第38話
朝のロイドの店は、いつもより静かだった。
人がいないからではない。
開店前の店内には、ロイド、セド、ガルド、ミラが揃っている。
作業台の上には、布に包まれた黒ずんだ欠片。
旧型魔導炉の冷却石かもしれないもの。
昨日、子供たちが東の古い水路付近で拾ってきたものだ。
夜間用灯り石の柔らかな光の下で、その欠片は小さく沈黙していた。
ただの石に見える。
けれど、そこには微かな青い線が走っている。
まるで、死んだはずの血管に、まだ何かが流れているような光だった。
「……見れば見るほど、嫌な石だな」
ロイドが腕を組みながら言った。
声は軽くしようとしている。
だが、目は笑っていない。
ガルドは欠片を睨んだまま、低く息を吐いた。
「冷却石なら、本来こんな残り方はしねぇ」
「昨日も言ってたな」
「ああ」
ガルドは指先で、布の端を少しだけ動かした。
直接触れない。
それだけで危険度が伝わる。
「冷却石ってのは、魔導炉の熱と魔力の流れを逃がすためのものだ。役目を終えりゃ、魔力は抜ける。割れて十年も経てば、ただの濁った石になる」
「なのに、これは違う」
セドが言う。
「そうだ」
ガルドの声がさらに低くなる。
「まだ“流れてる”」
その言葉に、店の空気が少しだけ沈む。
流れている。
最近、この言葉が何度も出てくる。
人の流れ。
金の流れ。
情報の流れ。
恐怖の流れ。
そして、今度は魔力の流れ。
旧東工房区画は、十年前に止まった場所のはずだった。
事故で壊れ、封鎖され、誰も近づかない場所。
なのに、そこから水路を伝って流れてきた欠片が、まだ生きている。
「……これ、エルマさんなら分かるのか」
ロイドが聞く。
「おそらく」
セドが答える。
「魔導炉技師です。旧東工房区画に関わっていた可能性も高い」
「可能性って言うけどよ」
ロイドは眉をひそめた。
「聞いてくれると思うか?」
「分かりません」
「だよなぁ」
ロイドは天井を見上げた。
「昨日の感じだと、簡単に教えてくれるタイプじゃなかったぞ。むしろ、余計なこと聞いたら工具投げてきそうだった」
「工具を投げるのは危険です」
ミラが静かに言う。
「そういう意味じゃねぇよ」
「でも、やりそう」
ガルドがぼそりと言った。
「否定できないのが怖ぇんだよなぁ……」
ロイドは頭を抱えた。
その横で、ミラは棚の整理をしている。
今日は午前中、店を休みにする。
張り紙も出した。
“本日午前は仕入れ確認のため休業。午後より営業予定。”
ロイドが悩みながら書いた文面だ。
客は少し戸惑うだろう。
だが、今は仕方ない。
「ミラ」
セドが声をかける。
「はい」
「店番をお願いします」
「分かってる」
「ニコたちが来た場合は」
「午後に来るよう言う」
「旧東、水路には近づかないように」
「言う」
「もし不審な者が」
「入れない」
「……」
セドが少しだけ言葉を止めた。
ミラは表情を変えずに見返す。
「何」
「いえ」
「心配?」
「……はい」
ロイドとガルドが少しだけセドを見た。
以前なら、セドはそこで「必要な確認です」と言ったかもしれない。
だが今は、心配だと認めた。
それだけのことなのに、店の空気がほんの少し変わった。
ミラも、それを分かっているように、小さく頷いた。
「大丈夫」
短い言葉。
けれど、しっかりした声だった。
「私も、逃げる」
ロイドが思わず笑った。
「そこまでセットで言うのか」
「大事」
「まぁ、大事だな」
ガルドも頷く。
「相手が黒外套なら、正面から相手すんな。迷わず逃げろ」
「うん」
ミラは淡々と答える。
その落ち着きが、逆に少し頼もしかった。
セドは布に包まれた欠片を慎重に箱へ入れた。
外から見えないように、普通の材料箱に紛れ込ませる。
ロイドがそれを見ながら、深く息を吐いた。
「……よし」
一拍。
「行くか」
「はい」
ガルドも工具袋を肩にかけた。
「エルマ相手なら、俺も話せる」
「喧嘩しないでください」
セドが言う。
ガルドは鼻を鳴らした。
「相手次第だ」
「それは喧嘩する人の返答です」
「職人同士の会話だ」
「それを一般的には喧嘩って言うんだよ」
ロイドが横から突っ込む。
ガルドは不満そうに顔をしかめたが、反論はしなかった。
ミラが扉の前で三人を見送る。
「気をつけて」
短い一言。
だが、それだけで十分だった。
「行ってきます」
セドが言う。
ロイドは手を振り、ガルドは軽く顎を動かした。
三人は朝の王都へ出た。
通りには、すでに人の流れがあった。
ロイドの店の前には、張り紙を見て立ち止まる者が数人いる。
「午前休みだって」
「仕入れ確認か」
「夜用の灯り石、午後には買えるのかねぇ」
「昨日買ったけど、あれ良かったよ」
「うちも欲しいんだよ。母親が夜に転びそうでさ」
そんな会話が耳に入る。
ロイドは歩きながら、少しだけ足を止めそうになった。
「……戻りたくなるな」
「何故ですか」
セドが聞く。
「客が待ってる」
ロイドは苦笑した。
「昔は客なんて来なくて困ってたのに、今は休みにするのが落ち着かねぇ」
その声には、どこか嬉しさと不安が混じっていた。
店が動いている。
その実感があるからこそ、店を空けるのが怖い。
「午後には戻ります」
セドが言う。
「本当に?」
「予定では」
「予定って言うな。怖い」
「では、戻ります」
「よし」
ロイドは頷いた。
ガルドが隣で低く笑う。
「店主らしくなったな」
「からかうなよ」
「からかってねぇ」
ガルドは前を見る。
「店を気にするってのは、悪いことじゃねぇ」
ロイドは少しだけ黙った。
そして、肩をすくめる。
「……そうかもな」
通りの先では、旧東工房区画の方角を見ている人々がいた。
昨日よりも、噂は広がっている。
直接見に行く者は減ったようだが、不安は残っている。
群衆の中で、男たちが小声で話していた。
「封鎖が広がったらしい」
「組合が何も言わないのが逆に怖いな」
「黒い鳥の荷車、昨夜も見たぞ」
「やめとけ。見たって言うだけで目をつけられる」
恐怖が、街を歩いている。
声を潜め。
視線を逸らし。
それでも、誰も完全には忘れられない。
セドはその様子を見ながら、歩みを緩めた。
「……恐怖は、止まりませんね」
ロイドが横目で見る。
「そりゃな」
「止めようとすると、逆に流れが強くなる」
「水みたいだな」
「はい」
セドは小さく頷いた。
「なら、別の流れを作る必要があります」
「別の流れ?」
「はい」
その答えを聞いて、ロイドは少し笑った。
「お前、最近そればっか考えてるな」
「必要ですので」
「ああ、出た」
ロイドは笑う。
だが、今の「必要ですので」は、少し違って聞こえた。
ただの口癖ではない。
セドが本当に、そう思っている声だった。
東外れに近づくにつれて、人の数は減っていった。
工房街の喧騒から離れ、道は少しずつ荒れていく。
昨日歩いた道。
ロイドは周囲を見ながら、また少し肩を縮めた。
「……やっぱここ、静かすぎる」
「はい」
「昨日よりも?」
ガルドが聞く。
セドは少しだけ周囲を見回す。
「人の気配はあります」
「でも、見えねぇ」
「見られています」
ロイドが嫌そうな顔をした。
「そういうことをさらっと言うな」
建物の隙間。
半開きの窓。
割れた壁の影。
そこに、確かに視線がある。
住人たちは、直接出てこない。
だが、見ている。
誰がエルマの工房へ向かうのか。
誰が旧東工房区画の話に近づくのか。
この場所では、言葉より視線の方が多い。
「……あまり歓迎されていませんね」
セドが言う。
「そりゃそうだろ」
ガルドが低く答えた。
「十年前の傷跡に近づく余所者なんざ、気味悪いだけだ」
「余所者」
ロイドが少しだけ複雑そうに呟く。
「俺たち、王都の人間なのにな」
「地区が違えば余所者だ」
ガルドの言葉は重い。
「職人街も、処理場も、東外れも、それぞれ流れが違う」
「……街の中にも、いくつも街があるってことか」
「そうだ」
セドはその会話を聞いていた。
街を見る。
物ではなく。
人だけでもなく。
流れを見る。
エルマの言葉が、少しずつ現実の形を持っていく。
この東外れには、恐怖と沈黙の流れがある。
それは十年前から続いているのかもしれない。
止まっているように見えて、ずっと静かに流れていたもの。
そこへ今、黒い鳥が再び何かを運び込んでいる。
エルマの工房跡地へ着くと、昨日と同じように、外観は廃墟に見えた。
半ば崩れた壁。
折れた煙突。
枯れた草。
割れた窓。
だが、近づくと分かる。
人が暮らしている。
入口付近の足跡。
古いが手入れされた道具。
外へ干された布。
小さな生活の痕跡。
「……やっぱ変な場所だな」
ロイドが呟く。
「廃墟なのに、人が生きてる」
「エルマらしい」
ガルドが言う。
「知り合いみたいに言うなよ」
「職人はだいたいこういう面がある」
「偏見じゃねぇのか」
「半分は事実だ」
セドが扉の前に立つ。
ノックする。
静かな音が、古い工房の中へ吸い込まれていった。
少しの沈黙。
返事はない。
ロイドがセドを見る。
「いない?」
「中にいます」
「何で分かるんだよ」
「音が止まりました」
ロイドは耳を澄ませた。
何も聞こえない。
だが、セドには何かが聞こえていたらしい。
数秒後。
中から、低い声がした。
「昨日の今日でまた来るとはねぇ」
扉が少し開く。
エルマが顔を出した。
白髪。
魔導レンズ。
鋭い目。
昨日と変わらない。
だが、ガルドを見ると、少しだけ眉を上げた。
「今日は増えてるじゃないか」
「ガルドです」
セドが言う。
「職人です」
「見りゃ分かる」
エルマはガルドを上から下まで見た。
「工具の持ち方が雑だね」
ガルドの眉が動く。
「初対面でそれか」
「初対面だから言うんだよ」
「……」
ロイドが慌てて二人の間に入る。
「待て待て待て! 今日は喧嘩しに来たんじゃない!」
「してない」
エルマとガルドが同時に言った。
ロイドは頭を抱える。
「もう嫌だこの職人たち……」
セドは静かに箱を差し出した。
「見ていただきたいものがあります」
エルマの目が細くなる。
冗談めいた空気が、一瞬で消えた。
「……入んな」
短い言葉。
三人は工房の中へ入った。
中は昨日と同じように、外見よりずっと整えられていた。
工具は古いが手入れされている。
本は積まれているが、必要なものはすぐ取り出せるようになっている。
小型魔導炉は静かに低い音を立てていた。
その音が、工房の奥で小さく響く。
ロイドは昨日より少し落ち着いて周囲を見る余裕があった。
壁には古い図面。
魔力循環の線。
冷却経路。
炉心構造。
何が何だか分からない。
だが、ここがただの住居ではないことだけは分かる。
エルマは作業台の前に立った。
「出しな」
セドは箱を置き、布を開いた。
黒ずんだ冷却石の欠片。
青い線が、内側で微かに揺れる。
その瞬間。
エルマの顔から、表情が消えた。
「……どこで拾った」
声が低い。
昨日までの皮肉や荒さが消えている。
ガルドもその変化に気づき、黙った。
「東の古い水路付近です」
セドが答える。
「子供たちが持ち込みました。現在、その区域には近づかないよう伝えています」
「……触ったのかい」
「はい。ただし、長時間ではありません」
「馬鹿が」
エルマは吐き捨てるように言った。
だが、怒りの矛先はセドたちではないようだった。
もっと古いものへ向けられている。
エルマは厚い手袋をはめ、欠片を慎重に持ち上げた。
光にかざす。
魔導レンズが小さく音を立てて動いた。
「……生きてる」
その一言が、工房の空気を冷やした。
ロイドが息を飲む。
「生きてるって……」
「魔力が流れてる」
エルマは言う。
「しかも、自然残留じゃない」
「どういう意味ですか」
セドが問う。
「これは、どこかから流れてきたんじゃない」
エルマは欠片を作業台に置いた。
「今も、どこかと繋がっていた可能性がある」
沈黙。
その言葉の意味を、誰もすぐには飲み込めなかった。
ロイドがようやく声を出す。
「……ちょっと待ってくれ」
「待たない」
「いや待ってくれ本当に」
ロイドは額を押さえた。
「十年前の事故の欠片が、今もどこかと繋がってるってことか?」
「そう言った」
「それ、普通なのか?」
「普通なら、あり得ない」
エルマの返答は即答だった。
「じゃあ、何で」
「誰かが流してる」
工房内が静まり返る。
誰かが流している。
つまり、旧東工房区画は完全な廃墟ではない。
今も、魔力の流れが動いている。
そして、その欠片が水路まで流れてきた。
「……黒い鳥ですか」
セドが低く言う。
エルマはすぐには答えなかった。
欠片を見下ろし、指先で机を軽く叩く。
一度。
二度。
三度。
「断定はしない」
「可能性は」
「ある」
エルマは短く言った。
「でも、黒い鳥だけじゃない」
「他にも?」
「組合」
ガルドが舌打ちした。
「やっぱりか」
「旧東工房区画の封鎖権限は、表向き組合が持ってる」
エルマは言った。
「でも、実際にあそこを完全に管理するには、組合だけじゃ足りない」
「王城側も関わっていますか」
セドの問いに、エルマの目が鋭くなった。
その沈黙で、答えは十分だった。
ロイドは小さく顔をしかめる。
「……王城まで来るのかよ」
「昔から来てる」
エルマは低く言った。
「事故のあと、全部が早すぎた。封鎖も、調査打ち切りも、記録の整理も」
「隠したんですね」
セドが言う。
エルマは笑わなかった。
「隠したんじゃない」
一拍。
「選んだんだ」
「選んだ?」
「表に出すものと、消すものを」
その言葉は重かった。
価値あるものを拾う。
価値なしを捨てる。
黒い鳥のやり方。
それと同じ構造が、十年前にもあった。
「……生存者は、あなただけですか」
セドが静かに聞いた。
空気が、さらに冷えた。
ロイドが小さく息を止める。
ガルドも、何も言わない。
エルマは長い沈黙のあと、ゆっくり欠片から手を離した。
「その質問をしに来たわけじゃないんだろう」
「はい」
「なら、今日は聞くな」
「……分かりました」
セドはすぐに引いた。
ロイドは内心で少し驚く。
いつものセドなら、必要なら踏み込む。
だが今は違った。
踏み込むべきではない線を、ちゃんと見た。
エルマもそれに気づいたのか、少しだけ目を細めた。
「少しは街が見えてきたかい」
「まだです」
セドは正直に答えた。
「ですが、以前よりは」
「そうかい」
エルマは小さく鼻を鳴らした。
「なら、この石は置いていきな」
「危険ですか」
「危険だ」
「分析できますか」
「できる」
「お願いします」
「簡単に頼むねぇ」
エルマはため息を吐いた。
「ただし、条件がある」
「伺います」
「旧東工房区画にはまだ入るな」
「……」
「返事」
「分かりました」
「本当にかい?」
「はい」
エルマはセドをじっと見る。
「お前、嘘は下手そうだね」
「よく言われます」
「なら信じる」
ロイドが横から小さく言う。
「俺たちも見張ります」
「そうしな」
エルマは即答した。
「この坊主は、放っておくと死ぬ側へ歩く」
「ですよね!!」
ロイドが強く頷く。
セドは少しだけ眉を寄せた。
「そこまででは」
「そこまでだ」
ガルドが言う。
「そこまで」
ロイドも言う。
「昨日よりはマシ」
エルマまで言った。
セドは黙った。
四方向から言われると、さすがに反論しづらい。
工房内に、ほんの少し笑いが生まれた。
重い話の中の、小さな緩み。
だが、それがあるから人は話を続けられる。
エルマは冷却石を奥の箱へ移した。
「結果が出たら知らせる」
「ありがとうございます」
「礼は早い」
エルマはセドを見た。
「それと、もう一つ」
「何でしょう」
「東の古い水路には、誰も近づけるな」
「はい」
「水路は旧東と繋がってる」
ガルドの顔が険しくなる。
「やっぱりか」
「あそこは昔、冷却排水路だった」
「魔導炉の?」
「そうだ」
エルマの声が低くなる。
「もし冷却石が流れてきたなら、炉の残骸が再び動いたか、誰かが動かしたか」
沈黙。
どちらにしても、最悪だった。
「……分かりました」
セドは静かに頷いた。
「水路周辺も警戒します」
「警戒だけじゃ足りない」
エルマは言う。
「人を近づけない流れを作りな」
その言葉に、セドは目を伏せる。
人を近づけない流れ。
ただ禁止するだけでは駄目だ。
恐怖で縛れば、逆に好奇心が生まれる。
なら、どうするか。
「……情報の出し方を考えます」
「そうしな」
エルマは椅子に腰を下ろした。
「恐怖は隠すと増える。煽っても増える」
「では」
「必要なだけ、正しく流す」
セドはその言葉を深く受け止めた。
正しく流す。
それは簡単ではない。
だが、今必要なのはそれだった。
その頃。
王城の備品保管庫は、静かな場所だった。
書庫ほど整ってはいない。
だが、雑然としながらも独特の秩序がある。
棚には古い備品。
壊れた燭台。
使われなくなった魔道具。
儀式用の布。
予備の器具。
そして、記録帳。
ルイスは保管庫の入口で、少しだけ息を整えた。
ここへ来る理由は用意してある。
王城の備品管理に興味を持っている。
王族として城の流れを学びたい。
嘘ではない。
けれど、本当の目的は別だ。
バルド・レイス。
十年前の旧東工房区画事故調査補佐。
現在は、この備品保管庫の補助職。
「……落ち着け」
小さく呟く。
足元の影が、ほんの少し揺れた。
ノクスの気配。
――恐れている?
「少し」
ルイスは正直に答えた。
「でも、逃げたいわけじゃない」
――なら、歩きなさい。
「うん」
ルイスは扉を開けた。
中にいた職員が顔を上げる。
若い者ではない。
中年の男性。
少し疲れた顔。
書類を運んでいた手が止まる。
「……ルイス殿下?」
「急にすみません」
ルイスは柔らかく笑った。
「少し、備品保管庫の仕事を見せてもらいたくて」
職員は驚いたように瞬きした。
「こ、このような場所を、ですか」
「はい。王城がどう回っているのか、知りたいんです」
「……」
職員は少しだけ戸惑いながらも、頭を下げた。
「かしこまりました。私はバルド・レイスと申します」
ルイスの心臓が、静かに跳ねた。
見つけた。
けれど、顔には出さない。
「よろしくお願いします、バルドさん」
「殿下にそのように呼ばれるほどの者では……」
「でも、ここを支えている方でしょう?」
バルドは一瞬、言葉を失った。
その反応に、ルイスは気づいた。
この人は、そう言われ慣れていない。
支えている。
ただそれだけの言葉に、驚くほど反応した。
「……恐れ入ります」
バルドは小さく頭を下げた。
ルイスは保管庫の中を見る。
「ここには、使われなくなったものも多いんですね」
「はい。修繕待ちのもの、記録保存用、払い下げ前の備品などがございます」
「払い下げ前」
「はい」
「魔道具も?」
「一部は」
バルドの声が少しだけ硬くなった。
ルイスはそれを聞き逃さない。
「魔道具の管理は大変そうですね」
「……ええ」
「壊れているように見えても、危険なものもあるでしょうし」
バルドの手が、わずかに止まった。
「殿下」
「はい」
「どなたかから、そのようなお話を?」
「いいえ」
ルイスは穏やかに答える。
「ただ、最近少し気になっていて。使われなくなったものにも、扱い方があるのだろうと」
嘘ではない。
だが、踏み込みすぎてもいない。
バルドはしばらくルイスを見ていた。
そして、静かに視線を逸らす。
「……おっしゃる通りです」
一拍。
「捨てたと思っても、残るものはあります」
その言葉は、ただの備品の話ではなかった。
ルイスはそう感じた。
「残るもの」
「はい」
バルドは棚の奥へ視線を向ける。
「物にも、記録にも、人にも」
沈黙。
保管庫の空気が少し重くなる。
ルイスは焦らなかった。
ここで旧東工房区画の名前を出せば、たぶん警戒される。
だから、別の話から入る。
「バルドさんは、長くこちらに?」
「……十年ほどになります」
十年。
事故後から。
「その前は?」
バルドの顔が、ほんの少し強張った。
「工房管理部に」
「そうなんですね」
ルイスはそれ以上踏み込まない。
沈黙を置く。
紙の匂い。
古い木箱の匂い。
遠くで誰かが台車を動かす音。
その小さな音の中で、バルドの呼吸だけが少し乱れている気がした。
「……殿下」
先に口を開いたのは、バルドだった。
「なぜ、備品管理に興味を?」
ルイスは少しだけ考えた。
用意していた答えはいくつもある。
王族として学びたい。
兄に言われた。
城の構造を知りたい。
どれも嘘ではない。
でも、今必要なのは、もう少し本音に近いものだと思った。
「……見えない場所で、誰かが支えていることを知ったからです」
バルドの目が少し動いた。
ルイスは続ける。
「王城は、表から見ると綺麗です。でも、その裏には、運ぶ人、直す人、記録する人、片付ける人がいる」
一拍。
「僕は、それを見ていなかった」
バルドは黙っている。
「だから、見たいと思いました」
ルイスの声は静かだった。
「自分が知らなかった流れを」
バルドの顔色が、わずかに変わる。
流れ。
その言葉が何かに触れた。
「……流れ、ですか」
「はい」
ルイスは頷く。
「物も、人も、情報も。止まっているように見えて、どこかへ流れているのだと思います」
バルドは長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「……殿下」
「はい」
「見ない方がよい流れも、ございます」
ルイスの胸が少しだけ強く鳴った。
「それでも」
言葉が自然に出た。
「見なければ、選べません」
バルドは目を見開いた。
その顔は、驚きだけではない。
どこか、痛みに触れられたような表情だった。
「……どなたの言葉ですか」
「僕の言葉です」
ルイスは静かに答えた。
バルドはしばらく何も言わなかった。
やがて、深く頭を下げる。
「本日は、保管庫の通常業務をご案内いたします」
「はい」
「ただし」
バルドは声を落とした。
「もし、本当に流れを知りたいのであれば」
ルイスは黙って聞く。
「古い払い下げ台帳を見るべきです」
「払い下げ台帳」
「十年前のものです」
心臓が跳ねる。
だが、ルイスは表情を抑えた。
「閲覧できますか」
「通常は難しいです」
「……」
「ですが、整理のために一部がこちらへ移っています」
バルドは静かに棚の奥を見た。
「本日ではありません」
「はい」
「急げば、見つかります」
その言葉は忠告だった。
急ぐな。
焦るな。
それでも、道はある。
「ありがとうございます」
ルイスは丁寧に頭を下げた。
バルドが慌てる。
「殿下、そのような」
「教えてくれたことへの礼です」
バルドは言葉を失った。
そして、どこか苦しそうに目を伏せる。
「……私は」
一度、言葉が止まる。
「十年前、何も選べませんでした」
ルイスは何も言わない。
バルドはすぐに顔を上げた。
「失礼しました。今のは忘れてください」
「……分かりました」
忘れられるはずはない。
だが、今はそう答えるしかなかった。
その一言は、確かに重かった。
十年前、何も選べなかった。
なら、この人は何かを見た。
そして、選べなかったことを今も抱えている。
ルイスは備品保管庫の奥へ視線を向けた。
古い台帳。
十年前の払い下げ。
旧東工房区画。
王城側の流れ。
また一つ、道が見えた。
夕方。
セドたちが店へ戻ると、ミラはいつも通り作業台にいた。
だが、店内にはニコたちもいて、少しだけざわついていた。
「セド!」
ニコがすぐに駆け寄る。
「水路、みんなに言った!」
「そうですか」
「誰も行かないって!」
「ありがとうございます」
「あと、変な大人がいた」
空気が変わった。
ロイドがすぐに前へ出る。
「どこで」
「水路の近く」
トマが答える。
「黒外套じゃない。でも、工房街の人じゃなかった」
「何をしていましたか」
セドが聞く。
「水路を見てた」
リナが小さく言う。
「何か探してるみたいだった」
セドとガルドが視線を交わす。
冷却石。
水路。
誰かが探している。
つまり、あの欠片は偶然流れたものではない可能性が高まった。
「近づきましたか」
「近づいてない!」
ニコがすぐ答える。
「ちゃんと逃げた!」
「良い判断です」
セドは静かに言った。
ニコは少しだけ誇らしげに笑った。
その笑顔を見て、セドは少しだけ胸の奥が重くなる。
子供たちが、危険を覚え始めている。
それは必要なことだ。
だが、本来なら、こんな危険を覚えずに済む方がいい。
「……ロイドさん」
「何だ」
「明日から、水路周辺の注意を店にも掲示します」
「分かった」
「ただし、恐怖を煽らない形で」
「難しいな」
「はい」
ロイドは少し考えた。
「“東水路付近の魔石片は危険性があるため買い取り不可。近づかず、拾わず、見つけた場合は大人へ知らせること”……こんな感じか?」
「良いと思います」
「お、珍しく一発で通った」
「分かりやすいです」
「だろ」
ロイドは少しだけ得意げに笑った。
ミラが横から言う。
「顔、うるさい」
「顔!?」
その場に小さな笑いが起きる。
不安はある。
危険も近づいている。
だが、店の中にはまだ笑いが残っていた。
それが、セドには少しだけ救いに思えた。
夜間用灯り石が、棚の上で柔らかく光っている。
外には、暗い流れがある。
だが、この店の中にもまた、確かに流れがある。
それを守らなければならない。
セドは静かにそう思った。
そして同じ頃。
王城の奥でも、ルイスが同じように、別の流れを見つけ始めていることを。
まだ、彼は知らなかった。




