最後の一球まで、影は立つ
ヒロ室西日本分室の夜は、音が薄い。
昼間は人の出入りがある。書類が動き、電話が鳴り、笑い声だって混ざる。
だが深夜になると、ここはただの箱になる。蛍光灯の白さだけが残り、机の角だけがやけに鋭い。
彩香は一人だった。
椅子に座っているのに、背中は壁みたいに硬い。
机の上には、今日の報告書。押さえた資金の流れ。潰した偽装法人。
成果はある。数字は嘘をつかない。
――なのに、胸の穴だけは埋まらない。
玲奈の安否は、依然不明。
「白いグローブ」「金糸」「拘束具」「移送の目撃」
それらの断片は集まっているのに、肝心の“人”に届かない。
窓の外に大阪の街がある。
遠くで車の走る音。
街は何事もないように回っている。
それが余計に腹立たしい。
彩香は書類の端を指で押さえた。
そこに、県警幹部と波田顧問に呼ばれたときの言葉が刺さったまま残っている。
「最悪の事態を想定している。
もうNSTは君がリーダーだ。」
あの言い方が、嫌だった。
確定じゃない。断定でもない。
なのに、逃げ道だけ丁寧に塞ぐような言い方だった。
“最悪の事態”。
それは、諦めろと言っているのと同じだ。
彩香の中で、怒りが静かに燃える。
玲奈は消えていない。
消したい奴がいるだけだ。
彩香は立ち上がり、部屋の隅のロッカーへ向かった。
開けると、NSTの装備が収まっている。
だが今夜、触れたいのはそれじゃない。
奥にある、小さな写真立て。
昔、父の知り合いからもらった古い集合写真だ。
社会人野球、大日本製鉄広畑。
ユニフォームは汗で濃くなり、顔は泥で黒い。
その中で、西川剛史は笑っていない。
笑わないのが格好いいと思っているわけじゃない。
“勝負の途中”だから笑っていない。
彩香は父の現役時代を直接知らない。
それでも、地元で嫌というほど聞いた。
俊足巧打の名外野手。
日の丸を背負った男。
そして、最後まで諦めない男。
都市対抗の本戦。
大差をつけられ、コールド負けが見えてきた試合。
普通なら、誰だって心が折れる。
ベンチは沈む。スタンドも静かになる。
だが父は、最後の一球まで、目を死なせなかった。
応援団がいた。
太鼓が鳴っていた。
少ない観客が、声を枯らしていた。
その“見てくれている人”のために、父は諦めなかった。
「勝負が決まるまで、何があっても諦めるな。
最後の最後まで、何があるのかわからん。」
彩香の耳に、父の声が蘇る。
厳しい。怖い。
でも嘘がない。
鉄みたいに曲がらない言葉だ。
彩香は写真を戻し、机に手をついた。
そのまま、目を閉じる。
玲奈の顔が浮かぶ。
無表情で、淡々と指示を出す。
誰よりも前に立ち、誰よりも背中で守る。
玲奈は多くを語らない。だが、背中がすべてを言う。
“玲奈は居ないものと思え”
そんな雑な扱いを、彩香は認めない。
認めた瞬間、NSTは終わる。
玲奈が積み上げたものも、兵庫を守る理由も、全部が薄っぺらい正義ごっこになる。
彩香は、書類の束を揃え直した。
角を揃える。
ペンを並べる。
いつもより丁寧に。
それは自分の心を整える儀式だった。
県警幹部が何を想定しようが関係ない。
役所の言葉は、責任逃れのために存在している。
NSTは違う。
動いて、掴んで、奪い返す。
それが仕事だ。
彩香は壁の時計を見た。
針は深夜を回っている。
眠れない。
悔しくて夜眠れない、というのは、もう何日も続いている。
だけど、眠れないのは弱さじゃない。
眠ってしまえば、玲奈を遠ざける気がするからだ。
彩香は、静かに声に出した。
「玲奈さん。
私は諦めへん。」
声は部屋に落ちて、吸い込まれた。
返事はない。
それでも言う。
「……あんたが戻るまで。
NSTは終わらせへん。
兵庫も渡さん。
好き勝手にさせへん。」
机の上の資料には、次の任務の断片がある。
資金の残り。
コンテナの経路。
テレビ局に潜むスパイ。
港の中継点。
すべてが、一本の糸で繋がっている。
玲奈の白い制服の断片も、そこに絡んでいる。
生きている限り、線は切れない。
切るのは、諦めたときだけだ。
彩香は深呼吸を一つして、スマホを手に取った。
メンバーへ送る短い指示文を作る。
迫田ツインズ、あかり、美咲。
誰もが不安を抱えている。
だからこそ、言葉は短く、迷いなく。
“明日0600集合。新ルート確認。全員、平常心。
玲奈さんは、必ず取り戻す。”
送信。
送った瞬間、彩香は少しだけ肩の力を抜いた。
孤独は消えない。
だが孤独は、覚悟の裏側でもある。
父が最後の一球まで立っていたように。
玲奈が背中で引っ張ったように。
彩香も立つ。
勝負が決まるまで、諦めない。
最後の最後まで、何があるかわからない。
蛍光灯の下で、彩香の影が床に伸びた。
その影は、まだ折れていなかった。




