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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第48話



 翌朝。


 ロイドの店の前に並ぶ紙は、昨日よりも街に馴染んでいた。


 中傷紙。


 訂正文。


 東水路の注意。


 子供向けの約束。


 買い取りルール。


 初めは異物のように見えていたそれらが、いつの間にか通りの一部になっている。


 人々は足を止める。


 読む。


 頷く。


 子供へ言い聞かせる。


 それから、店に入る者は入り、通り過ぎる者は通り過ぎる。


 紙に書かれた言葉は、もう驚きだけを生むものではなくなっていた。


 街の中に、少しずつ染み込み始めていた。


「……慣れって怖いな」


 ロイドは扉の内側から外を見て、ぽつりと言った。


「昨日までは、あの中傷紙を見るだけで腹立って仕方なかったのに」


「今は?」


 セドが聞く。


「腹立つ」


「変わっていませんね」


「いや、変わった」


 ロイドは腕を組む。


「腹は立つけど、慌てなくなった」


「良い変化です」


「褒めてる?」


「はい」


「お前に褒められると、まだちょっと慣れない」


「私も、褒めることには慣れていません」


「そこ正直に言うんだな」


 ロイドが笑う。


 朝の店内には、昨日の疲れが少し残っていた。


 だが、それだけではない。


 一本目の工房端材ルートが繋がった。


 ハインツ魔導加工所。


 週に二度。


 端材箱を確認できる。


 大きな量ではない。


 黒羽に奪われ始めた処理場の流れを補うには、まだ足りない。


 けれど、確かに一本目だった。


 細く、頼りない。


 だが、黒羽が一括で握るには小さすぎる流れ。


 その始まりが、店の中に静かな熱を生んでいた。


 ガルドは朝から機嫌が悪そうに見えた。


 いや、正確にはいつも悪そうだ。


 だが今日は、その奥に少しだけ張りがある。


 作業台の上には、ハインツ魔導加工所から試しに預かった端材が並んでいた。


 割れた魔石。


 削り損じた欠片。


 熱で濁った不良品。


 普通なら処理場へ流されるもの。


 その一つ一つを、ガルドとミラが見ていた。


「……これ、使える?」


 ミラが小さな青い欠片を指で示す。


 ガルドは目を細める。


「芯は残ってる。だが割れ方が悪い」


「危険?」


「加工次第だ」


「セド」


 ミラが呼ぶ。


「はい」


「見る?」


 セドは近づき、欠片を手に取らずに眺めた。


 光の入り方。


 割れた断面。


 魔力の残り。


 しばらく無言で見たあと、静かに言う。


「通常型には不向きです」


「夜間用?」


「可能性はあります。光量を抑えるなら、暴れを逃がしやすい」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「同意見だ」


「珍しい」


 ロイドが言う。


「お前ら意見合う時あるんだな」


「ある」


 ミラが即答した。


「職人仕事では、合う」


 ガルドが言う。


「人間性では合わないみたいな言い方やめろ」


 ロイドが突っ込む。


 セドは少しだけ首を傾げた。


「人間性の話でしょうか」


「お前は真面目に受け取らなくていい」


 ロイドは笑いながら棚を整える。


 店の中に、作業の音がある。


 石を置く音。


 紙をめくる音。


 木箱を開ける音。


 ミラが灯り石を並べる小さな音。


 それらは、外のざわめきとは違う、店の呼吸だった。


「……この端材」


 ガルドが低く言う。


「思ったより悪くねぇ」


「そうなのか?」


 ロイドが顔を上げる。


「ああ。ハインツのところは仕事が丁寧だ。失敗品でも、無茶な扱いはしてない」


「それ、褒めてる?」


「職人としてはな」


「本人に言えばいいのに」


「嫌だ」


「何でだよ」


「調子に乗る」


「職人って面倒くさいなぁ……」


 ロイドは呆れながらも、少し嬉しそうだった。


 端材が使える。


 それは店にとって希望だった。


 処理場の流れを黒羽に握られ始めた中で、別の道が開いた。


 まだ小さい。


 だが、ゼロではない。


「今日、ハインツさんへ結果を返します」


 セドが言う。


「早いな」


「初回の反応は早い方が信用になります」


「なるほど」


「ただし、評価は正直に」


 ガルドが言う。


「使えないものを使えると言えば、後で信用を失う」


「はい」


「値段も正直に言え」


「はい」


 ロイドが苦笑する。


「ガルド、今日は先生みたいだな」


「やめろ」


「似合わねぇ?」


「似合わん」


 ミラが短く言う。


「ひでぇな」


 けれど、ガルドは怒っていなかった。


 むしろ少しだけ、照れたように顔を逸らしていた。


 セドはそれを見て、ふと思う。


 ガルドもまた、戻り始めているのかもしれない。


 組合から外れ、職人としての場所を失いかけた男。


 その手が今、新しい流れを作る中心にある。


 廃棄された魔石だけではない。


 捨てられた技術や、外れた職人の目もまた、店の中で価値を取り戻している。


 それは、ルイスの物語とよく似ていた。


 価値なしと呼ばれた者が、別の場所で灯りを灯す。


「……」


 セドは少しだけ目を伏せた。


 ルイス様にも、見せたい。


 そう思った。


 だが、まだその時ではない。


 ルイスは外へ出ない。


 今は王城の内側で動く。


 それでいい。


 そう決めたはずなのに、時々、胸の奥が静かに疼く。


 この店の音を。


 ロイドの声を。


 ミラの灯りを。


 ガルドの手を。


 ニコたちの笑い声を。


 いつか、ルイスに直接見てほしい。


 そう思ってしまう。


「セド」


 ロイドが呼んだ。


「はい」


「また遠い顔してる」


「……そうでしょうか」


「してる」


 ミラも言う。


「うん」


 ガルドも頷く。


「してるな」


「皆さん、よく見ていますね」


「お前が分かりやすくなった」


 ロイドが笑う。


「最初の頃は何考えてるか全然分かんなかったけどな」


「今は分かりますか」


「全部は分からねぇよ」


 ロイドは肩をすくめた。


「でも、無茶しようとしてる時と、何か大事なこと考えてる時くらいは分かる」


 セドは少しだけ黙った。


「今は後者です」


「ならいい」


「無茶は?」


「していません」


「本当だな」


「はい」


「よし」


 ロイドは満足そうに頷いた。


 その確認が、最近では自然になっていた。


 セドもまた、自然に答えるようになっていた。


 それが少し不思議で。


 少しだけ、温かかった。


 


 午前の営業が始まると、昨日よりもさらに人が増えた。


 中傷紙の騒ぎが逆に人を呼んだのかもしれない。


 心配してくる者。


 様子を見に来る者。


 単純に灯り石を買いに来る者。


 工房端材の噂をどこかで聞いたのか、職人らしき男が何人か店の前を通っていく。


 だが、今のところ誰も直接は入ってこない。


 様子見。


 それが分かる。


「……見られてるな」


 ロイドが小声で言う。


「はい」


 セドが答える。


「職人たちでしょう」


「ハインツさんから広がったか?」


「あるいは、ガルドさんとロイドさんが工房街を歩いたことで気づかれたか」


「早いな」


「工房街の噂は早いです」


 ガルドが奥から言った。


「特に、組合から外れた俺が動けばな」


「やっぱ目立つか」


「目立つ」


 ガルドは端材を見ながら続ける。


「だからこそ、下手なことはできねぇ」


 ロイドは頷いた。


「一つ目が大事だな」


「ああ」


 ハインツとの取引。


 その評価が他の工房にも伝わる。


 買い叩いたと言われれば終わり。


 危険品を無理に持ち出したと言われても終わり。


 逆に、丁寧に扱ったと伝われば、次の工房へ繋がる可能性がある。


 細い流れは、信用でしか伸びない。


「……胃が痛い」


 ロイドが呟く。


 ミラが短く言う。


「慣れた?」


「慣れたくないって何回言えばいいんだ」


「でも、慣れてきた」


「否定できないのが嫌だなぁ」


 客の一人が笑った。


「店主さん、今日も胃が痛そうだね」


「見世物じゃねぇぞ」


「でも、そういうところが信用できる」


「どういうところだよ」


「悪いことできなさそうな顔」


 店内に笑いが広がる。


 ロイドは頭を抱えた。


「顔で判断されすぎじゃねぇか、最近」


 セドが静かに言う。


「顔は情報です」


「お前まで変なこと言うな」


「事実です」


「嫌な事実だな」


 笑いがまた広がる。


 中傷紙の件で揺れた空気は、完全には消えていない。


 だが、人々は笑っている。


 それは大きい。


 店が疑われる場所ではなく、話しかけられる場所であり続けている。


 それを見て、セドは胸の奥で少し安堵した。


 


 昼過ぎ。


 ハインツ魔導加工所へ、端材の初回評価を返しに行く時間になった。


 今回は、セドとガルドが行く。


 ロイドは店に残る。


 昨日はロイドが同行したが、今日は店主が店にいることも重要だった。


 中傷紙の件がある以上、ロイドが店を空けすぎると余計な憶測を呼ぶ。


「本当に二人で大丈夫か?」


 ロイドが言う。


「はい」


 セドが答える。


「一人ではありません」


「それはそうだけど」


「ガルドさんがいます」


「そのガルドが怒らないか心配なんだよ」


 ガルドが睨む。


「俺を何だと思ってる」


「職人」


「なら問題ないだろ」


「職人だから問題なんだよなぁ」


 ミラが短く言う。


「怒らない」


「お前にも言われるのか」


「言う」


 ガルドは深く息を吐いた。


「分かった。怒鳴らない。殴らない。工具を投げない」


「最後、普段から選択肢に入ってるんですか」


 セドが聞く。


「職人の会話だ」


「違うと思います」


 ロイドが笑った。


 出発前のやり取り。


 緊張をほぐすための軽口。


 それが、今は必要だった。


 ミラは小さな包みをセドへ渡した。


「これ」


「何でしょう」


「夜間用の小型」


「ハインツさんへ?」


「試供」


 セドは少し考え、頷いた。


「良い判断です」


「売り込み?」


 ロイドが聞く。


 ミラは首を振る。


「違う」


「じゃあ?」


「使ってもらう」


 一拍。


「職人の夜作業に合うかも」


 ガルドが少し目を細める。


「……確かに、夜間の細工には強すぎる光が邪魔になることがある」


「なら持っていく」


 ミラは短く言った。


 ロイドが感心したように笑う。


「商売人みたいだな」


「職人」


「はい」


 ミラは淡々としていたが、どこか少しだけ誇らしそうにも見えた。


 セドは包みを丁寧に受け取る。


「行ってきます」


「気をつけろよ」


 ロイドが言う。


「はい」


「無茶するな」


「はい」


「ガルドを煽るな」


「努力します」


「そこは守れ」


「守ります」


 ガルドが横でうんざりした顔をする。


「俺が一番信用されてねぇ気がしてきた」


「日頃の行い」


 ミラが言う。


「お前、今日よく刺すな」


「事実」


 店内に笑いが落ちる。


 セドとガルドは店を出た。


 


 工房街へ向かう道は、昨日より少しだけ視線が多かった。


 セドとガルドが並んで歩く。


 黒髪の冷静な男と、元組合職人のガルド。


 その組み合わせは、工房街では目立つ。


 あちこちから視線が飛ぶ。


 表立って声をかける者はいない。


 だが、見ている。


 探っている。


「……見られています」


 セドが言う。


「分かってる」


 ガルドは前を見たまま答える。


「工房街はこういう場所だ」


「視線が多いですね」


「皆、自分の仕事と材料で頭がいっぱいだ。だが同時に、他の工房の動きも気にしてる」


「競争ですか」


「それもある」


 ガルドは少しだけ足を緩めた。


「でも、それだけじゃない」


「?」


「生き残るためだ」


 金属音が、遠くから響く。


 炉の熱が風に混じる。


 工房街の空気は、いつも少し焦げている。


「どの工房が潰れそうか。どこが組合に睨まれたか。どこが新しい材料を手に入れたか。どこが変な仕事を受けたか」


「……」


「それを知らないと、自分の工房も巻き込まれる」


 セドは黙って聞いていた。


「工房街も、流れですか」


「ああ」


 ガルドは短く答える。


「職人は物を見てるようで、人も見てる。だが、それを認めたがらない」


「何故でしょう」


「職人だからだ」


「説明になっていない気がします」


「そういうもんだ」


 ガルドは少しだけ笑った。


「俺も昔は、物だけ見てりゃいいと思ってた」


「今は?」


「人も見ないと、物が壊れると分かった」


 セドはその言葉を胸に留める。


 人を見ないと、物が壊れる。


 ガルドらしい言い方だった。


 だが、深い。


 工房も、店も、王城も。


 結局、人が動かしている。


 人を見ずに流れを変えることはできない。


「……勉強になります」


 セドが言う。


 ガルドが嫌そうな顔をした。


「やめろ。むず痒い」


「事実です」


「お前も最近、素直すぎて気味が悪いな」


「改善しますか」


「いや、そのままでいい」


 言ってから、ガルドは少し気まずそうに顔を逸らした。


 セドは何も言わなかった。


 ただ、少しだけ目元を緩めた。


 


 ハインツ魔導加工所は、昨日と同じように熱気を帯びていた。


 扉を叩くと、すぐに見習いが顔を出した。


 少年はガルドを見て、少し緊張した顔になる。


「親方を」


 ガルドが言う。


「は、はい!」


 見習いは慌てて奥へ走った。


 セドはそれを見送り、少しだけ首を傾げる。


「怖がられていますね」


「分かってる」


「改善は」


「難しい」


「そうですか」


 ガルドは不満そうに眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。


 やがて、奥からハインツが出てきた。


 今日は昨日より少しだけ表情が柔らかい。


 だが、目は鋭い。


「早かったな」


「初回だからな」


 ガルドが答える。


「結果は」


「使えるものが三割。調整次第で使えるものが四割。危険または不向きが三割」


 ハインツは眉を上げた。


「思ったより見たな」


「雑に扱う話じゃねぇ」


「ふん」


 ハインツは少しだけ満足そうに鼻を鳴らした。


 セドが紙を差し出す。


「分類表です」


 ハインツは受け取り、目を通す。


 最初は疑うように見ていた。


 だが、読み進めるうちに表情が変わった。


「……細かいな」


「必要ですので」


「噂通りだ」


「噂?」


「やけに記録する黒髪」


 セドは少しだけ沈黙した。


「その噂は、良い意味でしょうか」


「職人にとっては悪くない」


 ハインツは紙を指で叩く。


「使えないものを使えないと書いてある。危険な理由も書いてある。値段の根拠もある」


「不十分な点があれば修正します」


「いや」


 ハインツは首を振った。


「これなら、こっちも納得できる」


 ガルドが少しだけ息を吐いた。


 小さな安堵。


 セドはそれを見逃さなかった。


 ガルドも緊張していたのだ。


「価格についてですが」


 セドが言う。


「今回は試験のため、使えるもの三割分のみ買い取り。調整可能分は、こちらで加工後に実際の歩留まりを確認し、次回以降に反映したいと考えています」


 ハインツは目を細める。


「つまり、調整分はまだ安く見ると?」


「はい。ただし、加工結果を共有します」


「共有?」


「どの端材が、どの程度使えたか。どの割れ方が向いているか。どの処理なら価値が残るか」


 ハインツの顔が変わった。


 職人の顔になる。


「それを、こっちへ返すのか」


「はい」


「普通は隠すだろ」


「隠すと、次の端材の質が上がりません」


 セドは淡々と言う。


「工房側が、どの端材に価値が残るか知れば、分け方が変わる。危険品も減る。結果として、こちらも扱いやすくなります」


 沈黙。


 ハインツはセドをじっと見た。


 それから、ガルドを見る。


「……こいつ、本当に商人か?」


「違う」


 ガルドが即答した。


「なら何だ」


「面倒な従者だ」


「納得した」


「納得されるのですか」


 セドが少しだけ眉を寄せる。


 ハインツは低く笑った。


「悪くない。情報を返すなら、こちらも端材の分け方を変えられる」


「はい」


「ただし、外に漏らすな」


「もちろんです」


「なら、取引継続だ」


 ハインツは手を差し出した。


 ガルドがその手を握る。


 職人同士の、短い握手。


 強く。


 しかし、長くはない。


「週二回。最初は少量だ」


「ああ」


「見習いには触らせない」


「助かる」


「あと」


 セドが包みを差し出した。


「これは?」


 ハインツが聞く。


「夜間用灯り石の試作品です。ミラからです」


「売り込みか」


「試用です」


「同じことだろ」


「用途が合わなければ返却してください」


 ハインツは包みを開き、小さな灯り石を見る。


 昼の工房では光は弱い。


 だが、手元に置くと柔らかく光る。


 ハインツの目が少し変わった。


「……夜作業用か」


「はい」


「強すぎないな」


「細工に向く可能性があります」


 ハインツはしばらく灯り石を見ていた。


 そして、ふっと笑う。


「面白い」


 それは、職人としての笑みだった。


「今夜使う。使えれば買う」


「ありがとうございます」


「礼は早い」


「よく言われます」


 ガルドが横で低く笑った。


 交渉は、思った以上にうまく進んだ。


 だが、工房を出る時、ハインツは二人を呼び止めた。


「ガルド」


「何だ」


「気をつけろ」


 その声は低かった。


 さっきまでの職人同士の会話とは違う。


「昨日の夜、組合の人間が来た」


 ガルドの顔が険しくなる。


「何を聞かれた」


「お前が来たかどうか」


 セドの目が細くなる。


「答えたのですか」


「来たと答えた」


 ハインツは隠さなかった。


「嘘をつけば、逆に怪しまれる」


「正しい判断です」


「だが、端材の話はしてない」


 ガルドが頷く。


「助かる」


「黒い鳥の荷箱も、工房街に来てる」


 ハインツは続けた。


「処理場だけじゃない。小さい工房の端材にも、目をつけ始めてるかもしれん」


 沈黙。


 黒羽は早い。


 こちらが細い流れを作る前に、相手もそれを嗅ぎつけ始めている。


「……時間は少ないですね」


 セドが言う。


「ああ」


 ハインツは灯り石を握った。


「だから細く、いくつもだ」


「はい」


「一つの工房に寄りかかるな。うちも潰される」


「分かっています」


 ハインツは頷いた。


「なら行け。長居すると目立つ」


 二人は礼を言い、工房を出た。


 外の空気は、工房内より少し冷たい。


 だが、セドの胸の中には熱が残っていた。


 一本目は繋がった。


 しかし、黒羽の影も近づいている。


 急がなければならない。


 だが、急ぎすぎてはいけない。


 細く。


 いくつも。


 それが今の答えだった。


 


 店へ戻る途中、ガルドはしばらく無言だった。


 セドも急かさない。


 工房街の音が周囲を満たしている。


 金属音。


 怒鳴り声。


 炉の唸り。


 荷車の軋み。


 そして、遠くで誰かが笑う声。


 それらが混ざり合い、工房街独特の重い空気を作っていた。


「……ガルドさん」


 セドが静かに呼ぶ。


「何だ」


「大丈夫ですか」


 ガルドは一瞬だけ足を止めた。


「お前、本当に変わったな」


「そうでしょうか」


「ああ」


 ガルドは前を向いたまま言う。


「昔なら、結果だけ聞いて終わりだった」


「……」


「今は、人の顔を見る」


 セドは何も返せなかった。


 ガルドは続ける。


「正直、工房街に戻るのは気分が良くねぇ」


「はい」


「俺を知ってる奴もいる。組合から外れた奴を見る目もある」


「……」


「だが」


 一拍。


「悪くない取引だった」


 その声には、少しだけ安堵があった。


「職人として話せた」


 セドは静かに頷いた。


「良かったです」


「そういう真っ直ぐなのがむず痒いって言ってんだ」


「すみません」


「謝るな」


「はい」


 ガルドは深く息を吐いた。


「でも、助かった」


 小さな声。


 セドは聞こえた。


 だが、あえて大きく反応しなかった。


「こちらこそ」


 短く返す。


 ガルドはそれ以上何も言わなかった。


 けれど、二人の間の沈黙は、行きよりも少しだけ軽かった。


 


 店へ戻ると、ロイドが待ち構えていた。


「どうだった」


「繋がりました」


 セドが答える。


 ロイドの顔が明るくなる。


「本当か!」


「はい。ただし、黒羽の影も工房街へ出ています」


「喜ばせてから落とすなよ……」


 ロイドは頭を抱えた。


 ガルドが椅子に座る。


「ハインツは継続すると言った。週二回、少量。情報も返す」


「いいじゃねぇか」


「だが、組合が昨日の時点で俺の動きを聞きに来てる」


「早すぎるだろ」


「だから、次はもっと慎重に動く」


 セドは頷いた。


「候補工房を増やす前に、接触方法を変えましょう」


「どうやって」


 ロイドが聞く。


「こちらから一斉に回ると目立ちます」


「だな」


「まずは、店に来る職人の話を拾います。端材処理に困っている工房、組合に不満があるが表立って動けない工房、夜間用灯り石を買った職人」


「灯り石?」


「はい」


 セドはミラを見る。


「ミラの夜間用灯り石は、工房にも入り口になります」


 ミラが少し目を動かす。


「工房の夜作業」


「はい」


「使える?」


「ハインツさんは興味を示しました」


 ミラは小さく頷いた。


「よかった」


 その一言は短い。


 だが、明らかに嬉しそうだった。


 ロイドが笑う。


「ミラの商品が、新しい流れの入口になるかもな」


「商品じゃなくて灯り」


「そこ大事なんだな」


「うん」


 ガルドが言う。


「職人は、使える道具には弱い」


「ガルドさんも?」


 ミラが聞く。


「当たり前だ」


「じゃあ、もっと作る」


「無理はするな」


「しない」


 ミラは淡々と答える。


 だが、その手はもう次の試作品へ向かっていた。


 ロイドはそれを見て、苦笑する。


「無理しない奴の動きじゃないな」


「止める?」


 セドが聞く。


「止める。でも、完全には止まらないだろうな」


「はい」


「だから、ちゃんと休ませる」


「お願いします」


「お前もな」


「……はい」


 店内に、また小さな笑いが生まれる。


 端材ルート。


 夜間用灯り石。


 職人との接点。


 それらが、少しずつ繋がっていく。


 黒羽は大きな流れを握ろうとする。


 なら、こちらは細い流れをいくつも作る。


 人の生活に入り込む灯り。


 工房の端に残る端材。


 子供たちの約束。


 店主の言葉。


 職人の目。


 王城から届く紙。


 それらは一つ一つは弱い。


 だが、繋がれば簡単には断てない。


 


 その夜。


 王城の書庫で、ルイスはセドからの返答を受け取った。


 ――一本目の工房端材ルートが繋がりました。


 ――細く、いくつも作る方針です。


 ――処理場の流れだけに依存しません。


 ――夜間用灯り石が、工房との接点になる可能性があります。


 ――店の灯りは、一人では持っていません。


 最後の一行を読んだ瞬間、ルイスは胸の奥が温かくなった。


 店の灯りは、一人では持っていない。


 セドが、そう書いてきた。


 ルイスが送った言葉を、受け取ってくれた。


 それだけで、少しだけ息がしやすくなる。


「……よかった」


 小さく呟く。


 足元の影が揺れた。


 ノクス。


 ――嬉しいのね。


「うん」


 ルイスは頷く。


「セドが、一人で持とうとしてない」


 ――あなたは?


 その問いに、ルイスは少し黙った。


 自分はどうだろう。


 王城の中で、バルドの痛みを受け取り、黒羽の記録を拾い、セドへ渡している。


 それを、自分一人で抱えようとしていないか。


 フィリアにも、兄にも、まだ話していないことが多い。


 もちろん理由はある。


 危険だから。


 巻き込みたくないから。


 だが、それはセドがずっと使ってきた理由と似ていないか。


「……僕も、か」


 ルイスは小さく笑った。


 苦い笑いだった。


 人のことは見える。


 自分のことは、見えにくい。


「誰に話せると思う?」


 ノクスは答えない。


 代わりに、影がゆらりと揺れる。


 ルイスは少し考える。


 フィリア。


 彼女には、すべてではなくても話せるかもしれない。


 兄マルス。


 まだ危険だ。


 だが、いずれは向き合う必要がある。


 バルド。


 彼はすでに一部を共有している。


「……灯りは、一人で持つものじゃない」


 ルイスは自分で書いた言葉を繰り返す。


 今度は、自分へ向けて。


 机の上には、王城の廃棄物処理契約の写しがある。


 王都商業組合。


 再委託先、記載省略。


 この空白こそ、黒羽が隠れている場所かもしれない。


 ルイスは紙へ新たに書き留める。


 ――大きな契約の空白に、鳥は巣を作る。


 少し詩的すぎるかもしれない。


 だが、セドなら拾える。


 直接書けば危険な情報を、必要なだけ照らす言葉にする。


 それが今の自分の役割だ。


「……次で、もっと近づく」


 ルイスは小さく呟いた。


 第一章の終わりが近づいていることを、彼は知らない。


 だが、流れが一つの節目へ向かっていることは感じていた。


 外では、セドたちが細い流れを作り始めている。


 内側では、王城の空白が見え始めている。


 その二つが重なった時。


 黒羽の輪郭は、もう少しはっきりするはずだ。


 ルイスは窓の外を見る。


 王都の灯りが揺れている。


 その中に、ロイドの店の小さな光がある。


 弱い光。


 だが、消えていない。


 むしろ、少しずつ増えている。


「僕も、消さない」


 ルイスは静かに言った。


 影が、足元で小さく揺れた。


 


 同じ夜。


 ロイドの店では、ハインツから預かった端材の一部が、試験用の灯り石として調整されていた。


 ミラが光を見ている。


 ガルドが断面を見る。


 セドが記録する。


 ロイドが帳簿を開き、頭を抱えながら計算している。


「……利益、薄いな」


 ロイドが呟く。


「最初は仕方ねぇ」


 ガルドが答える。


「信用を買ってると思え」


「信用、高いなぁ」


「安い信用はすぐ壊れる」


「それもそうか」


 ミラが試作品を一つ、灯した。


 淡い光。


 通常の夜間用より、少し青みがある。


 工房の端材から生まれた光。


 処理場とは違う流れから来た光。


 ロイドはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「……悪くないな」


「悪くない」


 ガルドが言う。


「職人の褒め言葉?」


「そうだ」


 ミラも頷く。


「うん」


 セドは記録に書いた。


 ハインツ端材第一試作。


 夜間用に適性あり。


 光色、やや青。


 熱安定、良好。


 要追加試験。


 書き終えたあと、ふと顔を上げる。


 店の中には、四人がいる。


 紙がある。


 端材がある。


 灯りがある。


 外には悪意もある。


 黒羽もいる。


 組合も動いている。


 だが、ここには確かに流れがある。


 細くても。


 小さくても。


 誰か一人では持てない灯りを、皆で持っている。


「……一本目」


 セドが小さく呟いた。


 ロイドが顔を上げる。


「ん?」


「いえ」


 セドは灯り石を見る。


「始まりだと思いました」


 ロイドは少しだけ笑った。


「ああ」


 その光は、まだ小さい。


 だが、確かに新しい。


 黒羽に奪われないための、最初の細い流れ。


 その灯りが、夜の店内を静かに照らしていた。

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