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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第36話



 翌朝、ロイドの店の棚には、新しい灯り石が並んでいた。


 これまでの灯り石とは、少し違う。


 強く照らすためのものではない。


 夜を押し返すための光ではない。


 ただ、暗闇の中で目を覚ました時。


 部屋の隅で、そっとそこにある。


 そんな光だった。


 小さく、丸みのある形。


 廃棄魔石の濁りを削り取りすぎず、芯に残った淡い光を生かしたもの。


 明るさは控えめ。


 熱も少ない。


 色は少しだけ柔らかい。


 ミラが夜通し調整した試作品だった。


「……これ、売るのか」


 ロイドが棚の前で腕を組む。


 朝の光が窓から入り、棚に置かれた夜間用灯り石に触れる。


 昼間に見ると、少し地味だ。


 これまでの改良型灯り石のような分かりやすい明るさはない。


 客に見せた時、すぐに「おお」と声が出るような派手さもない。


 だが、手に取ると分かる。


 これは、夜に必要な灯りだ。


「売る」


 ミラは短く言った。


「売れるか?」


「必要になる」


「……昨日も言ってたな」


「うん」


 ミラは棚を見つめる。


 感情の薄い横顔。


 だが、目はいつもより少しだけ真剣だった。


「夜、強い光はいらない」


「まぁな」


「子供が起きた時。老人が水を飲む時。病人のそば。寝室」


 ミラは一つずつ言葉を置く。


「強い灯りだと、目が痛い」


「……」


「でも、真っ暗だと怖い」


 ロイドは何も言えなくなった。


 ミラの言葉は短い。


 けれど、その中にちゃんと生活があった。


 売れるかどうかではない。


 誰が、どう使うのか。


 その姿を見ている。


「……お前、本当に職人だな」


 ロイドがぽつりと言った。


 ミラが視線を向ける。


「今さら?」


「いや、そうなんだけどよ」


 ロイドは頭を掻く。


「なんか、前より分かった気がする」


「何が」


「お前が、安物を作ってるつもりじゃないってこと」


 ミラは少しだけ黙った。


「当然」


「ああ」


 ロイドは棚の灯り石を一つ手に取る。


 昼の店内では、光はほとんど目立たない。


 けれど、手のひらの中にあると、確かに温度の低い光を感じる。


「これ、値段どうする」


「通常型より少し安く」


「安く?」


「材料少ない」


「でも手間かかってるだろ」


「かかってる」


「じゃあ値段上げてもよくねぇか」


「駄目」


 即答だった。


「何で」


「必要な人が買えない」


 ロイドは言葉を失った。


 ミラは、淡々と続ける。


「夜に不安な家ほど、余裕ないこと多い」


「……」


「老人だけの家。子供が多い家。病人がいる家」


 一拍。


「高いと届かない」


 ロイドは手の中の灯り石を見た。


 小さい光。


 派手じゃない。


 でも、誰かの夜に置かれる光。


「……分かった」


 ロイドは静かに頷いた。


「売り方、考える」


 その声は、いつもより少し低かった。


 冗談でも、勢いでもない。


 店主としての声だった。


 その時、奥からセドが出てきた。


 手には昨日ミラから渡された試作品がある。


 夜、部屋で使ったものだ。


「確認しました」


 セドが言う。


 ロイドとミラが同時に見る。


「どうだった」


 ロイドが聞く。


「安定しています。熱もほとんど上がりません。光量は控えめですが、夜間の視認には十分です」


「欠点は」


「昼間は魅力が伝わりにくい」


 ロイドが苦笑した。


「だよなぁ」


「それと、通常型とは用途が違うため、説明が必要です」


「つまり、売る側がちゃんと話さないと売れねぇってことか」


「はい」


 セドは灯り石を棚へ戻した。


「ですが、必要とする人には届くと思います」


 ミラが小さく頷いた。


「うん」


 ロイドは二人を見て、少しだけ笑った。


「じゃあ、今日はこれを出すか」


「はい」


「ただし」


 セドが言う。


「最初は数を絞りましょう」


「またか」


「客の反応を見る必要があります」


「分かった分かった。記録だろ」


「はい」


「最近、俺もだいぶ慣れてきたな……」


 ロイドは遠い目をした。


「昔の俺が見たら泣くぞ。帳簿と客の反応記録を真面目につけてるなんて」


「良いこと」


 ミラが言う。


「お前に言われると逃げ道なくなるな」


「逃げない」


「逃げねぇよ」


 ロイドは苦笑しながら、棚の札を書き始めた。


 夜間用灯り石。


 控えめな灯り。


 寝室、子供部屋、夜の水場に。


 その字は少し不格好だったが、妙に温かみがあった。


 


 昼前になると、店に客が入り始めた。


 いつもより少し早い。


 灯り石の評判が広がっているのだろう。


 表通りではない。


 王都の外れの小さな店。


 それなのに、人が来る。


 毎日、少しずつ。


「これ、昨日買ったやつより小さいな」


 最初に夜間用灯り石へ目を留めたのは、近所に住む中年の女だった。


 腕には買い物かご。


 表情は少し疲れている。


 だが、目はしっかりしていた。


「夜間用だ」


 ロイドが答える。


「夜間用?」


「ああ。寝る部屋とか、夜中に起きた時用だな。明るすぎない」


「明るすぎないって、暗いってことかい?」


「昼に見ると地味だが、夜だとちょうどいい」


 ロイドは一つ手に取り、布で少し覆う。


 店内の影になる場所へ置く。


 すると、灯り石は柔らかく光った。


 強くない。


 けれど、手元や足元は十分見える。


「あら」


 女の表情が変わった。


「これ、目が痛くないね」


「そういうやつだ」


「うちの母親、夜中に起きるたびに眩しいって文句言うんだよ」


「なら合うかもな」


「熱くならない?」


「ほとんどならねぇ。ただ、布で完全に包むなよ。どんな灯りでも熱はこもる」


「はいはい」


 女は灯り石を手に取り、しばらく見つめた。


「……いくら?」


 ロイドが値段を告げる。


 女は少し目を丸くした。


「そんなもんなの?」


「ああ」


「安すぎない?」


「高い方がいいか?」


「馬鹿言わないでよ」


 女は笑った。


 けれど、すぐに灯り石をもう一度見た。


「これ、二つある?」


「ある」


「じゃあ二つ」


「毎度」


 ロイドが包みながら、ちらりとセドを見る。


 セドは静かに記録をつけていた。


 購入理由。


 高齢者の夜間利用。


 明るすぎないことが利点。


 価格反応、良好。


 ミラも作業台から、じっとその様子を見ている。


 表情は変わらない。


 だが、ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。


「ミラ」


 セドが小さく呼ぶ。


「何」


「届きましたね」


 ミラは少しだけ黙った。


 そして、短く答えた。


「うん」


 その一言に、余計な説明はいらなかった。


 


 その後も、夜間用灯り石は少しずつ売れた。


 派手な売れ方ではない。


 客が殺到するわけでもない。


 だが、手に取る者は、皆どこか真剣だった。


「子供が夜に怖がるんだ」


「病気の親父の枕元に置きたい」


「裏口が暗くてね。転びそうで」


「うちの犬が夜に吠えるんだ。真っ暗が嫌なのかもしれない」


 ロイドは一つずつ話を聞いた。


 時々、冗談を挟む。


 時々、真面目に説明する。


 客は笑い、頷き、少し安心した顔で灯り石を持ち帰っていく。


 その光景を見ながら、セドはまたエルマの言葉を思い出していた。


 流れ。


 人、金、情報、恐怖。


 だが、今ここで流れているのは、それだけではない。


 安心。


 必要。


 信頼。


 そして、小さな会話。


 それらもまた、人から人へ流れていく。


「……なるほど」


 セドが小さく呟く。


 ロイドが客の応対をしながら、ちらりと見る。


「何か分かった顔してるな」


「少し」


「どうせまた難しいことだろ」


「いえ」


 セドは店内を見る。


 棚。


 客。


 ロイド。


 ミラ。


 灯り石。


「店も、流れなのだと思いました」


「……」


 ロイドは一瞬、言葉を失った。


 それから、小さく笑う。


「何か、良いこと言ってるっぽいけど、今は客がいるから後にしてくれ」


「失礼しました」


「いや、悪くねぇけどな」


 ロイドは笑ったまま、次の客へ向き直る。


 その笑顔を見て、セドは少しだけ目を伏せた。


 悪くない。


 そう思った。


 


 だが、穏やかな流れは長く続かなかった。


 昼過ぎ。


 店の外が、少しざわつき始めた。


 最初は、ただの通行人の声かと思った。


 しかし、次第に声が増える。


「旧東の方で、また煙が上がったってよ」


「昨日の爆発じゃないのか?」


「違うらしい」


「誰かが入ったって」


「いや、運搬屋が消えたって聞いた」


「黒い荷車が通ってたぞ」


 客の会話。


 外の群衆。


 小さな噂が、店の前で膨らんでいく。


 ロイドの手が止まった。


 ミラも作業台から顔を上げる。


 セドは窓の外を見た。


 人々が足を止めている。


 旧東工房区画の方角を見ている者もいる。


 不安そうな顔。


 興味本位の顔。


 怖がりながらも、どこか見に行きたそうな顔。


 恐怖が流れている。


 まさに、エルマの言葉通りだった。


「……広がってますね」


 セドが言う。


 ロイドが顔をしかめた。


「嫌な広がり方だな」


「はい」


「こういう時、人って見に行くんだよな」


「はい」


「止めらんねぇのか」


「難しいです」


「だよな……」


 店の前で、若い男たちが話していた。


「ちょっと見に行こうぜ」


「やめとけって。魔力漏れしてるんだろ」


「遠くからなら平気だろ」


「黒い鳥の荷車、見れるかもしれねぇし」


「お前、それ本気で言ってんのかよ」


 ロイドは店から出ようとした。


 だが、セドが先に動いた。


 扉を開ける。


 鈴が鳴る。


 外の視線が、ちらりと店へ向く。


「旧東工房区画には近づかないでください」


 セドの声は大きくない。


 だが、不思議と通った。


 若い男たちが振り返る。


「あ?」


「何だよ、店の兄ちゃん」


「危険です」


 セドは静かに言った。


「魔力漏れがある可能性があります。処理場でも暴走事故が起きています。近づけば、巻き込まれる恐れがあります」


「……」


 若い男の一人が、少し笑った。


「何だよ、脅してんのか?」


「いいえ」


「じゃあ何でそんなこと知ってんだよ」


 周囲の視線が集まる。


 ロイドが内心で舌打ちした。


 まずい。


 セドは、正しいことを言う。


 だが、正しすぎる言葉は、時に相手を刺激する。


 案の定、別の男が言った。


「お前んとこ、最近処理場と繋がってるって噂だろ」


「廃棄魔石、買ってんだよな」


「じゃあ、あっちで何か拾われると困るのか?」


 空気が変わる。


 群衆の中に、疑いが混ざる。


 恐怖は、すぐ別の方向へ流れる。


 不安。


 疑い。


 苛立ち。


 それらが、人から人へ移っていく。


 ロイドが前へ出た。


「おいおい、違う違う」


 手を上げる。


「うちは旧東の魔石なんか扱ってねぇよ。あそこは危ねぇから近づくなって言ってんだ」


「本当かよ」


「本当だ」


 ロイドの声は、セドより少し荒い。


 だが、その荒さが逆に街の人間には届く。


「うちで買い取るのは、確認できた安全な欠片だけだ。危ない場所から持ってきたもんは買わねぇ」


 近くにいた常連の女が口を挟んだ。


「それは本当だよ」


 朝、夜間用灯り石を買った女だった。


「うちの近所の子が持っていった時も、危ない石は買わないって追い返されたって言ってた」


「うちの甥もだ」


 別の男が言う。


「ここ、けっこううるさいぞ。場所聞かれるし、夜に拾ったって言うと怒られる」


「そうそう。あの黒髪の兄ちゃん、顔怖いし」


 セドは少しだけ目を瞬いた。


 ロイドが横で吹き出しそうになる。


「……顔怖いってよ」


「自覚はありません」


「そこがまたな」


 群衆の空気が少し緩む。


 疑いが完全に消えたわけではない。


 だが、ロイドの店を庇う声がいくつか出たことで、流れは少し変わった。


 それは、信用だった。


 今まで少しずつ積み上げてきた、店の信用。


 灯り石を売り。


 話を聞き。


 危ないものは買わず。


 子供たちに決まりを守らせた。


 それが、こういう時に流れを変える。


「……」


 セドはそれを見ていた。


 ただ理屈を言うだけでは、群衆は動かない。


 だが、信用があれば、誰かが声を上げてくれる。


 これもまた、街の流れ。


「とにかく」


 ロイドが声を張る。


「見に行くな。どうしても情報が欲しけりゃ、組合の正式発表待て」


「組合が言うかよ」


 誰かがぼそっと言う。


 周囲に、低い笑いが起きた。


 笑いと言っても、明るいものではない。


 皮肉の笑い。


 不信の笑い。


 組合への信用もまた、少しずつ揺れている。


 それを感じ取ったセドは、静かに口を開いた。


「正式な発表がない場合でも、危険区域へ近づく理由にはなりません」


 若い男が舌打ちした。


「分かったよ」


「見に行かねぇよ」


「面白そうだったけどな」


「死んだら面白くねぇだろ」


 群衆は少しずつ散っていった。


 だが、ざわめきは消えない。


 道の端で、まだ旧東工房区画の方を見る者がいる。


 窓の奥から覗く者もいる。


 恐怖は完全には止まらない。


 ただ、少しだけ流れを変えられた。


 ロイドは深く息を吐いた。


「……疲れた」


「お疲れ様です」


「お前もだよ」


「私は」


「お前もだ」


 ロイドはセドの肩を軽く叩いた。


「今の、危なかったぞ」


「はい」


「お前、正しいこと言う時ほど危ねぇ」


「……」


「正しいだけじゃ、人は動かねぇ」


 セドは少しだけ目を伏せた。


 その言葉は、今日の自分に必要なものだった。


「覚えておきます」


「おう」


 ロイドは店へ戻ろうとして、ふと足を止めた。


「でも」


「?」


「ちゃんと止めようとしたのは、悪くなかった」


 短い言葉。


 セドは一瞬、答えに迷った。


「……ありがとうございます」


「おう」


 二人は店へ戻った。


 中では、ミラが静かに待っていた。


「大丈夫?」


「何とか」


 ロイドが答える。


 ミラはセドを見る。


「顔怖いって」


「言われました」


「うん」


「……」


「でも、止めた」


 ミラは短く言った。


「よかった」


 その言葉だけで、セドの胸の奥に少しだけ熱が灯った。


 


 その日の夕方。


 店にニコたちが来た時、外のざわめきはまだ完全には消えていなかった。


「旧東の方、見に行っちゃ駄目なんだよね?」


 ニコが真っ先に聞いた。


「駄目です」


 セドが答える。


「分かってる!」


 ニコは少しだけ胸を張った。


「俺たち、ちゃんと小さい子にも言っといた!」


「言っといた?」


 ロイドが聞く。


「うん。見に行くなって」


 トマも頷く。


「でも、何人か行きたがってた」


「馬鹿だな」


 ガルドが言う。


「子供は好奇心で死ぬぞ」


「言い方怖い!」


 リナが眉を下げる。


 ガルドは少しだけ口を閉じた。


「……危ないから行くな」


「最初からそう言って」


「苦手なんだよ」


 ロイドが横で笑う。


「お前もだいぶ子供対応に慣れてきたな」


「慣れたくねぇ」


「でも慣れてる」


「うるせぇ」


 子供たちの笑い声が店に響く。


 その声を聞いていると、昼間の群衆のざわめきとは違うものが流れているのが分かった。


 恐怖だけではない。


 注意。


 約束。


 信頼。


 それもまた、子供たちの間を流れ始めている。


「セド」


 ニコが袋を置きながら言う。


「俺たち、ちゃんと決まり守ってるよ」


「はい」


「だからさ」


「?」


「危ないとこ行く時は、セドもちゃんと誰かと行きなよ」


 店が静かになった。


 ロイドがセドを見る。


 ミラも。


 ガルドも。


 リナとトマも。


 セドは、少しだけ言葉に詰まった。


 子供にまで言われるとは思っていなかった。


「……努力します」


「努力じゃなくて守れ!」


 ニコが言った。


 その瞬間、ロイドが吹き出した。


 ガルドも笑う。


 ミラも目元をわずかに柔らかくした。


「完全に覚えられてるな」


 ロイドが笑いながら言う。


「教育の成果」


 ミラが言う。


「誰の教育でしょう」


 セドが聞く。


「みんな」


 ミラは即答した。


 セドは少しだけ黙り、やがて小さく息を吐いた。


「……分かりました」


 ニコが目を輝かせる。


「守る?」


「守ります」


 店の中に、小さな拍手が起きた。


 セドは少し困ったように目を伏せる。


 だが、嫌ではなかった。


 


 その夜。


 王城の書庫で、ルイスは一枚の報告を読んでいた。


 直接的なものではない。


 セドから届いた、いつもの曖昧な覚書。


 だが、ルイスには分かった。


 旧東工房区画。


 恐怖の流れ。


 群衆。


 店の信用。


 そして、夜間用灯り石。


「……夜の灯り」


 ルイスは小さく呟く。


 書庫の窓の外には、王都の灯りが広がっている。


 大通りの強い光。


 貴族街の整った魔導灯。


 そして、見えないどこかにある、小さな店の柔らかな光。


「セドたちは、進んでる」


 そう思うと、胸が少し熱くなる。


 同時に、不安もある。


 近づいている。


 何か危険なものへ。


 自分はまだ王城にいる。


 外へ出ない。


 表に立たない。


 それが今の方針だ。


 だが、何もしないわけにはいかない。


「王城の中にも、流れがある」


 ルイスは机の上へ資料を広げた。


 王城備品管理。


 払い下げ記録。


 組合との契約書。


 そして、十年前の旧東工房区画事故に関する、わずかな公式記録。


 あまりにも薄い。


 死者数。


 損害。


 封鎖措置。


 原因不明。


 それだけ。


「……少なすぎる」


 ぽつりと呟く。


 足元の影が揺れる。


 ノクス。


 ――隠したものは、流れを止める。


「止める?」


 ――止めたように見えるだけ。


 ルイスは少し考えた。


「……隠しても、消えるわけじゃない」


 ――そう。


「流れは、どこかへ逃げる」


 ノクスは答えない。


 だが、影は静かに揺れている。


 ルイスは紙に書く。


 旧東工房区画事故。


 公式記録が少ない。


 封鎖が早すぎる。


 組合権限拡大時期と一致。


 黒い鳥の紋章の存在疑い。


「……王城にも、誰か知ってる人がいるはず」


 ルイスは呟く。


 十年前。


 当時の担当者。


 備品管理。


 工房監督。


 事故調査。


 王城に記録がないなら、人の記憶を辿るしかない。


 セドたちが外で人を辿るように。


 自分は内側で人を辿る。


「……でも」


 簡単ではない。


 誰に聞くか。


 どう聞くか。


 間違えれば、自分が旧東工房区画に関心を持っていると気づかれる。


 それは危険だ。


 今はまだ、ルイスが表に出るべきではない。


「慎重に」


 ルイスは自分に言い聞かせる。


 ノクスの影が揺れた。


 ――慎重と恐怖は違う。


「分かってる」


 ――本当に?


 ルイスは少しだけ苦笑した。


「厳しいな」


 ――選ぶのは、あなた。


「うん」


 ルイスは資料を閉じた。


「まずは、十年前の王城工房監督官を調べる」


 小さな一歩。


 だが、外のセドたちと繋がる一歩。


 王都の裏側で流れが動いている。


 なら、王城の内側でも、止まっていた流れを探す。


 ルイスはペンを取り、丁寧に名前を探し始めた。


 静かな書庫。


 紙をめくる音だけが響く。


 その小さな音は、夜の王城に溶けていった。


 


 同じ頃。


 ロイドの店では、夜間用灯り石が一つ、窓辺に置かれていた。


 店内はもう閉店後。


 客はいない。


 子供たちも帰った。


 ロイドは奥で帳簿を閉じ、ミラは道具を片付け、ガルドは椅子に座って腕を組んでいる。


 セドは窓辺の灯り石を見ていた。


 柔らかな光。


 強くはない。


 だが、暗い店内を完全な闇にはしない。


「……悪くねぇな」


 ガルドがぼそりと言う。


 ロイドが笑う。


「素直に褒めろよ」


「悪くないって言ってんだろ」


「それ褒めてんのか?」


「職人の褒め言葉だ」


 ミラが頷く。


「うん」


 ロイドは呆れたように笑う。


「お前ら、ほんと面倒だな」


 だが、その顔は柔らかい。


 セドはそのやり取りを聞きながら、窓の外を見る。


 王都の夜。


 遠くでは、まだ旧東工房区画の方角が薄く煙っているように見えた。


 そこには恐怖が流れている。


 隠された過去がある。


 黒い鳥が動いている。


 だが、こちらにも流れがある。


 小さな灯り。


 人の声。


 約束。


 信用。


 誰かの夜を照らすための光。


 それらはまだ弱い。


 とても弱い。


 けれど、確かに流れ始めている。


「セド」


 ロイドが呼ぶ。


「はい」


「明日は、どうする」


 セドは少しだけ考えた。


 旧東工房区画へ直接は行かない。


 まだ早い。


 エルマの言葉を無視すれば、死ぬ。


 ならば、次は内側と外側の情報を繋げる段階だ。


「人を調べます」


「エルマ以外の?」


「はい」


「十年前の関係者か」


「はい」


 ロイドは深く息を吐いた。


「また面倒なことになりそうだな」


「はい」


「否定しろよ」


「嘘になります」


「ほんとお前は……」


 ロイドは笑った。


 そして、夜間用灯り石を見た。


「でもまぁ」


 一拍。


「今日は、ちょっとだけ良い日だったな」


 ミラが頷く。


「売れた」


「必要になった」


 セドが静かに言う。


 ロイドは笑った。


「そうだな」


 店の中に、柔らかな光が落ちる。


 強くはない。


 けれど、消えない。


 その光の中で、四人はしばらく黙っていた。


 沈黙は、重くなかった。


 それは、次へ進む前の短い休息だった。


 王都の裏側で、暗い流れが渦を巻いている。


 だが、その隅で。


 小さな灯りもまた、確かに流れ始めていた。

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