波を裂く者 ― 日本海追撃線
餘部の断崖は、静かすぎた。
日本海に沈む夕日が、不審船の船影を朱に染めている。
その船に玲奈がいる。
わかっているのに、手が届かない。
彩香は崖の上に立ち尽くしていた。
潮風が頬を叩く。視界が滲む。
涙だった。
臨時リーダーになってから、泣く暇などなかった。
悔しさは怒りに変え、怒りは判断に変え、判断は命令に変えてきた。
だが今は違う。
「……ごめん」
誰に向けたのか分からない呟きが、波音に消える。
遠ざかる船。
エンジン音が小さくなる。
少し離れた場所では、上品な声が海風に乗って響いていた。
「こちら餘部。夕日が日本海に沈む瞬間は、まさに絶景です――」
さつきのレポートだ。
カメラのライトが灯り、笑顔が映る。
絶景と敗北が、同じ空の下にある。
彩香は拳を握る。
涙を拭う。
そのとき、無線が震えた。
「彩香、行くぞ」
波田顧問の声。
それだけだった。
迷う余地はない。
崖下の港の影に、一隻の漁船があった。
漁具は下ろされ、燃料が満タンに積まれている。どうやって手配したのかは聞かない。波田が動けば、船は出る。
船の操舵席に立っていたのは、河合美音。
静岡県浜松市出身。
かつて浜名湖ボートレース場でのイベントで、現役モーターボートレーサーとガチンコ勝負をして勝利した女。
その日、実況が叫んだ。
“遠州の勇者!”
今、その勇者が日本海に立っている。
「エンジン、問題なし。行けるよ」
美音の声は落ち着いている。
目だけが、獲物を狙う猛禽のように鋭い。
NSTが乗り込む。
エンジンが唸る。
船体が震える。
「掴まって」
美音がスロットルを押し込む。
船首が浮く。
日本海の荒波が牙を剥く。
だが美音は恐れない。
「波を正面から受けない。横を使う」
舵が切られる。
船体がうねりを滑る。
漁船とは思えない速度で、海を裂く。
彩香は甲板で目を凝らす。
遠く、小さな灯り。
「あれや……」
不審船。
距離はまだある。
だが縮まっている。
潮風が顔を打つ。
塩の匂いが肺に入る。
あかりが甲板で声を上げる。
「うわ、速っ!すごい!」
まるで遠足に来た子どものように、潮風に吹かれてはしゃいでいる。
その無邪気さが、逆に救いだった。
「落ちるなよ!」
澪香が叫ぶ。
美音は無言で舵を握る。
波の癖を読む。
風の角度を感じる。
エンジン音が低く唸り続ける。
距離、三百メートル。
敵はまだ気づいていない。
「近づく。灯りを消す」
美音がスイッチを落とす。
闇に溶ける。
距離、二百。
敵が進路を変える。
気づいた。
「逃げるで」
彩香の声。
美音の口元が僅かに上がる。
「逃がさない」
スロットル全開。
船体が跳ねる。
波頭を飛び越える。
日本海の荒波が、船底を叩く。
だが舵はぶれない。
遠州の勇者。
今は、日本海の刃。
距離、百メートル。
不審船の船尾が見える。
黒い影。金属の匂い。
玲奈は、あの中にいる。
彩香の目が光る。
「追いついた……」
まだ奪還はしていない。
だが、逃げられてはいない。
船尾を掴む。
日本海の真ん中で、二隻が並ぶ。
海鳴りが、戦いの始まりを告げていた。




