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西日本特別諜報班 NST 影の特命  作者: スパイク


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雲海の上の足跡

夜明け前の朝来は、音が薄い。

車のドアを閉める音さえ、湿った空気に吸われて消えていく。山肌に張りつく冷気は、肺の奥を一段だけ冷たくした。


竹田城。

山上に残る石垣は、眠っているように見える。だがこの城は、夜が明けるたびに別の顔を見せる。

雲海が出る日は――空が地面になり、地面が空になる。


彩香は車を降り、薄暗い登山口で手袋をはめ直した。

息が白い。緊張で、ではない。今日は大阪でも雪が降ったという。ここはさらに冷える。


「澪香、先行。澄香は観光客側で流れ作って。あかり、美咲は外周。県警は――」

言いかけて、彩香は言葉を飲んだ。県警との連携は“形”だけだ。上も下も疑心暗鬼。誰が敵の内通者か分からない。そんな状態で“完全な協力”など、絵空事だった。


「……こっちはこっちでやる。合図はいつも通り」


迫田澪香が短く頷いた。

派手さはない。目立たない。なのに、目が冷えている。狩りの目だ。


澄香は逆に、ひと目で視線を集める華やかさを持っていた。だがその華やかさは武器でもある。彼女は“見られること”を恐れない。むしろ利用する。


「雲海が出たら、視界は持っていかれる。逆に、足元だけが残る」

澪香が言った。彩香は返す。


「足元で勝負や」


夜が薄くなる。

山の向こうが、微かな青を帯びた。


そのとき――背後から、場違いなくらい明るい声が飛んだ。


「雲海凄いわ~!! マジで天空やん!!」


彩香の肩がわずかに跳ねた。

振り向くと、明るい色のハーフツインテールが暗がりでもやたらと目立っている。美月だ。大学の友人たちに囲まれ、登山口で既にテンションが頂点に達している。


ツインテールが、逆立ちするんじゃないかと思うほど無邪気にはしゃいでいた。


「ちょ、見て! これ、雲が下にあるやん! 意味わからん! うわっ、テンション上がる!」

友人が笑う。美月はさらに声を張る。


彩香は額を押さえた。

「……何であいつ、毎回居るねん。邪魔!!」

声は小さい。顔は大きく呆れている。これが彩香の“祈り”に近い。


澄香が視線だけで彩香を見て、口の端をほんの少し上げた。

「使えるかも」


「使うな。……いや、使うしかないか」


山道は狭く、観光客の波は思った以上に厚い。

だがそれは“ノイズ”になる。つまり、NSTにとっては擬態のための最高の舞台でもある。


澪香は観光客の流れから外れ、石垣の影へ滑り込んだ。

足音を消す。雲の匂いが濃くなる。湿った苔の匂いと混ざって、過去の空気になる。


彼女は地面を見ていた。

視線は石垣ではない。上でもない。足元だ。


細い登山道の脇、土が僅かにえぐれている。

“踏まれた”えぐれ方ではない。重い荷が引きずられたような擦れ。しかも規則的だ。


澪香はしゃがみ、指先で土の縁をなぞった。


「……車止めたな。ここから運んだ」


彩香に無線で短く伝える。

彩香は返す。


「続けて。澄香、観光客の群れ、こっちに寄せて」


澄香は観光客に向かって、自然な声で言った。

「雲海、いちばん綺麗に見えるの、少し先の石垣ですよ。写真撮るなら今が一番」


誰も疑わない。

“案内する美人”は、観光地で最強だ。人は善意の形をした誘導に弱い。


その誘導の結果、観光客の波が動き、NSTの動線が空く。

雲海と同じだ。白い海が流れを変え、見せたいものだけを見せる。


そして――美月が、その流れにさらに勢いをつけた。


「聞いた!? 石垣のとこが一番らしいで! 行こ行こ!」

友人の腕を引っ張り、無邪気に突撃する。


彩香は呟いた。

「……邪魔やけど、勢いだけは一級品やな」


澪香が進んだ先、石垣の裏。

観光客の目線から死角になる凹みに、古いビニールシートの切れ端が落ちている。新品ではない。再利用された物流用のものだ。


さらに、小さな金具。

拘束具の部品に見える。医療用にも、警察装備にも似た形。だが、どちらでもない雑な作り。


澪香は金具を布に包み、周囲を見回した。


苔むした石の隙間に、白い繊維が引っかかっている。

ほとんど見落とす程度の、細い糸。


それが、刺さった。


白い糸。

玲奈の白いパレードブーツ。白いグローブ。白の装備。

彼女が行方不明になった時、濃紺のジャケットとミニスカートの制服姿だった。白は“最初に失われる”色だ。汚れ、破れ、ちぎれて残る。


澪香は糸をそっと採取し、無線に息を落として言った。


「痕跡。……ここにいた。短時間、確実に」


彩香は一瞬、言葉を失った。

喉の奥に硬いものが引っかかる。玲奈を“もう居ないものと思え”と言った県警幹部の声が、頭の隅で鳴った。


だが彩香は、それを押し潰す。


「日本海沿い。港や。これで確信した。中継点は山、出入口は海」


背後で、雲海が完成した。

白い海が谷を埋め、朝日がそれを朱に染める。現実味が薄くなるほど美しい。

その美しさが、逆に残酷だった。


なぜなら――こんな場所で、人が運ばれた。

誰にも気づかれずに。


そのとき、美月の声が石垣の上から降ってきた。


「うわぁぁぁ! 雲海や! 雲海!! 生きててよかった!!」

ツインテールが跳ねる。はしゃぎ過ぎて、髪が逆立って見える。

友人たちが笑う。


彩香は顔を上げずに、ため息をついた。

「……ほんま、何で毎回居るねん」


澄香が小さく言った。

「でも、あの声のおかげで、こっちの動き全部消えた」


彩香は渋い顔のまま、肯定した。

「……悔しいけどな」


澪香は最後に周囲を見て、ゆっくり立ち上がった。

雲海は流れる。けれど足跡は流れない。


「行こ。次は海や」

彩香が言う。


その声は静かだった。だが中身は鋼だった。


竹田城は観光客の歓声に包まれる。

誰も知らない。

この雲海の下で、誰かの運命が海へ向かって運ばれていったことを。


NSTはその“知らない”を背負って動く。

表には出ない。拍手もない。

ただ、確信だけが残る。


日本海沿いの港。

そこに、玲奈の次の影がある。

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