白霧の航跡 ― 日本海海戦 第二幕
船尾を掴んだはずだった。
日本海の夜は、逃げ場のない黒だった。
不審船の影を百メートル先に捉え、彩香は甲板で息を詰める。
玲奈は、あの中にいる。
だが次の瞬間、海が裏切った。
白い壁が、音もなく立ち上がる。
夜霧だ。
山陰の海に特有の、湿った冷気が一気に視界を奪う。
灯りが滲み、輪郭が溶ける。
「視界、急低下!」
あかりの声が風に千切れる。
美音は舵を握ったまま、前を睨む。
「落ち着いて。波の返りで読む」
だが霧は濃くなる。
不審船の船影が、白の向こうに消える。
エンジン音だけが頼りだった。
低く、重い回転。逃げる大型船の唸り。
彩香は耳を澄ます。
「右前方……いや、少し左か」
そのとき、霧の奥から別のエンジン音が現れる。
ひとつではない。
二つ、三つ、四つ。
レーダーに複数の点が浮かぶ。
「偽装漁船団や」
澪香が吐き捨てる。
小型漁船が霧の中を横切る。
漁火が揺れ、無線からは通常の漁業通信。
本物か、偽物か。
進路を塞ぐように、一隻が目の前を横切った。
「漁の邪魔するな!」
怒号が飛ぶ。
敵か、ただの漁師か。
撃てない。
突っ込めば一般船の可能性。
敵はそれを知っている。
波田顧問の声が無線に入る。
「針を海に落としやがったな。焦るな、嬢ちゃん」
焦りはない。
あるのは、削られていく時間。
霧がさらに濃くなる。
灯りがいくつも瞬き、方向感覚を狂わせる。
どれが本物だ。
彩香は目を閉じる。
目で追うな。
耳と波を読む。
美音が低く言う。
「大型船は波の返りが違う」
舵をわずかに切る。
漁船が斜めに滑る。
その瞬間、横波が叩く。
船体が跳ね、甲板に海水が叩きつけられる。
あかりが笑う。
「すご……これ、アトラクションより速い!」
その無邪気さが、張り詰めた空気に奇妙な隙を生む。
だが霧は笑わない。
前方、十数メートル。
漁船が突然現れる。
急転舵。
船体が軋む。
「ぶつかる!」
寸前でかわす。
だがその隙に、重いエンジン音が遠ざかる。
「逃げるで!」
彩香の声。
美音はスロットルを押し込む。
霧の中へ、再び突っ込む。
灯りがひとつ、消えかけては点く。
合図だ。
「あれや」
彩香が指す。
だが同時に、別方向にも同じ灯り。
敵は模倣する。
光の数だけ、迷いが増える。
無線にノイズ。
暗号通信の断片。
あかりが解析を試みるが、霧が電波も乱す。
エンジン音が四方に散る。
「分散や……」
澪香が唇を噛む。
彩香は決断を迫られる。
全部は追えない。
外せば終わる。
霧笛が鳴る。
低く、重く、海を震わせる。
音だけが、世界を支配する。
「右三時方向。あれ、回転が一定や」
美音が断言する。
漁船が向きを変える。
霧の奥、うっすらと黒い影。
距離、二百。
百五十。
だが突然、霧が渦を巻く。
冷たい風が横から吹き抜ける。
視界が完全に消える。
音も消える。
エンジン音が、途切れた。
「……見失った」
誰かが呟く。
日本海は、何もなかったように静まる。
波だけが船底を叩く。
彩香は前を睨む。
拳が震えている。
「まだや」
声は低い。
霧は永遠じゃない。
敵は必ずどこかで姿を現す。
だが今、この瞬間だけは、白い海の中で孤立している。
灯りが、ひとつ。
遠くで瞬く。
本物か、幻か。
船首がゆっくりと向きを変える。
追うのか、待つのか。
日本海は、答えを出さない。
白霧の向こうで、何かが動く。




