餘部の断崖、最後の布石
豊岡で取り逃がした夜から、NSTの空気は変わった。
悔しさは静かな怒りに変わり、怒りは計算へと沈んでいった。
城崎温泉の老舗旅館の一室。
波田顧問は地図の一点を叩く。
「餘部だ。逃げ道は海しかねぇ。断崖の裏に隠れりゃ、レーダーも目も届きにくい」
餘部。
兵庫県香美町。
山陰本線の餘部鉄橋から見下ろす日本海の絶景で知られる場所。空と海が溶け合うような眺め。観光客がカメラを構える名所。
だがNSTにとっては、絶景は逃走路にしか見えなかった。
断崖の下に旧倉庫群。
海上搬送前の中継地点。
彩香の声は低く、迷いがない。
「挟み込みます。県警は外周封鎖。ツインズは高台から攪乱。あかりは通信遮断」
澪香が頷く。
澄香は風を読む。
日本海は荒れていなかった。
静かな海ほど、嫌な予感がする。
――餘部鉄橋下、旧施設。
鉄骨の影。潮の匂い。
断崖に打ち付ける波音。
澪香が先に動く。
高台からの監視カメラを無力化。澄香が倉庫脇の警備を引きつける。
彩香が突入。
薄暗い部屋の奥。
椅子に拘束された女性。
白いブーツ。
俯いた横顔。
玲奈。
息はある。意識もある。
彩香と目が合う。
言葉はいらない。
あと数十メートル。
その瞬間だった。
「本日は餘部鉄橋の絶景スポットをご紹介します」
上品で澄んだ声が、断崖に響いた。
さつきだった。
神戸放送の情報番組。
鉄道から見える絶景特集。取材クルーとともに鉄橋周辺へ。
カメラのライトが倉庫外壁を照らす。
ドローンが上空に上がる。
敵が警戒レベルを最大に引き上げる。
「一般人がいる。強行できません」
県警の無線が響く。
さつきは事情を知らない。
美しい夕日を背に、微笑みながら語る。
「こちら、餘部。海と空の境界が溶け合う瞬間です。列車からの眺めは圧巻ですよ」
ドローンが倉庫裏へ流れ込む。
敵が焦る。
「移送だ!」
玲奈を抱え、裏手の斜面を下る影。
彩香が駆ける。
だが、断崖下の臨時桟橋には既に小型船が待機していた。
エンジン音。
海面を切る白い波。
彩香の足が止まる。
玲奈が遠ざかる。
玲奈は振り返らない。
振り返れば、彩香が無茶をすると知っている。
船が沖へ。
「……終わった」
彩香の口から零れる。
波田顧問の声が無線で低く響く。
「まだだ。動きが荒い。逃げ足は速ぇが、必ず痕を残す」
だが今は、目の前で玲奈を失った事実だけが重い。
NSTは断崖の上で立ち尽くす。
日本海に夕日が沈む。
その光の中、さつきはカメラに向かって微笑む。
「夕日が海に溶ける瞬間、まるで時間が止まったようですね」
背後では、エンジン音が遠ざかっている。
彩香はその対比に眩暈を覚える。
ひとつの世界は、絶景を語る。
ひとつの世界は、仲間を奪われる。
交わらない二つの風景。
だが、完全な敗北ではなかった。
あかりが通信ログを掴む。
「出航前の暗号通信。最終集結地点が判明。日本海側の港湾座標」
布石は打たれた。
玲奈はまだ海の向こうへ出ていない。
彩香は拳を握る。
夕日が沈む。
さつきは知らない。
自分の背後で何が失われたのか。
NSTも知らない。
自分たちが見せられた“失敗”が、敵の最後の焦りだったことを。
餘部の断崖は静かだった。
だが、嵐は確実に近づいている。
次は、本当の最終局面。




