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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第39話



 朝。


 ロイドの店の扉には、一枚の紙が貼られていた。


 白い紙。


 墨で書かれた、少しだけ癖のある文字。


 東水路付近の魔石片は危険性があるため買い取り不可。


 近づかず、拾わず、見つけた場合は大人へ知らせること。


 それだけの短い文章だった。


 脅しではない。


 大げさな警告でもない。


 けれど、店の前を通った人々は、必ずと言っていいほど足を止めた。


「……東水路?」


「旧東の近くじゃないか」


「魔石片が危ないってことかい?」


「昨日、子供が何か拾ったらしいぞ」


「やっぱり、旧東で何か起きてるんだ」


「組合は何も言ってないのに、この店が先に貼るのか……」


 ざわめきが生まれる。


 小さな紙一枚。


 それだけで、人の流れが変わった。


 通り過ぎようとした者が止まり、店を見て、紙を読み、隣の者へ話しかける。


 話しかけられた者がまた紙を読み、眉をひそめ、別の者へ伝える。


 それはまるで、水面へ落ちた小石が波紋を広げるようだった。


 ただ、波紋は綺麗な円ではない。


 人の不安や興味や苛立ちを巻き込みながら、歪んだ形で広がっていく。


 店内からその様子を見ていたロイドは、深く息を吐いた。


「……貼っただけでこれか」


「はい」


 セドは窓際から外を見ていた。


 朝の光が横顔に落ちている。


 表情はいつも通り静かだ。


 だが、その目は群衆の動きを一つずつ追っている。


「想定より反応が大きいです」


「嫌な想定だな」


「恐怖が溜まっていたのでしょう」


「恐怖、ねぇ……」


 ロイドは腕を組む。


 店の前で立ち止まる人々を見ていると、その言葉が妙にしっくり来た。


 皆、何かを怖がっている。


 けれど、何を怖がればいいのか分かっていない。


 旧東工房区画なのか。


 黒い鳥の荷車なのか。


 魔力漏れなのか。


 組合が何も言わないことなのか。


 それとも、自分の知らないところで何かが進んでいることなのか。


 分からないから、余計に怖い。


「なぁ、セド」


「はい」


「この貼り紙、正解だったのか?」


 セドはすぐに答えなかった。


 外では、若い母親が子供の手を引きながら紙を読んでいる。


 その子供は、退屈そうに足元の石を蹴っていた。


 その仕草を見た母親が、慌てて子供の手を強く握る。


 ただの小石だ。


 けれど今の母親には、足元に落ちている欠片すら怖く見えているのかもしれない。


「……正解かは、まだ分かりません」


 セドは言った。


「ですが、黙っているよりは良いと思います」


「黙ってたら?」


「子供が拾いに行く可能性があります」


「それは駄目だな」


「はい」


「でも、騒ぎにもなる」


「なります」


 セドは小さく頷いた。


「だから、言葉を選ぶ必要があります」


 ロイドは貼り紙を見る。


 短い。


 簡単。


 だが、よく考えるとずいぶん抑えた文面だ。


 危険だ。


 死ぬぞ。


 魔力漏れだ。


 旧東へ近づくな。


 そういう直接的な言葉は使っていない。


 恐怖を煽らないようにしている。


 それでも、人は勝手に怖がる。


「……難しいな」


 ロイドが呟く。


「はい」


「商売って、商品並べて売るだけじゃねぇんだな」


「はい」


「人の不安まで見るのか」


「必要なら」


「出た」


 ロイドは苦笑した。


「でも、今回ばかりはその通りだな」


 セドは何も言わなかった。


 沈黙。


 その間にも、外のざわめきは増えていく。


 ミラは棚に夜間用灯り石を並べていた。


 ガルドは奥で材料を分類している。


 だが、二人とも耳は外へ向いていた。


 店の内側にいるのに、外の空気が伝わってくる。


 それほど、今日の通りは落ち着かない。


「……客、入れて大丈夫か?」


 ロイドが聞く。


「入れましょう」


 セドが答える。


「閉めた方が安全じゃねぇか?」


「閉めると、余計な憶測を呼びます」


「……それもそうか」


「普段通り営業することも、必要な情報です」


「なるほどな」


 ロイドは深く息を吸った。


 そして、扉を開けた。


 鈴が鳴る。


 外の視線が一斉に集まった。


 一瞬、空気が固まる。


 ロイドはその視線を受けながら、いつものように片手を上げた。


「開店だ。買うやつは順番。貼り紙の内容を聞きたい奴も順番。喧嘩する奴は帰れ」


 少し乱暴な言い方。


 だが、その声で、固まっていた空気が少し動いた。


 誰かが小さく笑った。


「店主、朝から厳しいねぇ」


「今日は厳しくする日なんだよ」


 ロイドが返す。


「東水路って本当に危ないのかい?」


 年配の男が聞いた。


 ロイドは視線でセドを見る。


 セドが一歩前へ出ようとした。


 だが、ロイドは先に口を開いた。


「危ない可能性がある」


 セドが少しだけ止まる。


 ロイドは続ける。


「だから、うちは買い取らねぇ。子供が拾いに行くのも止める」


「何が危ないんだ?」


「魔石片の中に、普通じゃないやつが混じってた」


「普通じゃない?」


「詳しく言えるほど、まだ分かってねぇ」


 ロイドは正直に言った。


「だから、分かるまで近づくなって話だ」


 群衆が少しざわつく。


 だが、先ほどよりも落ち着いている。


 分からない。


 だから危ない。


 それは不安を煽る言葉にもなる。


 けれど、ロイドの声には変な誤魔化しがなかった。


「組合は何も言ってないぞ」


 若い男が言った。


「組合が言わねぇから、安全ってわけじゃねぇだろ」


 ロイドが返す。


 言ったあと、店の前の空気が一瞬だけ止まった。


 かなり踏み込んだ言葉だった。


 組合への不信。


 それを、店主が正面から口にした。


 セドの視線がロイドへ向く。


 ロイドは気づいて、少しだけ肩をすくめた。


 もう言ってしまったものは仕方ない。


 群衆の中から、誰かが小さく呟いた。


「……まぁ、それはそうだな」


「昔から、あそこは都合悪いこと言わないし」


「旧東の事故だって、何も分からないままだったじゃないか」


「十年前か……」


「うちの親父、その頃工房街で働いてたけど、急に黙れって言われたって話してたぞ」


 声が増える。


 だが、それは先ほどとは違うざわめきだった。


 ただ恐怖で膨らむ噂ではない。


 記憶が混ざり始めている。


 誰かの親。


 誰かの知人。


 十年前に見たもの。


 聞いたもの。


 言えなかったもの。


 街の中に沈んでいた記憶が、少しずつ浮かび上がる。


 セドはその様子を見ていた。


 流れが変わっている。


 貼り紙一枚で。


 ロイドの言葉で。


 群衆の記憶が、恐怖とは違う方向へ流れ始めている。


「……」


 だが、危うい。


 記憶は、怒りにもなる。


 不信は、暴走にもなる。


 セドは一歩前へ出た。


「現時点で、旧東工房区画や東水路へ近づく必要はありません」


 声は静かだった。


 しかし、通った。


「不確かな情報を追うより、まず身近な危険を避けてください」


 群衆の視線が集まる。


「子供を近づけない。魔石片を拾わない。見つけた場合は不用意に触らない」


 一拍。


「それだけで、避けられる危険があります」


 沈黙。


 群衆はすぐには反応しなかった。


 若い男の一人が、少し不満そうに口を開く。


「でもよ、何が起きてるか知りたいだろ」


「知りたいことと、近づくことは別です」


 セドは即答した。


「知るために死ねば、意味がありません」


 強い言葉だった。


 だが、必要な強さだった。


 若い男は口を閉じる。


 年配の女が小さく頷いた。


「その通りだよ。昨日、うちの孫が見に行こうとしてたんだ。ちゃんと言い聞かせるよ」


「うちもだ」


「子供ってのは、駄目と言われると行きたがるからねぇ」


「なら、近所で見張るしかないな」


 別の男が言った。


「東水路の近くに住んでる奴に伝えとく」


「そうだな。知らない子が拾ったら危ない」


「灯り石の店に言われたって伝えとけばいいか?」


 ロイドがすぐに言う。


「責任全部こっちに寄せんな。でも伝えるのは構わねぇ」


 群衆に少し笑いが起きた。


 その笑いで、張り詰めていた空気が少しだけほどける。


 セドは静かに息を吐いた。


 今のところ、流れは悪くない。


 恐怖が、注意へ変わり始めている。


 ただ怖がるのではなく、子供を守るために動こうとする人が出てきた。


 それは、小さいが確かな変化だった。


 


 その頃。


 王城の備品保管庫では、ルイスが古い棚の前に立っていた。


 棚には、古い台帳が積まれている。


 革表紙は色褪せ、角は擦り切れ、紙には年月の匂いが染みついていた。


 バルド・レイスは、ルイスの少し後ろに立っている。


 昨日よりも、さらに緊張しているように見えた。


「こちらが、十年前前後の払い下げ台帳です」


 バルドが言う。


 声は低い。


 誰にも聞かれないように。


 保管庫には他の職員もいる。


 遠くで棚を整理する音が聞こえる。


 だから、二人はあくまで通常業務の説明を受けているように振る舞っていた。


「ありがとうございます」


 ルイスは穏やかに答えた。


 表情は崩さない。


 だが、胸の奥では心臓が少し早く打っている。


 十年前の払い下げ台帳。


 旧東工房区画事故に関わる可能性がある記録。


 ここに、何かがあるかもしれない。


 もしくは、何もないかもしれない。


 何もないことが、逆に証拠になるかもしれない。


「閲覧理由は、備品管理学習ということで処理しておきます」


 バルドが言った。


「大丈夫ですか?」


「はい」


 バルドは少しだけ苦笑した。


「この程度なら、問題にはなりません」


 この程度。


 そう言いながらも、その顔には不安があった。


 ルイスは台帳へ手を伸ばしかけて、止めた。


「バルドさん」


「はい」


「無理をしていませんか」


 バルドは目を見開いた。


「……殿下?」


「僕が聞いたことで、あなたが危なくなるなら」


「いえ」


 バルドはすぐに首を振った。


「そのようなことは」


「本当に?」


 静かな問い。


 バルドは返答に詰まった。


 少しの沈黙。


 遠くで、木箱を動かす音がする。


 その音が妙に大きく響いた。


「……殿下は」


 バルドが小さく口を開いた。


「お優しいのですね」


「そうでしょうか」


「普通、王族の方は職員の心配などされません」


 その言葉には、皮肉よりも疲れがあった。


 ルイスは少しだけ目を伏せる。


「僕は、普通の王族として期待されていませんから」


 言ったあと、自分で少し驚いた。


 以前なら、その言葉には痛みしかなかった。


 けれど今は、少し違う。


 期待されていない。


 それは確かに傷だった。


 でも同時に、見えるものもある。


 期待されていないからこそ、低い場所が見える。


 人の顔が見える。


 机の下に落ちたものが見える。


 バルドは何も言えず、ルイスを見ていた。


「……失礼しました」


 ルイスは小さく笑った。


「でも、本当に無理はしないでください」


「殿下」


「僕は知りたい。でも、誰かを踏みつけて知りたいわけじゃありません」


 バルドの顔が、わずかに歪んだ。


 何かを堪えるような表情。


 彼はゆっくりと視線を落とした。


「……十年前」


 その言葉が出た瞬間、空気が変わった。


 ルイスは黙って聞いた。


「私は、そう言えませんでした」


 バルドの声は低い。


 過去の奥から絞り出すような声だった。


「知るために、人を踏みつけたわけではありません。けれど、知らないふりをするために、誰かが踏みつけられるのを見ました」


「……」


「それを、止められなかった」


 沈黙。


 保管庫の奥の空気が、少し冷たくなる。


 ルイスは息を殺す。


 これは、簡単に慰めていい話ではない。


 大丈夫です。


 あなたのせいではない。


 そんな言葉で軽くできるものではない。


 だから、ルイスは何も言わなかった。


 バルドはそれを責めなかった。


 むしろ、その沈黙に少し救われたように見えた。


「台帳を」


 バルドは静かに言った。


「ご覧ください」


 ルイスは頷き、古い台帳を開いた。


 紙が乾いた音を立てる。


 十年前。


 旧東工房区画事故の前後。


 払い下げ記録。


 魔導金属。


 破損備品。


 研究用魔石。


 冷却石。


 ルイスの指が止まった。


「……冷却石」


 小さく呟く。


 バルドの肩がわずかに揺れた。


 その反応で、ルイスは確信する。


 ここだ。


「この記録」


 ルイスは慎重に言葉を選ぶ。


「事故後にも、冷却石の払い下げがありますね」


「……はい」


「旧東工房区画は封鎖されたはずです」


「その通りです」


「では、なぜ事故後に冷却石が払い下げられているのでしょう」


 沈黙。


 バルドは答えない。


 ルイスはページを見つめる。


 払い下げ先。


 黒羽運搬社。


 見慣れない名前。


 だが、“黒”という字が妙に目に刺さった。


「黒羽運搬社……」


 ルイスが呟いた。


 バルドの顔色が変わる。


「殿下」


「はい」


「その名は、ここでは口にしない方がよろしい」


 声が震えていた。


 恐怖。


 それは明確な恐怖だった。


「……黒い鳥」


 ルイスの中で、セドたちから届いた情報が重なる。


 黒い鳥の紋章。


 荷車。


 旧東工房区画。


 黒羽運搬社。


 同じものか。


 少なくとも、繋がっている可能性は高い。


「バルドさん」


 ルイスは静かに聞いた。


「黒羽運搬社とは何ですか」


 バルドは口を閉じた。


 その顔には、言ってはいけないという恐怖と、言わなければならないという痛みが同時に浮かんでいた。


 長い沈黙。


 ルイスは急かさない。


 遠くで職員が笑う声がした。


 別の場所では、何事もない日常が続いている。


 その日常の端で、二人だけが十年前の影に触れていた。


「……運搬社ではありません」


 やがて、バルドは言った。


「少なくとも、私が知る限りは」


「では」


「選別機関です」


 ルイスの指が、台帳の上で止まる。


「選別……」


「事故後、旧東工房区画から回収されたものの一部は、正式な組合管理ではなく、黒羽へ流されました」


「何のために?」


「分かりません」


 バルドは首を振った。


「ただ、価値あるものだけを運び出し、価値なしと判断されたものは封鎖区画に残された」


 価値あるもの。


 価値なし。


 ルイスの胸の奥が、静かに熱くなる。


 それは怒りに近かった。


 誰かが選んだ。


 残すものと、捨てるものを。


 物だけではなく、もしかしたら人も。


「……人は」


 ルイスは慎重に聞いた。


「人も、選ばれたのですか」


 バルドは答えなかった。


 答えないことが、答えに近かった。


 ルイスは唇を結ぶ。


 感情が胸の奥から上がってくる。


 怒り。


 恐怖。


 悔しさ。


 でも、それをそのまま出してはいけない。


 今、自分がすべきことは、叫ぶことではない。


 知ることだ。


 選ぶために。


「……ありがとうございます」


 ルイスは静かに言った。


「この記録、書き写しても?」


「全ては危険です」


 バルドがすぐに言う。


「必要な部分だけ。名前を直接書かず、符号にしてください」


「分かりました」


「殿下」


「はい」


 バルドはルイスを見た。


「この流れを追うなら、慎重に」


「はい」


「本当に、慎重に」


 その声には、十年前から続く恐怖があった。


 ルイスは深く頷いた。


「約束します」


 そして、心の中で思った。


 セドにも、同じことを言わなければならない。


 慎重に。


 急がず。


 でも、止まらず。


 


 同じ頃。


 ロイドの店では、午後の買い取りが始まっていた。


 ニコたちは、店の貼り紙の前で小さな子供たちに説明していた。


「ここ、駄目だからな」


 ニコが胸を張って言う。


「東水路の石は拾っちゃ駄目」


「何で?」


 幼い少年が聞く。


「危ないから」


「どう危ないの?」


 ニコは詰まった。


「えーっと……セド!」


 店内からセドが出てくる。


「何でしょう」


「どう危ないか、簡単に!」


 ロイドが奥で吹き出した。


「難しい注文だな」


 セドは少し考える。


 そして、幼い少年の前にしゃがんだ。


「熱が残っている石があります」


「熱?」


「触ると怪我をするかもしれません」


「火傷?」


「はい。それに、割れる可能性もあります」


「爆発?」


「小さく割れることがあります」


 少年の顔が少し怖くなる。


 セドはすぐに続けた。


「だから、拾わなければ大丈夫です」


「拾わない」


「はい。見つけたら、大人に知らせてください」


「うん」


 少年は頷いた。


 ニコが満足そうに言う。


「な? 拾わない方がいいだろ」


「うん」


 リナが横から補足する。


「あと、見に行くのも駄目」


「どうして?」


「帰り道が危ない」


 リナの言葉は短いが、真剣だった。


「暗いし、変な大人がいるかもしれない」


「変な大人?」


「いる」


 トマが低く言う。


「だから、行かない」


 小さな子供たちは、少し怖がりながらも頷いた。


 その様子を、ロイドは店の中から見ていた。


「……子供が子供に教えてる」


 ぽつりと呟く。


 ミラが横で頷いた。


「流れてる」


「そうだな」


 ロイドは小さく笑った。


「良い流れだ」


 恐怖だけではない。


 注意が流れている。


 約束が流れている。


 小さな子供たちの間にも、守るための言葉が広がっている。


 それはまだ頼りない。


 すぐに破れるかもしれない。


 でも、何もないよりずっといい。


 セドもそれを見ていた。


 胸の奥に、静かな感情が残る。


 自分一人では作れないもの。


 店が作り、人が運び、子供たちが広げるもの。


「セド」


 ロイドが声をかける。


「はい」


「貼り紙、正解だったかもな」


 セドは少しだけ外を見る。


 紙の前で、子供たちが真剣に話している。


 通りの大人たちも、それを見守っている。


「……まだ分かりません」


「相変わらず慎重だな」


「ですが」


 一拍。


「少なくとも、何もしないよりは良かったと思います」


 ロイドは笑った。


「それで十分だ」


 その時。


 遠くの通りを、黒い鳥の紋章が刻まれた荷車が通った。


 一台だけ。


 ゆっくりと。


 人々の視線がそちらへ向く。


 ざわめきが小さく広がる。


 だが、昨日までと違い、追いかけようとする者はいなかった。


 誰かが小声で言う。


「近づくなよ」


「見るだけにしとけ」


「子供を下げろ」


 人々が自然に距離を取る。


 恐怖はある。


 しかし、行動が少し変わっている。


 セドはそれを見た。


 黒い鳥の荷車の横で、黒外套の男――クロウが一瞬だけこちらを見た。


 目が合う。


 クロウは薄く笑った。


 その笑みは、いつものように読めない。


 だが、今日はほんの少しだけ違った。


 面白がっているようで。


 試しているようで。


 そして、どこかで納得しているようにも見えた。


 荷車は通り過ぎる。


 人々は距離を保ったまま見送る。


 誰も近づかない。


 誰も騒ぎすぎない。


 流れが変わっている。


 ほんの少し。


 本当に、ほんの少しだけ。


 けれど確かに。


「……」


 セドは静かに息を吐いた。


 黒羽運搬社。


 王城の記録。


 冷却石。


 東水路。


 旧東工房区画。


 外側と内側で、同じ流れに近づいていることを、彼はまだ知らない。


 だが、何かが近づいている感覚はあった。


 大きなもの。


 十年前に隠され、今また動き始めたもの。


 それに対して、自分たちの灯りはあまりに小さい。


 それでも。


 今日、人々は黒い鳥を追いかけなかった。


 子供たちは水路へ行かなかった。


 店の貼り紙は、ただの紙では終わらなかった。


 それは確かだった。


 ロイドが隣で言う。


「なぁ、セド」


「はい」


「小さいけどさ」


 一拍。


「少しは、変えられてるのかもな」


 セドは群衆を見た。


 貼り紙を見る人。


 子供の手を引く親。


 灯り石を買って帰る老人。


 黒い鳥から距離を取る若者。


 全部、ほんの少しの変化。


「はい」


 セドは静かに答えた。


「少しずつ」


 その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

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