海鳴りの向こうに届かない声
城崎温泉の夜は静かだった。
川沿いの柳が揺れ、下駄の音が石畳を叩く。その穏やかさとは裏腹に、老舗旅館の一室には張り詰めた空気が漂っていた。
畳の上に広げられた地図。
豊岡市の港湾エリアに赤い印がつく。
日本海へ抜ける貨物ルート。医療物資を装ったコンテナの動線。県警の配置図。
波田顧問が腕を組み、低く言った。
「いよいよ大詰めだ。ここで取り逃がしゃ、海の向こうだぞ。だが騒ぐな。隠密だ」
彩香は短く頷く。
臨時リーダーとしての責任が、肩にのしかかる。玲奈がいない現実は、もう痛みではなく、重みになっていた。
「挟み撃ちにします。港湾倉庫の南北を同時制圧。ツインズは陽動、あかりは通信。県警は外周封鎖」
言葉は冷静だった。
心は燃えていた。
――豊岡港。
夜の岸壁に潮の匂いが立つ。クレーンが黒い影を落とし、波の音が鉄骨を叩く。
コンテナヤードの奥、薄暗い倉庫に動きがあった。
澄香が囮として走り、追手を引きつける。
澪香が逆側から侵入し、鍵を解除。
あかりが無線を傍受する。
「……人質確認。女性一名」
彩香の心拍が一瞬跳ねる。
倉庫奥。
拘束された女性の姿。
白いブーツ。
見慣れた立ち姿。
玲奈だった。
痩せているが、目は生きている。
彩香と視線が交差する。
言葉はいらない。
あと数歩で届く距離。
「今や!」
彩香が踏み込む。その瞬間だった。
岸壁の入口付近から、場違いなほど明るい声が響いた。
「うわー!港ってテンション上がるやん!写真撮ろ!」
振り向かなくても分かる。
明るい色のハーフツインテール。小柄な影。動きがいちいち大きい。
美月だった。
大学の友人たちと城崎旅行の延長で豊岡観光。
偶然、封鎖寸前の港湾道路へ入り込み、騒ぎを察してはしゃいでいる。
「なんか撮影?ドラマ?え、ウチ映ってへん?」
無邪気にスマホを掲げる。
敵が反応するには十分だった。
一瞬の隙。
監視役が警戒レベルを最大に引き上げる。
「ルート変更!海上へ!」
玲奈が別のコンテナへ移される。
背後のシャッターが落ち、フォークリフトが唸る。県警が外周を固めるが、市街地に一般人がいる以上、発砲も強行もできない。
彩香は歯を食いしばる。
目の前で、玲奈が遠ざかる。
玲奈は振り返らない。
振り返れば、彩香が無茶をすると知っているからだ。
コンテナがトラックへ。
トラックが岸壁奥の船へ。
船のエンジンが低く唸る。
海鳴りが強くなる。
「……くそ」
彩香の声は低く、波に消える。
その横で、美月は友人たちと笑っている。
「さっきの人、めっちゃ真剣な顔してたなぁ。映画の撮影ちゃう?」
何も知らない。
何も見えていない。
ただ、楽しい旅の一幕。
彩香は影に身を隠しながら、美月を睨む。
「なんで毎回おるねん……」
怒鳴りたい衝動を押し殺す。
怒りは敵に向けるものだ。
波田顧問が無線で言う。
「取り逃がしたな。だが焦るな。動きが荒くなった。次は必ず尻尾を出す」
あかりが報告する。
「移送先、通信ログに“餘部”の単語」
餘部。
日本海沿いの断崖。
海と空しかない場所。
彩香は沖へ消える船を見つめる。
海鳴りが胸に響く。
「次で終わらせる」
拳を握る。
悔しさは熱になる。
背後では、美月がまだはしゃいでいる。
「城崎戻って温泉もう一回入ろ!海風気持ちええわ!」
その声が、やけに遠い。
玲奈の姿は、もう見えない。
だが、生きている。
届かなかった声は、まだ消えていない。
港の灯りが滲む。
物語は、日本海のさらに奥へ。
餘部へ続く。




