潮風に立つ影――玲奈さんという背中
港の匂いは、忘れようとしても身体が覚えている。
神戸の潮風。鉄錆の匂い。クレーンの軋む音。
岡本玲奈は、その風景の中で育った。
父は神戸港で小さな港湾関連会社を営んでいた。規模は大きくない。だが仕事は堅実で、現場の信用は厚かった。
「派手なんはいらん。約束守る。それだけや」
それが父の口癖だった。
母は明るい人だった。港の荒っぽい空気の中で、家の中だけは柔らかくしてくれる存在だった。
玲奈は、両親の背中を誇りに思っていた。
だが中学二年の秋。
過積載の大型トラックが交差点で制御不能になり、両親の車に突っ込んだ。
事故は“業務上過失”。
ニュースは数十秒で終わった。
だが玲奈の時間は、そこで止まった。
会社は混乱し、やがて第三者の手に渡った。
玲奈は兵庫県丹波篠山市の祖父母の元へ預けられる。
祖父母は高齢だった。年金と畑で慎ましく暮らしていた。
玲奈は泣かなかった。泣けば二人を困らせると分かっていたからだ。
学業は常に上位。旧帝国大も狙えると言われた。
だが進学の話が出るたびに、玲奈は首を横に振った。
きっかけは、事故後に何度も足を運んでくれた老刑事だった。
無骨で無愛想。だが祖父母の家の縁側で、黙って話を聞いてくれた。
「怒ってええ。でもな、怒りだけで生きたらあかん」
その言葉に、玲奈は救われた。
守る側に回る。
それが玲奈の答えだった。
兵庫県警に入った玲奈は、迷わず交通課を希望する。
過積載を、許さない。
夜の国道二号線で台貫に立ち続けた。
違法改造も重量超過も徹底的に摘発した。
やがてついた異名――
“国道二号線の鬼台貫”。
それでも玲奈は、声を荒げない。
「命が潰れるんは一瞬や。積み過ぎは、積み過ぎや」
その冷たい静けさが、かえって重かった。
――そして今。
長期間拘束され、衰弱しながらもNSTの連携で奪還された玲奈は、現場に戻ってきた。
大阪府内
ヒロ室西日本分室。
扉が開くと、彩香が立ち上がる。
「玲奈さん……ほんまに、もう動けるんですか」
播州訛りが、いつもより柔らかい。
玲奈は薄く笑う。
「大丈夫や。思ったより丈夫やったわ、うち」
迫田ツインズが視線を交わす。
あかりが拳を握る。
美咲が静かに息を整える。
全員、口を揃える。
「玲奈さん、おかえりなさい」
玲奈は視線を巡らせる。
長身。長い手足。切れ長のアーモンドアイ。鼻筋の通った端正な顔立ち。
警察官らしい凛々しい表情の奥に、深い影がある。
「彩香」
「はい、玲奈さん」
「現場はあんたが握り。NSTはあんたのチームや。うちは県警とのパイプ役やる」
彩香は一瞬目を見開き、すぐに頷く。
「……任せてください。玲奈さん」
迫田ツインズが笑う。
「玲奈さんが後ろにおるなら、怖いもんないですわ」
あかりが続く。
「玲奈さんの分まで、走ります」
美咲は静かに言う。
「玲奈さんがいてくださる。それだけで十分です」
玲奈は少しだけ目を伏せた。
「うちが拘束されとる間、ようやってくれたな。……ありがとう」
NSTの面々が固まる。
玲奈が、こんな言葉を口にするのは珍しい。
彩香が小さく笑う。
「玲奈さん、そんなこと言われたら照れますやん」
玲奈は神戸訛りのまま、低く言う。
「照れとる暇あらへん。相手は県内だけやない。外とも繋がっとる。ここからが本番や」
部屋の空気が締まる。
それでも、どこか安心感がある。
玲奈がいる。
それだけでNSTは一本の線になる。
窓の外、遠くに神戸の灯り。
玲奈は小さく呟く。
「親父……もうちょい借りるで」
誰にも聞こえない声だった。
だが彩香は、その背中を見て確信する。
この人は、兵庫を守る。
過去を抱えたまま、前へ進む。
岡本玲奈。
警察官。カラーガード隊員。戦隊ヒロイン。
そして――NSTのボス。
潮風に立つその背中は、静かに、だが確実に仲間を前へ押し出していた。




