静かな女は怒鳴らない
神戸市長田区。
鉄と油の匂いが、いまだに路地の奥に残っている街だ。高架下の薄暗がり、再開発ビルのガラスに映る古い商店街の看板。焼きそばの湯気と、錆びたシャッター。ここでは、表の顔と裏の顔が自然に同居している。
その夜、NSTは長田の倉庫街で極秘の監視任務に就いていた。元県知事一派の資金ルートが、港から内陸へ抜ける中継地点として使われている可能性が高い。騒ぎは起こせない。静かに、確実に。
現場を仕切るのは、新たに正式リーダーとなった西川彩香。
背筋を伸ばし、無線を握る姿には気合いが滲んでいる。
「全員、位置確認。勝手な動きはあかんで」
その矢先だった。
なぜか現場近くの商店街に、赤嶺美月がいた。完全プライベート。ハーフツインテールを揺らしながら、粉もん屋の前で笑っている。
「あっ!彩香やん!偶然やなぁ!」
その声が、静寂を切り裂いた。
物陰に潜んでいたあかりが一瞬反応する。
「あ、まず――」
遅かった。倉庫の見張りが動く。
焦ったあかりは、挽回しようと単独で踏み込んだ。
「ここで止めます!」
次の瞬間、警報が鳴る。鉄扉が軋み、倉庫内の灯りが一斉に点いた。
完全に、やらかした。
「……あかりィ!!」
彩香の播州弁が夜気を裂く。
「何しとんねんあんたは!!勝手に動くな言うたやろが!!
ヒーロー気取りも大概にせぇ!!うちらはチームや!!」
怒声は鋭い。
新リーダーとしての責任と、妹分を思う焦りが混ざっている。
あかりは歯を食いしばる。叱られ慣れている。だが今回は、自分でも分かる失態だった。視線が落ちる。
その混乱の中で、ひとりだけ声を荒げない女がいた。
岡本玲奈。
長身。長い手足。切れ長のアーモンドアイが、倉庫の動きを静かに追う。鼻筋の通った横顔は、夜の光を受けても揺らがない。
玲奈は無線を取らない。
代わりに一本、電話をかける。
「……うちや。巡回ルート、五分だけずらしてくれるか。理由は聞かんでええ」
次に、港湾関係の知人へ。
「倉庫番号三一二。今夜は何も見んかったことにしといて」
そして最後に、静かに倉庫の裏口へ回る。
警報は止まり、見張りは別件の通報に釣られて散った。
五分後、そこには何事もなかったような夜が戻っていた。
彩香が息を整える。
あかりはまだ俯いている。
玲奈が歩み寄る。
「大丈夫や。火ぃは消えた」
低い神戸訛り。
責めない。怒らない。
あかりの隣に立ち、目線を合わせずに言う。
「焦るんは悪いことちゃう。前に出る勇気は才能や。
でもな、前に出るタイミングを待てるんが実力や」
あかりは唇を噛み、こくりと頷く。
「……すみません、玲奈さん」
「謝らんでええ。次で返したらええ」
それだけで十分だった。
少し離れた場所で、彩香はまだ怒りの余韻を抱えている。
玲奈はそっと横に立つ。
「彩香」
「……はい、玲奈さん」
「よう怒ったな」
意外な一言に、彩香が戸惑う。
「でもな。あかりはあんたの妹分やろ?」
静かな声が続く。
「叱るんは仕事や。
でも育てるんが、あんたの役目や」
播州弁の勢いが、ふっと抜ける。
「……分かっとるつもりです」
「つもりやなくて、やるんや。あんたはリーダーやからな」
玲奈はそれ以上言わない。
背を向けるだけだ。
遠くで、美月の声がまた響く。
「え、なんか今、パトカー多ない!?うちのせいちゃうよな!?」
誰も答えない。
雨上がりのアスファルトが、街灯を鈍く反射する。
玲奈は夜空を見上げる。港の方角だ。
長田の風は冷たい。
だが彼女の背中は揺らがない。
怒鳴らない。
焦らない。
責めない。
それでも、誰よりも強い。
彩香がぽつりと呟く。
「……玲奈さんみたいになりたいわ」
玲奈は足を止めずに返す。
「ならんでええ。あんたはあんたでええ」
その横顔は、静かに光を帯びていた。
神戸の夜に立つ、静かなる美貌のボス。
岡本玲奈は、声を荒げずに組織を動かす女だった。
そしてNSTは、またひとつ強くなる。




