幻影は鋼鉄を渡る
夜明け前の日本海は、光を拒むように鈍く沈んでいた。
餘部沖を抜けた不審船の甲板に、硝煙と潮の匂いが重く漂う。
NSTはついに敵艦へ踏み込んだ。
だが任務は終わっていない。玲奈は見つけた。だが、まだ取り戻してはいない。
拘束の大半は解けている。それでも両足には金属の輪が残り、鎖が短く揺れる。走るたびに、鈍い音が鋼鉄を叩いた。
「玲奈さん、段差があります。どうか足元にお気をつけください」
彩香は自然と敬語になる。臨時リーダーであっても、玲奈は年上であり、かつてNSTを率いた存在だ。
「大丈夫や。まだ動ける」
声は落ち着いている。しかし、長時間の拘束で体力は削られている。足枷がわずかに引っかかり、歩幅が乱れる。
澄香と澪香が左右に入る。
「支えます」
「こちらへ」
二人の動きは無駄がない。雲海を切り裂くように敵を惑わせた双子の連携が、今は玲奈を守るために使われている。
後方であかりが振り返る。
「敵、再集結しています!」
船室から武装した男たちが現れる。半円を描き、退路を塞ぐ。
海上保安庁は別方向で交戦中。
若林あおいのヘリはまだ距離がある。
囲まれた。
彩香は息を吸う。
「玲奈さん、必ずお守りします」
「守る守られるの話やない。ここを抜ける。それだけや」
玲奈の言葉は短い。だが、その一言で場の空気が締まる。
敵が引き金に指をかける。
その瞬間。
風向きが変わった。
煙が逆巻き、甲板灯が一瞬、落ちる。
ヒールの音。
コツ、コツ、コツ。
黒のロングコート。赤いスカーフ。
潮風を受けて立つ女。
世界的イリュージョニスト、高田美雪。
妖艶な笑みを浮かべる。
「お待たせ♡」
銃口が揺らぐ。
次の瞬間、閃光。
細いワイヤーが走り、銃が絡め取られ、海へと消える。小さな炸裂音とともに、敵の足元が爆ぜる。視界を奪われた男たちが体勢を崩す。
彩香が息を呑む。
「美雪さん……どうしてここに」
「後輩のピンチを見過ごすわけにはいかないでしょ」
標準語のやわらかな声。
玲奈へ視線を向ける。
「あなたが玲奈さんね。噂は聞いているわ」
玲奈は目を細める。
「そうかいな。助かる」
「感謝は後でいいわ」
戦闘の最中でも、美雪は優雅だった。
「あかり、ちゃんと指示を聞けるようになったのね。成長しているわ」
「は、はい!」
「迫田ツインズは、どちらがどちらか分からなくなるくらい息が合っている。でも二人とも、それぞれ立派な戦力よ」
澄香と澪香が小さく頷く。
「美咲、その上品さは武器。失わないで」
「恐縮です」
そして彩香へ。
「リーダーとしての目になったわね。もうNSTはあなたのチーム」
彩香の胸がわずかに震える。
「……まだ未熟です」
「未熟だから、伸びるのよ」
敵が立て直そうとする。
美雪は一歩、煙の中へ下がる。
「玲奈さん、みんなを温かく見守ってね」
玲奈がわずかに頷く。
「私はここまで。続きはあなたたちの仕事」
赤いスカーフが翻る。
「今度はてっぱん坂井で会いましょう。ごきげんよう」
強烈な閃光。
煙が晴れたとき、美雪の姿は消えていた。
敵は完全に足止めされている。
彩香が即座に指示を飛ばす。
「今です。梯子の位置へ!」
ローター音が近づく。
若林あおいのヘリが夜明けの空を裂く。
サーチライトが甲板を貫く。
「回収位置を確保しました。玲奈さんを先に」
梯子が降りる。
風圧が鋼鉄を叩く。
「玲奈さん、こちらへ」
彩香が肩を貸す。
「すまんな」
「当然です」
足枷が鳴る。
澄香と澪香が持ち上げるように支える。
あかりが梯子を押さえる。
「固定します!」
敵が銃を向けるが、巡視船の警告射撃が水柱を上げる。
玲奈が梯子を掴む。
「どうかお気をつけください」
彩香の声は震えていない。
玲奈は短く頷き、上空へ引き上げられていく。
甲板が遠ざかる。
日本海が朝日に染まる。
彩香は最後に梯子を掴み、振り返る。
黒い航跡がまだ残っている。
終わりではない。
だが――玲奈は、取り戻した。
ヘリへ吸い込まれる直前、彩香は静かに思う。
続きは、私たちの仕事だ。




