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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第35話



 エルマの工房を出たあとも、セドはしばらく黙っていた。


 東外れの空気は、王都の中心とは違う。


 人通りは少ない。


 石畳は欠け、建物の壁には古い煤が残り、道の端には使われなくなった金具や、割れた陶器の欠片が落ちている。


 だが、完全に死んだ場所ではない。


 誰かが住み。


 誰かが歩き。


 誰かが、そこで息をしている。


 古い工房跡地の近くを吹く風は、どこか冷たかった。


 ただの冷気ではない。


 十年前から残っている何かが、まだこの場所に染みついているような冷たさだった。


「……なぁ」


 ロイドが隣で口を開いた。


 いつもの調子より、少し声が低い。


「お前、さっきから全然喋んねぇな」


「考えています」


「それは見れば分かる」


 ロイドは肩をすくめた。


「問題は、何を考えてるかだ」


 セドはすぐには答えなかった。


 少し先。


 道の向こうで、荷車を押す老人がいる。


 車輪が軋む音。


 その横を、二人の子供が走っていく。


 さらに奥では、古い工房の扉を開ける男がいた。


 誰も、こちらを気にしていないようでいて。


 少しだけ見る。


 目が合う前に逸らす。


 東外れにいる者たちは、余計なものを見ないふりをするのが上手い。


 そういう場所なのだろう。


「街は、流れている」


 セドが小さく言った。


「は?」


 ロイドが眉をひそめる。


「エルマさんが言っていました」


「ああ……物だけ見てると死ぬ、ってやつか」


「はい」


「人、金、情報、恐怖、だったか?」


「はい」


 セドは足を止めた。


 ロイドもつられて止まる。


 振り返れば、エルマの工房跡はもう遠い。


 だが、あの老婆の目だけが、まだこちらを見ている気がした。


 古い魔導レンズ越しの鋭い目。


 何かを見抜いている目。


「私は、物を追っていました」


 セドが言う。


「廃棄魔石。灯り石。材料。組合記録。黒い鳥の荷」


「……まぁ、そうだな」


「ですが、それだけでは足りない」


 風が吹く。


 乾いた土埃が、足元を滑っていった。


「物が動く時、人も動く」


「そりゃそうだろ」


「人が動く時、金が動く」


「……」


「金が動く時、情報が動く」


 ロイドは黙った。


 セドの声は静かだったが、どこか重い。


 いつものように答えを並べているのではない。


 自分の中で、ようやく見え始めたものを確かめるような声だった。


「そして、恐怖も動く」


 ロイドはゆっくり息を吐いた。


「……嫌な言い方だな」


「はい」


「でも、分かる気はする」


 ロイドは周囲を見回す。


 東外れの人々。


 誰も騒いでいない。


 旧東工房区画の爆発があったばかりなのに。


 生存者の噂があるのに。


 黒い鳥の荷車が動いているのに。


 この辺りの人間は、声を潜めて生きている。


「怖いんだろうな」


 ロイドがぽつりと言った。


「はい」


「知ってる。でも言わない。見た。でも見てないことにする。そうしないと、面倒なことに巻き込まれる」


 セドはロイドを見た。


 ロイドは苦笑する。


「何だよ」


「いえ」


「俺だって少しは考える」


「はい」


「はい、じゃねぇよ。そこはもうちょい驚け」


「驚いています」


「顔に出せ」


「難しいです」


「だろうな」


 ロイドは少し笑った。


 けれど、その笑いはすぐに消える。


「……なぁ、セド」


「はい」


「これ、俺らが思ってたよりずっとでかい話なんじゃねぇか」


 沈黙。


 セドはすぐに答えなかった。


 遠くから、鐘の音が聞こえる。


 昼を告げる鐘ではない。


 工房街のどこかで鳴る、作業開始の合図。


 鉄を打つ音が、遅れて風に乗って届いた。


「はい」


 やがて、セドは答えた。


「おそらく」


「だよな」


 ロイドは頭を掻いた。


「俺、正直まだ信じらんねぇんだよ」


「何をでしょう」


「最初はさ」


 ロイドは遠くを見る。


「ただ、売れない店だったんだ」


 その声には、少しだけ自嘲が混じっていた。


「客も来ない。棚の品も動かない。帳簿を見るのも嫌で、扉を開けるのも億劫で」


「……」


「そこに、お前が来て」


 一拍。


「ミラが来て、ガルドが来て、灯り石が売れて、子供たちが魔石を持ってきて、処理場に繋がって……気づいたら、旧東工房区画だの黒い鳥だの黒外套だの」


 ロイドは笑った。


 乾いた笑いではない。


 困り果てた笑いだった。


「急すぎんだろ」


「……はい」


「お前もそう思うんだな」


「思います」


 セドは少しだけ目を伏せた。


「ですが、急に見えるだけかもしれません」


「どういう意味だ」


「もともと街には流れがあった」


 セドは言った。


「私たちは、それに触れただけです」


 ロイドは口を閉じた。


 その言葉は、妙に納得できた。


 何か大きなものを自分たちが作ったわけではない。


 王都の裏側には、もともと流れがあった。


 捨てられる魔石。


 捨てられる職人。


 捨てられる店。


 捨てられる情報。


 捨てられる人。


 それらは最初からあった。


 ただ、誰も繋げなかっただけだ。


「……だから、見つかったのか」


 ロイドが呟く。


「はい」


「俺らが新しい流れを作ったから」


「正確には、見捨てられていた流れを拾ったから」


「……」


「拾えば、動きます」


 セドは静かに言った。


「動けば、見られます」


 ロイドは深く息を吐いた。


「怖ぇな」


「はい」


「でも」


 一拍。


「止まる気は、ねぇんだよな」


「はい」


 返答は短い。


 だが、迷いはない。


 ロイドはその横顔を見て、少しだけ苦笑した。


「お前、本当に変わらねぇな」


「そうでしょうか」


「いや、変わったところもあるけど」


 ロイドは少し考える。


「根っこの部分は変わらねぇ」


「根っこ」


「必要なら行く。必要なら拾う。必要なら危ない場所にも踏み込む」


「……」


「だから周りが止めなきゃいけねぇ」


 セドは少し黙った。


 その沈黙は、否定ではなかった。


 受け止めている沈黙だった。


「……戻りましょう」


 やがて、セドは言った。


「おう」


「整理が必要です」


「それもあるけど」


 ロイドは歩き出しながら言う。


「ミラに怒られる前に帰ろうぜ」


「怒るでしょうか」


「怒るだろ」


「何故」


「遅いから」


「理由としては弱いのでは」


「お前、ミラの静かな怒りを甘く見てるな?」


 セドは少しだけ考えた。


 そして、頷く。


「戻りましょう」


「判断早ぇな」


 ロイドは笑った。


 その笑い声が、東外れの静かな道に少しだけ響いた。


 


 ロイドの店へ戻ると、案の定、ミラは無言だった。


 無言で作業台に立ち、無言で灯り石を検品し、無言で二人を見た。


「……ただいま」


 ロイドが恐る恐る言う。


「遅い」


 ミラの一言。


 やはり怒っていた。


「ほらな」


 ロイドが小声でセドに言う。


「本当でした」


「だから言っただろ」


「聞こえてる」


 ミラが言う。


 二人は同時に黙った。


 ガルドが奥で笑っている。


「お前ら、何やってんだ」


「偵察帰りです」


 セドが答える。


「偵察帰りの顔じゃねぇな」


「どういう顔でしょう」


「宿題増えた顔だ」


 セドは少しだけ沈黙した。


「正解です」


「だろうな」


 ガルドは工具を置いた。


 ニコたちは今日はまだ来ていない。


 店内には、ロイド、ミラ、ガルド、セド。


 四人だけだった。


「エルマはどうだった」


 ガルドが聞く。


「情報は得られました」


「そうか」


「ただし、旧東工房区画へはまだ近づくなと」


「それは正しい」


 ガルドは即答した。


「で、お前は聞くのか?」


「聞きます」


 ロイドが目を丸くする。


「お、珍しい」


「私はそこまで無謀ではありません」


 ロイド、ミラ、ガルドの三人が同時にセドを見た。


「……何でしょう」


「いや」


 ロイドが言う。


「今のはちょっと信じられねぇなって」


「同感」


 ミラも言う。


「お前が言うと説得力がねぇ」


 ガルドも続ける。


 セドは少しだけ眉を寄せた。


「信用が低いですね」


「積み重ねだ」


 ロイドが即答した。


「お前が積み上げた信用だ」


「不本意です」


「なら今後改めろ」


「努力します」


「守れ」


 三人がほぼ同時に言った。


 沈黙。


 そのあと、ロイドが吹き出した。


「完全に合ったな」


 ガルドも笑う。


 ミラは無表情のままだが、少しだけ目元が柔らかい。


 セドは、ほんの少しだけ困ったように視線を逸らした。


 その空気は、悪くなかった。


 だが、今は笑って終わるわけにはいかない。


 セドはエルマから聞いたことを一つずつ整理して話した。


 黒い鳥は、流れを運ぶ存在。


 物だけではなく、金、情報、人。


 組合は管理する側。


 黒い鳥は選別する側。


 価値あるものだけを拾い、価値なしを捨てる。


 旧東工房区画へ行くには、物だけでなく街の流れを見る必要がある。


 人、金、情報、恐怖。


 それらすべてが流れている。


 話が進むにつれ、ロイドの表情から笑みが消えた。


 ミラは手を止めて聞いている。


 ガルドは腕を組み、低く唸った。


「……なるほどな」


「何か分かりましたか」


 セドが聞く。


 ガルドは少しだけ視線を落とした。


「俺が組合にいた頃も、似たような感覚はあった」


「似たような?」


「ああ」


 ガルドは作業台に置かれた魔石片を一つ手に取る。


「職人は、物を見る。石を見る。道具を見る。出来を見る」


「……」


「だが、上の連中は違う」


 その声は低かった。


「人を見るんじゃねぇ。流れを見るんだ」


 ロイドが眉をひそめる。


「流れ?」


「この職人は使えるか。この工房は利益になるか。この流通は握れるか。この店は潰すべきか、生かすべきか」


 ガルドの指が、魔石片を転がす。


「そういう見方をする」


 ミラが静かに言う。


「人じゃなくて部品」


「そうだ」


 ガルドは頷いた。


「俺はそれが嫌だった」


 店の空気が少し重くなる。


 ガルドが組合から外れた理由。


 今まで何度か断片は聞いてきた。


 だが、本人の口からここまで出るのは珍しい。


「俺がいた工房にも、使い潰された奴はいた」


 ガルドは続ける。


「腕はいい。でも遅い。だから捨てる。性格が悪い。でも腕はある。だから縛る。金にならない商品を作りたいと言う。だから黙らせる」


「……」


「効率だけ見れば、それが正しいのかもしれねぇ」


 一拍。


「だが、人は道具じゃねぇ」


 その言葉に、ミラの目が少し動いた。


 ロイドも黙っている。


 セドは、ガルドを見ていた。


 道具じゃない。


 その言葉は、どこか自分にも刺さった。


 自分もまた、長く自分を道具のように扱ってきたのかもしれない。


 ルイスのために動く。


 それは変わらない。


 けれど、動く自分自身をどう扱っていたか。


 そこまでは、考えていなかった。


「……セド」


 ロイドが呼ぶ。


「はい」


「今、自分のことだなって思ったろ」


「……」


「図星か」


「否定します」


「遅ぇ」


 ロイドは苦笑した。


「お前も道具じゃねぇぞ」


 沈黙。


 短い言葉だった。


 けれど、店の中に落ちたその言葉は、妙に重かった。


 セドはすぐには返せなかった。


 何か言おうとして。


 けれど、言葉が見つからない。


 必要ですので。


 いつもの言葉が、喉まで来て止まる。


 今、それで返すのは違う気がした。


「……分かっています」


 ようやく出た声は、いつもより少しだけ小さかった。


 ロイドはそれを見て、何も言わなかった。


 ミラも。


 ガルドも。


 ただ、少しの沈黙があった。


 急かさない沈黙。


 答えを押しつけない沈黙。


 それが、今のセドには少しだけありがたかった。


 


 その日の午後。


 店はいつも通り開いた。


 客は増えている。


 灯り石の評判は、想像以上に広がっていた。


「これ、まだあるか?」


「昨日買ったやつ、隣の婆さんが欲しがってな」


「普通のより明るいのに安いって本当か?」


「子供部屋に置きたいんだが、熱くならないか?」


 ロイドは客を捌きながら、ひとつひとつ答えていく。


「はいはい、順番だ」


「熱くならねぇ。ただし布で包むな。どんな灯りでも熱こもる」


「隣の婆さんなら小型の方がいい。明るすぎると夜中眩しいって言われるぞ」


「安いけど雑じゃねぇ。そこ間違えんなよ」


 以前より、ずっと言葉に熱があった。


 客もそれを感じているのか、ロイドの言葉に笑ったり、頷いたりする。


 店が動いている。


 ただ商品が売れているだけではない。


 会話が生まれている。


 信用が生まれている。


 それを見ながら、セドはエルマの言葉を思い出していた。


 人、金、情報、恐怖。


 この店にも流れている。


 ただし、恐怖だけではない。


 安心も。


 信用も。


 少しの笑いも。


 それらもまた、流れなのだ。


「セド」


 ミラが呼ぶ。


「はい」


「これ、見て」


 作業台の上に、新しい灯り石が置かれていた。


 少しだけ形が違う。


 光は柔らかい。


 以前より、横へ広がる。


「改良型ですか」


「夜間用」


「……」


「明るすぎない」


 ミラは淡々と言う。


「子供部屋、老人、寝室向け」


 セドは灯り石を手に取る。


 光が手のひらに落ちる。


 強い光ではない。


 だが、温かい。


「……良いですね」


「うん」


 ミラは少しだけ頷いた。


「売れると思います」


「売れるだけじゃない」


「?」


「必要になる」


 ミラは短く言った。


 セドは少しだけ黙る。


 売れるもの。


 必要なもの。


 似ているようで違う。


 ミラは、その違いを見ている。


「……そうですね」


「セド」


「はい」


「流れって」


 ミラは灯り石を見る。


「こういうのも?」


 セドは答えようとして、少し考えた。


「はい」


 静かに頷く。


「人が使い、人が話し、必要とする。それも流れです」


「なら」


 ミラは少しだけ目を伏せる。


「悪い流れだけじゃない」


 その言葉に、セドは静かに息を吐いた。


「はい」


 悪い流れだけではない。


 黒い鳥。


 組合。


 恐怖。


 隠蔽。


 それだけを見ていると、街は暗く見える。


 だが、ロイドの声がある。


 ミラの灯りがある。


 ガルドの手がある。


 子供たちの笑い声がある。


 それもまた、街の流れだ。


 ならば。


 自分たちが作ろうとしているものは、単なる商売ではない。


 暗い流れに対して、小さくても別の流れを通すこと。


 そういうものなのかもしれない。


 


 夕方。


 ニコたちが来た。


 今日はいつもより人数が多い。


 ニコ、リナ、トマ。


 そして、他に二人。


 まだ幼い兄妹だった。


「……増えたな」


 ロイドが言う。


「ちゃんと決まり守れる子だけ連れてきた!」


 ニコが胸を張る。


「危ない場所行ってない?」


「行ってない!」


「夜に拾ってない?」


「拾ってない!」


「盗んでない?」


「してない!」


 ガルドが横から低く言う。


「本当だろうな」


 新しく来た兄妹がびくっと肩を震わせる。


 ニコが慌てて言った。


「ガルドさん、顔怖い!」


「顔は元からだ」


「言い方!」


 ロイドが苦笑しながら前に出る。


「悪いな。こいつ怖い顔してるけど、子供が怪我するの嫌なだけだから」


「余計なこと言うな」


「事実だろ」


 ガルドは舌打ちしたが、否定はしなかった。


 ミラが兄妹の袋を見る。


「見せて」


「……はい」


 少女が小さく袋を差し出す。


 ミラは丁寧に受け取った。


 石を一つずつ並べる。


「これは良い」


 少女の顔が少し明るくなる。


「これは駄目」


 すぐに沈む。


「なんで?」


「割れ方が危ない」


「……ごめんなさい」


「謝らなくていい」


 ミラは石を別の箱へ入れる。


「次から選べばいい」


 その声は短い。


 だが、冷たくなかった。


 少女は少しだけ目を丸くして、頷いた。


「うん」


 トマが得意げに言う。


「最初はみんな分かんねぇんだよ」


「お前もな」


 ガルドが言う。


「今は分かるし!」


「まだ半分だ」


「半分も分かればすごいだろ!」


 店の中に笑いが起きる。


 セドはそれを見ていた。


 新しい子供が来た。


 買い取り窓口が広がっている。


 これは良いことだ。


 だが、同時に危険も増える。


 守る線を、さらに明確にしなければならない。


「ニコ」


「何?」


「次から、連れてくる前に名前を教えてください」


「え、なんで?」


「人数が増えすぎると管理できません」


「……管理?」


「怪我をさせないためです」


 ニコは少しだけ黙った。


 そして、頷いた。


「分かった」


「あと、拾う場所も必ず確認してください」


「うん」


「危ない大人が近づいてきたら」


「逃げる!」


「はい」


 リナも横で言う。


「あと、言いに来る」


「その通りです」


 セドは頷いた。


 子供たちの中に、少しずつ決まりが浸透している。


 それもまた、流れだ。


 何かを売るだけではなく、守るための流れ。


 店が、その中心になり始めている。


 ロイドも同じことを感じたのか、少しだけ遠い目をしていた。


「……何だよ」


 ガルドが聞く。


「いや」


 ロイドは苦笑した。


「変な店になったなって」


「最初から変」


 ミラが即答する。


「それは否定してほしかった」


「無理」


「無理かぁ……」


 それでも、ロイドの顔はどこか嬉しそうだった。


 


 夜。


 王城。


 ルイスは訓練場に立っていた。


 手には木剣。


 腕は痛い。


 手のひらには豆ができている。


 それでも、以前より振れるようになった。


 ほんの少し。


 本当に少し。


 だが、その少しが今のルイスには大きかった。


「……っ」


 踏み込む。


 振る。


 呼吸を整える。


 もう一度。


 月明かりが石床を照らしている。


 誰もいない。


 いつもなら、ただ静かなだけの場所。


 だが今日は、足元の影が少し濃かった。


「ノクス」


 呼ぶ。


 影が揺れる。


 ――見えてきた?


「少しだけ」


 ルイスは木剣を下ろした。


「セドが、また何かに近づいてる気がする」


 ――流れ。


「うん」


 ルイスは頷いた。


「最近、その言葉がずっと頭にある」


 人が動く。


 物が動く。


 金が動く。


 恐怖も動く。


 そして、希望も。


「僕は王城にいる」


 一拍。


「でも、外で起きている流れと無関係ではいられない」


 ノクスは答えない。


 ルイスは続けた。


「セドが外で流れを見ているなら、僕は王城の中の流れを見ないといけない」


 王城にも流れはある。


 人事。


 予算。


 廃棄品。


 噂。


 派閥。


 そして、期待と恐怖。


 今まで、ルイスは自分がその外側にいると思っていた。


 期待されない第二王子。


 王位争いから外れた存在。


 でも、それは外側ではなかった。


 ただ、流れの端に置かれていただけだ。


「……僕も、見ないと」


 木剣を握り直す。


 ノクスの声が落ちる。


 ――見るだけ?


 ルイスは少しだけ笑った。


「厳しいね」


 ――選ぶのは、あなた。


「うん」


 ルイスは静かに頷く。


「見るだけじゃない」


 一拍。


「いつか、選ぶ」


 その言葉は、夜の訓練場に小さく響いた。


 まだ弱い。


 まだ未熟。


 けれど、以前のルイスなら言えなかった言葉だった。


 その時。


 背後から足音がした。


「ルイス」


 振り返る。


 マルスだった。


 第一王子。


 兄。


 月明かりの下でも、その姿はどこか眩しく見えた。


「兄上」


「こんな時間まで?」


「少しだけ」


 ルイスは木剣を下ろす。


 マルスは近づき、ルイスの手を見る。


「豆ができているね」


「……うん」


「痛む?」


「少し」


「嘘だね」


 ルイスは少し笑った。


「兄上にはばれるな」


「昔からね」


 マルスは静かに言う。


「最近、本当に変わった」


 ルイスは少しだけ黙る。


「……変かな」


「良い意味で」


「そうだといいけど」


 マルスは訓練場の端へ視線を向けた。


「何かを見つけた?」


 その問いに、ルイスはすぐ答えられなかった。


 見つけた。


 たぶん。


 でも、それを全部話すわけにはいかない。


 セド。


 灯り石。


 廃棄魔石。


 裏流通。


 旧東工房区画。


 今ここで話せることではない。


「……まだ」


 ルイスは静かに答えた。


「探している途中です」


 マルスは少しだけ目を細める。


 嘘ではないと分かったのかもしれない。


 けれど、全部ではないことも感じているはずだ。


「そう」


 マルスはそれ以上追及しなかった。


「なら、焦らないように」


「……みんなそれ言う」


「みんなが言うなら、よほど焦っているんだろうね」


 ルイスは苦笑した。


「そうかもしれない」


「焦ることは悪くない」


 マルスは言う。


「ただ、焦りだけで選ぶと間違える」


「……うん」


「ルイス」


「はい」


「君は、誰かの後ろを歩く必要はない」


 その言葉に、ルイスは顔を上げた。


 マルスは静かに見ていた。


「僕の後ろでも、父上の後ろでもない」


「……」


「君が見るものを見ればいい」


 ルイスの胸が、少しだけ熱くなる。


「……兄上」


「何?」


「兄上は、どうしてそんなことを言えるの?」


 マルスは少しだけ驚いた顔をした。


「どうして、とは?」


「僕は、兄上と比べられてばかりだった」


 静かな声。


 責めているわけではない。


 ただ、自分の中にあったものを言葉にしているだけだった。


「でも、兄上は僕を下に見ない」


「……」


「それが、すごいなって」


 マルスはしばらく黙っていた。


 月明かりが、二人の間に落ちる。


 やがて、マルスは小さく笑った。


「僕も、比べられているからだよ」


「え?」


「王になる者として」


 その声は穏やかだった。


 だが、少しだけ重い。


「常に見られている。期待されている。間違えられないと思われている」


「……兄上でも?」


「僕でも」


 マルスは静かに言う。


「だから分かる。比べられることが、どれだけ人を狭くするか」


 ルイスは何も言えなかった。


 兄は光の中にいると思っていた。


 自分とは違う、眩しい場所に。


 だが、その光は時に檻にもなるのだと、今初めて少しだけ分かった。


「……ごめん」


「謝ることではないよ」


「でも、僕は兄上をちゃんと見てなかった」


 マルスは少しだけ目を丸くし、それから柔らかく笑った。


「なら、これから見ればいい」


「……うん」


 その沈黙は、悪くなかった。


 兄弟としての距離が、ほんの少しだけ近づいた気がした。


 だが、同時にルイスは理解していた。


 まだ全ては話せない。


 それは信頼していないからではない。


 今はまだ、話すことで兄を巻き込む可能性があるからだ。


 選ぶ時が来るまでは。


 この距離を守る。


「ルイス」


「はい」


「無茶はしないように」


 ルイスは少し笑った。


「本当にみんなそれ言う」


「なら、守ること」


「……努力します」


「努力ではなく」


「守る」


 ルイスが先に言うと、マルスは少し驚き、すぐに笑った。


「分かっているならいい」


 夜風が吹いた。


 足元の影が、ほんの少しだけ揺れた。


 ノクスは何も言わない。


 ただ、見ている。


 ルイスは木剣を握り直す。


 今夜はもう終わりにしよう。


 休むことも訓練。


 そう何度も言われている。


 そして、今なら少し分かる。


 止まることと、逃げることは違う。


 休むことと、諦めることも違う。


 セドにも、いつかちゃんとそう言えるようになりたい。


 そう思った。


 


 同じ夜。


 ロイドの店の灯りは、まだ消えていなかった。


 店内では、ロイドが帳簿を閉じるところだった。


「……終わった」


 ぐったりした声。


 ガルドが横から覗き込む。


「計算合ってんのか?」


「合ってる……はず」


「不安だな」


「じゃあお前やれよ!」


「俺は数字が嫌いだ」


「堂々と言うな!」


 ミラは作業台で夜間用灯り石を並べていた。


 柔らかな光が、店内を照らしている。


 強すぎない。


 目に刺さらない。


 小さな夜の光。


「……これ、いいな」


 ロイドが言う。


「夜に置くと落ち着く」


「うん」


 ミラは短く頷いた。


「売る?」


「売る」


 ロイドは即答した。


「これは売れる」


「必要になる」


「……あぁ」


 ロイドは少しだけ笑う。


「そうだな。必要になる」


 セドは奥で、今日の記録を書いていた。


 エルマ。


 黒い鳥。


 流れ。


 人、金、情報、恐怖。


 そして、店の中に生まれ始めた別の流れ。


 安心。


 信用。


 必要。


 守るための決まり。


 小さな灯り。


 それらを一つずつ書き留める。


 単なる記録ではない。


 今、この店がどこへ向かっているのかを見失わないための記録だった。


「セド」


 ロイドが声をかける。


「何でしょう」


「今日はもう終わりだ」


「まだ」


「終わり」


「ですが」


「終わり」


 ロイドの声が強くなる。


 ミラも言う。


「寝る」


 ガルドも頷く。


「明日また考えりゃいい」


 セドは少しだけ抵抗しようとして。


 やめた。


「……分かりました」


 ロイドが目を丸くする。


「お」


「お?」


「いや、素直だなって」


「守れと言われましたので」


 セドが言う。


 ロイドは一瞬黙り、それから笑った。


「そうか」


「はい」


「ならいい」


 ミラは夜間用灯り石を一つ、セドの前に置いた。


「持っていく?」


「よろしいのですか」


「試作品」


「……ありがとうございます」


 セドはそれを受け取った。


 小さな光。


 柔らかい灯り。


 手のひらに収まる程度なのに、不思議と温かい。


 その光を見つめていると、エルマの言葉がまた思い出される。


 街の流れ。


 恐怖だけではない。


 確かに、こういう光も流れる。


「……良い灯りです」


 セドが静かに言う。


 ミラは少しだけ頷いた。


「うん」


 店の外は、夜だった。


 王都のどこかで、黒い鳥が動いている。


 組合が息を潜めている。


 旧東工房区画には、まだ触れてはいけない何かが眠っている。


 だが、この小さな店にも灯りがある。


 誰かが捨てた魔石から作られた。


 価値なしと呼ばれたものから生まれた。


 小さな光。


 それはまだ、王都全体を照らすには弱すぎる。


 けれど。


 少なくとも今夜、この店の中にいる者たちの顔は照らしていた。


 それだけで、十分な始まりだった。

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