黒い航跡 ― 日本海海戦・接舷前夜
白霧が裂けた瞬間、海の顔が変わった。
夜明け前の日本海。
東の空がわずかに白むころ、霧の層がゆっくりと剥がれ落ちる。
その向こうに、黒い影が浮かび上がった。
不審船。
距離、およそ八百メートル。
彩香の喉が鳴る。
「見えた」
その瞬間、沖合から重いエンジン音が重なる。
灰色の船体。
回転灯の赤と青が滲む。
海上保安庁。
「こちら海上保安庁。対象船舶を視認。合同で挟撃する」
無線が落ち着いた声で響く。
戦いは、追撃から包囲へと変わる。
波田顧問が低く笑う。
「海は広ぇが、逃げ場はねぇぞ」
不審船が進路を変える。
速度を上げ、沖へ抜けようとする。
「北東へ逃走!」
あかりが叫ぶ。
美音がスロットルを押し込む。
漁船のエンジンが唸る。
「波、立つよ」
前方から横波。
だが美音は躊躇しない。
浜名湖ボートレース場で、現役モーターボートレーサーをねじ伏せたあの瞬間の目。
あのとき、実況は叫んだ。
“遠州の勇者、逆転!”
今、その勇者は日本海を読む。
「左、二度。次、波が来る」
舵が滑らかに切られる。
船体が斜めに波を受け、跳ねる。
海保の巡視船が大回りで外側を塞ぐ。
だが不審船は機敏だ。
小型高速艇へ乗り換え、突破を図る。
黒い航跡が海に刻まれる。
「分離した!」
澪香が目を細める。
二隻に分かれる。
どちらに玲奈がいる。
判断の時間は、数秒。
彩香が叫ぶ。
「美音、右!」
迷いはない。
高速艇を追う。
距離、四百。
三百。
敵が蛇行する。
波を利用し、追跡を振り切ろうとする。
美音の口元が僅かに上がる。
「やるね。でも……」
操舵輪が大きく回る。
船首を一瞬、敵とは逆方向へ向ける。
彩香が目を見開く。
「何して――」
「東郷ターン」
美音が低く言う。
大きく回り込む。
敵の進路を読む。
回頭半径を最大に使い、弧を描くように旋回。
波が船体を叩く。
甲板が傾く。
あかりが叫びながらも笑う。
「ジェットコースターやん!」
だが次の瞬間、漁船は敵艇の前に出た。
進路を遮る位置。
敵が減速を余儀なくされる。
海保巡視船が背後から迫る。
挟撃完成。
黒い航跡が交差する。
不審船の乗員が銃を構える。
威嚇射撃。
弾丸が海面を跳ねる。
「伏せろ!」
彩香が叫ぶ。
だが漁船は止まらない。
美音はさらに舵を切る。
横波を使い、敵艇の死角へ。
「距離、五十!」
接舷可能圏内。
海保が警告放送を流す。
「停止せよ!」
敵が最後の賭けに出る。
高速艇を全速で回頭させ、包囲を抜けようとする。
美音が即座に反応。
もう一度、大きな旋回。
波を背に受け、船体を滑らせる。
敵艇の進路を完全に塞ぐ。
エンジンの唸りがぶつかる。
黒い航跡が絡み合う。
日本海の朝が、戦場になる。
彩香は前を睨む。
「玲奈はあの中や」
距離、二十メートル。
敵艇の甲板が見える。
人影。
拘束具。
「接舷、いける!」
だがその瞬間、遠くの本船が煙幕を張る。
白い煙が風に流れ、視界が乱れる。
敵はまだ終わっていない。
だが、流れは変わった。
美音の東郷ターンが、戦況をひっくり返した。
海は黒い。
だが航跡は消えない。
次は、接舷戦。
日本海海戦は、最終局面へ入る。




