火薬の匂いは、山に嘘をつけない
加東の山は静かだ。
夜になると畑の灯も消え、国道から外れた細道は闇に沈む。木々が風に擦れる音だけが残り、遠くの犬の吠え声すら、どこか他人事みたいに聞こえる。
その静けさの奥に、ひとつだけ眠らない場所がある。
廃工場だ。
かつては部品を作り、町の手を支えた箱。今は窓が割れ、鉄骨がむき出しで、雨が降れば床に水が溜まる。夜のライトに照らされると、建物の輪郭だけが不気味に浮かぶ。
――人が寄らない場所。だからこそ、人が寄る。
NSTが掴んだ線は、その工場に向かっていた。
セメント工場で断ち切った資金の流れ。その“替え玉”として、新しい洗浄ルートが動き出している。金が動く場所には、必ず物が動く。物が動くなら、次は火薬だ。
彩香は地図に指を置いた。
線は山間の一本道に収束し、廃工場へ吸い込まれるように途切れている。
「ここが“灰”の次の段階や。金が止まった分、向こうは急いどる。
……爆弾と武器、準備に入ったわ。」
迫田ツインズは無言で頷き、あかりは口を結ぶ。
美咲だけが、静かに資料を読み込んでいた。目立たない。声も大きくない。だが、今夜の任務で一番頼りになるのは、その“地味さ”だった。
彩香が美咲に言う。
「美咲。お前が先行で入る。
工場の外周、見張りの配置、搬入車両の時間。全部拾え。
今日の主役はお前や。」
美咲は一度だけ、短く頷いた。
「了解です。目立たないのが取り柄なので。」
軽い冗談に聞こえる。だが、実際それは武器だった。
――――
夜の廃工場は、冷たい。
土の匂いと、鉄の錆の匂い。そこに、わずかに混じる刺激臭。
鼻の奥がチリッとする。火薬の匂いは、山に嘘をつけない。
美咲は作業服に帽子、古い工具袋を肩に下げ、近くの林道から入り込んだ。
鹿のように静かに歩く。足音を消す。呼吸も抑える。
凡庸な見た目、穏やかな気配――それが、今夜は完璧な迷彩だった。
工場の裏手。
割れた窓の隙間から、灯りが漏れている。
中では男たちが動いていた。数は多くないが、雑に扱える相手でもない。
床に並ぶドラム缶。木箱。梱包材。
そして、壁際には工具ではない形の金属――銃の部品らしきもの。
美咲は無線を押す。
「彩香さん、確認。中に複数名。ドラム缶と木箱。武器部品らしき荷も。
刺激臭あり。火薬系の可能性が高い。」
彩香の声が返る。低く、焦りがない。
「了解。搬入車両は?」
美咲は外周のタイヤ痕を見た。新しい。しかも重い。
その上、粉塵の付き方が妙だ。セメントの灰ではない。もっと黒い、油の混じった粉。
車両は来る。近い。
「……来ます。たぶん、今夜。」
美咲は身を沈め、工場へ通じる一本道を見下ろせる位置へ移動した。
そこから見えるのは、暗闇の細道。
音が先に来る。低いエンジン音。
次にライト。闇を切り裂いて、白い光が木々を舐める。
不審車両。
荷台が沈んでいる。重量物だ。
速度は一定。急がない。慣れた走り方。
――運転手は“ここが安全だ”と知っている。
美咲は無線を押そうとして、指を止めた。
道の途中に、別の集団が現れたからだ。
明るい声。笑い声。足音が軽い。
統率の取れた掛け声。
チアリーディングサークルの合宿ランニング――その一団が、闇の一本道を横切った。
先頭にいたのは、赤嶺美月だった。
「ほらー!姿勢崩すなー!北播磨は空気がうまい、肺が喜んどるぞー!」
場違いにもほどがある。
廃工場の裏手で、なぜこのタイミングで。
美咲の胃が冷える。
(……やめて。今は、来たらあかん。)
不審車両が減速した。
美月が気づいた。止まる。首を傾げる。
そして、悪気ゼロの顔で、運転席へ近づいていく。
「すんませーん!ちょい聞きたいんやけど、この先、西脇ってどっちですか?」
運転手が固まる。
一瞬の沈黙。
美月はニコニコしている。合宿中のランニングでテンションが高い。
後ろの学生たちも、給水をしながら車を眺めている。
――最悪だ。
なのに、次の瞬間、美咲は気づいた。
車が“動けない”。
荷台が重い。
狭い道。
人が多い。
そして美月は、やたらと話が長い。
「いや、こっちちゃう?地図アプリがな、山道や言うて……
え、ナビないん?うそやん、令和やで?
あ、でもこのへん電波悪いか。ほな目印言うわ。まずな――」
運転手はカタコトの日本語で逃げようとする。
「ア、ソウ、ソウ……ワカラナイ。イソガシイ……」
美月はさらに詰める。
「急いでるん?どこ行くん?
え、廃工場?……なんで?
そっち、めっちゃ暗いし怖いで?幽霊出るで?」
後ろの学生たちが「え、幽霊?」とざわつく。
車両は完全に足止めされた。
美咲は、呼吸を整えた。
(……この人、邪魔してるつもり一ミリもないのに、
結果だけ見たら、完璧な検問やん。)
美咲は無線を押した。声は震えていない。
「彩香さん。ターゲット車両、道で停止。理由は――美月さんです。」
彩香の返答が一拍遅れた。
「……は?」
「美月さんが道を尋ねて足止めしてます。集団ランニング中。
敵が動けません。今がチャンスです。」
彩香の声が、低く唸る。
「……あの河内のスピーカー、ほんま……
いや、今は感謝や。全員、位置取り。詰める。」
迫田ツインズが左右へ回り、あかりが後方遮断。
美咲は前へ出た。
美月はまだ話している。
「せやからな、次のカーブで右ちゃう。左や。
左行ったら小さい橋があってな、そこで――」
その時、闇から人影が現れた。
作業服。帽子。工具袋。
“山の工事関係者”にしか見えない女――美咲だ。
美咲は運転席へ近づき、低い声で言った。
「……車、止めて。荷台、開けてください。」
運転手の目が泳ぐ。
美月が振り返る。
「え?だれ?……お姉さん、工事の人?この人迷って――」
美咲は美月にだけ、ほとんど口の形で伝えた。
(……離れて。)
美月は意味が分からない顔をしたが、なぜか本能で察した。
一歩下がり、合宿生を手で制する。
「みんな、ちょい下がっとき。なんか……この人、やばい感じするわ。」
その瞬間、彩香たちが動いた。
影が増える。左右から挟む。逃げ道はない。
運転手がドアに手をかけた時、迫田ツインズが同時に言った。
「動いたら、終わり。」
双子の声がぴったり揃う。
空気が凍る。
運転手は固まった。
荷台が開く。
中には金属ケースと、黒い袋。
そして――爆薬の梱包。
美咲は一つだけ頷いた。
「……当たりです。」
彩香の声が背後から落ちる。
「押さえる。工場も同時に制圧や。」
廃工場の中で動いていた男たちが外の異変に気づいたが、遅い。
あかりが突っ込む――と言いたいところを、今日は彩香が止める。
「突っ込むな。囲んで落とす。冷静に。」
あかりは歯を食いしばり、頷いた。
成長だ。ほんの少しだが、確かに。
制圧は短かった。
火薬と武器の準備は、ここで一つ潰れた。
資金の新ルートも、ここから逆流して辿れる。
そして美咲は、廃工場の床に落ちた紙片を見つけた。
物流ラベルの端。
白い繊維。金糸のほつれ。
玲奈の線だ。
遠い。だが、消えていない。
――――
夜明け前。
山道の空気が少しだけ緩む。
美月は合宿生をまとめて立ち去ろうとしていた。
まだ状況を完全には理解していない。
だが、自分が“何か”に触れたことだけは分かっている。
美月が彩香を見つけ、手を振る。
「彩香ー!道案内したったで!役に立ったやろ!」
彩香は眉間にしわを寄せたまま、低く呟く。
「……やめんか、ドアホ。」
美月は笑う。
「褒め言葉やな!」
美咲はその光景を見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。
笑える時に笑うのは、戦場では贅沢な燃料だ。
彩香は美咲に目を向けた。
厳しい目だが、そこに敬意が混じっていた。
「美咲。よくやった。
……今日の主役は、お前や。」
美咲は小さく頷いた。
「みんなが動けたからです。
……それと、偶然の検問官が一人いました。」
遠くで、美月の声が山に響く。
「ほらー!みんな走るでー!北播磨、最高やー!」
火薬の匂いはまだ残る。
敵はまだいる。
玲奈はまだ戻らない。
それでも、NSTは一つ前に進んだ。
山に嘘はつけない。
そして、諦めない者にも、嘘はつけない。




