第26話
黒い外套の男が去ったあと。
店の空気は、しばらく戻らなかった。
誰もすぐには口を開けない。
表の扉は閉まっている。
客もいない。
なのに、妙な圧迫感だけが残っていた。
「……帰った、よな」
ロイドが低く言った。
まるで確認するような声。
「帰りました」
セドが答える。
「たぶん」
ガルドが付け足す。
「“たぶん”って何だよ」
「気配が消えすぎてる」
ガルドは腕を組んだまま扉を見る。
「普通の人間は、もっと生活音がある」
「生活音」
「歩き方、呼吸、視線。あいつ、妙に静かだ」
ミラが小さく頷いた。
「気味悪い」
ロイドは深くため息を吐いた。
「もう嫌だ……」
「軟弱」
ガルドが言う。
「うるせぇよ! お前は肝が据わりすぎなんだよ!」
「据わってねぇ。ただ慣れてるだけだ」
「何に慣れてんだお前らは!」
ロイドが頭を抱える。
セドは扉を見たままだった。
黒い外套。
目だけ笑っていない男。
組合ではない。
だが、処理場の流れを知っていた。
そして、こちらを見に来た。
偶然ではない。
「セド」
ミラが呼ぶ。
「何でしょう」
「考え込みすぎ」
「……」
「眉間」
セドは少しだけ自分の額へ触れた。
ロイドが吹き出す。
「ほんとだ。寄ってる」
「無意識でした」
「珍しいな」
ガルドが言う。
「お前、基本ずっと同じ顔してるだろ」
「そんなことはありません」
「ある」
三人同時だった。
セドは少し黙る。
ニコたちは、そんな大人たちを不安そうに見ていた。
「……ねぇ」
リナが小さく聞く。
「あの人、また来るの?」
空気が少し止まる。
ロイドがすぐに答えようとして――止まった。
嘘はつきたくない。
だが、不安にもさせたくない。
そんな空気を読んだのか、セドが先に口を開く。
「可能性はあります」
リナの肩が少し縮こまる。
だが、セドは続けた。
「ただし、皆さんに危険が及ぶ前に対処します」
「……ほんと?」
「はい」
セドは迷いなく答えた。
「約束します」
その声は静かだった。
けれど、不思議と嘘には聞こえない。
リナは少しだけ安心したように頷いた。
トマが腕を組む。
「でもさ」
「?」
「あいつ、強そうだった」
「強いでしょうね」
「お前、勝てるのか?」
ロイドが「おい」と止めようとする。
だが、セドは少しだけ考えた。
「分かりません」
「分かんないのかよ」
「戦っていませんので」
「でも強いんだろ?」
「……」
セドは少し黙った。
黒い外套の男を思い出す。
歩き方。
視線。
空気。
そして、あの静けさ。
「……少なくとも」
一拍。
「弱くはありません」
ガルドの目が細くなる。
「お前がそこまで言うか」
「はい」
「ますます嫌な感じだな」
ロイドが顔をしかめた。
ミラは静かに言う。
「でも、組合とは違う」
「違います」
セドは頷く。
「組合は“管理”の動きです。利益と流れを守るための圧力」
「黒外套は?」
「観察」
短い言葉だった。
「こちらを見に来ています」
「なんのために?」
ニコが聞く。
「現時点では不明です」
「不明ばっかだなぁ」
ロイドがぼやく。
「王都ってもっと平和だと思ってた」
「表は平和」
ミラが言う。
「裏は違う」
「お前、さらっと怖いこと言うなぁ……」
その時。
表から鐘の音が聞こえた。
昼を知らせる鐘。
王都の日常は、変わらず流れている。
組合も。
処理場も。
黒い外套の男も。
そんなものとは無関係に、街は今日も動いていた。
「……昼か」
ロイドが立ち上がる。
「とりあえず、飯にするぞ」
「お、賛成!」
ニコがすぐに反応した。
「腹減った!」
「お前ら、さっきまで怖がってただろ」
「怖いのと腹減るのは別!」
ロイドが吹き出す。
「子供だなぁ」
「ロイドさんも腹減ってる顔してる」
「うるせぇ」
ミラが静かに奥へ向かう。
「スープある」
「神か?」
ロイドが真顔で言った。
ガルドも頷く。
「今のお前は神だ」
「大袈裟」
「いや、空腹時の温かい飯は本当に偉大だぞ」
「職人って単純だな」
ニコが笑う。
さっきまでの重さが、少しだけ薄れる。
セドはそれを見ながら、小さく息を吐いた。
守る。
簡単な言葉ではない。
組合。
処理場。
黒外套。
相手は増えている。
だが。
今、この場所には笑いがある。
温かい食事がある。
人がいる。
それを壊されたくない。
その感情は、以前よりずっと強くなっていた。
昼食は、ミラの作った野菜スープと黒パンだった。
豪華ではない。
だが、温かい。
「うま……」
ロイドが本気で感動した顔をする。
「染みる……」
「大袈裟」
ミラが言う。
「いや、お前。料理上手いな?」
「普通」
「普通じゃねぇよ。店開けるぞ」
「嫌」
「即答」
ガルドが笑う。
ニコたちも夢中で食べていた。
「これ何入ってるの?」
リナが聞く。
「芋、人参、乾燥肉」
「なんか優しい味する」
「塩控えめ」
「へぇ……」
トマは無言で食べていた。
だが、空になった皿を見る速度が早い。
ロイドが笑う。
「お前、腹減ってたんだな」
「……別に」
「その量で?」
「うるさい」
セドは静かにスープを口に運ぶ。
温かい。
少しだけ、張っていた神経が緩む。
その時だった。
「……ん?」
ロイドが表を見る。
店の前を、見慣れない荷車が通っていく。
しかも一台ではない。
二台。
三台。
工房街側へ向かっている。
「何だあれ」
ガルドが眉をひそめる。
「見ねぇ紋章だな」
セドも視線を向ける。
荷車の側面。
黒い鳥のような紋章。
「……」
どこかで見た気がする。
だが、思い出せない。
ロイドが首を傾げる。
「新しい商会か?」
「分かりません」
ミラが小さく言う。
「嫌な感じ」
その言葉に、ガルドも頷いた。
「分かる」
荷車は、そのまま工房街の奥へ消えていった。
セドはしばらく視線を向けていたが、やがて皿へ戻す。
今はまだ情報が足りない。
だが。
王都の流れが、少しずつ変わり始めている。
そんな気配があった。
その頃。
王城。
ルイスは夜の訓練場で木剣を握っていた。
最近、毎日続けている。
足運び。
構え。
振り。
単純な反復。
だが、それを続けるのが難しい。
「……っ」
振る。
もう一度。
腕が重い。
汗が落ちる。
以前なら、ここで止まっていた。
でも今は違う。
「まだ」
振る。
「足りない」
振る。
セドは外で動いている。
ロイドたちは店を守っている。
自分だけ止まるわけにはいかない。
「……ルイス?」
声が飛んだ。
ルイスが振り返る。
そこにいたのは、一人の少女だった。
銀髪。
淡い青の瞳。
年齢はルイスと近い。
だが、纏う空気は静かだった。
「……フィリア」
ルイスが少し驚く。
フィリア・アルセイン。
侯爵家の娘。
そして、ルイスの数少ない“普通に話せる相手”だった。
「こんな時間に珍しいね」
フィリアが言う。
「ルイス、昔はあんまり夜に訓練してなかったのに」
「……ちょっと、頑張ろうかなって」
「へぇ」
フィリアは近づき、木剣を見る。
「手、痛くない?」
「少し」
「少しどころじゃないでしょ」
ルイスの手には、薄く豆ができていた。
まだ慣れていない証拠だ。
「無理しすぎ」
「してないよ」
「してる顔してる」
ルイスは少し苦笑した。
「最近、みんな同じこと言う」
「みんな?」
「……セドとか」
「あぁ」
フィリアが小さく笑う。
「セドって、本当にルイスのこと大事なんだね」
ルイスは少しだけ黙った。
「……うん」
「良い従者」
「うん」
「でも、ルイス」
フィリアの声が少し柔らかくなる。
「頼られたいって気持ちだけで、無茶しちゃ駄目だよ」
ルイスの心臓が少し跳ねた。
図星だった。
「……そんな顔に出てた?」
「少し」
フィリアは木剣を軽く叩く。
「頑張るのは悪くない。でも、急ぎすぎると折れる」
「……」
「ルイス、昔から真面目だから」
ルイスは少し目を伏せた。
真面目。
そう言われることは多い。
だが、自分ではよく分からない。
「僕は」
ぽつりと口を開く。
「何もないから」
「?」
「兄上みたいな力もない。セドみたいに動けるわけでもない」
ルイスは木剣を見る。
「だから、せめて努力しないと」
フィリアはしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「……ルイス」
「うん」
「それ、“何もない人”の言葉じゃないよ」
ルイスが顔を上げる。
フィリアは真っ直ぐ見ていた。
「本当に何もしない人は、自分から木剣握らない」
「……」
「悩まないし、変わろうともしない」
一拍。
「ルイスは、ちゃんと進もうとしてる」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
ルイスは何も返せなかった。
代わりに、少しだけ木剣を握る力が変わった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
フィリアは笑う。
「でも、今日はもう終わり」
「え」
「手、潰れるよ」
「まだいける」
「駄目」
即答だった。
ルイスが少し驚く。
フィリアは真顔だった。
「ちゃんと休むのも訓練」
「……セドみたいなこと言う」
「気が合うのかも」
ルイスは少し笑った。
最近、自分の周りには同じことを言う人が増えた。
休め。
無茶するな。
一人で抱えるな。
以前の自分には、そんなことを言ってくれる人はいなかった気がする。
「……変わったな」
ルイスが小さく呟く。
「何が?」
「色々」
フィリアは少しだけ目を細めた。
「なら、良い変化だといいね」
「うん」
夜風が静かに吹く。
王都のどこかでは、今日も誰かが働いている。
店を守る者。
材料を拾う者。
流れを変えようとする者。
そして、それを見ている者。
小さな灯りは、少しずつ広がっていた。
まだ弱い。
だが、確実に。
王都の奥へ、届き始めている。




