を示す証だ。


 


マルス兄上は、すでに光の精霊と契約している。


式典で顕現した人型の光精霊は、誰もが息を呑むほど美しかった。


 


僕には、何もない。


 


あの朝の夢を除けば。


 


でも、あんなものは誰にも言えない。


光ではない。


誰も知らない闇。


 


そんなもの、王族の証になんてならない。


 


「僕には、何もない」


 


口にした瞬間、涙が落ちそうになった。


 


「優しいだけだって言われても、仕方ない。守ってくれる人じゃないって言われても、仕方ない。選ばないって言われても――」


 


「仕方なくねぇよ」


 


セドの声が、鋭く割り込んだ。


 


「仕方なくない」


 


「でも」


 


「でもじゃない」


 


セドは、僕の肩を掴んだ。


 


強い手だった。


 


「ルイス。よく聞け」


 


真正面から見られる。


逃げられない。


 


「お前はマルス殿下じゃない」


 


分かってる。


 


「俺でもない」


 


分かってる。


 


「フローラ嬢の理想でもないかもしれない」


 


痛い。


 


「けどな」


 


セドの声が、少しだけ低くなる。


 


「それでお前の価値が消えるわけじゃない」


 


息が止まった。


 


「誰かに選ばれなかっただけで、お前が空っぽになるわけじゃない」


 


「……」


 


「むしろ、選ばれなかったなら選べ」


 


その言葉に、朝の夢がよぎった。


 


――選ばれなかった者よ。


――それでも、あなたは選べる。


 


背筋に冷たいものが走る。


 


「ルイス?」


 


セドが眉を寄せる。


 


僕は首を振った。


 


「なんでもない」


 


「なんでもない顔じゃない」


 


「……本当に、なんでもない」


 


そう言いながら、僕は自分の手を見る。


 


震えはまだ残っている。


 


でも、さっきとは少し違う。


 


悲しみだけじゃない。


痛みだけでもない。


 


もっと奥に、別の何かが生まれていた。


 


黒くて。


静かで。


冷たいのに、妙に落ち着く何か。


 


「セド」


 


「なんだ」


 


「僕は、どうすればいいんだろう」


 


問いかけると、セドはすぐには答えなかった。


 


いつもなら、きっと正しい答えを用意してくれる。


王子としてどう振る舞うべきか。


婚約者としてどう対応すべきか。


今後、公爵家とどう距離を取るべきか。


 


でも今、彼はそれを言わなかった。


 


「まず、泣くなら泣け」


 


「泣かない」


 


「じゃあ怒れ」


 


「怒れない」


 


「じゃあ傷ついてろ」


 


「……ひどいな」


 


「今はそれでいい」


 


セドは肩から手を離した。


 


「無理に王子やるな。無理に笑うな。無理に許すな」


 


「でも、僕は」


 


「ルイス」


 


名前を呼ばれる。


 


敬称のない、ただの名前。


 


それだけで、また胸が詰まる。


 


「今だけは、王子じゃなくていい」


 


その一言で。


 


目の奥が熱くなった。


 


「……ずるい」


 


「何がだ」


 


「そんなこと言われたら、耐えられない」


 


「耐えなくていいって言ってる」


 


「セド」


 


「なんだ」


 


「悔しい」


 


ようやく出た言葉は、それだった。


 


悲しいより先に。


苦しいより奥に。


 


悔しかった。


 


「僕は、フローラに好かれたかった」


 


「ああ」


 


「認められたかった」


 


「ああ」


 


「兄上みたいになれなくても、セドみたいになれなくても、それでも……僕でいいって、言ってほしかった」


 


声が震える。


 


今度はもう、否定できなかった。


 


「それなのに、僕は」


 


選ばれない。


 


その言葉を口にする前に、セドが言った。


 


「なら、見返せ」


 


僕は顔を上げる。


 


セドの目は、まっすぐだった。


 


「泣いて終わりにするな。傷ついて終わりにするな。あいつらの理想に合わせて変わる必要はない。けど、お前自身がこのままで終わりたくないなら――」


 


セドは、少しだけ笑った。


 


獰猛な笑みだった。


従者ではなく、幼馴染でもなく。


これから何かを始めようとする共犯者の顔。


 


「俺が全部支える」


 


「全部?」


 


「ああ。勉学でも、武術でも、情報でも、人脈でも、金でも。必要なものは全部集める」


 


「そんな簡単に」


 


「簡単じゃない」


 


セドはあっさり言った。


 


「だが、やる」


 


その言い方があまりにも当然で、僕は少しだけ笑ってしまった。


 


「セドは、すごいね」


 


「俺がすごいんじゃない」


 


「え?」


 


「俺は、お前に仕えると決めた自分の目を疑いたくないだけだ」


 


言葉が、胸に落ちる。


 


「だからルイス。お前も決めろ」


 


「何を?」


 


「今日のことを、ただの傷にするのか」


 


セドの声が、静かに響く。


 


「それとも、始まりにするのか」


 


始まり。


 


僕は息を吸った。


 


まだ胸は痛い。


フローラの言葉は消えない。


選ばないという声が、何度も頭の中で繰り返される。


 


でも。


 


選ばれないなら。


 


僕は。


 


「……選ぶ」


 


小さく言った。


 


「僕が、選ぶ」


 


セドの目がわずかに細くなる。


 


「何を?」


 


「まだ分からない」


 


正直に答える。


 


「でも、少なくとも……誰かに選ばれるためだけに生きるのは、やめたい」


 


それは、弱々しい決意だった。


子どもの意地みたいなものだった。


 


でも、確かに僕の中から出た言葉だった。


 


「今すぐ強くはなれない」


 


「ああ」


 


「兄上みたいにもなれない」


 


「ああ」


 


「セドみたいにも、たぶんなれない」


 


「なる必要はない」


 


「……うん」


 


僕は落ちた花束の方を見る。


 


廊下の向こう。


白薔薇が床に伏せている。


 


さっきまで渡したかったもの。


今は、もう渡せないもの。


 


「拾ってくる」


 


「俺が」


 


「いや、僕が行く」


 


歩き出す。


 


一歩。


また一歩。


 


花束を拾うためだけの短い距離なのに、ひどく長く感じた。


 


屈んで、花束を持ち上げる。


花弁が少し潰れていた。


包み紙に皺が寄っている。


 


それでも、白薔薇は綺麗だった。


 


「……ごめん」


 


誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。


 


花に。


フローラに。


今日までの自分に。


 


それとも。


 


選ばれることを信じていた、幼い僕に。


 


「ルイス」


 


セドが静かに呼ぶ。


 


「戻るか」


 


「うん」


 


僕は頷いた。


 


「今日は、会えない」


 


「承知いたしました」


 


その瞬間、セドの声が敬語に戻った。


 


少しだけ寂しかった。


でも、それでいい。


 


ここは公爵家だ。


彼は僕の従者だ。


僕は王子だ。


 


そして今、僕は泣き崩れるのではなく、歩いて帰ることを選んだ。


 


「スカーレット公爵家には、体調不良とお伝えいたします」


 


「お願い」


 


「花束は、いかがなさいますか」


 


僕は手元を見る。


 


渡せなかった花。


 


少し迷ってから、首を横に振った。


 


「持って帰る」


 


「かしこまりました」


 


「……捨てたくない」


 


小さく言うと、セドは一瞬だけ僕を見た。


 


そして、静かに頭を下げる。


 


「はい」


 


廊下を戻る。


 


庭園からは、まだフローラたちの声が微かに聞こえていた。


何を話しているのかは、もう分からない。


 


分からなくていい。


 


馬車へ戻るまで、僕は一度も振り返らなかった。


 


屋敷を出る。


陽光が眩しい。


来た時と同じ晴天。


同じ王都。


同じ世界。


 


なのに、僕の中だけが変わっていた。


 


馬車に乗る前、ふと足元に影が落ちているのを見た。


 


僕の影。


 


その輪郭が、一瞬だけ濃くなったように見えた。


 


まるで、誰かがそこに立っているみたいに。


 


「……ノクス」


 


無意識に呟いていた。


 


返事はない。


 


けれど。


 


影の奥で、誰かが静かに目を開けた気がした。


 


馬車が動き出す。


 


スカーレット公爵家の屋敷が遠ざかっていく。


 


胸はまだ痛い。


心はまだ折れたままだ。


 


けれど、その折れた場所から、別の何かが芽を出していた。


 


僕は今日、選ばれなかった。


 


でも。


 


それで終わりにはしない。


 


誰かに選ばれるための王子ではなく。


 


僕自身が選び、必要とされる存在になるために。


 


この日。


 


第二王子ルイス・エル・ゾディアックは、静かに壊れた。


 


そして同時に。


 


静かに、変わり始めた。

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