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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第38話



 朝のロイドの店は、いつもより静かだった。


 人がいないからではない。


 開店前の店内には、ロイド、セド、ガルド、ミラが揃っている。


 作業台の上には、布に包まれた黒ずんだ欠片。


 旧型魔導炉の冷却石かもしれないもの。


 昨日、子供たちが東の古い水路付近で拾ってきたものだ。


 夜間用灯り石の柔らかな光の下で、その欠片は小さく沈黙していた。


 ただの石に見える。


 けれど、そこには微かな青い線が走っている。


 まるで、死んだはずの血管に、まだ何かが流れているような光だった。


「……見れば見るほど、嫌な石だな」


 ロイドが腕を組みながら言った。


 声は軽くしようとしている。


 だが、目は笑っていない。


 ガルドは欠片を睨んだまま、低く息を吐いた。


「冷却石なら、本来こんな残り方はしねぇ」


「昨日も言ってたな」


「ああ」


 ガルドは指先で、布の端を少しだけ動かした。


 直接触れない。


 それだけで危険度が伝わる。


「冷却石ってのは、魔導炉の熱と魔力の流れを逃がすためのものだ。役目を終えりゃ、魔力は抜ける。割れて十年も経てば、ただの濁った石になる」


「なのに、これは違う」


 セドが言う。


「そうだ」


 ガルドの声がさらに低くなる。


「まだ“流れてる”」


 その言葉に、店の空気が少しだけ沈む。


 流れている。


 最近、この言葉が何度も出てくる。


 人の流れ。


 金の流れ。


 情報の流れ。


 恐怖の流れ。


 そして、今度は魔力の流れ。


 旧東工房区画は、十年前に止まった場所のはずだった。


 事故で壊れ、封鎖され、誰も近づかない場所。


 なのに、そこから水路を伝って流れてきた欠片が、まだ生きている。


「……これ、エルマさんなら分かるのか」


 ロイドが聞く。


「おそらく」


 セドが答える。


「魔導炉技師です。旧東工房区画に関わっていた可能性も高い」


「可能性って言うけどよ」


 ロイドは眉をひそめた。


「聞いてくれると思うか?」


「分かりません」


「だよなぁ」


 ロイドは天井を見上げた。


「昨日の感じだと、簡単に教えてくれるタイプじゃなかったぞ。むしろ、余計なこと聞いたら工具投げてきそうだった」


「工具を投げるのは危険です」


 ミラが静かに言う。


「そういう意味じゃねぇよ」


「でも、やりそう」


 ガルドがぼそりと言った。


「否定できないのが怖ぇんだよなぁ……」


 ロイドは頭を抱えた。


 その横で、ミラは棚の整理をしている。


 今日は午前中、店を休みにする。


 張り紙も出した。


 “本日午前は仕入れ確認のため休業。午後より営業予定。”


 ロイドが悩みながら書いた文面だ。


 客は少し戸惑うだろう。


 だが、今は仕方ない。


「ミラ」


 セドが声をかける。


「はい」


「店番をお願いします」


「分かってる」


「ニコたちが来た場合は」


「午後に来るよう言う」


「旧東、水路には近づかないように」


「言う」


「もし不審な者が」


「入れない」


「……」


 セドが少しだけ言葉を止めた。


 ミラは表情を変えずに見返す。


「何」


「いえ」


「心配?」


「……はい」


 ロイドとガルドが少しだけセドを見た。


 以前なら、セドはそこで「必要な確認です」と言ったかもしれない。


 だが今は、心配だと認めた。


 それだけのことなのに、店の空気がほんの少し変わった。


 ミラも、それを分かっているように、小さく頷いた。


「大丈夫」


 短い言葉。


 けれど、しっかりした声だった。


「私も、逃げる」


 ロイドが思わず笑った。


「そこまでセットで言うのか」


「大事」


「まぁ、大事だな」


 ガルドも頷く。


「相手が黒外套なら、正面から相手すんな。迷わず逃げろ」


「うん」


 ミラは淡々と答える。


 その落ち着きが、逆に少し頼もしかった。


 セドは布に包まれた欠片を慎重に箱へ入れた。


 外から見えないように、普通の材料箱に紛れ込ませる。


 ロイドがそれを見ながら、深く息を吐いた。


「……よし」


 一拍。


「行くか」


「はい」


 ガルドも工具袋を肩にかけた。


「エルマ相手なら、俺も話せる」


「喧嘩しないでください」


 セドが言う。


 ガルドは鼻を鳴らした。


「相手次第だ」


「それは喧嘩する人の返答です」


「職人同士の会話だ」


「それを一般的には喧嘩って言うんだよ」


 ロイドが横から突っ込む。


 ガルドは不満そうに顔をしかめたが、反論はしなかった。


 ミラが扉の前で三人を見送る。


「気をつけて」


 短い一言。


 だが、それだけで十分だった。


「行ってきます」


 セドが言う。


 ロイドは手を振り、ガルドは軽く顎を動かした。


 三人は朝の王都へ出た。


 


 通りには、すでに人の流れがあった。


 ロイドの店の前には、張り紙を見て立ち止まる者が数人いる。


「午前休みだって」


「仕入れ確認か」


「夜用の灯り石、午後には買えるのかねぇ」


「昨日買ったけど、あれ良かったよ」


「うちも欲しいんだよ。母親が夜に転びそうでさ」


 そんな会話が耳に入る。


 ロイドは歩きながら、少しだけ足を止めそうになった。


「……戻りたくなるな」


「何故ですか」


 セドが聞く。


「客が待ってる」


 ロイドは苦笑した。


「昔は客なんて来なくて困ってたのに、今は休みにするのが落ち着かねぇ」


 その声には、どこか嬉しさと不安が混じっていた。


 店が動いている。


 その実感があるからこそ、店を空けるのが怖い。


「午後には戻ります」


 セドが言う。


「本当に?」


「予定では」


「予定って言うな。怖い」


「では、戻ります」


「よし」


 ロイドは頷いた。


 ガルドが隣で低く笑う。


「店主らしくなったな」


「からかうなよ」


「からかってねぇ」


 ガルドは前を見る。


「店を気にするってのは、悪いことじゃねぇ」


 ロイドは少しだけ黙った。


 そして、肩をすくめる。


「……そうかもな」


 通りの先では、旧東工房区画の方角を見ている人々がいた。


 昨日よりも、噂は広がっている。


 直接見に行く者は減ったようだが、不安は残っている。


 群衆の中で、男たちが小声で話していた。


「封鎖が広がったらしい」


「組合が何も言わないのが逆に怖いな」


「黒い鳥の荷車、昨夜も見たぞ」


「やめとけ。見たって言うだけで目をつけられる」


 恐怖が、街を歩いている。


 声を潜め。


 視線を逸らし。


 それでも、誰も完全には忘れられない。


 セドはその様子を見ながら、歩みを緩めた。


「……恐怖は、止まりませんね」


 ロイドが横目で見る。


「そりゃな」


「止めようとすると、逆に流れが強くなる」


「水みたいだな」


「はい」


 セドは小さく頷いた。


「なら、別の流れを作る必要があります」


「別の流れ?」


「はい」


 その答えを聞いて、ロイドは少し笑った。


「お前、最近そればっか考えてるな」


「必要ですので」


「ああ、出た」


 ロイドは笑う。


 だが、今の「必要ですので」は、少し違って聞こえた。


 ただの口癖ではない。


 セドが本当に、そう思っている声だった。


 


 東外れに近づくにつれて、人の数は減っていった。


 工房街の喧騒から離れ、道は少しずつ荒れていく。


 昨日歩いた道。


 ロイドは周囲を見ながら、また少し肩を縮めた。


「……やっぱここ、静かすぎる」


「はい」


「昨日よりも?」


 ガルドが聞く。


 セドは少しだけ周囲を見回す。


「人の気配はあります」


「でも、見えねぇ」


「見られています」


 ロイドが嫌そうな顔をした。


「そういうことをさらっと言うな」


 建物の隙間。


 半開きの窓。


 割れた壁の影。


 そこに、確かに視線がある。


 住人たちは、直接出てこない。


 だが、見ている。


 誰がエルマの工房へ向かうのか。


 誰が旧東工房区画の話に近づくのか。


 この場所では、言葉より視線の方が多い。


「……あまり歓迎されていませんね」


 セドが言う。


「そりゃそうだろ」


 ガルドが低く答えた。


「十年前の傷跡に近づく余所者なんざ、気味悪いだけだ」


「余所者」


 ロイドが少しだけ複雑そうに呟く。


「俺たち、王都の人間なのにな」


「地区が違えば余所者だ」


 ガルドの言葉は重い。


「職人街も、処理場も、東外れも、それぞれ流れが違う」


「……街の中にも、いくつも街があるってことか」


「そうだ」


 セドはその会話を聞いていた。


 街を見る。


 物ではなく。


 人だけでもなく。


 流れを見る。


 エルマの言葉が、少しずつ現実の形を持っていく。


 この東外れには、恐怖と沈黙の流れがある。


 それは十年前から続いているのかもしれない。


 止まっているように見えて、ずっと静かに流れていたもの。


 そこへ今、黒い鳥が再び何かを運び込んでいる。


 


 エルマの工房跡地へ着くと、昨日と同じように、外観は廃墟に見えた。


 半ば崩れた壁。


 折れた煙突。


 枯れた草。


 割れた窓。


 だが、近づくと分かる。


 人が暮らしている。


 入口付近の足跡。


 古いが手入れされた道具。


 外へ干された布。


 小さな生活の痕跡。


「……やっぱ変な場所だな」


 ロイドが呟く。


「廃墟なのに、人が生きてる」


「エルマらしい」


 ガルドが言う。


「知り合いみたいに言うなよ」


「職人はだいたいこういう面がある」


「偏見じゃねぇのか」


「半分は事実だ」


 セドが扉の前に立つ。


 ノックする。


 静かな音が、古い工房の中へ吸い込まれていった。


 少しの沈黙。


 返事はない。


 ロイドがセドを見る。


「いない?」


「中にいます」


「何で分かるんだよ」


「音が止まりました」


 ロイドは耳を澄ませた。


 何も聞こえない。


 だが、セドには何かが聞こえていたらしい。


 数秒後。


 中から、低い声がした。


「昨日の今日でまた来るとはねぇ」


 扉が少し開く。


 エルマが顔を出した。


 白髪。


 魔導レンズ。


 鋭い目。


 昨日と変わらない。


 だが、ガルドを見ると、少しだけ眉を上げた。


「今日は増えてるじゃないか」


「ガルドです」


 セドが言う。


「職人です」


「見りゃ分かる」


 エルマはガルドを上から下まで見た。


「工具の持ち方が雑だね」


 ガルドの眉が動く。


「初対面でそれか」


「初対面だから言うんだよ」


「……」


 ロイドが慌てて二人の間に入る。


「待て待て待て! 今日は喧嘩しに来たんじゃない!」


「してない」


 エルマとガルドが同時に言った。


 ロイドは頭を抱える。


「もう嫌だこの職人たち……」


 セドは静かに箱を差し出した。


「見ていただきたいものがあります」


 エルマの目が細くなる。


 冗談めいた空気が、一瞬で消えた。


「……入んな」


 短い言葉。


 三人は工房の中へ入った。


 


 中は昨日と同じように、外見よりずっと整えられていた。


 工具は古いが手入れされている。


 本は積まれているが、必要なものはすぐ取り出せるようになっている。


 小型魔導炉は静かに低い音を立てていた。


 その音が、工房の奥で小さく響く。


 ロイドは昨日より少し落ち着いて周囲を見る余裕があった。


 壁には古い図面。


 魔力循環の線。


 冷却経路。


 炉心構造。


 何が何だか分からない。


 だが、ここがただの住居ではないことだけは分かる。


 エルマは作業台の前に立った。


「出しな」


 セドは箱を置き、布を開いた。


 黒ずんだ冷却石の欠片。


 青い線が、内側で微かに揺れる。


 その瞬間。


 エルマの顔から、表情が消えた。


「……どこで拾った」


 声が低い。


 昨日までの皮肉や荒さが消えている。


 ガルドもその変化に気づき、黙った。


「東の古い水路付近です」


 セドが答える。


「子供たちが持ち込みました。現在、その区域には近づかないよう伝えています」


「……触ったのかい」


「はい。ただし、長時間ではありません」


「馬鹿が」


 エルマは吐き捨てるように言った。


 だが、怒りの矛先はセドたちではないようだった。


 もっと古いものへ向けられている。


 エルマは厚い手袋をはめ、欠片を慎重に持ち上げた。


 光にかざす。


 魔導レンズが小さく音を立てて動いた。


「……生きてる」


 その一言が、工房の空気を冷やした。


 ロイドが息を飲む。


「生きてるって……」


「魔力が流れてる」


 エルマは言う。


「しかも、自然残留じゃない」


「どういう意味ですか」


 セドが問う。


「これは、どこかから流れてきたんじゃない」


 エルマは欠片を作業台に置いた。


「今も、どこかと繋がっていた可能性がある」


 沈黙。


 その言葉の意味を、誰もすぐには飲み込めなかった。


 ロイドがようやく声を出す。


「……ちょっと待ってくれ」


「待たない」


「いや待ってくれ本当に」


 ロイドは額を押さえた。


「十年前の事故の欠片が、今もどこかと繋がってるってことか?」


「そう言った」


「それ、普通なのか?」


「普通なら、あり得ない」


 エルマの返答は即答だった。


「じゃあ、何で」


「誰かが流してる」


 工房内が静まり返る。


 誰かが流している。


 つまり、旧東工房区画は完全な廃墟ではない。


 今も、魔力の流れが動いている。


 そして、その欠片が水路まで流れてきた。


「……黒い鳥ですか」


 セドが低く言う。


 エルマはすぐには答えなかった。


 欠片を見下ろし、指先で机を軽く叩く。


 一度。


 二度。


 三度。


「断定はしない」


「可能性は」


「ある」


 エルマは短く言った。


「でも、黒い鳥だけじゃない」


「他にも?」


「組合」


 ガルドが舌打ちした。


「やっぱりか」


「旧東工房区画の封鎖権限は、表向き組合が持ってる」


 エルマは言った。


「でも、実際にあそこを完全に管理するには、組合だけじゃ足りない」


「王城側も関わっていますか」


 セドの問いに、エルマの目が鋭くなった。


 その沈黙で、答えは十分だった。


 ロイドは小さく顔をしかめる。


「……王城まで来るのかよ」


「昔から来てる」


 エルマは低く言った。


「事故のあと、全部が早すぎた。封鎖も、調査打ち切りも、記録の整理も」


「隠したんですね」


 セドが言う。


 エルマは笑わなかった。


「隠したんじゃない」


 一拍。


「選んだんだ」


「選んだ?」


「表に出すものと、消すものを」


 その言葉は重かった。


 価値あるものを拾う。


 価値なしを捨てる。


 黒い鳥のやり方。


 それと同じ構造が、十年前にもあった。


「……生存者は、あなただけですか」


 セドが静かに聞いた。


 空気が、さらに冷えた。


 ロイドが小さく息を止める。


 ガルドも、何も言わない。


 エルマは長い沈黙のあと、ゆっくり欠片から手を離した。


「その質問をしに来たわけじゃないんだろう」


「はい」


「なら、今日は聞くな」


「……分かりました」


 セドはすぐに引いた。


 ロイドは内心で少し驚く。


 いつものセドなら、必要なら踏み込む。


 だが今は違った。


 踏み込むべきではない線を、ちゃんと見た。


 エルマもそれに気づいたのか、少しだけ目を細めた。


「少しは街が見えてきたかい」


「まだです」


 セドは正直に答えた。


「ですが、以前よりは」


「そうかい」


 エルマは小さく鼻を鳴らした。


「なら、この石は置いていきな」


「危険ですか」


「危険だ」


「分析できますか」


「できる」


「お願いします」


「簡単に頼むねぇ」


 エルマはため息を吐いた。


「ただし、条件がある」


「伺います」


「旧東工房区画にはまだ入るな」


「……」


「返事」


「分かりました」


「本当にかい?」


「はい」


 エルマはセドをじっと見る。


「お前、嘘は下手そうだね」


「よく言われます」


「なら信じる」


 ロイドが横から小さく言う。


「俺たちも見張ります」


「そうしな」


 エルマは即答した。


「この坊主は、放っておくと死ぬ側へ歩く」


「ですよね!!」


 ロイドが強く頷く。


 セドは少しだけ眉を寄せた。


「そこまででは」


「そこまでだ」


 ガルドが言う。


「そこまで」


 ロイドも言う。


「昨日よりはマシ」


 エルマまで言った。


 セドは黙った。


 四方向から言われると、さすがに反論しづらい。


 工房内に、ほんの少し笑いが生まれた。


 重い話の中の、小さな緩み。


 だが、それがあるから人は話を続けられる。


 エルマは冷却石を奥の箱へ移した。


「結果が出たら知らせる」


「ありがとうございます」


「礼は早い」


 エルマはセドを見た。


「それと、もう一つ」


「何でしょう」


「東の古い水路には、誰も近づけるな」


「はい」


「水路は旧東と繋がってる」


 ガルドの顔が険しくなる。


「やっぱりか」


「あそこは昔、冷却排水路だった」


「魔導炉の?」


「そうだ」


 エルマの声が低くなる。


「もし冷却石が流れてきたなら、炉の残骸が再び動いたか、誰かが動かしたか」


 沈黙。


 どちらにしても、最悪だった。


「……分かりました」


 セドは静かに頷いた。


「水路周辺も警戒します」


「警戒だけじゃ足りない」


 エルマは言う。


「人を近づけない流れを作りな」


 その言葉に、セドは目を伏せる。


 人を近づけない流れ。


 ただ禁止するだけでは駄目だ。


 恐怖で縛れば、逆に好奇心が生まれる。


 なら、どうするか。


「……情報の出し方を考えます」


「そうしな」


 エルマは椅子に腰を下ろした。


「恐怖は隠すと増える。煽っても増える」


「では」


「必要なだけ、正しく流す」


 セドはその言葉を深く受け止めた。


 正しく流す。


 それは簡単ではない。


 だが、今必要なのはそれだった。


 


 その頃。


 王城の備品保管庫は、静かな場所だった。


 書庫ほど整ってはいない。


 だが、雑然としながらも独特の秩序がある。


 棚には古い備品。


 壊れた燭台。


 使われなくなった魔道具。


 儀式用の布。


 予備の器具。


 そして、記録帳。


 ルイスは保管庫の入口で、少しだけ息を整えた。


 ここへ来る理由は用意してある。


 王城の備品管理に興味を持っている。


 王族として城の流れを学びたい。


 嘘ではない。


 けれど、本当の目的は別だ。


 バルド・レイス。


 十年前の旧東工房区画事故調査補佐。


 現在は、この備品保管庫の補助職。


「……落ち着け」


 小さく呟く。


 足元の影が、ほんの少し揺れた。


 ノクスの気配。


 ――恐れている?


「少し」


 ルイスは正直に答えた。


「でも、逃げたいわけじゃない」


 ――なら、歩きなさい。


「うん」


 ルイスは扉を開けた。


 中にいた職員が顔を上げる。


 若い者ではない。


 中年の男性。


 少し疲れた顔。


 書類を運んでいた手が止まる。


「……ルイス殿下?」


「急にすみません」


 ルイスは柔らかく笑った。


「少し、備品保管庫の仕事を見せてもらいたくて」


 職員は驚いたように瞬きした。


「こ、このような場所を、ですか」


「はい。王城がどう回っているのか、知りたいんです」


「……」


 職員は少しだけ戸惑いながらも、頭を下げた。


「かしこまりました。私はバルド・レイスと申します」


 ルイスの心臓が、静かに跳ねた。


 見つけた。


 けれど、顔には出さない。


「よろしくお願いします、バルドさん」


「殿下にそのように呼ばれるほどの者では……」


「でも、ここを支えている方でしょう?」


 バルドは一瞬、言葉を失った。


 その反応に、ルイスは気づいた。


 この人は、そう言われ慣れていない。


 支えている。


 ただそれだけの言葉に、驚くほど反応した。


「……恐れ入ります」


 バルドは小さく頭を下げた。


 ルイスは保管庫の中を見る。


「ここには、使われなくなったものも多いんですね」


「はい。修繕待ちのもの、記録保存用、払い下げ前の備品などがございます」


「払い下げ前」


「はい」


「魔道具も?」


「一部は」


 バルドの声が少しだけ硬くなった。


 ルイスはそれを聞き逃さない。


「魔道具の管理は大変そうですね」


「……ええ」


「壊れているように見えても、危険なものもあるでしょうし」


 バルドの手が、わずかに止まった。


「殿下」


「はい」


「どなたかから、そのようなお話を?」


「いいえ」


 ルイスは穏やかに答える。


「ただ、最近少し気になっていて。使われなくなったものにも、扱い方があるのだろうと」


 嘘ではない。


 だが、踏み込みすぎてもいない。


 バルドはしばらくルイスを見ていた。


 そして、静かに視線を逸らす。


「……おっしゃる通りです」


 一拍。


「捨てたと思っても、残るものはあります」


 その言葉は、ただの備品の話ではなかった。


 ルイスはそう感じた。


「残るもの」


「はい」


 バルドは棚の奥へ視線を向ける。


「物にも、記録にも、人にも」


 沈黙。


 保管庫の空気が少し重くなる。


 ルイスは焦らなかった。


 ここで旧東工房区画の名前を出せば、たぶん警戒される。


 だから、別の話から入る。


「バルドさんは、長くこちらに?」


「……十年ほどになります」


 十年。


 事故後から。


「その前は?」


 バルドの顔が、ほんの少し強張った。


「工房管理部に」


「そうなんですね」


 ルイスはそれ以上踏み込まない。


 沈黙を置く。


 紙の匂い。


 古い木箱の匂い。


 遠くで誰かが台車を動かす音。


 その小さな音の中で、バルドの呼吸だけが少し乱れている気がした。


「……殿下」


 先に口を開いたのは、バルドだった。


「なぜ、備品管理に興味を?」


 ルイスは少しだけ考えた。


 用意していた答えはいくつもある。


 王族として学びたい。


 兄に言われた。


 城の構造を知りたい。


 どれも嘘ではない。


 でも、今必要なのは、もう少し本音に近いものだと思った。


「……見えない場所で、誰かが支えていることを知ったからです」


 バルドの目が少し動いた。


 ルイスは続ける。


「王城は、表から見ると綺麗です。でも、その裏には、運ぶ人、直す人、記録する人、片付ける人がいる」


 一拍。


「僕は、それを見ていなかった」


 バルドは黙っている。


「だから、見たいと思いました」


 ルイスの声は静かだった。


「自分が知らなかった流れを」


 バルドの顔色が、わずかに変わる。


 流れ。


 その言葉が何かに触れた。


「……流れ、ですか」


「はい」


 ルイスは頷く。


「物も、人も、情報も。止まっているように見えて、どこかへ流れているのだと思います」


 バルドは長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。


「……殿下」


「はい」


「見ない方がよい流れも、ございます」


 ルイスの胸が少しだけ強く鳴った。


「それでも」


 言葉が自然に出た。


「見なければ、選べません」


 バルドは目を見開いた。


 その顔は、驚きだけではない。


 どこか、痛みに触れられたような表情だった。


「……どなたの言葉ですか」


「僕の言葉です」


 ルイスは静かに答えた。


 バルドはしばらく何も言わなかった。


 やがて、深く頭を下げる。


「本日は、保管庫の通常業務をご案内いたします」


「はい」


「ただし」


 バルドは声を落とした。


「もし、本当に流れを知りたいのであれば」


 ルイスは黙って聞く。


「古い払い下げ台帳を見るべきです」


「払い下げ台帳」


「十年前のものです」


 心臓が跳ねる。


 だが、ルイスは表情を抑えた。


「閲覧できますか」


「通常は難しいです」


「……」


「ですが、整理のために一部がこちらへ移っています」


 バルドは静かに棚の奥を見た。


「本日ではありません」


「はい」


「急げば、見つかります」


 その言葉は忠告だった。


 急ぐな。


 焦るな。


 それでも、道はある。


「ありがとうございます」


 ルイスは丁寧に頭を下げた。


 バルドが慌てる。


「殿下、そのような」


「教えてくれたことへの礼です」


 バルドは言葉を失った。


 そして、どこか苦しそうに目を伏せる。


「……私は」


 一度、言葉が止まる。


「十年前、何も選べませんでした」


 ルイスは何も言わない。


 バルドはすぐに顔を上げた。


「失礼しました。今のは忘れてください」


「……分かりました」


 忘れられるはずはない。


 だが、今はそう答えるしかなかった。


 その一言は、確かに重かった。


 十年前、何も選べなかった。


 なら、この人は何かを見た。


 そして、選べなかったことを今も抱えている。


 ルイスは備品保管庫の奥へ視線を向けた。


 古い台帳。


 十年前の払い下げ。


 旧東工房区画。


 王城側の流れ。


 また一つ、道が見えた。


 


 夕方。


 セドたちが店へ戻ると、ミラはいつも通り作業台にいた。


 だが、店内にはニコたちもいて、少しだけざわついていた。


「セド!」


 ニコがすぐに駆け寄る。


「水路、みんなに言った!」


「そうですか」


「誰も行かないって!」


「ありがとうございます」


「あと、変な大人がいた」


 空気が変わった。


 ロイドがすぐに前へ出る。


「どこで」


「水路の近く」


 トマが答える。


「黒外套じゃない。でも、工房街の人じゃなかった」


「何をしていましたか」


 セドが聞く。


「水路を見てた」


 リナが小さく言う。


「何か探してるみたいだった」


 セドとガルドが視線を交わす。


 冷却石。


 水路。


 誰かが探している。


 つまり、あの欠片は偶然流れたものではない可能性が高まった。


「近づきましたか」


「近づいてない!」


 ニコがすぐ答える。


「ちゃんと逃げた!」


「良い判断です」


 セドは静かに言った。


 ニコは少しだけ誇らしげに笑った。


 その笑顔を見て、セドは少しだけ胸の奥が重くなる。


 子供たちが、危険を覚え始めている。


 それは必要なことだ。


 だが、本来なら、こんな危険を覚えずに済む方がいい。


「……ロイドさん」


「何だ」


「明日から、水路周辺の注意を店にも掲示します」


「分かった」


「ただし、恐怖を煽らない形で」


「難しいな」


「はい」


 ロイドは少し考えた。


「“東水路付近の魔石片は危険性があるため買い取り不可。近づかず、拾わず、見つけた場合は大人へ知らせること”……こんな感じか?」


「良いと思います」


「お、珍しく一発で通った」


「分かりやすいです」


「だろ」


 ロイドは少しだけ得意げに笑った。


 ミラが横から言う。


「顔、うるさい」


「顔!?」


 その場に小さな笑いが起きる。


 不安はある。


 危険も近づいている。


 だが、店の中にはまだ笑いが残っていた。


 それが、セドには少しだけ救いに思えた。


 夜間用灯り石が、棚の上で柔らかく光っている。


 外には、暗い流れがある。


 だが、この店の中にもまた、確かに流れがある。


 それを守らなければならない。


 セドは静かにそう思った。


 そして同じ頃。


 王城の奥でも、ルイスが同じように、別の流れを見つけ始めていることを。


 まだ、彼は知らなかった。

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