山あいの風、消えない足跡
丹波篠山市は、時間の流れが遅い。
黒豆畑が風に揺れ、城下町の石畳は夕方になると柔らかい色を帯びる。山に囲まれた盆地の空は広く、夜は深い。派手な事件は似合わない土地だ。だからこそ、痕跡は静かに沈む。
NSTが追っているのは、伊丹から北へ抜けた物流の線だった。
医療研究資材の名目で動いた車両が、丹波篠山郊外の古い研修施設跡に立ち寄っている。三時間だけ温度管理のログが途切れ、その間に何があったかは記録にない。
臨時リーダーの彩香は、現地に入る前に言った。
「感情は置いていけ。証拠だけ拾う」
玲奈の名前は誰も口にしない。
だが、全員が胸の奥でその名を抱えている。
主役は、あかりだった。
普段は軽く見えるが、数字と“違和感”に関しては鋭い。
「止まってた。でも、止まってないふりしてる」
彼女は伊丹での記録を見返し、そう断じた。GPSは動いていない。だが冷却ログが空白。止まった場所は、ここしかない。
研修施設跡は、廃校を改装したような建物だった。窓は新しい。看板はない。雑木林に囲まれ、生活の気配は薄い。
澄香と澪香が周囲を固める。彩香は離れた位置から全体を見渡す。
あかりは建物の裏手に回り、足元を丹念に見る。
湿った土に残る車両のタイヤ痕。古いが、完全には消えていない。
「これ、重量物積んでる」
沈み込みの深さが違う。
さらに、倉庫跡の床に小さな破片を見つける。
医療用拘束具の梱包材。
冷却剤の欠片。
そして――白い革の微細な擦れ。
白い革。
玲奈のパレードブーツを思わせる色と質感。
あかりはそれを指先で確かめる。
「偶然じゃない」
静かな確信だった。
そのとき、森の奥から明るい声が響いた。
「モモンガ可愛い~!」
彩香は目を閉じた。
嫌な予感が当たる。
神戸放送の情報番組のロケ隊が、森に入ってくる。
先頭にいるのは、上品な長い黒髪の女性――さつき。丹波の自然特集で“モモンガを追う”企画らしい。
普段は落ち着いている彼女が、珍しくはしゃいでいる。
「ほら、あの枝の間! あれ、絶対そうですよね?」
スタッフがカメラを向ける。
さつきは完全に仕事だ。NSTの存在も任務も知らない。
だが、その三脚の位置がまずい。
澄香が張っている死角に入る。
彩香が低く無線で言う。
「接触するな。自然に退け」
澄香はロケ隊に歩み寄る。
「この辺り、足元が不安定です。落ち葉の下に穴がある」
柔らかい口調で、しかし確実に距離を変える。
さつきは会釈する。
「ありがとうございます。……でもモモンガ、本当に可愛いですね」
上品な声で笑う。
場違いなほど、穏やかだ。
しかしロケ隊の侵入に反応したのは、建物の内部だった。
裏口がわずかに開く。人影。
警戒している。
あかりはそれを見逃さない。
「動いた。誰かいる」
施設は“無人”のはずだった。
ロケ隊が森を荒らしたことで、内部の人間が焦る。
焦りは判断を誤らせる。
車両が一台、裏手から出る。急ぐ様子だ。
澪香が即座にナンバーを押さえる。
あかりは照合する。
「この番号、伊丹と一致。……行き先は北」
北。
日本海沿いの港湾都市。
さらに建物内部を調べると、短期間の拘束を示す痕跡がある。
使い捨ての食器。壁の擦れ。
そして床に残る、白い靴底の微かな跡。
あかりは静かに言う。
「玲奈さん、ここにいた」
確証には遠い。だが、線は繋がる。
森では、さつきがカメラに向かって笑っている。
「丹波の森は本当に豊かです。モモンガに会えたら幸せですね」
その無邪気さが、皮肉のように響く。
彩香は風の向きを確かめる。
山あいの冷たい風が吹き抜ける。
「急ぐで。次は海側や」
声は低く、決意だけがある。
あかりは最後に振り返る。
白い革の擦れ跡は消えかけている。
だが消えていない。
丹波の山は何も語らない。
だが、足跡は残る。
NSTは静かに撤収する。
派手な勝利はない。
ただ、確実に近づいている。
日本海沿いへ。
玲奈はまだ、生きている可能性がある。
それだけが、彼らを動かしていた。




