金泉の湯気に消えた影
有馬温泉は、日本三名泉のひとつ。
太閤秀吉も愛した金泉は赤茶けた鉄分を含み、銀泉は澄んだ炭酸の泡を静かに湛える。石畳の坂道、格子戸の宿、湯気に揺れる提灯。優雅な温泉街――だが湯煙は、都合の悪い影も隠す。
その夜、NSTは観光客に紛れていた。
元県知事一派の資金管理役が、有馬の高級旅館で海外仲介者と接触する。証拠を押さえる。主役は現場リーダー、西川彩香。
「外周確認済み。あかり、動線押さえとき」
播州弁は鋭い。だがどこか力が入り過ぎている。
迫田ツインズは浴衣姿で撹乱配置。美咲は通信監視。玲奈は一歩引いて全体を見ている。長身の影が湯気の向こうに溶ける。
そこへ――
「彩香やーん!」
場違いに明るい声。赤嶺美月。
大学のチアリーディングサークル仲間と温泉旅行。テンションは良泉以上に熱い。
「何してんの?任務?デート?温泉入った?」
彩香の額に血管が浮く。
「おい美月!エエ加減にせんかい!」
ヤクザより恐ろしい播州弁が石畳に響く。
観光客が振り向く。ターゲットも、振り向く。
美月はケラケラ笑う。
「怖〜!彩香、顔怖〜!温泉入って落ち着きぃや〜」
最悪のタイミング。
ターゲットは警戒し、接触は中止。黒塗りの車が静かに坂を下る。
「くそっ……!」
彩香は拳を握り締める。
「なんでやねん!あと一歩やったのに!」
怒りは湯より熱い。
だが怒りは、追跡の足を鈍らせる。
その時、玲奈が低く言った。
「彩香、怒るんは後や」
神戸訛りの関西弁。静かだが、揺るがない。
「プランBいくで。澪香、車両尾行。澄香、旅館ログ。美咲、通信拾い直し。あかり、出口封鎖」
指示は淀みない。
湯気が流れるように、隊は動く。
旅館の団体客到着を装い、車両は自然渋滞へ。
Wi-Fiログから送金経路を奪取。
接触そのものは潰れたが、資金の流れは掴んだ。
任務は完了。
彩香は息を荒げている。
自分が冷静さを欠いたことを、誰よりも理解している。
玲奈は金泉の足湯の縁に立つ。赤い湯が静かに揺れる。
「リーダーは常に冷静でおることや」
振り向かずに言う。
「……あんたの後ろ姿、あかりも美咲も澪香も澄香も、みんな見とるで」
全員が無言で彩香を見る。
その視線が、何より重い。
彩香は歯を食いしばる。
「……まだまだやな、うちは」
「せやな」
玲奈は否定しない。慰めもしない。
「でも、伸びる余地があるいうことや」
湯気の向こうで、玲奈の横顔が静かに光る。
怒鳴らない。騒がない。だが場を支配する。
それが器の違い。
一方、美月は。
「金泉やば!肌つるっつるやん!」
仲間と大はしゃぎ。湯に浸かり、炭酸せんべいを頬張り、何も知らずに笑う。
NSTの緊張と、美月の温泉テンション。
対照的な二つの世界。
彩香はその光景を見て、苦笑する。
「……次は、絶対取り逃がさん」
玲奈は小さく頷く。
有馬の夜は静かだ。
金泉の湯気がゆらゆらと上がる。
怒りも焦りも、湯に溶ければ少しは澄む。
だが戦いは続く。
静かなる美貌のボスの背中を、彩香は黙って追う。
まだ届かない。その背中が、今は目標だ。
湯気の向こう、影は消えた。
だがNSTは、確実に一歩進んでいる。




