第35話
エルマの工房を出たあとも、セドはしばらく黙っていた。
東外れの空気は、王都の中心とは違う。
人通りは少ない。
石畳は欠け、建物の壁には古い煤が残り、道の端には使われなくなった金具や、割れた陶器の欠片が落ちている。
だが、完全に死んだ場所ではない。
誰かが住み。
誰かが歩き。
誰かが、そこで息をしている。
古い工房跡地の近くを吹く風は、どこか冷たかった。
ただの冷気ではない。
十年前から残っている何かが、まだこの場所に染みついているような冷たさだった。
「……なぁ」
ロイドが隣で口を開いた。
いつもの調子より、少し声が低い。
「お前、さっきから全然喋んねぇな」
「考えています」
「それは見れば分かる」
ロイドは肩をすくめた。
「問題は、何を考えてるかだ」
セドはすぐには答えなかった。
少し先。
道の向こうで、荷車を押す老人がいる。
車輪が軋む音。
その横を、二人の子供が走っていく。
さらに奥では、古い工房の扉を開ける男がいた。
誰も、こちらを気にしていないようでいて。
少しだけ見る。
目が合う前に逸らす。
東外れにいる者たちは、余計なものを見ないふりをするのが上手い。
そういう場所なのだろう。
「街は、流れている」
セドが小さく言った。
「は?」
ロイドが眉をひそめる。
「エルマさんが言っていました」
「ああ……物だけ見てると死ぬ、ってやつか」
「はい」
「人、金、情報、恐怖、だったか?」
「はい」
セドは足を止めた。
ロイドもつられて止まる。
振り返れば、エルマの工房跡はもう遠い。
だが、あの老婆の目だけが、まだこちらを見ている気がした。
古い魔導レンズ越しの鋭い目。
何かを見抜いている目。
「私は、物を追っていました」
セドが言う。
「廃棄魔石。灯り石。材料。組合記録。黒い鳥の荷」
「……まぁ、そうだな」
「ですが、それだけでは足りない」
風が吹く。
乾いた土埃が、足元を滑っていった。
「物が動く時、人も動く」
「そりゃそうだろ」
「人が動く時、金が動く」
「……」
「金が動く時、情報が動く」
ロイドは黙った。
セドの声は静かだったが、どこか重い。
いつものように答えを並べているのではない。
自分の中で、ようやく見え始めたものを確かめるような声だった。
「そして、恐怖も動く」
ロイドはゆっくり息を吐いた。
「……嫌な言い方だな」
「はい」
「でも、分かる気はする」
ロイドは周囲を見回す。
東外れの人々。
誰も騒いでいない。
旧東工房区画の爆発があったばかりなのに。
生存者の噂があるのに。
黒い鳥の荷車が動いているのに。
この辺りの人間は、声を潜めて生きている。
「怖いんだろうな」
ロイドがぽつりと言った。
「はい」
「知ってる。でも言わない。見た。でも見てないことにする。そうしないと、面倒なことに巻き込まれる」
セドはロイドを見た。
ロイドは苦笑する。
「何だよ」
「いえ」
「俺だって少しは考える」
「はい」
「はい、じゃねぇよ。そこはもうちょい驚け」
「驚いています」
「顔に出せ」
「難しいです」
「だろうな」
ロイドは少し笑った。
けれど、その笑いはすぐに消える。
「……なぁ、セド」
「はい」
「これ、俺らが思ってたよりずっとでかい話なんじゃねぇか」
沈黙。
セドはすぐに答えなかった。
遠くから、鐘の音が聞こえる。
昼を告げる鐘ではない。
工房街のどこかで鳴る、作業開始の合図。
鉄を打つ音が、遅れて風に乗って届いた。
「はい」
やがて、セドは答えた。
「おそらく」
「だよな」
ロイドは頭を掻いた。
「俺、正直まだ信じらんねぇんだよ」
「何をでしょう」
「最初はさ」
ロイドは遠くを見る。
「ただ、売れない店だったんだ」
その声には、少しだけ自嘲が混じっていた。
「客も来ない。棚の品も動かない。帳簿を見るのも嫌で、扉を開けるのも億劫で」
「……」
「そこに、お前が来て」
一拍。
「ミラが来て、ガルドが来て、灯り石が売れて、子供たちが魔石を持ってきて、処理場に繋がって……気づいたら、旧東工房区画だの黒い鳥だの黒外套だの」
ロイドは笑った。
乾いた笑いではない。
困り果てた笑いだった。
「急すぎんだろ」
「……はい」
「お前もそう思うんだな」
「思います」
セドは少しだけ目を伏せた。
「ですが、急に見えるだけかもしれません」
「どういう意味だ」
「もともと街には流れがあった」
セドは言った。
「私たちは、それに触れただけです」
ロイドは口を閉じた。
その言葉は、妙に納得できた。
何か大きなものを自分たちが作ったわけではない。
王都の裏側には、もともと流れがあった。
捨てられる魔石。
捨てられる職人。
捨てられる店。
捨てられる情報。
捨てられる人。
それらは最初からあった。
ただ、誰も繋げなかっただけだ。
「……だから、見つかったのか」
ロイドが呟く。
「はい」
「俺らが新しい流れを作ったから」
「正確には、見捨てられていた流れを拾ったから」
「……」
「拾えば、動きます」
セドは静かに言った。
「動けば、見られます」
ロイドは深く息を吐いた。
「怖ぇな」
「はい」
「でも」
一拍。
「止まる気は、ねぇんだよな」
「はい」
返答は短い。
だが、迷いはない。
ロイドはその横顔を見て、少しだけ苦笑した。
「お前、本当に変わらねぇな」
「そうでしょうか」
「いや、変わったところもあるけど」
ロイドは少し考える。
「根っこの部分は変わらねぇ」
「根っこ」
「必要なら行く。必要なら拾う。必要なら危ない場所にも踏み込む」
「……」
「だから周りが止めなきゃいけねぇ」
セドは少し黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
受け止めている沈黙だった。
「……戻りましょう」
やがて、セドは言った。
「おう」
「整理が必要です」
「それもあるけど」
ロイドは歩き出しながら言う。
「ミラに怒られる前に帰ろうぜ」
「怒るでしょうか」
「怒るだろ」
「何故」
「遅いから」
「理由としては弱いのでは」
「お前、ミラの静かな怒りを甘く見てるな?」
セドは少しだけ考えた。
そして、頷く。
「戻りましょう」
「判断早ぇな」
ロイドは笑った。
その笑い声が、東外れの静かな道に少しだけ響いた。
ロイドの店へ戻ると、案の定、ミラは無言だった。
無言で作業台に立ち、無言で灯り石を検品し、無言で二人を見た。
「……ただいま」
ロイドが恐る恐る言う。
「遅い」
ミラの一言。
やはり怒っていた。
「ほらな」
ロイドが小声でセドに言う。
「本当でした」
「だから言っただろ」
「聞こえてる」
ミラが言う。
二人は同時に黙った。
ガルドが奥で笑っている。
「お前ら、何やってんだ」
「偵察帰りです」
セドが答える。
「偵察帰りの顔じゃねぇな」
「どういう顔でしょう」
「宿題増えた顔だ」
セドは少しだけ沈黙した。
「正解です」
「だろうな」
ガルドは工具を置いた。
ニコたちは今日はまだ来ていない。
店内には、ロイド、ミラ、ガルド、セド。
四人だけだった。
「エルマはどうだった」
ガルドが聞く。
「情報は得られました」
「そうか」
「ただし、旧東工房区画へはまだ近づくなと」
「それは正しい」
ガルドは即答した。
「で、お前は聞くのか?」
「聞きます」
ロイドが目を丸くする。
「お、珍しい」
「私はそこまで無謀ではありません」
ロイド、ミラ、ガルドの三人が同時にセドを見た。
「……何でしょう」
「いや」
ロイドが言う。
「今のはちょっと信じられねぇなって」
「同感」
ミラも言う。
「お前が言うと説得力がねぇ」
ガルドも続ける。
セドは少しだけ眉を寄せた。
「信用が低いですね」
「積み重ねだ」
ロイドが即答した。
「お前が積み上げた信用だ」
「不本意です」
「なら今後改めろ」
「努力します」
「守れ」
三人がほぼ同時に言った。
沈黙。
そのあと、ロイドが吹き出した。
「完全に合ったな」
ガルドも笑う。
ミラは無表情のままだが、少しだけ目元が柔らかい。
セドは、ほんの少しだけ困ったように視線を逸らした。
その空気は、悪くなかった。
だが、今は笑って終わるわけにはいかない。
セドはエルマから聞いたことを一つずつ整理して話した。
黒い鳥は、流れを運ぶ存在。
物だけではなく、金、情報、人。
組合は管理する側。
黒い鳥は選別する側。
価値あるものだけを拾い、価値なしを捨てる。
旧東工房区画へ行くには、物だけでなく街の流れを見る必要がある。
人、金、情報、恐怖。
それらすべてが流れている。
話が進むにつれ、ロイドの表情から笑みが消えた。
ミラは手を止めて聞いている。
ガルドは腕を組み、低く唸った。
「……なるほどな」
「何か分かりましたか」
セドが聞く。
ガルドは少しだけ視線を落とした。
「俺が組合にいた頃も、似たような感覚はあった」
「似たような?」
「ああ」
ガルドは作業台に置かれた魔石片を一つ手に取る。
「職人は、物を見る。石を見る。道具を見る。出来を見る」
「……」
「だが、上の連中は違う」
その声は低かった。
「人を見るんじゃねぇ。流れを見るんだ」
ロイドが眉をひそめる。
「流れ?」
「この職人は使えるか。この工房は利益になるか。この流通は握れるか。この店は潰すべきか、生かすべきか」
ガルドの指が、魔石片を転がす。
「そういう見方をする」
ミラが静かに言う。
「人じゃなくて部品」
「そうだ」
ガルドは頷いた。
「俺はそれが嫌だった」
店の空気が少し重くなる。
ガルドが組合から外れた理由。
今まで何度か断片は聞いてきた。
だが、本人の口からここまで出るのは珍しい。
「俺がいた工房にも、使い潰された奴はいた」
ガルドは続ける。
「腕はいい。でも遅い。だから捨てる。性格が悪い。でも腕はある。だから縛る。金にならない商品を作りたいと言う。だから黙らせる」
「……」
「効率だけ見れば、それが正しいのかもしれねぇ」
一拍。
「だが、人は道具じゃねぇ」
その言葉に、ミラの目が少し動いた。
ロイドも黙っている。
セドは、ガルドを見ていた。
道具じゃない。
その言葉は、どこか自分にも刺さった。
自分もまた、長く自分を道具のように扱ってきたのかもしれない。
ルイスのために動く。
それは変わらない。
けれど、動く自分自身をどう扱っていたか。
そこまでは、考えていなかった。
「……セド」
ロイドが呼ぶ。
「はい」
「今、自分のことだなって思ったろ」
「……」
「図星か」
「否定します」
「遅ぇ」
ロイドは苦笑した。
「お前も道具じゃねぇぞ」
沈黙。
短い言葉だった。
けれど、店の中に落ちたその言葉は、妙に重かった。
セドはすぐには返せなかった。
何か言おうとして。
けれど、言葉が見つからない。
必要ですので。
いつもの言葉が、喉まで来て止まる。
今、それで返すのは違う気がした。
「……分かっています」
ようやく出た声は、いつもより少しだけ小さかった。
ロイドはそれを見て、何も言わなかった。
ミラも。
ガルドも。
ただ、少しの沈黙があった。
急かさない沈黙。
答えを押しつけない沈黙。
それが、今のセドには少しだけありがたかった。
その日の午後。
店はいつも通り開いた。
客は増えている。
灯り石の評判は、想像以上に広がっていた。
「これ、まだあるか?」
「昨日買ったやつ、隣の婆さんが欲しがってな」
「普通のより明るいのに安いって本当か?」
「子供部屋に置きたいんだが、熱くならないか?」
ロイドは客を捌きながら、ひとつひとつ答えていく。
「はいはい、順番だ」
「熱くならねぇ。ただし布で包むな。どんな灯りでも熱こもる」
「隣の婆さんなら小型の方がいい。明るすぎると夜中眩しいって言われるぞ」
「安いけど雑じゃねぇ。そこ間違えんなよ」
以前より、ずっと言葉に熱があった。
客もそれを感じているのか、ロイドの言葉に笑ったり、頷いたりする。
店が動いている。
ただ商品が売れているだけではない。
会話が生まれている。
信用が生まれている。
それを見ながら、セドはエルマの言葉を思い出していた。
人、金、情報、恐怖。
この店にも流れている。
ただし、恐怖だけではない。
安心も。
信用も。
少しの笑いも。
それらもまた、流れなのだ。
「セド」
ミラが呼ぶ。
「はい」
「これ、見て」
作業台の上に、新しい灯り石が置かれていた。
少しだけ形が違う。
光は柔らかい。
以前より、横へ広がる。
「改良型ですか」
「夜間用」
「……」
「明るすぎない」
ミラは淡々と言う。
「子供部屋、老人、寝室向け」
セドは灯り石を手に取る。
光が手のひらに落ちる。
強い光ではない。
だが、温かい。
「……良いですね」
「うん」
ミラは少しだけ頷いた。
「売れると思います」
「売れるだけじゃない」
「?」
「必要になる」
ミラは短く言った。
セドは少しだけ黙る。
売れるもの。
必要なもの。
似ているようで違う。
ミラは、その違いを見ている。
「……そうですね」
「セド」
「はい」
「流れって」
ミラは灯り石を見る。
「こういうのも?」
セドは答えようとして、少し考えた。
「はい」
静かに頷く。
「人が使い、人が話し、必要とする。それも流れです」
「なら」
ミラは少しだけ目を伏せる。
「悪い流れだけじゃない」
その言葉に、セドは静かに息を吐いた。
「はい」
悪い流れだけではない。
黒い鳥。
組合。
恐怖。
隠蔽。
それだけを見ていると、街は暗く見える。
だが、ロイドの声がある。
ミラの灯りがある。
ガルドの手がある。
子供たちの笑い声がある。
それもまた、街の流れだ。
ならば。
自分たちが作ろうとしているものは、単なる商売ではない。
暗い流れに対して、小さくても別の流れを通すこと。
そういうものなのかもしれない。
夕方。
ニコたちが来た。
今日はいつもより人数が多い。
ニコ、リナ、トマ。
そして、他に二人。
まだ幼い兄妹だった。
「……増えたな」
ロイドが言う。
「ちゃんと決まり守れる子だけ連れてきた!」
ニコが胸を張る。
「危ない場所行ってない?」
「行ってない!」
「夜に拾ってない?」
「拾ってない!」
「盗んでない?」
「してない!」
ガルドが横から低く言う。
「本当だろうな」
新しく来た兄妹がびくっと肩を震わせる。
ニコが慌てて言った。
「ガルドさん、顔怖い!」
「顔は元からだ」
「言い方!」
ロイドが苦笑しながら前に出る。
「悪いな。こいつ怖い顔してるけど、子供が怪我するの嫌なだけだから」
「余計なこと言うな」
「事実だろ」
ガルドは舌打ちしたが、否定はしなかった。
ミラが兄妹の袋を見る。
「見せて」
「……はい」
少女が小さく袋を差し出す。
ミラは丁寧に受け取った。
石を一つずつ並べる。
「これは良い」
少女の顔が少し明るくなる。
「これは駄目」
すぐに沈む。
「なんで?」
「割れ方が危ない」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
ミラは石を別の箱へ入れる。
「次から選べばいい」
その声は短い。
だが、冷たくなかった。
少女は少しだけ目を丸くして、頷いた。
「うん」
トマが得意げに言う。
「最初はみんな分かんねぇんだよ」
「お前もな」
ガルドが言う。
「今は分かるし!」
「まだ半分だ」
「半分も分かればすごいだろ!」
店の中に笑いが起きる。
セドはそれを見ていた。
新しい子供が来た。
買い取り窓口が広がっている。
これは良いことだ。
だが、同時に危険も増える。
守る線を、さらに明確にしなければならない。
「ニコ」
「何?」
「次から、連れてくる前に名前を教えてください」
「え、なんで?」
「人数が増えすぎると管理できません」
「……管理?」
「怪我をさせないためです」
ニコは少しだけ黙った。
そして、頷いた。
「分かった」
「あと、拾う場所も必ず確認してください」
「うん」
「危ない大人が近づいてきたら」
「逃げる!」
「はい」
リナも横で言う。
「あと、言いに来る」
「その通りです」
セドは頷いた。
子供たちの中に、少しずつ決まりが浸透している。
それもまた、流れだ。
何かを売るだけではなく、守るための流れ。
店が、その中心になり始めている。
ロイドも同じことを感じたのか、少しだけ遠い目をしていた。
「……何だよ」
ガルドが聞く。
「いや」
ロイドは苦笑した。
「変な店になったなって」
「最初から変」
ミラが即答する。
「それは否定してほしかった」
「無理」
「無理かぁ……」
それでも、ロイドの顔はどこか嬉しそうだった。
夜。
王城。
ルイスは訓練場に立っていた。
手には木剣。
腕は痛い。
手のひらには豆ができている。
それでも、以前より振れるようになった。
ほんの少し。
本当に少し。
だが、その少しが今のルイスには大きかった。
「……っ」
踏み込む。
振る。
呼吸を整える。
もう一度。
月明かりが石床を照らしている。
誰もいない。
いつもなら、ただ静かなだけの場所。
だが今日は、足元の影が少し濃かった。
「ノクス」
呼ぶ。
影が揺れる。
――見えてきた?
「少しだけ」
ルイスは木剣を下ろした。
「セドが、また何かに近づいてる気がする」
――流れ。
「うん」
ルイスは頷いた。
「最近、その言葉がずっと頭にある」
人が動く。
物が動く。
金が動く。
恐怖も動く。
そして、希望も。
「僕は王城にいる」
一拍。
「でも、外で起きている流れと無関係ではいられない」
ノクスは答えない。
ルイスは続けた。
「セドが外で流れを見ているなら、僕は王城の中の流れを見ないといけない」
王城にも流れはある。
人事。
予算。
廃棄品。
噂。
派閥。
そして、期待と恐怖。
今まで、ルイスは自分がその外側にいると思っていた。
期待されない第二王子。
王位争いから外れた存在。
でも、それは外側ではなかった。
ただ、流れの端に置かれていただけだ。
「……僕も、見ないと」
木剣を握り直す。
ノクスの声が落ちる。
――見るだけ?
ルイスは少しだけ笑った。
「厳しいね」
――選ぶのは、あなた。
「うん」
ルイスは静かに頷く。
「見るだけじゃない」
一拍。
「いつか、選ぶ」
その言葉は、夜の訓練場に小さく響いた。
まだ弱い。
まだ未熟。
けれど、以前のルイスなら言えなかった言葉だった。
その時。
背後から足音がした。
「ルイス」
振り返る。
マルスだった。
第一王子。
兄。
月明かりの下でも、その姿はどこか眩しく見えた。
「兄上」
「こんな時間まで?」
「少しだけ」
ルイスは木剣を下ろす。
マルスは近づき、ルイスの手を見る。
「豆ができているね」
「……うん」
「痛む?」
「少し」
「嘘だね」
ルイスは少し笑った。
「兄上にはばれるな」
「昔からね」
マルスは静かに言う。
「最近、本当に変わった」
ルイスは少しだけ黙る。
「……変かな」
「良い意味で」
「そうだといいけど」
マルスは訓練場の端へ視線を向けた。
「何かを見つけた?」
その問いに、ルイスはすぐ答えられなかった。
見つけた。
たぶん。
でも、それを全部話すわけにはいかない。
セド。
灯り石。
廃棄魔石。
裏流通。
旧東工房区画。
今ここで話せることではない。
「……まだ」
ルイスは静かに答えた。
「探している途中です」
マルスは少しだけ目を細める。
嘘ではないと分かったのかもしれない。
けれど、全部ではないことも感じているはずだ。
「そう」
マルスはそれ以上追及しなかった。
「なら、焦らないように」
「……みんなそれ言う」
「みんなが言うなら、よほど焦っているんだろうね」
ルイスは苦笑した。
「そうかもしれない」
「焦ることは悪くない」
マルスは言う。
「ただ、焦りだけで選ぶと間違える」
「……うん」
「ルイス」
「はい」
「君は、誰かの後ろを歩く必要はない」
その言葉に、ルイスは顔を上げた。
マルスは静かに見ていた。
「僕の後ろでも、父上の後ろでもない」
「……」
「君が見るものを見ればいい」
ルイスの胸が、少しだけ熱くなる。
「……兄上」
「何?」
「兄上は、どうしてそんなことを言えるの?」
マルスは少しだけ驚いた顔をした。
「どうして、とは?」
「僕は、兄上と比べられてばかりだった」
静かな声。
責めているわけではない。
ただ、自分の中にあったものを言葉にしているだけだった。
「でも、兄上は僕を下に見ない」
「……」
「それが、すごいなって」
マルスはしばらく黙っていた。
月明かりが、二人の間に落ちる。
やがて、マルスは小さく笑った。
「僕も、比べられているからだよ」
「え?」
「王になる者として」
その声は穏やかだった。
だが、少しだけ重い。
「常に見られている。期待されている。間違えられないと思われている」
「……兄上でも?」
「僕でも」
マルスは静かに言う。
「だから分かる。比べられることが、どれだけ人を狭くするか」
ルイスは何も言えなかった。
兄は光の中にいると思っていた。
自分とは違う、眩しい場所に。
だが、その光は時に檻にもなるのだと、今初めて少しだけ分かった。
「……ごめん」
「謝ることではないよ」
「でも、僕は兄上をちゃんと見てなかった」
マルスは少しだけ目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「なら、これから見ればいい」
「……うん」
その沈黙は、悪くなかった。
兄弟としての距離が、ほんの少しだけ近づいた気がした。
だが、同時にルイスは理解していた。
まだ全ては話せない。
それは信頼していないからではない。
今はまだ、話すことで兄を巻き込む可能性があるからだ。
選ぶ時が来るまでは。
この距離を守る。
「ルイス」
「はい」
「無茶はしないように」
ルイスは少し笑った。
「本当にみんなそれ言う」
「なら、守ること」
「……努力します」
「努力ではなく」
「守る」
ルイスが先に言うと、マルスは少し驚き、すぐに笑った。
「分かっているならいい」
夜風が吹いた。
足元の影が、ほんの少しだけ揺れた。
ノクスは何も言わない。
ただ、見ている。
ルイスは木剣を握り直す。
今夜はもう終わりにしよう。
休むことも訓練。
そう何度も言われている。
そして、今なら少し分かる。
止まることと、逃げることは違う。
休むことと、諦めることも違う。
セドにも、いつかちゃんとそう言えるようになりたい。
そう思った。
同じ夜。
ロイドの店の灯りは、まだ消えていなかった。
店内では、ロイドが帳簿を閉じるところだった。
「……終わった」
ぐったりした声。
ガルドが横から覗き込む。
「計算合ってんのか?」
「合ってる……はず」
「不安だな」
「じゃあお前やれよ!」
「俺は数字が嫌いだ」
「堂々と言うな!」
ミラは作業台で夜間用灯り石を並べていた。
柔らかな光が、店内を照らしている。
強すぎない。
目に刺さらない。
小さな夜の光。
「……これ、いいな」
ロイドが言う。
「夜に置くと落ち着く」
「うん」
ミラは短く頷いた。
「売る?」
「売る」
ロイドは即答した。
「これは売れる」
「必要になる」
「……あぁ」
ロイドは少しだけ笑う。
「そうだな。必要になる」
セドは奥で、今日の記録を書いていた。
エルマ。
黒い鳥。
流れ。
人、金、情報、恐怖。
そして、店の中に生まれ始めた別の流れ。
安心。
信用。
必要。
守るための決まり。
小さな灯り。
それらを一つずつ書き留める。
単なる記録ではない。
今、この店がどこへ向かっているのかを見失わないための記録だった。
「セド」
ロイドが声をかける。
「何でしょう」
「今日はもう終わりだ」
「まだ」
「終わり」
「ですが」
「終わり」
ロイドの声が強くなる。
ミラも言う。
「寝る」
ガルドも頷く。
「明日また考えりゃいい」
セドは少しだけ抵抗しようとして。
やめた。
「……分かりました」
ロイドが目を丸くする。
「お」
「お?」
「いや、素直だなって」
「守れと言われましたので」
セドが言う。
ロイドは一瞬黙り、それから笑った。
「そうか」
「はい」
「ならいい」
ミラは夜間用灯り石を一つ、セドの前に置いた。
「持っていく?」
「よろしいのですか」
「試作品」
「……ありがとうございます」
セドはそれを受け取った。
小さな光。
柔らかい灯り。
手のひらに収まる程度なのに、不思議と温かい。
その光を見つめていると、エルマの言葉がまた思い出される。
街の流れ。
恐怖だけではない。
確かに、こういう光も流れる。
「……良い灯りです」
セドが静かに言う。
ミラは少しだけ頷いた。
「うん」
店の外は、夜だった。
王都のどこかで、黒い鳥が動いている。
組合が息を潜めている。
旧東工房区画には、まだ触れてはいけない何かが眠っている。
だが、この小さな店にも灯りがある。
誰かが捨てた魔石から作られた。
価値なしと呼ばれたものから生まれた。
小さな光。
それはまだ、王都全体を照らすには弱すぎる。
けれど。
少なくとも今夜、この店の中にいる者たちの顔は照らしていた。
それだけで、十分な始まりだった。




