薬は誰のために ――効能書きに書かれなかった副作用*
港町の海風が、研究棟のガラス壁を撫でていく。
白衣と実験器具、整然と並ぶフリーザー、無音に近いクリーンルーム。
国内有数の製薬会社――抗生物質とワクチンで名を上げ、誠実と堅実を社是に掲げる老舗。医療の礎を支えてきた、その看板は重い。
だが、重い看板ほど、裏にひずみを抱える。
ヒロ室西日本分室。
彩香は資料を閉じ、視線をあかりに向けた。
「今回の主役は、あかりや」
あかりは目を瞬いた。
「私、薬のことは詳しくないです」
「薬の中身は専門家が見る。あんたは“数字の流れ”を見る」
製薬会社の役員――開発担当の常務。
新薬の承認直前。株価は上昇。
だが内部告発によれば、副作用データが意図的に“薄められている”。重篤例が除外され、統計の端に追いやられている。
さらに、送金履歴。
ダミー団体を経由し、リコールされた元県知事一派へ流れる資金。
「命を売って政治を買う……最低ですね」
あかりの声は、いつになく冷たかった。
製薬会社の本社は、海を望む高層ビルにあった。
ロビーには企業理念が掲げられ、社員は皆、整った身なりで静かに働く。
あかりは投資家向け説明会の参加者として入館した。
黒のジャケット、控えめなメイク。
誰も疑わない。彼女は“数字を聞きに来た人”にしか見えない。
説明会の資料は完璧だった。
売上予測、臨床試験の成功率、承認後の市場拡大。
だが、あかりはページをめくるたびに眉をひそめる。
「……副作用の記載が、薄すぎる」
別に医療の専門家じゃない。
だが、数字の“空白”はわかる。
重篤例の発生率が、前回資料と一致しない。
説明のない“補正”。
治験参加者数と症例数の微妙なズレ。
あかりは小型端末を開き、内部データと照合する。
NSTが掴んだ未公開資料。
一致した。
「隠してる」
会場の壇上では、常務が微笑んでいる。
「本新薬は、画期的な安全性を――」
その声は滑らかだが、目は冷たい。
あかりのイヤーピースに彩香の声。
「タイミングは任せる。撃てるときに撃て」
説明会は、メディア公開の第二部へ。
会場後方に、神戸放送のカメラが入る。
レポーターは、さつき。
「本日は注目の新薬発表会に来ています。未来の医療を変える一手になるとのことです!」
上品な笑顔。
だが彼女は、この会社の空気に違和感を覚えていた。
完璧すぎる説明は、どこか空虚だ。
壇上で常務が誇らしげに言う。
「安全性は、すべてのデータが証明しています」
その瞬間。
スクリーンが切り替わる。
グラフが一枚、二枚。
非公開症例。重篤副作用の発生率。
そして、内部会議録の一文。
《承認後に修正すれば問題ない》
会場がざわつく。
常務の笑顔が止まる。
「……これは、何者かによる――」
あかりが立ち上がった。
声は大きくない。だが、はっきりしている。
「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、人です」
会場の視線が彼女に集中する。
「こちらの資料は、あなたの部署から金融監督機関に提出された原本です。重篤例が削除される前の」
常務の顔が青ざめる。
さらにスクリーンに映る送金履歴。
県知事一派のダミー団体。
研究支援費の名目での資金移動。
「政治献金の資金源が、新薬の利益ですか?」
静かな問い。
常務はリモコンを操作しようとする。
だが、手が震えてボタンを押し間違える。
画面に出たのは“削除フォルダ”。
《副作用_重篤_非公開》
会場から、抑えきれない失笑。
その様子を、さつきのカメラが正面から捉えている。
「えっ……今のフォルダ名、視聴者の皆さんも見えましたよね?」
さつきが無邪気に追撃する。
「安全性の説明の直後に“非公開”って……これは新しい広報戦略なんでしょうか?」
常務の額に汗が滲む。
壇上でマイクを落とす。
拾おうとして足を滑らせ、演台にぶつかる。
大企業の役員が、完璧な照明の下でよろめく姿。
ハングマンのように、静かに、だが確実に地位が崩れる。
数時間後。
会社は緊急会見を開き、常務は「体調不良により辞任」と発表。
だが市場は知っている。
株価は急落。
金融庁も動く。
NSTは影のまま去る。
ヒロ室に戻ったあかりは、もう一枚の資料を見つめていた。
「玲奈さんの通信ログ……」
製薬会社の研究施設から、日本海側の港湾会社へ資金とデータが移動している形跡。
その港は、対岸の権威主義国家と定期便を持つ。
「……日本海ルート」
彩香が低く言う。
「薬のデータと一緒に、人も運べる」
玲奈が掴んだのは、この副作用隠蔽と資金ルート。
それが原因で、海の向こうへ?
確証はない。
だが線は繋がり始めている。
テレビの中で、さつきが締めのコメントをしている。
「新薬の未来は、透明性があってこそですね。数字は誠実であってほしいものです」
その背後で、常務が会見場から慌てて退場する姿が映る。
NSTは名前を出さない。
だが、また一つ“副作用”を止めた。
薬は誰のためにあるのか。
その問いは、まだ海の向こうまで続いている。




