芦屋川、曇りのち微風 ――静かな街ほど、闇の足音はよく響く。
芦屋は、夜がうるさくない。
海からの湿った風が坂をのぼり、山の気配を連れて降りてくる。瀟洒な邸宅の門灯は控えめで、道路はやけに整っている。ここでは、怒鳴り声もサイレンも“似合わない”――だからこそ、闇はこの街を好む。
ヒロ室西日本分室の臨時リーダー、彩香は車内のモニターを睨んでいた。県警には知らせない。今回の任務は“摘発”じゃない。“線を抜く”ことだ。
リコールされた元県知事一派に流れる金の道筋。その一部が、芦屋の不動産管理会社を経由して第三国へ消えている。表向きは医療研究への投資、実態は資金洗浄。しかも、その先に「日本海側ルート」の影がちらつく。
「澪香、どうや」
インカム越しの声は低く、短い。
答えたのは迫田澪香。声にも歩き方にも、無駄がない。ツインズの片割れでありながら、澄香とは違う“冷えた速さ”を持っている。
『管理会社のサーバー、古い。セキュリティは外面だけ。ログの癖が…素直すぎる』
澪香は、芦屋川沿いのカフェに“普通の客”として座っている。紙袋は高級パティスリーのもの、服装は上品で地味。目立たないのに、目は獲物を逃がさない。彼女の隣の席には、澄香が“納入業者の営業”のふりで座り、会話の壁を作っていた。
彩香はルート図を指でなぞる。
芦屋の管理会社――港湾の倉庫――日本海側の中継。
そのどこかに、玲奈の欠片がある。濃紺のジャケット、ミニスカート、白いパレードブーツ。あの制服姿のまま消えたリーダー。誰より強く、誰より静かにチームを支えた人。
車の外は曇っていた。
灰色の空は、悪意を隠すのに都合がいい。
『……来た』
澪香の声が一段だけ硬くなる。
管理会社の幹部が、予定にない動きをした。社用車を出し、別邸へ向かう。そこに“金庫代わりの書庫”がある――情報筋の話は本当だったらしい。
彩香は決断する。
「澄香、後ろを切れ。美咲とあかりは動くな。澪香、ログを抜いたら即離脱。――騒ぐな。ここは芦屋や」
『了解』
短い返事。
一秒の遅れが、命取りになる現場の返事だ。
澪香は店を出た。
芦屋川の石畳は濡れていないのに、足音が吸われていく。彼女はその“静けさ”を味方にして、別邸の裏手へ回り込む。庭の植栽は手入れが行き届きすぎていて、逆に不自然だった。防犯灯の死角。監視カメラの角度。澪香は呼吸と同じ速さで読み取っていく。
そのときだった。
インカムに、澄香の低い声が割り込む。
『……彩香。まずい。あの二人、来てる』
彩香は嫌な予感を抱いた瞬間、視界の端に“色”が刺さった。
明るいハーフツインテール、小柄な後ろ姿。
その隣に、上品で清楚な長い黒髪、長身の後ろ姿。
美月とさつき。
神戸放送の情報番組。芦屋のスイーツ特集。
よりにもよって、このタイミングで。
彩香は頭を抱えた。
「何であいつらまた居るんねん……!」
二人はロケ隊を連れて、川沿いの“映える店”を探して歩いていた。美月の声は遠くても通る。河内のスピーカーは健在だ。
「見て見て! あそこのモンブラン、芦屋の“気品”が詰まってる顔しとるで!」
「美月、顔って…スイーツに顔って…」
さつきは相変わらず上品に突っ込みながら、カメラに向けて丁寧に店の説明をしている。声が落ち着いていて、妙に説得力がある。現場にいる人間を一番惑わすタイプの“ちゃんとした言葉”。
最悪だ。
美月が別邸の方へ寄ったら、澪香の潜入が露見する。
県警を巻き込まないつもりの任務が、芦屋の街ごと騒ぎになる。
彩香は、口の中で舌打ちした。
だが――次の瞬間、状況が動く。
美月が、別邸の門前で足を止めた。
「うわ、ここ…門が重たそうやなぁ。中、どんな人住んでんねやろ。カメラ回してええですかー!」
門の内側。警戒していた男が慌てて出てくる。
“管理会社の幹部”の護衛だ。スーツの下の肩が不自然に張っている。銃はない。だが、刃物か拘束具くらいは持っている。
男は、ロケを追い払おうとして言葉を荒げた。
その瞬間、さつきが一歩前に出る。顔は笑っているのに、声が妙に硬い。
「すみません、番組の許可は取っております。撮影NGなら、理由を説明していただけますか?」
上品な言い方が、逆に刺さる。
護衛の男は“言葉”で押し返せない。ここで乱暴に追い払えば、それ自体が映像になる。芦屋の高級住宅街で、強面がロケ隊を威圧――それは、管理会社にとって最悪の絵だ。
男は焦った。
そして焦りは、ミスを生む。
門の鍵を操作する手元が映った。
さつきのカメラマンが、偶然ズームを寄せる。
そこに、指の動き。番号。癖。――澪香が欲しかった“入り方”の情報が、丸ごと撮れてしまった。
『彩香、見えた。鍵のコード、今ので分かった』
澪香の声は、冷静なのに少しだけ熱を帯びていた。
“偶然”が、こちらに傾いた。
彩香は即座に指示を飛ばす。
「澪香、今や。三十秒で抜け。澄香、回収ルート確保。美咲、あかり、ロケ隊の退避誘導――ただし自然にや」
あかりが、ロケ隊の前に出た。
バカ正直に、しかし妙に説得力のある顔で言う。
「このへん、風が強いから危ないよ。機材、倒れるよ。……あっちの店の方が映える」
ロケ隊は“映える”に弱い。
美月も弱い。
「映える! ほな移動しよ!」
「美月、判断基準が単純すぎる…!」
ロケは、すっと離れていった。
芦屋の静けさが戻る。
そして澪香は、別邸の裏口から滑り込んだ。
数分後。
澪香が抜き取ったのは送金ログだけではなかった。
倉庫の出入り記録、医療研究投資の偽装書類、そして暗号化されたファイル名。
《Sea-7 / Guard-Unit / WhiteBoots》
彩香の背筋が冷たくなる。
“白いブーツ”。玲奈の痕跡だ。
『確証はない。でも…このルートは、日本海側へ繋がってる』
澪香は淡々と言う。
淡々としていないと、心が折れる仕事だ。
彩香は曇り空を見上げた。
微風が、芦屋川の水面を撫でる。
穏やかな街の顔は変わらない。だが水面の下で、確かに何かが動いている。
「玲奈さん……」
名前を口にした瞬間、胸の奥が疼いた。
それでも彩香は、声を低く締めた。
「行くで。次は海側や。――芦屋は終わり。曇りは、まだ晴れへん」
遠くで、美月の声がまた響く。
「うわ、このスイーツ、口どけが雪や! 芦屋すごい!」
さつきが笑いながら、上品にまとめる。
「以上、芦屋の甘い午後でした」
彩香は小さく呟いた。
「……あいつら、ほんま……」
文句のようで、どこか救われた声だった。
誰も知らないところで、任務は成功した。
そして玲奈の影は、ほんの少しだけ、風の向こうで形を結び始めていた。




