極道の庭に咲く影
大阪府内のヒロ室西日本分室。
空は薄い鉛色で、雪の名残みたいな冷気が肺の奥に刺さった。
彩香の机の上には、地図とメモと、無言が積み重なっている。玲奈は戻らない。戻らないまま、時間だけが進む。
「県警は、今回は深追いできへん」
波田顧問の言葉は短い。べらんめぇ口調で強がっても、空気は重い。
神戸に根を張る“日本一の任侠団体”。触れれば街が揺れる。警察が動けば、抗争の火種になる。
だから影が動く。NSTが動く。
「澄香。お前が行け」
彩香は、返事を待たなかった。もう決まっている顔だった。
澄香は静かに頷いた。表情は薄い。だが目だけは凍るほど澄んでいる。
迫田澄香――瓜二つの双子の姉のほう。
華やかな顔立ち、細い首筋、笑えばたぶん艶やかだ。だが仕事中の彼女は笑わない。
“美人”という言葉が、彼女の前ではただの外観情報に落ちる。
「怖ないん?」あかりが小さく言った。
澄香は、まるで天気の話でもするように答えた。
「怖いよ。だから、余計な感情を捨てるだけ」
肝が座ってる、なんて言葉は軽すぎた。
彼女は“怖さ”を否定しない。抱えたまま、歩く。
神戸の路地は、夜になると音が減る。
港の匂いと、古い石段の湿り気。灯りの下を歩く人影は、どれも影の一部みたいだった。
澄香は“企業コンサル”の名刺を差し出した。
任侠団体のフロント企業――形式上は地域振興と建設関連の会社。体裁は整っている。だが金の流れが汚い。汚すぎる。
応接室に通される。
対面の男は、大幹部。地元では“人格者”で通る顔。
その目は優しい、というより、感情の置き場所を知っている目だった。人を怒鳴らずに従わせる種類の目。
「若いのに、えらいとこまで来たな」
「必要とされる場所へ来ただけです」
澄香は声の温度を変えない。
男は薄く笑った。
「ここは神戸や。度胸だけじゃ、帰れん」
“脅し”が来た。
普通は、ここで声が揺れる。目が泳ぐ。息が浅くなる。
澄香は違った。
湯呑みを置く音すら、同じだった。
「帰れないなら、帰らないだけです」
その言葉に、余計な色気も強がりもない。ただ事実みたいに落ちる。
男の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
澄香は会話の端から端まで、糸を拾った。
“第三国経由”“輸出コンテナ”“港湾倉庫”“通信ログ”。
そして、玲奈の名。
それは、会話の中ではなく、机に伏せられた書類の影にあった。
メモの隅――雑に書かれた符号の列。澄香の視線だけが、それを読む。
玲奈の失踪と同じ線でつながる金。
元県知事一派の影。
そして、警察内部の情報が“買われている”匂い。
澄香は、帰り際に言った。
「任侠道は、弱い者を守るものだと聞きました」
男は眉ひとつ動かさず答えた。
「守るに値する者だけや」
その瞬間、澄香は確信した。
この男は“仁義”を言葉として持っているだけで、心には置いていない。
帰りの廊下で、黒服が二人、すっと立ちはだかった。
「名刺、置いてけ」
「……それは困ります」
「困るのはこっちや。女が一人で来て、帰れると思うな」
脅しは、二段目へ進む。
拳ではなく、空気で押し潰すやり方。
澄香は、笑わない。
だが目だけが、刃みたいに冷たくなる。
「私が帰れなかったら、あなた方の“困る”は、全国に広がります」
言い方が淡々としているから、余計に怖い。
黒服の手が止まった。ほんの半拍。
その半拍で十分だった。
外では澪香が通信を握り、美咲が裏口の動線を切り、あかりが“物理的な出口”を確保していた。
NSTは銃を持たない。だが、連携は武器になる。
澄香は、書類の写真と音声ログを抜き、無言で夜へ溶けた。
そして翌日。
“庭”は静かに手入れされる。
任侠団体の内側で、裁きが始まった。
若頭会議。
閉ざされた部屋。外は平然としている。
ニュースにもならない。警察も踏み込まない。だからこそ怖い。
会議の場に、匿名のデータが流れた。
送金履歴、内部情報の売買、元県知事一派との裏契約。
玲奈の名が記された取引メモ。
大幹部は立ち上がった。
「こんなん捏造や!誰が――」
若頭が言葉を遮った。低い声で、たった一言。
「仁義、売ったんか」
その瞬間、部屋の空気が、氷みたいに固まった。
冷酷無情な“始末”は、血ではなく、社会的な死で行われた。
破門。役職剥奪。組の名簿から抹消。
そして“みっともない儀式”。
大幹部の胸に、でかい札が掛けられた。
黒いマジックで太字。子どもの罰ゲームみたいに乱暴な字。
――「仁義、売りました」
会議室の外に引きずり出される男。
拳は飛ばない。怒号もない。
ただ、周囲が一斉にスマホを構える。撮影、撮影、撮影。
「やめろ!消せ!消せぇ!」
叫ぶほど、滑稽になる。ハングマンみたいな落ちだ。
その場を、見てしまう者がいた。
さつきだ。
完全プライベートで、近くの知人宅へ行く途中だった。紙袋には手土産。上品なコート。髪はきちんとまとめている。
「……今日は、やけに人だかりですね」
彼女は不思議そうに足を止めた。
ちょうどその瞬間、破門の大幹部が外へ出される。
胸の札が、街灯に照らされてやけにハッキリ読める。
さつきは、目を丸くした。
「え……あの人、テレビで見たことあるような……」
周りの黒服が無言で男を車に押し込む。
男の靴が片方脱げる。
誰も拾わない。
それが“終わり”の象徴みたいだった。
さつきは、思わずつぶやく。
「……神戸って、怖いですねぇ」
しかも彼女、空気を読まない上品さで追撃する。
「でも、あの札、字がちょっと下手でした。もっと美しく書けば……」
黒服が一瞬、さつきを見る。
さつきはにこっと会釈して、そのまま知人宅へ歩いていく。
無敵か。
夜。ヒロ室西日本分室。
彩香の前に、澄香が静かにデータを置いた。
「副産物がある」
「……玲奈さん?」
「生きてる可能性は、まだある。名が出てる。線がつながった」
彩香の拳が小さく震えた。
絶望的、と言われた言葉が、少しだけ薄くなる。
澄香は最後に言う。
「脅しには屈しない。けど、油断はしない。——次はもっと来る」
彩香は頷いた。
リーダー不在のまま、影の庭は荒れる。
だが、咲くものもある。
仁義を売った男は失脚した。
笑えるほどみっともなく、静かに、確実に。
そしてNSTは、また次の夜へ向かう。
玲奈の影を追いながら。
兵庫の闇の、さらに奥へ。




